みかる、入部する
放課後、ペン字部部室前に人影がふたつあった。
ひとりは、いうまでもなく
オリエンテーションが終わって、教室へと戻る途中。講堂からずっと話しかける隙をうかがっていたみかるだったが、思い切って声をかけたのだった。
「ちょっと、ちょっとごめんね」
後ろから追いすがるようにして呼びとめると、振り向いたその子は、いったいなんだろうと多少の疑問も感じているみたいだったが、
「はい、なんですか?」
笑顔でもって応じてくれた。
「さっきの、クラブ紹介のときのことなんだけど――」
と、みかるがそこまでいったところで、
「ああっ、あれは違うんです! 違うんです!」
なにが違うというのだろう。
その子はもうすっかり狼狽してしまい、顔も真っ赤にして、両の手をパタパタと振って否定するのだが、これでは話が進まない、みかるはそんな彼女の言葉をさえぎって、なんとか落ち着かせようとつとめた。
「待って、さっきのことをいいたいわけじゃないの」
講堂での、あの瞬間の興奮がわずかに残っていた——。
みかるはその子の手をとると、高揚を若干含ませた口調でゆっくりと話しかける。
「ね、聞いて。お願いだから」
そして彼女の手を両手で包み込むようにして握ると、目をまっすぐに見て、いった。
「あなた、ペン字部に興味あるんでしょう?」
この時のことを思い返すと、自分らしくなかったなと思う。
その後、みかるはその知りあったばかりのクラスメイトに、放課後一緒にクラブ見学にいく約束をとりつけることに成功した。
その生徒、名前は、
そんな雪乃だったからこそ、みかるも話しかけやすかったのかも知れない。そもそもが、そんな雪乃だからこそ、ペン字部への、あるいは例の彼女に対し抱いていた興味、感心が知れわたることにもなったわけなのだが、こういうのもまたひとつの人徳といってよいものだろうか。
残念ながら、それはわからない。が、少なくともあのできごとがなければ、みかると雪乃がこうして言葉をかわす機会はなかったかも知れないし、ましてや一緒にクラブ見学にいこうという話にもならなかっただろう。
そして今、放課後になって、約束したとおりみかると雪乃は、ふたりペン字部部室へとやってきたのだった。
「鳥崎さん?」
と、ここで声をかけたのは雪乃。入り口を前に、突っ立ったまま一向にとびらを開けようとしないみかるの様子を心配そうに、横手からそっとのぞきこむようにして首をかしげていた。
「あ、うん、ちょっと緊張してただけ」
みかるは曖昧に笑顔を見せると、手をとびらにさしのばし、おそるおそるといった感じで開いた。
「失礼しまーす――」
「し、失礼します」
みかるに続いて雪乃も顔をのぞかせると、部室のなかをぐるりうかがう。
「お、いらっしゃい。新入生? はいって、はいって」
ふいの二人組の到来に応じたのは男性の声だった。新入生が見学にきたことに喜ぶ、そんな調子を匂わせながらも、どこかひょうひょうとした響きがある。
部室にいたのはこの男子生徒ひとりだった。人のよさそうな風貌で、見覚えがある――、そうだ、部活紹介でペン字部の説明をしていたあの人だ。あの時のことはよく覚えている。覇気の感じられない、のんびりとした紹介。どこかひとごとといった雰囲気は、ああ、この人の性格といえばよいだろうか、そこに発していたということが、ここにきてよくわかった。よくいえば鷹揚、どことなく浮世離れして、とらえどころのない。そうした様子が、ほとんど初対面だというのになんとなくでも感じとれるように思えた。
どうぞ座って待っててねと椅子をすすめてくれる上級生に礼をいいながら腰かけたものの、ふたりはどうにも落ち着かない様子で、あたりにきょきょろ視線を送っていた。
なんだかがらんとしてる――。片付いているというよりも、そんな感じがする部室だった。
部屋の中央から少し奥寄りに長机がふたつ、向かい合わせて置かれていて、多分活動の中心はここなんじゃないかな、なんて想像ができた。机には、ペンスタンドやメモパッドなどが置かれていて、他にもこまごまとした文具、使い道のよくわからない道具なんかが集められていた。机のほかには、棚がふたつあって、奥の棚には本が何冊か、手前のものには、やっぱり文具や紙がしまわれているのだが、なにも入れられていない空っぽのスペースも目立った。
そうか、物が少ないんだ。
壁を見てもカレンダーひとつかけられていない。飾り気のない、そういった方がずっとそれっぽく思える部屋だった。
「部員は多いんですか?」
「僕をいれて5人、だね」
みかるに問い掛けられて、男子生徒が答える。手元の本から目をあげ、まだみかるが、そして雪乃もなにか問いたげにしている、そうした雰囲気を感じとってか、ええとだね、なにを話したものか考えるみたいにして、先を続けた。
「二年生、いやもう三年か――、三年生が2人。二年生が3人」
まだなにか聞きたそうにしている。
「女子が4人、男は僕ひとりだけ」
みかる、雪乃がちらっと目を見合わせた。
その様子を見て安心したのか、男子生徒は、
「もう少ししたら、他の部員もくると思うよ」
それだけいって、再び手元の本に目を落とした。
ただ待っているというのは退屈なものだ。ましてや、気になることがある。はやくそれを確かめたいと思っていればなおさら、待つというのはただただ焦れるばかりで、気をまぎらわせようにも慣れない場所、隣に座っているのも友人というにはあまりに知り合って間もない、ほぼ初対面といった間柄だから、なにを話したものかわからないときている。加えてもうひとりいる男子生徒も、初対面そのものの上級生。話しかけることもためらわれた。
窓からはうららかな春の陽ざしと、そして動き始めた放課後のざわめきとが、ガラスを通して室内にもふりそそいで、吹奏楽部の、音出しだろうか、調子っぱずれのラッパの音がひとつふたつ響き、グラウンドの方角からは部員を呼び集める号令がいくつも聞こえてきた。
――もうはじまってるとこ、あるんだ。
依然として動きのないペン字部の部室で、みかるがそんなことを思っていた時、廊下をこちらへと歩いてくる足音が聞こえてきた。ひとり? 誰と話すわけでもなく、ゆっくりとした足取りでこちらへ向かっている足音にみかるが耳をそばだてていると、ちょうど部室の前あたりまできて、そしてぴたりととまった。
誰かきた!?
