あなたの名前、私の名前

「ねえ、今日はどんなことやると思う?」

「うーん、昨日は名前だったから、今日はもうちょっと長いのとか?」

「あ、住所!」

「住所はやらないんじゃないかなあ……」

 ペン字部部室へと向かう道すがら。今日の稽古は一体なにをやるのだろうと楽しみに、みかると雪乃のふたりはあれこれと予想しては、なんの根拠もないままにその思いつきを並べあっていた。

「やるとしたら、多分ね、昨日のペン習字の本? あの続きをね、やるんじゃないかなあって思うんだけど」

「字をきれいに書くコツってやつ? あれ、難しかったよね。いわれたとおりにやっても、なんか全然きれいにならないし!」

「そうだよね。他にも気をつけること、いっぱいあるんだよ、きっと。ほら、普通を意識して書きなさいーとか、大きく書くようにーとか、線と線の間揃える以外にもいろいろいわれたみたいに」

「あ、そういえば、私、なんにもいわれてない! 手本よく見ろっていわれただけだったよね! ええーっ! これってどういうこと!?」

「ええと、鳥崎さんは、特に問題なかったってことなんじゃないかな……?」

「絶対違うと思う! 絶対、そうじゃないと思う! だって、私が一番下手だったもん!」

 みかるは大きな声でちょっとわめき気味に憤慨をあらわにして、そして、

「あ、雪乃ちゃん」

 突然落ち着いた声で、雪乃の名を呼んだ。

「鳥崎さんじゃなくて、みかるだって。さっき、名字じゃなくて、名前で呼ぼうって決めたじゃない」

「あ、そうだった!」

 同じ部活に入ったことをきっかけに、クラスでもみかると雪乃の距離はぐっと縮まって、授業の合間、休み時間などにも話す機会が増えた。しかし、知り合ってほどないふたりである、最初のうちはどこかよそよそしさを残していて、これはよくない! そう考えたみかるがいろいろ発案したのだった。

 まず第一に、敬語を使うのはやめよう。

 同じ学年のみかる、それから高良たから芳明よしあきに話すときも、雪乃は丁寧語を崩さずにいて、それが他人行儀に感じさせる原因になってるんじゃないかな、ということで、まずはそれを禁止。

 次に、名前で呼びあうようにしよう。

 昨日、先輩たち、ええと女子だけだったけれど、名字じゃなくて名前で呼びあっていた。その様子を見て、みんな仲がいいんだなあ、そんな風に思っていたのだけれど、だったら私たちも真似してみよう!

 ということで、名字禁止。

 こうした経緯で、以上の2点が、女子ふたりの間で約束された。

「ごめん、まだ慣れてなくて」

 申し訳なさそうに雪乃はちょっとうつむき加減になって、そんな雪乃の様子を見たみかるはというと、

「全然! いいのいいの!」

 あわてて両手を前にぶんぶん振りながら、気にしないでと全身でもって表現してみせた。

「ちょっとずつ慣れていこうね」

「うん、みかるちゃん」

 そう呼んでみて、やっぱり少しおもはゆい。

 慣れない呼び方、照れくさくって、多分私ちょっと赤くなってる――。

 部室へと向かう廊下は、放課後にはいって少しずつにぎわいを見せはじめている頃合いだった。

 みかると雪乃は、ホームルームが終わってすぐに教室を出た、いわば最速のグループで、もしかしたらまだ誰もきてないかも知れないね? 鍵かかってたらどうしよう、なんていいあっているうちにふたりは部室へと到着した。

 みかるが部室のとびらに手をかけると、どうやら鍵は開いているようだった。ということはもう誰かきているということか。

 みかるは雪乃の方をちらりと振り返ってうなずいてみせると、元気よくとびらを開けて、

「こんにちはー!」

 大きな声であいさつをした。

「こんにちは」

 雪乃が続く。

 これもふたりの約束だった。

 部室には、失礼しますじゃなくて、あいさつして入ろう。昨日よりもフレンドリーに、あんまり堅苦しくなく、けれど失礼にもならないようにするにはどうしたらいいかな、とのみかるからの提案に、普通にあいさつしながらでいいんじゃないかな、雪乃も一緒に考えて出した結論がこれであった。

