第2話 未遂のロマンス…前編
十九世紀後半の大英帝国は競馬が盛んだった。紳士淑女が着飾り、お目当ての競走馬に賭ける。上流階級の社交場でもあった。
由緒あるクラシック・レースだけあり、遊びに来た男女の格好は高価な衣装を着た者ばかりだ。周囲を見渡すと、さいわいなことに顔見知りの者はいない。
ウィルフレッドは持参した双眼鏡で、疾走前の馬を見た。自分が賭けた『紅炎の槍号』はその名のとおり、あざやかな赤毛の駿馬だった。初めての競馬だからどの馬に賭けるのか迷い、直感で決めた。
「旦那さま、お身体は冷えませんか?」
「いや。空気の冷たさが心地よいぐらいだ」
「あまりお元気そうにしないでください。病弱という演技がバレてしまいます」
「なあに、心配無用。知り合いはだれもいない」
「ええ、これだけ人がいるのに?」
きょとんとした面持ちの従者ランバート。屋敷に来るまえは劇団で働いていたためか、従者の生活が驚きの連続らしい。長年奉公している堅物執事マリガンとは、まったくちがう人柄が面白かった。
「世間は広いのさ。庶民だろうがいい服を着てくれば、どこかの紳士淑女さまだ。たまには背伸びして、遊びたい連中もいるだろう」
「じゃあ俺もそう見えるのかもしれません」
そばかすだらけの無邪気な笑みが彼らしい。
三年前まで女優――もちろん女装だ――をしていて、そのときの栄光が忘れられないという。背が伸びたことで役者への道は絶たれたが、次は劇作家を目指していると言っていた。
女優だったころに習得したのだろう愛らしい微笑は、ひょろりと伸びた姿形に不釣り合いだ。
――まるで茎だけ伸びすぎた、白百合の花だな。
緑の瞳に輝くような金髪。女優時代の写真を見たことがあるが、まるで別人だった。化粧したら化けるのだと言っていたが、やはり信じられない。男らしさをあまり感じさせないのが、従者にした大きな理由だった。
開始のラッパが鳴った。ゲートが開き、馬が駆け出す。
『紅炎の槍号』の出足は遅れたが、第二コーナーを曲がるとき、一頭、二頭、三頭とライバルたちを抜いた。
「いけいけ、抜かせっ!」
「あと一頭で優勝だっ!」
いてもたってもいられず、ランバートとともに立ちあがり応援した。
ゴールの瞬間、 わっと歓声がわいた。残念ながら『紅炎の槍号』は、二位で終わった。
一位を逃したものの、ウィルフレッドは満足だ。初めて適当に賭けたにしては、上出来だと。
「惜しかったですね、旦那さま」
「ま、こんなものだろう。久しぶりに興奮して、喉が渇いた」
「カフェに行きましょう。おれ、このあたりに巡業で来たことがあるんです。いい店知ってますよ」
「よし、任せた」
人の波に乗りながら、ゆっくりと競馬場から出る。ロンドン郊外の街の街路樹はすでに落ち、冬支度が始まる寒さだった。
ランバートはある一件のホテルへ入る。古い建物だったが、一階に併設しているカフェは洒落ていた。自分たちと同じように競馬の帰り道、お茶やコーヒーを飲んでひと息つく男女が、大勢いた。
「出遅れましたね。少し待つかもしれません」
「いいさ。どうせ帰っても暇なんだ。――煙草を」
ランバートがコートのポケットから取り出した紙煙草を、ウィルフレッドはくわえる。彼がライターで火をつけ、店の軒先で煙をくゆらせた。
――ああ、うまい。
初めて煙草を吸ったときはむせて仕方なかったが、慣れるとやめられなくなった。これを吸っていると、自分の本当の性別を忘れることができるのがたまらなかったのもある。
世間一般では、淑女が煙草を吸うのはひどくはしたない、とされていた。だから、初めて煙草を好奇心で取り寄せた日、十八歳の自分は誘惑に負けて吸ってみた。
吸い殻を地面に落とし、足の裏で踏んだとき、声がした。
「失礼。きみ、ハートレー家の御仁かい?」
視線を上にやると面長で巻き毛の青年がいた。仕立ての良いスーツとコート姿からして、上流階級の者だろう。その後ろには表情のない地味な服装の男がいる。従者にちがいない。
どこかで見覚えがあったが、思い出せない。人づきあいそのものをしていないから、数少ない知り合いだったらすぐにわかるはず。
「きみこそ、どこの御仁?」
「ああ、これは失礼。さきに名乗っておくべきだった。僕はブランドン・リスターだ」
「リスター――」
もしかして。
「ルームメイトだった、ちびのリスター?」