みかるに雪乃も、はっとその足音のとまった方向に目を向けると、注目が集まるのを待っていたかのようなタイミングで部室入り口のとびらが音をたてて開かれた。
「いらっしゃい、君もクラブ見学?」
とびらが開いたことに気付いた男子生徒が本を閉じながら声をかけた相手、それはひとりたずねてきた男子生徒だった。タイの色から一年生とわかる。
「すみません、ここ、硬筆習字部の部室ですか?」
軽く会釈をして彼は、歓迎してくれた先輩に質問を返した。
みかるたちはというと、なんだかもうすっかりどっと気が抜けたみたいになってしまっていた。
結局、部活がはじまるまでに、もうしばらく待たないといけなかった。
みかると雪乃から少し席を離して座った一年生男子との、その距離感が微妙な気まずさを演出して、待ち時間の落ち着かなさがより一層のものとなろうしていた頃、ほどなくしてやってきたもうひとりの先輩が、その雰囲気を緩和してくれて随分助かった。
温和で面倒見のよさそうな話しぶりが印象的なその先輩は、いろいろと話しかけてくれながら、部室なかほどの棚からポットや急須を出してきて、皆にお茶をいれてくれた。
生活感に欠けて殺風景、そう思っていた部室の様子がちょっとしたことですっかり違ってしまったようにみかるには感じられた。
「あら、なあに? まだ名前も教えてもらってないの?」
その先輩は笑いながら、はじめからいた男子生徒に目を向けると、おかしそうに目を細めて笑った。
「私、
「
多少きまり悪そうにしながらも、めぐみにうながされるままに部長が自己紹介をした。
先輩たちの自己紹介を受け、みかるたちもあたふたと自己紹介をする。一年生男子の名前は、
ああ、そういえば見覚えが……。
雪乃の様子をうかがえば、どうやらみかると違い、こちらはきちんと覚えていたようだ。
「さあ、いつまでも、おしゃべりしててもなんだから」
ひとしきり話して、落ち着いたかなといったところで八木沢めぐみは立ち上がると、そこにいる皆に呼びかけた。
「まだ全然揃ってないけどはじめちゃおうか」
こうしてようやくペン字部も動きはじめた。けれどその活動というのも地味なものだ。めぐみに、哲朗も、それぞれ机にノートや字典、ペンなど、広げはじめるのだが、そう、この部活ではこれくらいしか道具は使わない。そもそもがひとりで取り組める、そうした活動なのであるから、大げさな道具も仕掛けも必要ないというわけだ。
「いつもは、適当に時間がきたら、勝手に稽古はじめるのよ」
と、めぐみがいつもの部活動の様子を教えてくれたところで、一年生はなにをすればいいのだろうという、当然の疑問にぶつかってしまった。
「私たちと同じ課題でいいのかな?」
めぐみの疑問に、哲朗はこれという答を持ち合わせておらず、どうするのがいいのだろうね、思案深げであったが、この状況を打破することのできるものは今ここにはおらず、そう、いつだって事態を解決するヒーローは遅れてやってくるものだ。
部室のとびらが開かれた。
みかるには、さながら運命的な瞬間であったろう。そしてそれはおそらく雪乃にとっても同様で、開かれたとびらから部室へと入ってきた人物、それは誰あろう、例の上級生。豊かに波打つ黒髪を揺らしながら、静か静かに歩みを進めるその姿を、みかるも雪乃も、あたかも時間がゆっくりと流れるような思いで茫然と見送った。
その人物は馴染みのない新入生3人を認めると、口元をほころばせて小さく会釈、そのままみかるたちの前を通り過ぎていく。
彼女に続いて、ショートの髪の女子生徒がひとり、くぐったばかりのとびらを静かに閉じると、こちらはまた対照的に、部室の変化もなにも意に介さないといった風に視線ひとつ揺らすことなく、先を進む彼女に歩み寄り、そのかたわらについて立ち止まった。
「新入生がね、3人もきてるよ」
のんきそのものといった感じで、哲朗が声をかけた。
「入部希望者ですか?」
「でいいんだよね?」
問いかけられて哲朗は、その問いをそのままみかるたちにパススルーする。
「あ、はい、入部希望です!」
「え、ええと、私はまだ決めてなくて――」
ためらいなく答えるみかる。対し雪乃はというと、突然の問いかけにあたふたして、すぐには答を出せずにいたが、