 ふたりの目論見は正しかったと思う。普通に考えても、このやり方で間違いはなかったはずだ。ただ、今日に限っていえば、多少かみあわないところがあったかも知れない。

 部室には上級生がひとりだけ。美紗みさでもない、ふみでもない。めぐみでももちろん哲朗てつあきでもない。

 片膝を立てて椅子に腰かけた、見知らぬ上級生がひとりいるだけだった。

 スマートフォンを操作していた上級生は視線をあげると、

「ああ」

 みかるたちを一瞥、短く返事を返すとすぐに視線を手元のスマートフォンに戻した。

 髪は明るめのセミロング。短くしたスカートからのびる脚は、片方は前に投げ出され、もう片方は椅子の座面にのせて立て膝にしていた。左の肘を机に突き、右手にはスマートフォン。ブラウスの首もとはボタンを外して緩められ、リボンもつけられていなかった。ブラウスの裾はというとスカートから出しっぱなし、ブレザーも前開きにして、といった具合にラフなスタイルであった。

 昨日出会った先輩たちとは随分雰囲気が違うと思わせるその風貌に、誰だろう、最初は威勢のよかったみかるも話しかけたものか躊躇して、雪乃とふたり、少し離れた部室の隅の方に席を確保して、ここはおとなしく他の先輩たちがくるのを待つことにした。

 他の部員を待つ間、ふたりは昨日部室にて交わされた会話を思い起こしていた。

 部員は5人。

 女子が4人、男は部長ひとりだけ。

 昨日のメンバーを思い返せば、この人が休んでいた最後のひとりと考えるのが自然だろう。

 そうだ、入間いるま先輩がいっていた。

――左利きの部員はひとりいるんだけど、今日はどうも休んでるみたい。

 左利きを右に矯正するべきかと雪乃が相談した時の美紗の答だ。

 ということは、この人がその左利きの先輩か。

 昨日の美沙や部長の様子からすれば、ふたりとも左での書字には詳しくない。となれば、雪乃が入部するまで部で唯一の左利きだったというこの人と一番関わるのは、自然雪乃ということになるだろう。

 私、うまくやっていけるかな――。

 みかるを見る雪乃の様子がおかしい。余裕を失っていることがありありとわかる。あからさまに不安を前面に押し出している雪乃がどうにも気の毒で、みかるは気休めにしかならないとわかっていながらも、大丈夫、きっと大丈夫だってはげますことしかできずにいた。

 後にみかるたちがこの時のことを皆に話してあきれられることになるのだが、先輩をはじめて見たとき、ペン習字みたいな地味な習い事をやるタイプには思えなかったですよ。

 ええーっ、なんだよそれ。じゃあ、どんな習い事ならやりそうなんだよ。

 それ以前に、どういうタイプならペン字をやりそうだというのか。

 これらはいうまでもなく偏見なのだが、いわゆる文学少女のステレオタイプとでもいうような、そういうタイプを思い描いていたみかるであったが、だいたいにしてお前が全然そんなタイプじゃないだろうといわれてしまえば、はい確かにそのとおりです、認めるほかないわけで、どこまでいっても自分のことを棚にあげた勝手な思い込みでしかなかった。

倉越くらこし、はやいね」

 最初にやってきたのは美沙だった。そのとなりには文が一緒だ。

「おう、美沙か」

 倉越と呼ばれたその女生徒は、美沙を目にとめると、ずっといじっていたスマートフォンをポケットにしまった。

「別にはやくなんかねえよ。普通に教室出たんだけど、まっすぐきたらこんな時間だったんだよ」

「そんなこといって、実は張り切ってるんじゃないの?」

 面倒くさそうに答える倉越に、美紗が少し混ぜっかえす。

「というか、倉越、行儀が悪いね」

「うるさいな、ほっとけよ」

 なんて反抗的な返事しながらも、倉越は美沙の注意に素直に従って、椅子にのせていた脚をおろした。

「今日、バイトは?」

「ん? 休みだけど、なんで?」

「いや、昨日のメール見て、わざわざ休みとってくれたのかと思って」

「まさか! そんなわけないだろ。たいした用事でもないのに、突然明日休みますとか無理だよ」

「まったく。倉越ったら素直になればいいのに」

「いや、素直だから! 嘘とかつく必要なんて全然ないし!」

「で、そのメールの話なんだけどさ」

 いきなりの急転換に、倉越は気勢をそがれた。

「あ、ああ、左利きの一年生がはいったってやつか。なんか教えろっていうんだろうけど、けどなあ、美沙は簡単にいうけどさ、私もなにが正しいかちゃんとわかってやってるわけじゃないから、正直なところ教えられることなんてなにもないよ? で、あいつらのどっちかが、その左利きか?」