「やはりな。ハートレー――じゃない、サー・ウィルフレッド。きみ、あまり変わってないから、すぐにわかったよ」
「……」
何か言おうとしたが、どう返していいのかわからない。
あの天使のようにかわいらしかったリスターが、すっかり成長している。背が高く、甘いテノールの声。栗毛の髪と琥珀色の瞳だけは昔と同じ優しい色だった。
リスターは笑顔になる。
「噂じゃ、きみ、病気で田舎屋敷から出られないそうじゃないか。すっかり良くなったんだな。安心した」
「今日は調子がいいんだ」
知り合いがいないと思いこみ、はしゃいでしまった自分を責める。ランバートの言うとおり、久しぶりの自由な外出で浮かれてしまった。
カフェの給仕が席が空いた、と呼んだ。立ち話もなんだからと、四人組は案内されたテーブルに座る。
コーヒーを注文したリスターが言った。
「それにしても驚いたな。最後に顔を見て何年になったか」
「十四歳だったから、七年だな」
「そうか。そんなに経つのか。きみのことを忘れたわけではなかったが、事情がありそうだったから交流を控えておいたんだよ」
「私のほうこそ、音沙汰無しにしてしまった。きみが勉学に忙しいだろうから」
「病気じゃなければ、きみは優秀な成績で卒業しただろうな。あのトンプソンが首席だったんだぜ。いつもきみより点数が低かったあいつが」
「仕方ないさ。無理をして神に召されるのだけは避けないと」
「それはいえる。こうして元気になったきみと、再会できたんだ。僕はうれしい」
「ああ、私も……」
夢を見ているようだった。
リスターに迷惑をかけたくなくて、二度と会うまいとウィルフレッドは心に誓っていた。だから連絡を取らなかった。あのまま親しくしてしまうと、秘密が重荷になったとき彼を頼ってしまいそうだったからだ。それだけ、リスターは心優しい少年だった。
ふう、とひとつため息をつき、リスターは言った。
「僕は今、父の貿易商会を手伝っている。といっても、書類の整理ぐらいだけど。商会が大きくなりすぎて、僕ひとりではどこをどうすればいいのかさっぱりだよ。父が言うには、まず人間関係を広げて、たくさん見聞し、相手の人となりを見抜く力が必要だそうだ。……いくら仕事ができても、信頼できない輩を雇ってしまえば商会が傾く可能性があるからね。来年の夏に大学を卒業したら、本格的に経営に参加する。それまでは嫁探しだ」
「へえ……」
ウィルフレッドは泣き虫だったリスターと、目の前にいるリスターが同じ人物だと思えなかった。少年から大人の男になった彼がまぶしくてたまらない。
「父が言うんだ、花嫁は貴族のお嬢さまを娶れと。いくら財産があっても、平民は平民。きみのように、准男爵の称号を得るのがリスター家の願いなんだ」
「ふうん……」
「しかしだな、ご婦人とはむずかしいものだよ。微笑むばかりで何を考えているのかわからない。この前の夜会は面倒になって、後半、口をきかなかった。それでも何人も寄ってくるんだ。どうせ僕の財産目当てさ。まあ、貞淑な貴族令嬢だったら、考えなくもないが」
――財産じゃなく、きみ自身の魅力だよ。
ウィルフレッドはそう言いたくなったが、喉まで出かかってやめた。
リスターは眉根を寄せる。
「楽しくないかい? 僕の世間話」
「いや、そういうわけじゃ……」
「きみこそ、どうしていたんだい?」
ウィルフレッドは逃げ出したかった。
性別をごまかしきれないと判断し、病気を理由に寄宿学校を退学してから、田舎屋敷に閉じこもったままだったからだ。大学など、どんなところで何をするのかさっぱり知らない。
だまっているのも不自然と思い、話を合わせる。
「病気が良くなったのも、つい、最近なんだ。大学には行けなかったが、もう成人したことだし、領地の管理をするつもりだよ。親戚に任せておけないからな。私が病死したら喜ぶ連中ばかりさ」
「相続人か。ならばきみこそ、早く結婚すればいいじゃないか。息子ができれば、親戚たちも干渉してこないだろ」
「それはそうだが…………」
視線を落とし、唇を噛みしめる。
話せば話すほど、墓穴を掘ってしまいそうだ。
「ご気分がすぐれないのですか、旦那さま」
ランバートがハンカチを取り出し、ウィルフレッドに握らせる。
「だからおれが言ったでしょうに。寒いから競馬はやめましょうって。帰りますよ」
「ああ」
――えらい、ランバート!