「ええと、は、はいります……」
小さく消えいりそうな声で結論を出した。
「俺――、僕もはいります」
「だとしたら、これが必要になりますよね?」
哲朗に薄い紙の束が差し出された。見れば、入部届けだ。
「ああ、ごめん。忘れてた」
入部届けを受け取りながら、そういって謝ってみせる哲朗だが、これまた申し訳なさというものが感じられない。
しかたのない人だなあ、そうした感情が漏れ出しているその肩に、ショートカットの彼女がそっと触れた。
ふたりが遅れたのは、部室へと向かうその途中、生徒会に寄っていたから、だったのだそうだ。たまたま廊下で出会った生徒会のひとりに、渡すものがあるから部の代表に生徒会室までくるよういってあるのだけど、ペン字部がまだきていない。丁度よかったからと、そのまま生徒会室に連行されていたという。
渡されたもの、それが先ほどの入部届けを含む書類や部の運営に関しての説明事項を記したプリントなどなど。新年度を迎えるにあたって必要となるものばかりである。
それは忘れちゃ駄目だろう。
部の代表として、それらを受け取りにいくことになっていたのは、他ならぬ部長、すなわち北沢哲朗の役目と話がついていたはずだったのだが、すっかり忘れられてしまって、今のこの体たらくである。
哲朗に話をしている女生徒は、くどくどと説教、ましてや文句を連ねるようなことはなく、きっぱりというべきことだけを話して終わり、さっぱりとしたものだったが、こうした様子を面白そうに見守っていたのが八木沢めぐみ。こうしたところに、この部における人間関係、普段のありかたが見てとれるようだった。
ともあれ、こうしてふたりが代わりに書類一式もろもろをもらってきてくれたおかげで、クラブ見学初日に入部届けが間にあった。
つい先ほど部長に渡したばかりの入部届けから必要な枚数だけ返してもらったその女生徒、名前は
「はやまって後悔とかしないようにね」
笑顔など見せたものだから、みかるは少々舞い上がってしまって、滅相もない! とまではさすがに言葉が出てこなかったが、
「だ、大丈夫です」
それだけなんとか口にして、赤くなってしまった。
みかるはじめ一年生たちは、手渡された届けに必要事項を記入しようと、カバンからペンケースやらシャープペンシルやら、めいめいぞろぞろ取り出して、同じくカバンから出したノート、あるいはカバンそのものを下敷きにして、膝のうえで窮屈そうに書こうとするのだが、それを見た美紗がちょっと待ってと制止した。
「書く時は、ちゃんと机で書くようにしないと駄目だよ。ほら、机——」
美紗の指し示した先を見れば、机も椅子も、いくつもあちらこちらに空いている。好きなところ使ってくれていいよ、部長もそういってくれたものだから、みかると雪乃は隣同士に、高良芳明はやはりふたりから離れた位置に陣取って、最初の活動となる入部届けの記入にとりかかった。
「せっかくだから、きれいに書いてね?」
めぐみに声をかけられて、消しゴムに手を伸ばしたのがふたり。芳明に、そしてみかるが消しゴムをゴシゴシとやって、はじめから書き直している。
その間、入間美紗は部長となにやら話をしていて、美紗と一緒にやってきたもうひとり、
「書けましたー!」
最初に書き終えたのはみかるだった。元気が声が響く。
入部届けを人数分、気をきかせて集めたみかるが、部長と美紗のところまで持ってくる。それなりに苦労して書き上げたと見えて、わずかの緊張が表情に浮かんでいた。差し出された一枚目はみかるのものではなく、なにやらうかがうような視線からするに、どうも自信はないらしい。
「ああ、これはどうもありがとう」
部長はみかるから届けを受け取ると、もれなく正しく書けているか確認しているのか、一枚ずつめくりながら、ゆっくり目を通していく。美紗も部長のかたわらで、同じく届けを眺めていたが、ふとなにか決めたといった表情をすると、ぱっと顔をあげ、部長に、そして一年生に聞こえるよう、きっぱりといいはなった。
「まずは名前からやりましょう」
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