はじめての稽古

 美紗はくるりと皆に背を向けると、部室の奥にひっこんでいった。本棚として使われている背の低い棚の前に屈みこみ、並ぶ背表紙を指先ですーっとなでるようにしてぴっととめ、大きさのわりに薄い本を一冊抜き取った。みかるたちの前に戻ってきた美紗の手には、明るい黄色が目立つ表紙があった。

ふみ、鉛筆用意してあげてくれる?」

 部室の中央から少し奥、文具やら事務用品やらのごちゃっと置かれた机のかたわらに座る友人を振り返った美紗に、軽く目をあわせてうんとうなずいた文。整えられたショートの前髪が揺れる。手には小さなナイフと鉛筆があった。見れば、すでに2本目に取り掛かっている。

「2B?」

「2B」

 鉛筆から目を離すことなく答える文。おー、すごい。通じあってるんだ。みかるはすっかり感心してしまった。

 文の手際は見事だった。ナイフの刃がすべるようにして動くたび、薄く削られた木片がはらりはらりと、机の上、広げられた裏紙に積もっていく。見る間に整っていく鉛筆は、心持ち芯を長めにして尖らせて、しかし不思議と鋭さは感じさせなかった。

 パチリ――、鉛筆3本を削り終えた文がナイフを畳む。――はい、美紗に鉛筆を手渡すと、削りカスを、受けた裏紙でもってそのまま包んでゴミ箱へ。そして、手を軽く払っては、どこかに汚れが残っていないかと気にしている模様。

「はい、どうぞ。はい、あなたも」

 美紗は、文から受け取った鉛筆を3本、左手にまとめて持った中から1本ずつ右手にとりなおし、まずはみかるに、次いで雪乃に手渡そうとして、

「あら、あなた左利きなのね」

 見れば、鉛筆を受け取ろうと雪乃が差し出した手は左手だった。

「そうなんです」

 雪乃はわずかに気後れしたようにうつむき加減に目を伏せて、けれど気を取り直したようにしっかり顔を上げると、先を続けた。

「利き手のせいにしちゃいけないとは思ってるんですけど、私、きれいに書けなくて――」

 うまく書けない字をずっとコンプレックスに思ってきたこと、そのせいで萎縮してしまってついには左利きじゃなかったらよかった、そう思ってきたことなどを美紗に告げ、そして、

「やっぱり、右で書くように直さないといけないですか?」

 不安気に聞いた。

 すっかりしょげてしまった雪乃を前にして、美紗はどう答えたら一番彼女のためになるだろうか、考えを巡らせて難しい顔をしていたが、これという答を見付けられなかったようだ。

「部長、左利き用のテキストとかってありましたっけ?」

 部屋の奥、椅子の背にゆうゆうともたれかかっていた北沢は、美紗の問いかけに対し、んー、少し考えたかと思うと、

「これというのはなかったような。倉越くらこしくんがなにか知ってるんじゃないかな?」

 倉越――、新しい名前が出てきた。倉越というのはペン字部の2年生だ。雪乃が入部するまでは、部唯一の左利きだった。左手書字のノウハウがまったくないまま、どうするのがベストであるか、自分なりに模索してきただろう彼女なら、なにかアドバイスできるかも知れない。だが残念なことに、彼女はまだ部室に顔を出していない。

「倉越にメールしておきます」

 事務的とも感じられるクールさでもって答えると、美紗は雪乃に向きなおって一転今度はゆっくりと、優しく言い聞かせるような口調でいった。

「左利きの部員はひとりいるんだけど、今日はどうも休んでるみたい。利き手は絶対に矯正しないといけないというものでもないから、今はいつもどおりに書いてみてくれる?」

 雪乃の件はひとまず棚上げというかたちでおしまいとなった。そして高良芳明に鉛筆が渡ると、一年生最初の稽古がはじまった。

 まずは名前から――。

 ということで美紗は、さきほど用意したテキストを手本として、整った字を書くためにはどうするとよいのか、基本的なルールを教えることから開始した。手本を頼りに、ただ闇雲に手習いするのではなく、書字のルールやセオリーを知ることで、手本なしでもそれなりの字を書けるように、との考えからだ。

「同じ稽古するのでも、わかって練習するのと、わからずに書いてるのでは、全然上達も違うからね」

 とは美紗のアドバイスである。

 あまり最初からたくさん覚えるのは大変だから、基本となるところだけ押さえましょう。テキストを開いて、一番最初にあった項目、字画と字画の間隔を均等にし、バランスよく書く、まずはそれだけを意識しようということになった。