 そういって倉越が振り返って見た先には、みかる、そしてとりわけ雪乃が小さくなって、美紗へとすがるような視線を送っていた。

「ん、ちょっと、倉越、あんた、なにしてくれちゃってるの! なにか一年生怖がらせるようなことしたんじゃない!? ほら、あんなに怯えさせちゃって。可哀そうに……。春町さん、ひどいことされたならいってくれていいからね?」

「なんもやってねえよ! やるわけないだろ!」

 慌てて否定する倉越。美紗はというと、どこまで本気でいるのか。口元を見るかぎり、本心ではなく、むしろ楽しんでいるように見えるのだが、その底はというとよくわからない。

「本当になにもなかったの?」

「はい、なにもないです」

 小さな声で雪乃が答える。

「脅されて、いわされてるとかじゃないよね?」

「いや、だから、脅すとかないから!」

「だ、大丈夫です。なにもありませんでしたから」

 倉越の大きな否定の声に続いて、雪乃が首を左右に振りながら、さっきより少し大きな声で答えた。

「けど、部室にきたら、知らない先輩がいて、ねえ、見場みばもこんなだし」

「見場ってなんだよ、見場って!」

「ほら、髪染めたり、スカートの丈短くしたりしてるじゃない」

「スカートの丈いじってるのは、お前らも同じだろ!」

「私は、標準の範囲内」

 これまで沈黙を守っていた文が、抗議するでもなくぽつりと一言。

「え、文ってそれ標準丈だったの!?」

「うん、ぎりぎりだけど校則の認める範囲におさまってる」

 驚く美沙に文が答えた。

「けどそれって、美沙は裾おろしてるってことだよな?」

「ええ、そうだけど?」

 どこかおかしくて? なにを問題にしているのかまるでわからないといったように答える美沙に、倉越は頭を抱える思いであった。

「それ、なにもいわれないのか?」

「まあ、私の場合ね。できるかぎり、日にあたらないようにしたいだけだから」

「ああー、そういうこと」

 倉越はなぜかこの説明だけで合点がいったらしく、制服の話題はここで立ち消えとなった。

「春町さん。倉越は見た目こんなだけど、つきあいやすいいいやつだから、わからないことがあったら、なんでも聞いていいからね」

 実際、目の前で見せられたやりとりを通して、この倉越という先輩がどういう感じの人であるか、漠然ながらもわかった気がした。また同時に、昨日は見ることのできなかった美沙のまた違った側面も垣間見えて、よくしゃべる明るい人だったんだな、みかる、雪乃は自分の頭の中の美沙に対する印象を少し修正することとなった。