中座する失礼を詫びて、ランバートとともにカフェを出た。リスターがあとを追ってこないのを確認すると、ふたりは逃げるようにして鉄道駅へ向かった。
リスターと再会した日から、ウィルフレッドは外出する気が失せた。いつものように屋敷に閉じこもり、ぼんやりとした日々をすごす。
――いやだな。どうして彼と出くわしたんだろう。
寄宿学校へ入学し、寮生活に入ったころリスターと出会った。まだ十二歳の彼は小さく、体格の大きなルームメイトにからかわれていた。何かあるたびに言いがかりをつけられ、殴られる光景を見たのは一度や二度ではなかった。
目立たないよう、静かに行動していたウィルフレッドだったが、弱い者イジメを見過ごすことができず、あるとき身体の大きな同級生を蹴った。そのころの自分はすでに成長して、リスターよりも大きかった。力はなかったが勢いをつけて飛んだら、やつの背中を直撃した。
喧嘩騒動で反省文をたっぷり書かされたが、それからリスターと仲良くなった。身代わりとして死んでしまった弟を思い出し、だれよりもかわいがったし、慕われた。
あまりにも泣き虫だったから、どうしても耐えられないときは親友の自分がいるときだけにしよう、と約束をしたことが忘れられない。リスター少年を慰めていると、不安だらけな自分の心も癒やされたからだ。
たった一年半だったが、短い学生生活の楽しい思い出だ。
その世界が不意に、現実となって時間を進めた。
――リスターは私とはちがう。彼がうらやましい。
少年のころは親友だったが、過去のことだ。とても顔を会わせることなどできない。
――ああ、恥ずかしい……。
まるで成長していない自分がみじめだった。
だって彼は大人の男になったのに、自分は心も身体も少年のまま。決して、本物の男になれない。今、わが身を包むスーツは、まがい物の脆い肉体を包んでいるにすぎないのだ。
悶えるようにしてあれやこれや考えながら、好きでもないピアノの鍵盤を叩く。乱れたメロディだったが、何かしていないと落ち着かない。
「旦那さま、お手紙です」
ランバートが居間にやってきて、銀盆を差し出す。
だれからだろうと思い、宛名を見ると。
「ブランドン・リスター!」
何か感づいたのだろうか、サー・ウィルフレッドはおかしいと。
震える手で手紙を取り、ランバートにペーパーナイフを持ってこさせ、開封する。
読んでみたら、夜会の招待状だった。せっかく再会したのだから、ゆっくり語り合おう、とある。体調がすぐれなければ、無理をして出席しなくてもいい、とつけ加えられていた。
――行けない。
とてもではないが、また醜態をさらすだけだ。
「マリガンに言って、欠席の返事を書いてくれ」
ランバートは目を丸くする。
「せっかくのご招待ですよ。もったいないじゃないですか」
「もったいないもくそもない。あいつに会いたくない」
そう言ったとたん、涙があふれた。なぜ悲しいのか自分でもわからなかった。
「旦那さま……。お部屋に行きましょう」
ランバートがウィルフレッドの泣き顔を隠すようにして、寝室へ移動した。
ソファに座る。茶を運んでくるからと、ランバートが退室する。五分もしないうちにもどってきた。
給仕をしながら彼は言った。
「おれが言うのも、差し出がましいと思ってたんですが」
「何を?」
「旦那さま、リスター氏のことがお好きなのですね」
「ええ?」
「競馬の帰りのカフェで再会したとき、感じたのです」
「まさか」
しかし否定すればするほど、鼓動が早くなる。
「私があいつを? 好きになってどうするという?」
「恋は理屈じゃありません。突然、やってくるものなんです。劇団にいたころ、そうやって苦しむ仲間たちを何人も見ました」
「恋?」
「ええ、おそらく」
「そんな、私が、リスターを…………」
――ならば、よけいに会えないじゃないか!