「今日は縦よりも横画、横に引く線と線の間を意識してみようか」

 鳥崎みかる、春町雪乃、高良芳明。この中だと、鳥、春、雪、高あたりが横画が多くて、今日の狙い、字画の間隔を整えるルールを応用しやすそうだ。中でも「高」は説明しやすいのか、例として取り上げられていて、ずるい! 女子ふたりからいわれのない批判を受けるはめになった。

 高の他にもあるかも知れない。みかるの発案に、一年生たち、テキストのページをくりながら、めいめい自分の名前に使われている字がのっていないか、額つきあわせるようにして探している。

「あった! 春!」最初に見つけたのは雪乃だ。しばらくして再び。「町もあった!」

 メンバーを違えての、ずるい! が続く。

「島はあるけど、鳥がないよー」

「最後の方にひらがな全部あるから、いいじゃないですか」

「俺、高しかのってない……」

 などなど、わいわいやっている下級生たちの様子を、遠くから近くから見守っている上級生たち、微笑ましく思っているのか、とりわけめぐみがそうした雰囲気を濃厚に漂わせていた。

「入間くん」

 哲朗が美紗に声をかける。

「字典があるって教えてあげたらいいんじゃないかな」

「そういうことは、部長ご自身が教えてさしあげればいいんですよ?」

 などいいながらも、美紗は再び書棚に向かうと本を一冊とって戻ってきた。

 字典というからよほどぶ厚いものが出てくるかと思ったら、普通の本程度の厚さで判型はB5と大きめ。漢字の意味を調べるのではなく、その字が楷書、行書、草書ではどう書かれるか手書き文字にて収録されている、三体字典と呼ばれるものだ。

「美紗ちゃんがお手本書いてあげたらどうかしら」

 字典から一文字一文字拾って、それをバランスよくまとめるのも技量のうち。まったくの初心者である一年生に、いきなりそれを求めるというのもどうだろう。

 そう思ったのかどうかはさだかではないが、今度はめぐみから美紗への注文がはいって、美紗も、こればかりは先輩がどうぞとはいえなかったようだ。ちらっと難しい表情を見せた。

「私が手本って、そぐわないと思いますよ」

 しかし言葉とは裏腹に、美紗は自分のカバンを手繰り寄せると、筆記具その他の準備をしはじめる。

「部長、さっきの入部届け、貸してもらえますか?」

「ああ、うん、いいよ」

 振り返りながら哲朗に声をかけると、さっきまで美紗の様子をじっと見つめていた文がゆっくりと立ち上がり、「私が持っていきます」と一言。そのまま、哲朗から届けを受け取ってこちらへとやってきた。

「文、ありがとう」

「いいの。美紗の字を書いてるところ、見るの、好きだから」

 届けを渡すと、そのまま美紗の後ろにまわって文は、右手をそっと椅子の背に添えるように置き、軽く身を屈めるみたいにして美紗の方へ自分を寄せた。

 江利文に入間美紗、このふたりはなんと絵になることだろう。ふたりともに揃ってすらりと背が高く、はっと目をひく華やかさ備えた美紗に、物静かにして寡黙な文の寄り添って並び立つそのバランスの妙。まったく違うタイプに見えるふたりの、しかし同時に誰よりも近しくあると感じさせる――。

 そうしたふたりを見ているほどに、じりじりと穏やかでない気持ちのわいてくるように感じるみかるではあったが、その気持ちの正体については今は取り上げないでおこう。

 さて、美沙はというと、文から手渡された入部届けを眺めながら、新入部員三人の名前に使われている漢字をひとつひとつ字典でもって調べていた。

 そんなに難しい字はないはずだけど――、それに入学式の時はなにも見ずに普通に書いてたはずなのに。

 どうしてだろうとみかるが疑問に思っているうちに、美紗、ひととおりの確認を終えたらしい、ぱたりと字典を閉じた。手元の紙に、漢字がいくつも書き取られているのが見える。

