課題提出

「そろそろ清書しちゃってねー」

 めぐみの声が静けさを破った。

 それから二三分にさんぷんほどもたったろうか、できましたという声とともにまずは雪乃が、続いて芳明が、書き上げたばかりの課題を持ってやってきた。みかるはというと、まだ納得いかないのか、あきらめ悪く机にかじりついている。

「も、もうちょっとだけ待ってくださいー!」

 自分ひとり取り残されていることにあせるみかるに、

「そんなにあわてなくってもいいからね」

 笑いながらめぐみが答えた。

 哲朗は、受け取った雪乃と芳明の課題を机に並べている。

「力作だね」

 白い用紙の右上から中央寄り、美紗の手本を真似て書かれた文字が、手本に同じく縦に並んでいた。鉛筆の文字、その点画はというと、清書するまでの練習ですっかり太くなってしまっていて、それが書いた本人にはなんだかみっともないように思われてしかたなかったのだが、哲朗はじめ、上級生にとっては特段問題ではないらしい。

「はじめてにしては上出来ではないですか?」

 美紗も好意的に評価してくれていた。

「はいはいはいー、私もできましたー!」

 あわてなくていいといわれていたみかるが、駆け込むみたいにして課題を持ってきて、これで全員分がそろった。

「うん、力作だね」

 重ねて哲朗がいう。

 けれど一年生たちは浮かない表情だった。

 褒めてもらえるのは嬉しいけれど……。

 そうなのだ。

 手本を見ながら書いた。一生懸命に似せようとした。つもりではあるのだが、どう見ても手本のように書けているとは思えない。線は太く、ゴツゴツとして、また字のバランスも手本のようにはならなくて、不恰好――。どこがどのようにおかしいのか、きちんと理解した上で人に説明できるだなんてことはさすがに無理と思われて、けれど手本とは違っている、そのことだけは、ペン字初心者の彼、彼女たちにもはっきりと自覚された。

「全然、力作なんかじゃないです……」

 口をとんがらせたみかるが、消えいりそうな声でいった。

 雪乃も無言でうなずいて、芳明も目立ったリアクションこそは見せなかったが、納得していないことはその態度から見てとれた。

「まあ、まあ、最初だからね。私たちも最初はひどかったのよ」

「僕は、今でもほめられた字じゃないけどね」

 元気のない下級生を気づかって、めぐみが、そして哲朗がフォローしてくれた。

「ほら、美紗ちゃんもなにかいってあげて?」

 めぐみにうながされるまでもなかった。美紗は、わかってますといわんばかりに、めぐみに小さくうなずき返した。

「大丈夫、ちゃんとよくなってるよ」

 美沙は預かっていた入部届けを一年生の課題、それぞれの隣に並べてみせた。

「ほら、こんなに違ってる」

 こうして比較してみると、確かに一目瞭然だった。

 極端に右上りだった芳明の字は、まだその傾向を残してはいるものの、癖のとれて随分落ち着いたものになっているし、雪乃にしても窮屈に縮こまっていた、その殻を破って大きく伸びようとする努力のあとがうかがわれる、そんな字が並んでいた。

 そしてみかるの名前も、あれほどにがちゃがちゃとして騒がしかった文字の端々が少しずつ整えられて、見違える、とまでいってよいものか、少なくとも雑然とした印象はすっかり影をひそめて、向上あるいは変化の感じ取れる出来栄えであった。

「だから自信なくさなくていいよ」

 美沙が笑う。その笑みに安心したのか、一年生たちの表情も緩んで、

「できてる、って思いすぎてもいけないけどね」

 続く美紗の言葉にちょっと恐縮、けれど美紗の変わらず笑顔でいることに、やはり表情は緩んでしまうのだった。

 しかし緩んでいたのは少しの間だけだった。

 見れば、みかるの様子がおかしい。なにか思いつめるみたいに神妙な顔付きをして、いおうか、やめようか、逡巡している? と、その瞬間だった。

「せっかくだから、入部届け、書きなおしたいです!」

 思い切ったように大きな声をあげた。

 実際、思い切ったのだろう。せっかくという言葉にみかるの気持ちがあふれているように思われた。短い時間だけれど、字の稽古をして、少しでもましに書けるようになった。その結果がみかるを後押しして、せっかく練習したのだから、せっかくの入部届けなのだから、下手な字では出したくない、ちょっとでもきれいな字で提出したい。

 みかるの一心であった。

「私も、お願いします」

「だったら俺も!」

 みかるの言葉に、一年生ふたりも続いた。

「どうしようか?」

 めぐみが哲朗、そして美紗を振り返る。

 せっかくという気持ちは、めぐみにしてもわからないでもない。

 どうせなら、一年生たちの希望を叶えてあげたいと、そうした気持ちからの問いかけに、哲朗も同様、書きなおしさせてあげてもいいんじゃないかな、そうした様子を見せたのだけれど、美紗はどうやら違ったようだ。

