雷獣

ガジュマル

第1話


 闇夜を通して、遠雷を含んだ雨音が堂内に響いている。

 古刹の中、一人の侍が柱を背に片膝を立てて座っていた。

 仁王の身体に、阿修羅の顔を持つ男だ。

 微かな手燭の灯りが男の暗い双眸を照らし出す。

 男は前方の闇を険しい目つきで睨んでいた。

 その視線の先、堂の中央には衣桁にかけられた着物がぼんやりと見えている。

 緋色地に雪持蘭模様をあしらった美しい小袖だ。

 柔らかな緋色の生地の中、のびやかな軌跡を描く蘭の上に薄く雪が積もっている。

「おい、破戒坊主。そろそろ起きたらどうだ」

 少しばかり棘を含んだ侍の声音。

「寝とらん」

 侍の隣にいる年老いた僧が酒瓶を枕に横臥した寝姿で答える。

「沢庵坊よ間違いではないのか」

「相違ない。あれは宝樹院様……いや、二人の間だけの話だ。昔の呼び名でかまうまい、間違いなく蘭であった」

 重い沈黙が流れた。

 次第に激しくなる雨音が背後の闇を通して伝わってくる。

 時折閃く雷光が、二人の姿を薄暗い堂内に浮かび上がらせる。

「蘭は殿のもとで幸せではなかったのか?」

 侍の言葉に老僧は深いため息をつくと口を開いた。

「将軍には将軍の業、そして、大奥の女には大奥の女の業があったのであろうよ。縁なき衆生は度し難し……といえども、蘭とおまえの縁を思うと不憫でならん。商家の娘である蘭がお前に懸想しているという悩みを聞いたのが間違いだったわい。遣手婆の春日局のような真似事をしておまえとの間をとりもつのではなかった」