ぎゅっと胸がしめつけられ、また熱い涙がこぼれた。恋などしたことがなかったから、こんなに苦しいものだとは知らなかった。
社交シーズンに入ったロンドン。国中の領地から紳士淑女が交流をするために、滞在する季節でもある。
ハートレー家もご多分にもれず、ロンドンに小さな屋敷を所有していた。先代――父が存命していたころは盛んに社交をしていたそうだが、現准男爵は病弱ということになっているため、所用で滞在するときしか町屋敷を使わなかった。
あるじ不在の今、屋敷を管理していた家政婦はとうに解雇され、通いの老メイドが定期的に掃除をするぐらいだ。それをいいことに、ウィルフレッドは隠れ家として使うことにした。
大きな袋を抱えたランバートが、息を切らしながら三階の寝室へ入ってきた。
「ただいま、帰りました。こんなに買ってしまいましたけど、必要経費ですからね」
「ごくろう。だけど、ほんとに大丈夫なのか?」
ウィンクが返ってくる。
「任せてください。おれ、化粧技術ならだれにも負けません。四年のあいだ男連中の目をごまかせたんですから、ばっちりですよ」
「でもなあ……」
「案ずるよりなんとかです。まず、着替えましょう」
乗り気でないウィルフレッドだったが、またリスターと会いたい気持ちが勝ってしまい、ネクタイを緩めた。シャツと下着も脱ぎ、胸を覆っていた布を外す。
母が使っていたキャミソールを着た。丈が短かったが、ドレスを着れば問題ない。そして苦行が始まる。
「行きますよ」
ランバートがコルセットの紐を締める。
「ぐぇぇぇぇ!」
慣れない緊縛に潰れた悲鳴がでた。
――いやだ、いやだ、だから女はいやなんだっ!
「きつすぎたら、おっしゃってください」
「きつすぎる!」
相手がそう言い終わらないうちに答えた。
「これぐらいの細さがきれいなんだけどなあ。もったいないですよ」
「酸欠で死ぬ!」
「仕方ないですね。ドレスがぎりぎり入るぐらいにしましょう」
ふっと胴が緩み、生き返った。
「やだな。今晩中、苦しいのか」
「しばらくすれば慣れます。それまで我慢してください。あと、夜会では食べ過ぎないように。苦しくなるだけですから」
「とても食欲が出ないよ……」
憂鬱な自分の思いとは裏腹に、ランバートは楽しそうだった。てきぱきと身支度をすすめる。ガードルをつけ、ストッキングとズロースを履き、バッスルで腰に膨らみをもたせる。そして化粧台の前に座った。
「おれのほうを見てください」
言われるまま鏡に背中を向ける。真剣なまなざしのランバートにマッサージされ、大きな筆で白いパウダーを塗られる。そして眉を整え、つけまつげをし、頬紅と口紅さした。
「うーん、もう少し目元を華やかにしたほうがいいかなー。ピンクのアイシャドウがあったっけ」
自分の顔がどう変わったのか気になり、鏡を見る。
「あれ? ぜんぜん化粧した感じがしないぞ。でもちがう」
会心の笑みを浮かべるランバート。
「それがおれの手法です。化粧が濃いのは淑女らしくありません。自然なのが美しいとされる風潮ですから。濃いと娼婦扱いされます。でもですね、それは建前です。殿がたは美しいご婦人が好きに決まっています。だから化粧をあまりしていないように見せつつ、素顔よりずっときれいにするのが秘訣です」
そして化粧の続きをし、丁寧に仕上げ、かつらを被ったら紳士だった自分――ウィルフレッドはすっかり消えていた。
「すごい……」
感嘆せずにいられない。
「さすが高級なフランス製はちがいますね! ノリはいいし、キメも細かい。ルージュも美しい」
「へえ」
化粧など興味ないから、どこがどうちがうのかさっぱりだった。
香水をふりかけ、真紅のドレスを着、長い手袋をした。この日のために密かに新調した夜会服だ。しかしどうにも落ち着かない。胸の谷間がはっきり見えた。
「……胸元が開きすぎてないか?」
「見えそうで見えないぐらいが、男心をくすぐるんです」
「リスターはそういう男じゃない」
「十代の令嬢たちと勝負するのですから、大人の魅力を存分に引き出すべきです」
「やっぱりやめようか」
急に恥ずかしくなり、鏡に背を向ける。色香で意中の男をひきつける手法が、親族から蔑まされる母親のようでいやだった。
「今夜を逃せば、リスター氏はすぐにほかの令嬢とご結婚されますよ、お嬢さま」
「お嬢さま」と呼ばれ、目が覚めるようだった。
友人――ウィルフレッドとして付き合い続ける自信はなかったが、会いたいという気持ちは消せなかった。ならば、別人として会おう。その後、どうするかはあとでうんと考えればいい。
ランバートは結婚をしきりに口にするが、女にもどって窮屈な人生を歩みたくなかった。ときおり会って話すだけで、満足じゃないか。片恋でいい。
そうおのれに言い聞かせ、ランバートにネックレスとイヤリングをつけさせる。
「ルビーがよくお似合いです」
「父上がくださったんだ。私の十歳の誕生日に。捨てなくてよかった」
「大切にしてください。もしものとき、売っても財産になりますから」
苦笑せずにいられない。庶民らしい従者の助言だったからだ。
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