「こんにちはー」

 芳明だった。倉越に気づいて芳明は「あ、どーも」、軽く会釈をつけくわえた。

「鳥崎さんと春町さんはもうわかってると思うけど、こちらが倉越――」

 一年生が全員揃ったということで、美沙が一年生に倉越を、また倉越に一年生をそれぞれ軽く紹介する。そして、

「この子が左利きで悩んでるっていってた子。よく面倒みてあげて」

 雪乃について重ねて念押しをした。

「あー、あんまり私もよくわかってないんだけど、よろしくな」

「こ、こちらこそよろしくお願いします」

 にっこり笑顔を見せる倉越に、雪乃も安心したのか、慌てて挨拶しながら少し笑顔を見せた。

「先輩!」

 みかるが小さく手をあげて質問した。

「くらこし――先輩って、それが名前なんですか?」

「え、いや、名字だけど」

 不思議そうに倉越が答えると、ですよねー、みかる、さらに重ねてきく。

「倉越先輩は入間先輩のこと名前で呼ぶのに、どうして入間先輩はそうじゃないのかなって」

「あー、倉越、説明してあげたら?」

「うーん、あー、まあ、いいんだけさー」

 美紗にうながされるも、倉越はどうにも煮え切らない様子だ。

「簡単な話なんだけどさ。んー、ええと、笑うなよ?」

「はい! 笑いません!」

 みかるは身を乗り出すようにして倉越の話に食いついて、倉越はというとそんな下級生の様子に観念したようだ。

「倉越、クイズにしよう」

 紙を一枚差し出してくる美紗に「またお前は面白がって」と倉越はなおも渋い顔だが、その提案を受け入れたようだ。

「ちょっと待ってな」

 倉越は美紗から受け取った紙を机に置くと、きちんと座りなおした。カバンから筆入れを取り出し、筆記具を用意する。

 倉越のペンは軸もキャップもプラスチックでできていた。キャップを抜くと、やはり万年筆だ。昨日、美沙が使っていたものに似ている。

「私は字、うまくないから、がっかりすんなよ?」

 ひとことそう断りをいれると、倉越はさっきの紙を右に大きく傾け、その中央に自分の名前を書いていった。

 左手による筆記。斜めにした紙に、斜めに書いていく、そのスタイルは独特のものに見えて、みかるにとっても意外、また雪乃にとってはこれこそが手本であるのだから、見る目は真剣そのものだった。

「これ、私の名前なんだけど、なんて読むと思う?」

 倉越は自分の名前、4文字を書き終えると、くるりと紙をまわして、みかるたちの方に向ける。

――倉越海帆。

 みかると雪乃は目を見合わせ、芳明はあごに手を当てうーんと考えている素振りを見せた。

「みほ……、ですか?」

 雪乃がいった。

「だーよなあ。そう思うよなあ」

 緊張のとけたように大きな声を出すと、どかっと椅子の背にもたれかかりながら天井を見上げて倉越が、「だったらどんなによかったことか」力の抜けてかすれた声で続けた。

 みほじゃないのか……。

 倉越の雰囲気にそれだけを理解した面々は、手がかりもなにもないままに、当てずっぽうで答えはじめる。

「かいほ、ですか?」とみかる。

「違う」

「うみほ、じゃないですよね……」また雪乃。

「違う」

「帆はとも読むから――」芳明がいい終わらぬうちに、

「違う」

「まあ、わからないよね」と美紗。「答、教えてあげたら?」

「なんだよ、もう。勝手だな」

 倉越、あきれ気味に文句をいって、

「せいる。ってんだよ」

 ぶっきらぼうに答をあかした。

「あー、あーー!」みかるが大きな声をあげる。

「海の帆でセイル!」

「漢字の読みじゃなくて意味からきてるんですね」

「なるほど、水兵だったらか」

「いや、それ面白くないから! 全然、うまくも面白くもないから!」

 独り言みたいにぽつりといった芳明に、倉越、猛然とつっこみをいれる。

「倉越はこの名前気にいってなくて、名字で呼ばないと機嫌悪くするから、ずっと倉越で通してきたんだよ」

 美沙が説明をしてくれた。さすがに少し同情的なニュアンスがあった。

「小学生の頃からだっけ?」

「覚えてるかぎり幼稚園の時にはすでに」

 倉越がやれやれと首を振っている。

「でも、それわかります!」

 みかるの声に、倉越が顔をあげる。

「私の名前、みかるっていうんですけど、ずっとこの名前がいやで、友達にはみかって呼んでもらってました」

「あー、お前も被害者かあ」

 倉越の言葉には、心底同情的な響きがあった。

「どんな字書くんだ?」

「ひらがなでみかるです」

「ひらがな……か」

 倉越がふいに遠い目をしたように見えた。

「私の名前もひらがなだったら、少しはマシかもだったかも知れないなあ……。ほら、初対面だとさ絶対読んでもらえないからさ、そのたびにどう読むのか聞かれて、ほんとどんな罰ゲームだよって話でさ。新学期になると、私のこと知らない先生に出席取るたびに聞かれたりするだろ? そうなると毎回毎回みんなの前で名前いわされることになるわけよ。あー、ほんともう最悪! 名簿に読みがなふっとけってんだよな!」