「そんな遠くにいないで、もっと近くにいらっしゃいな」

 そばに寄っていいものか、遠巻きにしている一年生たちをちょいちょいと手招きして、

「じゃあ、高良君から」

 手本となる字を書きはじめた。

 高良芳明の入部届けを左手に置き、名前をきれいに書き直す。

 美紗の正面には清書用、真っ白なコピー用紙があった。横置きにされたその右上から少し中央に寄ったあたりに位置を定めて、ペンを持った手が紙面に近づいていく。

 万年筆だ。けど、入学式の時のと違う――。

 みかるが、そして芳明も、同じことを思っていた。

 ペン先が紙に触れるか触れないかという瞬間、いよいよ書き出そうと息をととのえた美紗の手が、ぴたりと動きをとめた。ほんのわずかな時間であった。なにかを思うように手をとめていた美紗が、ぽつり、声を発した。

「高良君は、格好よく書こうとしすぎて、やりすぎてしまってる――。

 ほら、こことか」

 左手の入部届けを引き寄せて、具体的にその問題の箇所を指し示す。

 芳明の字は、極端に右上がりに傾いて、特に横画から縦画に折れるところにその特徴があらわれていた。

「字を書くときは、確かに右肩が上がるんだけどね」

 高の字を例にとって、実際にそのように右上がりに書いてみせる。

 書字には横画が若干右に上がる傾向があり、その角度、右上がり6度を理想的な角度として学ばせる六度法なるメソッドも存在する。しかし右上がりもやりすぎてしまっては、ただの癖字になってしまって、かえってよくない。

 美紗は説明のために、角度を違えた右上がりでといくつか書いてみせると、わざと角度を強めにつけた文字の横手に小さくばってんをつけた。そして最後に、用紙右上から中央寄り、最初にここと狙いをつけた位置にペンを戻すと、ゆっくりと丁寧な筆致で、「高良芳明」、手本とする字を縦書きした。

「うまく書こうと思わないで、素直に、普通に書くよう気をつけてみて。結局、普通が一番難しいのだから」

 はい、と芳明に手本を渡して、次は春町雪乃の番だ。

「春町さんは、全体に縮こまりすぎてるね」

「はい……」

 雪乃の返事も縮こまっている。

 入部届け、名前の欄は、結構大きくとられているにもかかわらず、雪乃の名前は枠の中央下寄りに小さく点々点々と書かれていて、ずいぶん余白の目立つものになっていた。

「思いきって、大きく大きく書いてみるといいよ」

 そういうと美紗は、春の字の最初の3画を、す、す、すー、と長め長めに一気に引いて、そこからさらに大きく左はらい、続けて悠々としたのびやかさをもって右はらいを描いた。

「大きく書くのは難しいと思うけれど、それを最初の課題にしてみようか」

 さっきの芳明の手本よりも、一字一字を大きく書いた手本ができあがっていく。

 雪乃も、その両側から覗きこむみかる、芳明も、美紗の手の自在に動いて、大きく、しかし隅々にまで気持ちのいきわたった文字が、一文字、また一文字と書きあげられていくその様に、声もなく見入ってしまっていた。

 そうだ、思えば、みかるはこの文字にやられたのだ。

 もしかしたら雪乃もそうだろうか。芳明もそうだろうか。

 美紗が最後の一文字にとりかかる。左はらいの一画目、そこから上がって、横画からの縦、横、また縦と、ゆるく弧をなす線の最後に少し手をとめて、ゆっくり丁寧にはねる。

「あれ?」

 みかるが声をあげた。

「どうかした?」

 美紗をはじめ、皆の視線が集まる中、感じた疑問をそのままにみかるは答えた。

「書き順、それであってるんですか?」

 みかるがいっているのは、乃の書き順についてだった。

「こう書いて、こうじゃないんですか?」

 みかる、右の人差し指をたてて、空中に乃の字を書いてみせる。ただし書き順は美紗とは違い、最初に横画からはじめ、外を囲んだのちに左はらいで終える。

「んー」

 みかるの問を受けて美紗は、ペンを持ったままの手を口元に運んで数秒。手元にメモ書きを寄せると、まずは乃の字を、続いてひらがなの「の」の字を書いた。

「乃は、ひらがなの『の』の元になった字なんだけれど――、この話、知ってる?」

「えーと、知らないです」

 みかるは首をふる。残るふたりも、首こそふらなかったが、みかる同様わからないでいるようだ。

「この字がね、ひらがなの『の』に変化するんだけど、ひらがなの『の』は、こうやって中から書くでしょう?」

 美紗、の字を書いてみせる。

「この書き順が、そのまま漢字の書き順なの」

 今度は乃の字を、最初は楷書で、続いて少し崩して、最後にもっと崩した字体で書いて、一画目と二画目の間を、点線でもって繋いでみせた。

「へえー、そうなんですね!」

 みかるは感心した気持ちをそのまま表情にあらわすと、目をきらきらさせながら、自分でも、乃の字、のの字を何度も指でなぞっては、そうなんだ、知らなかったと、くりかえしていた。