「蘭が俺を恨んでいると?」

「わからん。だが蘭はおまえが供養しなくてはならん」

「供養は坊主の生業だろうが」

「ふん、あらゆる手はつくしたわい。本来ならばおまえなんぞ呼びたくはなかったんじゃ。だが、こうも毎夜怪異が繰り返すとあってはな……」

 言葉が途切れた。

 雷光が閃く。

 僧の両目が大きく見開かれる。

「くるぞ……」

 老僧の言葉と共に、衣桁の上に乗せられた小袖がゆらりと中空に浮き上がった。

 小袖の内に闇の素が凝り固まり脈動する。

 ツッ……。

 両方の袖口から青白い燐光を発する半透明の両腕が現れた。

 大蛇のように両腕が伸びだす。

 海底にゆらめく海草を思わす動きだ。


 ……サマ……。


 ……ミツヨシ……三厳サマ……。


 ……ドコニ……。


 怪異の囁くような呪詛が響く。

「沢庵坊、ここにいてくれ」

 老僧に告げ、侍が立ち上がった。

 侍の巌のごとき肢体が着衣の上からでも見てとれる。

 太刀を腰にさすと、侍は無造作に歩みを進める。

 怪異の前で立ち止まると侍が口を開いた。

「蘭、俺だ」

 侍の声に怪異の動きが止まる。

 怪異の両腕が侍へと伸びていく。

 激しく震える怪異の両手が顔に触れても侍は微動だにしない。

 盲目の者が他者の顔を確かめるように、ひたひたと侍の顔の起伏を怪異の手がなでまわしている。


 ……オオォ……オォ……。


 小袖の内に淀む闇の奥底からうめき声がもれる。

 よろめき、小袖の怪が侍から数歩離れた。


 ……ナニユエ……何故、我ヲ見捨テタモウタカ……。


 怨念のこもった女の声音。

「見捨てた覚えはない」

 侍の返答に、青白い燐光が焔のごとく小袖から立ちのぼる。

 小袖の両手が鋭い鉤爪を持つ悪鬼の両手へと変化した。

 ひときわ大きな雷撃が堂内を青白く染める。

 怪鳥の叫びと共に侍の顔へと刃と化した怪異の爪が襲いかかった。

 一閃する凶爪が侍の右目を切り裂く。

 頬肉の破片と切り裂かれた右の眼球が血をからめて床に飛び散る。

「三厳!」

 老僧が叫び、侍へ駆け寄ろうと立ち上がる。

 顔は動かさず、侍は右掌を老僧に向けてその動きを封じた。


 ……ナゼ逃ゲヌ……。


 戸惑いを含んだ怪異の声。

「かまわぬ。蘭、おまえにならこの命くれてやってもよい」

 場にそぐわぬ涼やかな声で侍が答える。

 削り取られた眼窩から流れる血潮にかまわず、侍は優しげな笑みを口元に浮かべた。


 ……オオォ……。


 小袖の内にある闇が力なくうずくまり、やがて嗚咽し始める。

 怪異の淀んだ闇が溶け、波打ち、やがてそれは仄かに白く輝く裸の女へと姿を変えた。

 人外の慟哭が堂内に響きわたる。

「口惜しや、口惜しや……あなた様が逃げるか斬りかかってくれりょうものなれば、この恨みのままにあなた様を殺めたものを……」

 小袖のみを羽織った裸の女がゆっくりと立ち上がった。

 脈動する闇の中から細面の女の顔が現れる。

「あなた様はそういうお方……さればこそ恨めしい」

 そう言って、侍を見上げる女は物憂い表情を浮かべた。

「わからぬ。あの時、別れを切り出したのは……蘭、お前だぞ」

 半面を朱に染めた侍の困惑した声音。

「商家の後妻として嫁いだ母を思ってのことでございます。何より相手は天下の大将軍家光公、父の薦めもあらばどうして断ることができましょう」

「大奥での暮らしは幸せではなかったのか?」

「三厳さま……大奥はきらびやかな魑魅魍魎共の住まう地獄にございました」

 怪異の面に狂女の笑みが浮かぶ。

「殿はあなた様への意趣返しで私を大奥にいれたのでございます」

「なぜそんなことを」

「わかっておいででしょう」

「わからぬ」

 複雑な表情で侍が答える。

「奥女中たちの噂話を、図らずも耳にしてしまったのがすべての始まり……なんでも殿の衆道狂いは有名だとか」

「聞いておったのか。だが……」

 さらに言い募ろうとした侍を怪異の言葉が遮る。

「わかっております。あなた様が殿のご寵愛を退けられたということは……。殿は……私を抱いたあなた様を私に求めていたのでございます」

「馬鹿な……」

「殿は私と身体を合わせることによってあなた様と重なっていたかったのでしょう。殿は私を抱きながら、あなた様の名を呼んで泣いておりました」

 侍は口を開きかけたが、言葉を発することなく下唇を噛み締めた。

 唇に食いこんだ歯から血が滴り落ちる。

「殿と私がお慕い申し上げたのは今生にただお一人、あなた様にございます」

 怪異はそう言うと、うすく微笑みを浮かべた。

「毒を盛られたという噂は真か?」

 朱に染まった侍の口から、低くてかたい声がもれる。

「はい……、成仏できずに迷いいでた私にそのお方はおっしゃいました。『おまえに毒を盛った』と」

 怪異の顔から微笑が消える。

「言え、それは誰だ?」

「これもご存知のはず」

「お前の口から聞きたいのだ」

「あなた様の思っている方にございます。ですが斬ってはなりませぬ……そのお方は言っておられました……、


『大権現家康公のご遺志を継ぎ、乱世を平定せし徳川家繁栄の礎は大奥ぞ。

 その大奥の使命とは何ぞや?

 血の系譜をつなぎ、途切れさせぬことじゃ。

 お前はお世継ぎを孕み見事に産み落とした。

 だがお世継ぎを産んだことにより、お前を利用しようとする輩が雲霞の如く湧いてきた。

 わかっておる、お前にわらわを放逐する思いなきことは。

 しかし、お前にその意志があろうとなかろうとお世継ぎを孕むという事は大奥の権謀術数うごめく渦中に身を投じることぞ。

 お前は大奥に上がった以上、いや……お世継ぎを孕んだ以上わらわを殺めねばならなかったのだ!

 呪わば呪え!

 後の世に、政を操ろうとした遣り手婆と嘲笑われようと構わぬ。

 大奥こそ我が火宅!

 湧き出た有象無象に、この大奥を乱させてはならんのじゃ!』


 ……その時にわかったのでございます。

 私は時を逸したのだと……。

 いえ、私を毒殺せしめた方を大奥から放逐するべきだったということではありませぬ。

 子を孕む前に、

 大奥に上がる前に、

 別れを切り出す前に、

 あなた様に本心を言うべきだったのだと……」

 怪異の言葉を聞き終え、侍は怪異をそっと抱きしめた。

「そう思い至った時に、私の心中に狂える鬼がすみついたのでございます。

 このような醜い姿になったのも三厳様を想ったがため……。

 ならばいっそあなた様を殺めて同じ鬼になってくだされば永久にそばにいることができると思ったのでございます。

 ですが……あなた様は鬼となった私のために命を投げ出そうとしてくれました。

 私を毒殺された方も徳川の御代に命をかけておられます。

 それでは鬼になれませぬ。

 あぁ、卑しい我執にとらわれ、鬼になったは醜い心根をもつ私のみ」

 侍の胸に頭をあずけ、怪異がささやく。

「もう思い残すことはございません。

 後生でございます。

 どうかこの浅ましい姿の私を斬ってくださいませ」

 そっと侍から体を離すと、怪異は胸の前で合掌し目を閉じた。

「蘭、わしも時を逸した……あの最後の日、おまえをさらってどこか遠い場所へと行くべきだった」

 侍の言葉に怪異の口元に微笑みが浮かぶ。

 侍の胸中に、町娘の姿をしていた頃の可憐な少女の姿が浮かんだ。

 贈り物だと渡した雪持蘭模様の小袖を胸に、涙を浮かべる少女の微笑みが。

 怪異の目から滑り落ちるものがあった。

 侍が腰の刀を抜き大上段に構えた。

 雷鳴が閃く。

 一瞬の白い闇を、侍の剣戟が切り裂く。

 小袖を侍の刃が両断する。

 怪異の闇は霧散し、雷光に溶け去っていった。

「三厳よ……」

 老僧がかすれた声をだし、侍に近づこうとする。

「沢庵坊、来るな。今、近寄ってはならぬ」

 片目から血涙をしたたらせつつ侍が感情のない声をかえす。

 怒気を含んだ肉体が膨れ上がり、侍の体を軋ませていた。

 侍は床に落ちた小袖を拾い上げると、鬼神の速さで堂から飛び出していった。

「殺してはならんぞ!」

 雷雨の中、獣の叫びをあげて奔る侍の背中に老僧が大音声をあげる。

 一際大きな雷撃が虚空を貫く。

 老僧の目に、斬り裂いた小袖を両手に、哭きながら奔る雷獣の姿が見えた。


 それから数日の後。

 柳生三厳こと、隻眼となりし柳生十兵衛。

 将軍徳川家光公を剣術指南において半死半生に打ち据え江戸を出奔することになる。

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