 ほうっておくと、どこまでもエスカレートしかねない勢いだ。

「でも、今は、ええと、みかるちゃんは名前平気だよね?」

 エキサイトする倉越の様子に、話題を変えないと! そんな風に思ったか、雪乃がみかるに話をふった。

「うん、さすがにもう慣れちゃった! 中学の時のあだ名なんてだよ」

 あっけらかんとしたみかるの笑顔に、「これは、鳥崎さんの方が大人かもね」美沙が感想をもらした。

「なんだよ。まあそりゃ美沙には、変な名前つけられた人間の気持ちなんかわかるわけないよな」

 倉越が不満そうに口をとがらせていた。理解者がいないというのは大変だ。

「倉越、みどりも今でも嫌だっていってる?」

「ああ、あいつ? 変わりないよ。私以上に嫌がってると思うよ?」

 そこまでいって、いいこと思いついたとばかりに目を輝かせた倉越。

「じゃあ、もう一問いってみようか」

 自分の名前、海帆のとなりに、新たに名前を書き加えた。

――海鳥。

「ええと、みどり、じゃないんですよね?」

 雪乃の問いに「うん、みどりじゃない」と倉越。

「さっきのパターンからすると、海にいる鳥で英語の名前、になると思うんだけど、ということは、かもめなのかなあ。かもめは英語で――、ええとなんだっけ?」

 みかるの推理を受けて芳明、

「ガル、ですね?」

 倉越、黙って首をふる。

「ガルじゃないなら――、チャイカですか?」

「いや、いきすぎいきすぎ。ていうか、チャイカってなに!?」

「ロシア語でかもめのこと、チャイカっていうんですよ」

「へー。はじめて聞いたよ。けど、それが名前だったら、あいつ、もっと嫌がってそうだなあ」

 倉越が苦笑を見せた。

「あのー」おそるおそる雪乃が手をあげていた。

「もしかしてかもめですか?」

「そうそう、正解!」

 倉越が、ぴっと人差し指を雪乃に向けた。

「これでかもめって読ませるんだけど、親もよくこんなの考えたよなあ」

 しみじみとした口調で倉越は先を続けて、

「これ、妹の名前でさ、もうあいつ本当に嫌ってて、絶対にかもめって呼ばせないんだよ。どれくらい駄目かって、呼んだら泣いて怒るレベルでさ」

「絶対って倉越先輩にもですか?」との雪乃の問いに倉越答えて、

「そう。私だけじゃなくて、親にも呼ばせないね!」

「なるほど、それでみどりなんですね」

 みかるがそういって美紗の方を見やると、美紗はうんとうなずいて、答えてくれた。

海鳥うみどりでみどりと読む人もあるって知ってから、ずっとみどりを貫いてるよ」

「あの執念というか信念というかは、私もほんと感心させられるよ。かもめっていわれても、もうみどりのことだとは全然思わないからね!」

「でも、かもめちゃんって、ちょっと可愛くないですか?」

 みかるが興奮気味に目を輝かせていう。

「いや、どうなのかな。アニメとかマンガならありかも知らんけど、現実となると話は違うからな。現にお前も自分の名前、嫌だったんだろ?」

「うーん、そうですけど、いまいち意味のわからないみかると違って、かもめならまだ普通かなって思うんですよ」

「そりゃ私だって、自分の名前とかもめだったら、かもめの方が何倍もマシだと思うけどさ、あ、そうか、かもめがひらがなだったらどうだったんだろうな」

「ひらがな、ですか?」

「ほら、読めない、みんなの前で何度もいわされるコンボは回避できるじゃん。あれ、皆はどう思ってるかわからないけど、いわされる側からしたら、さらし者でしかないからな」

「あ、そうですねえ、それはわかります!」

 みかる、うんうんとうなずいていた。

「あとな、かもめって鳥がな、決定的に可愛くない」

「可愛くないですか?」

 雪乃が受けた。

「可愛くないよ。かもめっていうと、空飛んでるみたいなイメージなんだろうけど」

「こういうやつですよね?」

 みかるが、指で空中に、横長にしたVの字をふたつ描いてみせた。

「それそれ!」

 倉越、我が意を得たりと、みかるを指さした。

「飛んでるかもめは、なんかそういうイメージだよな。優雅っていうのか? 自由そうでさ、白くてさ、きれいでさ、でも近くで見ると違う」

「違う……」

 一年生3人の声が揃った。

「かもめはな、目が怖い」

「目が怖い……」今度は雪乃ひとりだけ。

「それはそれは怖い。写真とかで見たことないか?」

 みかると雪乃が黙って目を見合わせた。どうもピンとこないようだ。

「目がギョロっとしててな、クチバシもなんか、怖い」

 倉越がかもめのおそろしさについて語っていると、スマートフォンを取り出した芳明が、かもめでもって軽く画像検索。

「かもめ、こんな感じですね」と、出てきた結果を皆に見えるよう差し出した。

「かわいい!」

「うん、かわいいね」

 みかるに雪乃も、芳明のスマートフォンに映る写真を見て、目をきらきらさせている。

「え、嘘だろ?」倉越は驚いたように芳明のスマートフォンを手にすると、ざっと結果を眺めてみて、

「なんか、私の知ってるかもめと違う……」

 釈然としない様子である。

 ずらりと敷き詰められたかもめの写真は、どれも黒目がちのつぶらな目をした白い鳥のもので、ほっそりとしたものも、ふっくらとしてまるまる膨らんだものもいろいろあって、愛嬌さえ感じさせるその姿は一年女子に好評であった。