「そのうちにこういう崩した字も習うことになるのだけれど、今は楷書を稽古してね」

 さすがの美紗も、みかるの様子、その浮き立ちように笑みをもらして、美紗の笑顔をひきだしたみかるはというと、なにやらえへへと照れ笑いなど浮かべていた。

「さあ、最後は鳥崎さんの番ね」

 みかるのための手本を書こうとして、入部届けに目をやった美紗の手がふいにとまる。

「鳥崎さん」

「はい、なんですか?」

「鳥崎さんの名前なんだけど、みか子――、でいいんだっけ?」

「え?」

 みかるは、がばっと身を乗り出すみたいにして、自分の入部届けをのぞきこんだかと思うと、しげしげと自分の文字を眺めること数秒、姿勢はそのままにくいっと顔だけあげた。

「みかるって書いてますよ?」

「これ、ひらがなか……」

 みかるの書いた「る」の字は、全体に丸みが足りず、細身の縦に長い印象、加えて最後のくるりと輪を描く、そのくるりもずいぶん大きくなってしまっていたものだから、行書で書かれた「子」と思ってしまうのも仕方がなかったのかも知れない。

 いや、普通に考えれば、みかるがここで行書を使うというのも不自然というものだが、そこは美紗の思い込みが邪魔をした。みかるという名に対して、みか子であればごくありふれている。そうした思い込みが、「子」の字というにも曖昧なみかるの文字をそうと誤認させてしまった。

「みかる――。そうそう、覚えてる。珍しい名前だなって思ってた」

「ほんとですか!? でもー、私、みか子みたいな普通の名前がよかったです」

 ひとりごとするみたいにつぶやいた美紗に、ぱっと一瞬笑顔をほころばせてみかるが答えた。

「いつも聞き返されるし、変わった名前っていわれるし、あんまりいい思い出ないんですよ」

「覚えてもらいやすいとか、そういうことはなかったの?」

「んー、そんなでもないんですよー。変な名前の人ってくらいで、ちゃんと名前まで覚えてくれること少ないですよ」

 そういえば私もそうだった。みかるの字をみか子と思って、その時なにか違和感こそ感じたものの、名前までは思い出せなかったと、美紗は自分自身を振り返って、みかるに申し訳なく思った。

 お詫びではないが、せめて心をこめて手本の字を書いてあげよう。

 美紗がみかるの入部届けを手元に寄せ、いよいよ清書しようとしたその時、

「元気な字――」

 文の声がぽつりときこえた。

 みかるの字は、確かに文のいったように、元気さ――、を感じさせるところがあった。

 雪乃とは対照的な、名前欄狭しとのびのび書かれた文字からは、小さなことにはこだわらないとでもいったらいいか、右あがり? 左あがり? なにそれとばかりに悠然と躍ってみせる、そうした元気さがあった。

