みかるの入学

 四月、新年度もあけて一週間ほどもたった今日、学校へと向かう路はしばらくぶりの生徒の往来を見て、多少のにぎやかさを取り戻していた。

 穏やかな日差しのもと、人の列はまばらに伸びて、中学からの友達同士か、連れ立って談笑しながら歩いているものがあれば、ひとり学校へと向かうものもあって、けれど皆それぞれに春の通学路に新鮮味を感じているようだ。着慣れない真新しい制服、まだあどけなさを残す彼ら彼女らのいでたちは、春の朝に一層のすがすがしさを添えて、またあちらこちらに咲く桜とともに、毎年繰り返される季節を彩る風物詩となっていた。

 どっと降りかかる花びらに、時折歓声があがる。その急ぐでもない様子はまだ時間に余裕のあることを物語っていた。

 そんな中、ひとり足早に歩く女子があった。皆と同じく真新しい制服を着込んだ、特にこれと目立つ格好をしているわけでもない彼女が、不思議と人目を引いたのは、その浮き浮きと浮き足立つ姿のせいだろう。あくまでもゆっくり、まわりにあわせてゆっくり歩こうとしている、そんな素振りを見せはするのだが、その気待ちとは裏腹にみるみる急ぎ足になってはハッと気付いてペースを落とすの繰り返し。どうにもこうにも抑えきれない、はやる気持ちが溢れ出しているのが、傍目にも丸わかりだ。

 その子の名前は鳥崎とりさきみかる。落ち着かない足取りにあわせ、カバンと、それからふたつにゆわえた髪がぴょこぴょこと揺れて、見た目にもにぎやかだ。

「みかるん、おはよー!」

「おはよー!」

 遠くから聞こえた呼びかけに手を振ってこたえてみかるは、そのまま挨拶の声を追い越していく。もうすこしで学校なのだ。こうなったらみかるの気持ちはとまらない。期待に背を押されるようにして、今にも駆け出しそうという、そのぎりぎりの速度でもって先へ先へと歩を進めれば、じきに学校だ。

 正門が見えてきた!

 正門の脇には、今日が入学式と伝える看板が立てられて、それをバックに生徒たちが入れ替わり立ち替わり記念写真を撮っている。看板は墨色も濃い筆文字で、毛筆書体で印刷したとかではない、手書きされたものだった。しかし、みかるはじめ新入生たちは文字そのものには気もとめず、写真を撮っては今日の入学式の記念としていた。

 校内に立ち入れば、幾人かの上級生が新入生の案内をしている。

——受付はあちらです。

——自分のクラスを確認したら、次に受付をすませてください。

 飛びかう声にうながされるまま、みかるも他の新入生たちにならって掲示されたクラス別の名簿に向かえば、そこは相当なひとだかり。同じクラスになれたことを喜ぶものがあれば、違うクラスと残念がるものありで、とにかくにぎやかだった。

 落ち着きなく広がるざわめきや、ときおりあがる歓声、目の前にちらつく人の頭に気を散らされながらも、鳥崎、鳥崎……、自分の名前を探して名簿を目で追っていけば、無事自分の名前を見付けることができた。

 クラスを確認したら次は受付。受付は門から昇降口へとのびる並木に沿って進んだ先だ。

 植え込みを背負った長机に向かう人の列。みかるは急ぎ足で受付に向かうと、自分のクラスのものと思しい列の最後に加わった。

 列は、そう長くはないのだが、思ったよりも進まない。なんでだろう? 疑問にかられて、横手から覗きこむように前方をうかがえば、新入生に渡される式次第はじめ案内一式、そこで少しもたついているらしい。

 新入生の名前を聞いて、名簿かなにかを確認する。そこから少し間があって、入学おめでとうございますと声が聞こえる。

 落ち着いた女性の声だった。先生なのかな、みかるははじめそう思ったけれど、列が進んでいけば、見えたのは同じ制服を着た上級生。さらに進めば、豊かに波打つ黒髪を後ろに流した姿が見えた。

 すっと伸ばされた背筋。急ぐでなく、しかし手間どるでもない、その手付きは流れるようで、手指の先まで意識の通っている気持ちよさがあった。落ち着いた振る舞い、張り上げるまでもなくよく通る声は、不思議とみかるの気持ちをつかんで、思えばこの時点ですでに魅了されていたのだろう。ただただ耳はその声の響きを追って、他のなにも意識からは抜け落ちてしまったかのようで、あなた、あなた、お名前は――? と、そんなみかるを現実に呼び戻したのも、またその声であった。

「あなた、お名前は?」

「は、はい。鳥崎みかるです!」

 ずっと呼び掛けられていたと気づいて慌てて答えたみかるの声はうわずり、今にも引っくり返りそうなほどだった。

——恥ずかしい!