「多分、先輩のいってるのこいつです」

 芳明はスマートフォンを取り戻すと、再び画像検索して、「あ、これダメだ」、検索結果にちょっと手を加えてから、皆に出てきた画像を見せた。

「あ、ほんとだ、ちょっと怖い」

 映っていたのは、一見かもめに似ているが、かもめよりもずっと精悍な顔つきをした鳥だった。顔のアップなど見れば、確かに目がギョロっとしてこちらをにらみつけてるような凄みがある。クチバシなんかの特徴も、倉越のいってたものにマッチしていると思われた。

「これ、ですよ」

「うみねこ」

 検索の窓には、「うみねこ 鳥」とあった。

「かもめじゃなかったのか」

 倉越がぽつりともらした。

「さっきのかもめの写真見せてあげたら、妹さんの誤解もとけるんじゃないですか?」

 みかるにいわれて、倉越はちょっと考えてから、

「かもめとうみねこをごっちゃにしてたってことはわかっても、みどりはかもめという鳥が嫌いで自分の名前を嫌がってるわけじゃないからなあ。むしろその逆で、名前のせいで嫌われてるかもめも被害者みたいなもんだ」

 かもめに対する同情を見せた。

「先輩もみどりさんも名前に海がついてますけど、先輩のお家って、海に関係するお仕事なさってるとかなんですか?」

 雪乃が聞いた。その横では、自分もちょっと思ってたといいたげに、芳明がこくこくと何度もうなずいている。

「あー、それ、やっぱりそう思うよな。私も思ってたことあったもんな。でもなあ、これがまったく関係ないんだよ。仕事もそうだし、趣味も同じで、名前決めたの父親らしいんだけど、釣りが好きだったーとか、サーフィンとかヨットとかやってたーとか、そういうの一度も聞いたことなくってさ、もう本当に謎。いったいどこからセイルやらかもめなんて名前が出てきたのやら、まったく意味がわかんないんだよな」

「聞いてみてもわからないんですか?」

「もうね、全然ダメ」

 倉越は大げさに手を振って否定した。

「なんでこの名前になったのかって理由がわからないのも、みどりが自分の名前嫌がってる原因になってるみたいでね、まあ私もそういう気持ちはわからないでもないからさ、それをどうこういう気にもならないし、あいつがそれで気がすむんだったら、みどりでもなんでも好きな名前で呼んでやるつもりだよ」

 穏やかに話す倉越の表情に、姉としての顔が浮かんだように見えた。

「倉越先輩はにしようとか思わなかったんですか?」

 そうして落ち着いたところに、唐突に投げかけられたみかるの質問が完全に不意打ちだったのか、倉越は一瞬うっとつまったみたいに黙ると、「いや、みほっていうのも、私には似合ってないっていうか?」左手を首の後ろにやって、照れくさそうに視線をはずして先を続けた。

「せいるっていうのもどうかと思うけどさ、みほもねえ、らしくないだろ? はははは……」

「倉越はこう見えて、意外と繊細なんだ」

 美紗が真面目そのもの、神妙な顔をしていうと、

「意外とって、お前には私がどんな風に見えてるんだよ」

 すぐに倉越が受けた。

 最初は、随分攻撃的というか、美紗の遠慮のない物言いに驚いたみかるたちであったが、その受け答えの調子、やりとりするタイミングなどから察するに、表向きの言葉の与える印象とは異なり、むしろふたりの付き合いの深さがうかがえる。気の置けない仲という表現がしっくりとくる、そんなふたりと思われた。

「ああ、駄目だ。倉越がいると稽古がちっとも進まない」

「私のせいかよ!」

 美紗は声を殺して笑いながら、

「ほら、いつの間にか部長がきてる」

 見れば、部室の奥、昨日と同じ席に座って哲朗てつあきが、稽古の準備をとうにすませて、ゆうゆう、皆の様子を眺めていた。

 美紗は指先で、右目、それから左目を軽くぬぐうように触れると、さっきまでの気分をさっと切り替えて、さっぱりした調子でいった。

「私たちも稽古の支度、しましょうか」

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放課後は今日もペン字の稽古 井崎冬樹 @isakif

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