「鳥崎さんは、手本をよく見て書くようにした方がいいかな」

 手本を書き終えて美紗が、つぶやくようにいった。

「先輩の字の真似するってことですか?」

「うん、そうだね。まずはよく見て、それから丁寧にね」

 みかるは、美紗から手渡された手本を大事そうに両手で持って、視線を手本に落としては、にこにこと嬉しそうに笑っている。

 なにがそんなに嬉しいんだか。美紗は、そんなみかるの様子をおかしく思いながらも、つりこまれたように笑ってしまっていた。

「ひらがな、難しいと思うけど頑張って」

「はい!」

 いい返事が返ってきた。

 一年生たちが先ほど確保した席に戻っていくのを見届けて、美紗も、文をともなって、長机へと向かう。

「入間くん、ご苦労さん。いい先生ぶりだったよ」

「やめてください、先生とか。ちょっとアドバイスしただけですから」

「美紗ちゃん、私にもお手本書いてくれない?」

「嫌ですよ。自力で頑張ってください」

 先輩相手に、容赦なくさばいていく。

 上級生がそんなやりとりしてる向こうでは、一年生が机に突っ伏すみたいな勢いで、はじめての課題に取り組んでいる。

「背は丸めないで。背筋せすじ、ちゃんと伸ばしてね」

 美紗が声をかけると、はいという返事とともに、もぞもぞと姿勢を正す3人。

 そのうちにまた姿勢が崩れてくるのだが、美紗も誰も、それ以上はうるさくいうことはなかった。

「うまく書けないですー」

 早速みかるが音を上げている。ひらがなもだが、崎の字に苦しんでいるようだ。

「私は、どうしても線が歪んじゃう」

 雪乃も苦心している。

 それはそうだろう。日頃小さくしか書いていないのに、いきなり大きく書けといわれても、手も気持ちもついていけるわけがない。ただ線を真っ直ぐ引くのも大変と思われた。

 高良芳明はというと、書いては消して、書いては消してを繰り返している。 

 手本のとおりに真似る。

 同じように線を引いて、同じように書くだけ。ただそれだけのことがちっとも思うように運ばないのはなんでだろう。

 手本を横に見ながら書いてみれば、まったくといっていいほど似ない。かといって、手本に紙を重ねて、上からなぞってみてもどうも違う。バランスがとれていないようにも思えるし、それ以前の問題として引かれた線から違ってる。

「どうして、こんなにきれいに書けるんだろう……」

 自分の、いましがた書いたばかりの文字を手本に比べて、ため息するようにみかるがもらした。

 美紗の字は、線がすうっとのびて、色気さえ感じさせるというのに、自分の文字は色気どころか、ごつごつしたりよたよたしたり、その字をかたちづくる点も線も一本調子で不器用で、頼りないものと思われた。

 そうした感想は雪乃、芳明も同じく感じているようで、程度の差はあれど、どこをどう直したらいいのかわからない、そうして戸惑っている様子がありありと感じとれた。はたから見ても、ほとほと困りはてているのがまるわかり。焦っているというかなんというか、ふてくされるまではいかないものの、どこかしょげているみたいであった。

「一年生、苦戦してるみたいだけど、見てあげないの?」

 さすがに見かねたのだろう、めぐみが美紗のところまでやってきて、そっとささやくようにして聞いた。

「最初の最初ですからね。まずはひとりで頑張ってみるのもいいんじゃないかと思うんですよ」

 どんなにいい手本があろうと、どんなに優れた教師につこうと、字の稽古というのは、結局のところひとりで取り組むしかないものですよ、というのは美紗の普段からの言い分だ。

「わからないなりにでも、いろいろ試してみる。そういうのもお稽古ごとの楽しみですから、邪魔してあげちゃかわいそうですよ」

 なんてこといわれて、だからほらほら先輩も、みたいに追い立てられるようにして、めぐみはもといた席へと帰っていく。どこか釈然としない、そんな面持ちで一度美紗の方を振り返っためぐみだったが、悠然と微笑みを返す美沙の態度に、納得したのか観念したのか、静かに席につくて、自分の課題にふたたびとりかかった。

 稽古が始まると、部室は静まりかえる。

 窓外からのざわめきに、手本やノートのページをめくる音がときおり、ぱらりぱらりとまじる。そうした静けさのなか、遠慮がちにかわされる会話は、一年生、みかると雪乃によるものが主で、上級生は課題に向かい、ただ黙々と手を動かすばかりであった。

 美紗だけが、ただひとり、ペンを手にすることもせず、部室の様子を見るでもなく、窓に向けて背をもたせかけたまま、差し込む日射しに身をゆだねている。

 時間がゆったりと、しかし確実に過ぎていく――。

 となりに座る文は、字典から抜き書きした自書を手本に、のノート、マス目をひとつひとつ埋めていた。15マス、十字に入った罫線の、その交差する中央にきっちり並べられた四角四面な楷書。

 几帳面な文らしい字だ。

 無心に同じ文字をくりかえす文。美紗がその様子をぼんやりと眺めていると、自分に視線の向けられていることに気づいた文がついと顔を上げて、どうかした? 目で語りかけてきたのに答えて、ううん、なんでもない、また美沙も無言で答を返した。

 美沙の返事に文はかすかに微笑んでみせると、そのまま自分の稽古の続きに戻る。

 文が稽古に戻ったのを見て、美沙も自分のペンをとると、ゆるく握った右手のなかでキャップを外し、そろり静かにキャップを抜いて、自分の課題に手をつけた。

 部室はいよいよ静けさを増して、ときおり聞こえるうめきにも似たみかるの難しいよーという声のほかには、誰もなにも意味ある声を聞くことはなく、次第に傾いていく太陽が、もう部活動の残り時間もわずかとなりつつあると教えるばかりであった。

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