 そんな思いに赤面するみかるであったが、問いかけの主はみかるの様子を気にとめるでなく、そっと優しく微笑むようにして、

「鳥崎みかるさん、ね」

 机の上、名簿に目を落とし、手にしたペンで出席の印をつけた。

 それから、小さな短冊様の紙を自分の前にまっすぐになるよう置くと、小さなガラスの長方体をその端にのせて、左手に寄せた名簿をあらためて確認。右手の裏紙にペンをくるくると走らせて、なんの意味も持たない線を増やしたかと思うと、短冊に向いて一息、そしてペン先をそっと紙面におろした。

 ゆったりとした動きで、まずは小さく左にはらうと、続けて長く縦に線を引き降ろしていく。そこからペンを大きく戻し、横画から折れて縦画。少し戻して、短く横画をふたつ引いた後に、横へすうっと一本長めに伸ばす。

 あれ、万年筆っていうやつかな? 見慣れない筆記具にみかるが素朴な感想を抱いた。

 どことなくレトロな風合い。落ち着いた赤色の軸は、たおやかに手のうちに収まり、その先には金色のペン先が光っている。その金色が動くたびに、白地の紙に深い青の線が引かれていく。今、ペンは大きくゆるやかなカーブを描き終えて、小さく跳ねたその軌跡が着地したそこから、点をひとつふたつと続けて穿うがっていくところだった。

 一文字目を書き終えると、次は左に寄せて小さく山。その筆致の確かさ。ゆっくりと時間をかけて丁寧に、丁寧に書かれる文字のその表情は端正で、自分の名前がここまで一点一画を大切にして書かれたことってあっただろうか。まるでその、慈しむようにして書かれる文字の、少しずつできあがっていく様に、みかるはすっかり引き込まれてしまって、言葉もなく、息をするのも忘れているかのように見入ってしまっていた。

 後半のかな3文字が、ふところも広く伸びやかに書きあがる。一呼吸ほど間があった。紙から離れてからも、しばしその上にたたずんでいたペンが軽く持ち上がると、年長の少女はペンの後ろからキャップをはずし、そのまま静かにペンをキャップにおさめた。

「ご入学、おめでとうございます」

 お祝いの言葉とともに、入学のしおりが一揃いみかるに手渡された。重ねられたプリントの一番上に置かれたひとひらの用紙、いましがた、みかるの見ているその前で記された自分の名前が、なにか特別なものに思われて、胸の高鳴りがとまらなかった。

「すごく、きれい……」

 言葉が思わず口をついて出た。

「ありがとう」

 やわらかな笑みをともに返ってきた思いがけないお礼に、みかるはまたも赤面すると、あたふたと何度かおじぎを繰り返しながら、受付の列から離れていく。

 どうして自分はこんなにドキドキしているのだろう。

 ちょっとうつむきかげんに、早足に、講堂に向かう流れにまじって歩きながら、さきほど見ていたペンの運びを思い返しては、落ち着かなくなる。どうしたらあんな風にできるのだろう、書けるのだろうと思う気持ちがとまらなかった。

 入学式の会場である講堂の、自分の席について、それでようやく心が静まってきた。それでもなお、名前の書かれたその紙片をしげしげ眺めることはやめられず、ここで他の人のはどうなってるのだろう、ちょっと見回してみて、それが名札なのだと気付いた。

 赤いリボンで作られた花の飾り、それと組み合わせて入学祝いのバッジにする。まわりを見れば、皆、制服の胸につけていて、みかるも慌てて皆にならって記章きしょうをつけたのだが、それがなんだか誇らしいというか、気恥ずかしいというか。うん、やっぱり落ち着かなくなった。

 入学式の最中も、ずっとなんだかもぞもぞ、むずむずした感じがあって、それはそれだけ嬉しかったのかも知れない。

 入学式だ、高校での新生活が始まるだで、浮かれて、浮き足立って、浮ついて、そんなところに思いがけない体験があって、思い返せばどうということもない些細なことなのだろうけれど、ただの名前、ただの文字、そういって割り切るにはみかるにとってあまりに深く印象に残ったできごとだった。

 ふと手を名札にやってニヤニヤしたり、そっと眺めては指先でなぞってみたり。そのたびに、はっと気付いて、ちゃんと話を聞かないと、きちんと前向いて座ってないとと気持ちを引きしめるのだが、悲しいかな真面目な気分は長続きせず、結局余計なことばかり考えているうちに式は終わってしまった。

 式が終わって、ちょっとした開放感とでもいったらいいのだろうか、ざわざわと騒がしさを増した講堂の中、一年生たちはクラスごとに順々にそれぞれの教室へと退出していく。みかるも、自分のクラスが呼ばれるのを席についたままぼうっと待っていたのだが、その時、脳裏によぎったことがある。

 このまま教室にいく前に受付に寄れば、さっきの上級生にまた会えるのではないか?

 会ってどうしようというわけでもないのだけれど、考えついてしまった以上、この思いをぬぐいさることなんてできない。それがみかるの性分だ。

 みかるはひとりそわそわと、ここから抜け出すことはできないか、あたりをうかがってみたり、すぐにも自分のクラスが呼ばれるのではないか、他のクラスの退出状況を気にしてみたり、少しもじっとなんてしてられず、ついに自分のクラスの退出の番となったときも、はやく進まないかなあと、前ばかり気にして、そのうち焦る気持ちは足踏みに変わった。

 足踏みすること、一二分いちにふんといったところだろうか。入り口あたりでとどこおっていた人のよどみも徐々に解消していって、みかるもようやく足踏みから開放された。

 やっと出られた!

 みかるはぱっと表情を明るくすると、教室へと向かう流れからひとりはずれて、受付へといそぎ戻ってみたのだが、とうに机もなにも片付けられてしまっていて、当然ながら、あの人と再会することも叶わなかった。

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