「もう時間も遅いし、このままでいいですよ」

「ええーっ!?」

 みかるの素直な気持ちであろう。

「どうしても駄目ですか? 今日じゃなくても、明日でも駄目ですか?」

 そこをなんとか、もう一押し、そんな期待もこめられたお願いを美紗はまるで取り合わない。

「私はこのままの方がいいと思うんだけどな」

 というのにも理由が必要か。そう考えた美紗が先を続ける。

「入部前と入部してからで、これだけ変わりましたっていう上達の証拠になるから、書きなおしてしまうと、ね? 違いがわからなくなってしまうでしょう? それに、あなたたちにとっても最初の稽古の記念になるし、その方がきっといいと思う」

 そういわれればそうかも知れない――。

 皆が納得しかけた時、文がぽつりと、

「美紗、はやく帰りたい?」

「んー、ちょっとね。もう遅いし」

 美紗、笑って答えた。

「なんですか、それ!」

 説得される寸前だったのに! と、みかるが抗議するのを美紗、笑って受け流す。

「でも、そう思ってるのは嘘じゃないのよ?」

「あの、先輩……」

 おずおずと雪乃が割ってはいった。

「記念といっても、入部届け、提出しちゃったら手元に残らないですよね」

「ああ、じゃあ後でコピーしておくよ」

 哲朗が気安く引き受けた。

「そういって部長、また忘れたりしないでくださいよ?」

「いやあ、さすがに大丈夫だよ。しかし、そんなに信用ないかな、僕は」

「これまでがこれまでですから、正直なところ、手放しで信じていいものかどうか、全然自信もてないです」

「さんざんね、北沢くん」

 笑いながら、めぐみがいった。一年生に課題の清書を返し終えて、続けて今度は入部届けをクリアファイルにまとめると、

「はい、それじゃあお願いね!」

 哲朗に入部届けが手渡された。

「安心して、美沙ちゃん。コピーは私も付き添うから」

「いや、いいから! いらないから!」

 そこからの部長の行動は迅速だった。

 皆が帰り支度をしている中、部室を飛び出していったかと思うと、皆がまだ帰りはじめないうちに戻ってきた。手には出ていった時と同じクリアファイル。ただし、その中身は写しに変わっていた。

「はい、コピーしてきたよ!」

「わあ! ありがとうございます!」

 哲朗はみかる、雪乃、芳明に入部届けの写しを渡してまわって、ちらり、めぐみ、そして美紗の方を振り返った。

「そんなに得意気な顔して見ないでくださいよ」

 美紗はあきれたといった様子で、あくまで素気なく、めぐみはというと、そんな哲朗があまりにおかしかったとみえて、笑いがとまらないでいた。

「すごく、すごくはやかったけど、どこでコピーしてきたの?」

 ひとしきり笑って、ようやく話せるようになっためぐみだが、この問いかけもまた笑いながらだ。よほどおかしかったのだろう。涙目だ。

「生徒会室のコピー機使わせてもらったんだよ。ついでに提出してきた!」

「まあ、気のはやい! まだ仮入部期間も終わってないのに」

「生徒会にも同じこといわれたよ」

 哲朗のいうには、入部届けを届けにきたというのを口実に、一応こちらでも管理したいからともっともらしい理由をつけて、コピーをとってきたのだという。

——初日なのに、もう!?

——新入部員を手放したくなくて必死なんだね……。

 生徒会は、弱小文化系クラブの部員獲得事情をいろいろ想像したようで、好き勝手なコメントよこしてくれたものだが、しかしさすがに哲朗の本当の目的まではわかるまい。いや、むしろ、わからずにいてくれた方が哲朗のためにはよかった。

 ともあれ、こうしてみかる、雪乃、芳明の入部届けは受理されて、正式なペン字部部員となった。

 そしてみかるは、入部届けのコピーに、はじめて書いた課題、美紗による手本を手にしたままに立ち尽くして、さっきの美紗にいわれた言葉を思い返していた。

――最初の稽古の記念。

 わずかな時間ではあったけど、真面目に稽古に取り組んで、ちょっとでもうまくなった。

 そのちょっとうまくなった字が、私のペン習字の最初のスタートラインなのだと思う。

 ペン字部に出会う前の私と、ペン字部に入って変わりはじめた私が、今、手のうちに重なって存在している――。そんな気がしていた。

 そして美紗の手本は、ずっとずっと遠くにある私の目標そのもの、と、みかるには思えるのだった。

「頑張ろう……」

 意識せず、気持ちがつぶやきになっていた。

「うん」

 みかるのとなりで、雪乃も確かにうなずいた。

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