第2話 未遂のロマンス…後編
貿易商会を営んでいるリスター家の町屋敷は立派だった。ロンドンの郊外にあったが、そのぶん敷地が広く温室まであった。ハートレー家よりはるかに金持ちだ。大ブルジョワ――富豪である。
馬車を降り、侍女とともに玄関に入ると執事が迎え入れた。広間に向かって、聞き慣れない自分の名前が響き渡る。
「ミス・サンドラ・ブラッドリーがいらっしゃいました」
夜会の客たちがいっせいにこちらを見る。が、すぐに視線をそらし、歓談の続きを再開した。
――知らないな。用はない。
だれもがそう思っているはず。身分も人脈もない独身女性ほど、扱いが軽い者はいない。
広間に入るが、居心地が悪くてたまらない。右を見ても左を見ても、まったく会ったことのない紳士と淑女だけだった。
だれにも話しかけられず、壁際に立っていると侍女ローズマリーに、軽く肘で小突かれる。
「そんな暗い顔をなさっては、浮いてしまいますわよ」
「どうしよう?」
「どこでもいいから座って、まず飲み物をいただきましょう」
ローズマリーは落ち着いていた。ブルーグレーの地味なドレス姿だったが、高身長で存在感抜群だ。人混みではぐれたとしても、遠目ですぐに見分けがつくだろう。
――ランバートの化粧技術はすごすぎる。まったく男に見えない。
さすが女優をしていただけあり、演技とは思えないほど自然だ。所作が自分よりはるかに女性らしく、疑惑を持たれても雰囲気で押し通せる迫力がある。
とりあえず近くにあったソファに座る。すると狙っていたかのように、燕尾服姿の青年がやってきた。
「ごきげんよう、ミス・ブラッドリー。いや、初めましてのほうがいいかな」
「ご、ごきげんよう」
青年は目尻を緩める。
「僕はリチャード・トンプソン。もしかして社交界に慣れてないのかな」
「え、ええ。まあ…………」
どこかで聞いたことのある名前だが思い出せない。
十年以上、紳士として過ごしているせいで、淑女としてどう話せばいいのか忘れてしまった。口ごもってしまう。
――来るんじゃなかった。帰りたい。
トンプソンが手を差し出した。
「よろしければ、温室をご案内しましょう。これでもリスターとは付き合いが長くてね。わが家同然さ」
じっとしていても退屈だったので、申し出を受ける。
立ち上がると腕を組まれた。いやになれなれしい男だが、うまく断るすべを知らなかった。誘われるまま、温室へ入る。
冬だというのに、オレンジやバナナが実るそこは楽園のようだ。甘い香りが鼻腔をくすぐる。橙色の光が幻想的だった。
「失礼ですが、本当に独身なのですか?」
いきなりぶしつけな質問をされ、むっとした。
「年増ですもの。無理ありませんわ」
「いえ、僕はそういった意味でなく。こんなにおきれいなのに、ご結婚されないのが信じられないのです」
直球すぎるセリフに赤面するのが自分でもわかった。また言葉に詰まる。組んでいた腕がほどかれ、両肩をつかまれた。顔がだんだんと近づいてくる。
「ああ、なんてウブなご婦人なんだろう。僕は恋したようだ」
驚きのあまり、固まった。ウィルフレッドなら躊躇せず一発殴るが、サンドラはどうしていいのかわからない。
「サンドラお嬢さま。リスター夫人にごあいさつされないと!」
トンプソン氏の後ろで、笑顔をひきつらせたローズマリーが立っていた。
「そうだったわっ!」
手の早すぎる相手を振りほどき、温室を小走りで出た。絨毯を踏んだ瞬間、慣れないハイヒールがバランスをくずし、どっと倒れてしまう。
笑い声が聞こえた。恥ずかしさのあまり起き上がれない。
ローズマリーに起こされ、よろよろと立ち上がる。かつらが取れなかったのが不幸中のさいわいだ。
「親しくない殿がたにふらふらついていってはなりません。夜のランプに群がる蛾じゃないんですから」
侍女らしい忠告だったが、あまりにも情けなくて頭に入ってこない。
「もういい。帰る」
「そんな! せめてリスター氏とお話をされないと、夜会へ来た意味がありませんわ」
「帰るったら帰る」
「意気地なしのお嬢さまですわね……」
困った顔のローズマリーを見たら少し胸が痛んだ。ウィルフレッドの代理として招待されてみたはどうか、と提案したのも彼女――いや、彼だ。
「すまないな、ランバート」
耳元でそう詫びるしかなかった。
失意のまま広間を出ようとしたら、ひとりの青年が駆けよってくる。ブランドン・リスターだった。
「ミス・ブラッドリー。せっかくいらしていただいたのに、ごあいさつが遅れて申しわけありません」
三週間ぶりに顔を合わせた。思わず「久しぶり」と声をかけそうになるが、サンドラとは初対面だったのを思い出す。
リスターの笑顔は素敵だった。カフェで再会したときとはまったくちがう、社交のそれだ。
ぼうっとしていたら、ローズマリーに背中を押された。
「あらやだ、サンドラお嬢さまったら。照れてらっしゃるのね」
「すみません。すぐにごあいさつすべきだったのですが、立てこんでて遅くなってしまいました」
「ええ、とんでもありませんわ」
そう答えるのがせいいっぱいだった。
サンドラが案内されたのは、夜会の主催者であるリスター夫人――リスター氏の母親だ。女主人は長椅子に腰掛け、羽飾りがたっぷりとついた孔雀の扇子をあおいでいた。これでもか、とダイヤモンドが連なったネックレスがまぶしい。リスター家の富を象徴するような出で立ちだった。
「まあ、ごきげんよう。ええと……」
息子ブランドンに名前を耳打ちされ、リスター夫人は思い出したように言った。
「ああ、ミス・ブラッドリーでしたわね。たしかサー・ウィルフレッドの従姉さん」
「はい。母の生家がハートレーですの。サー・ウィルフレッドはとても身体が弱くて、夜会に出席できないのを残念がっていましたわ。だからわたくしが代理でごあいさつにまいりました」
あらかじめ決めていた言葉を口にすると、少し安堵した。目的のひとつを果たしたからだ。
「あらそう。今夜は楽しんでいらっしゃいな」
それだけ言い残すと、夫人はさっと視線をそらした。そばで控えていた従僕に下がるよう、うながされる。
――これだけ?
あまりにもあっさりしたあいさつだった。
夫人が熱心に話しかけているのはうら若い令嬢だ。まだ社交界デビューしてまもないらしく、頬を赤らめてはときおりブランドン・リスターを見つめている。明らかに男前な彼にひと目惚れしたようだ。
リスターもまんざらでないらしく、令嬢の問いかけに優しく受け答えしていた。
――私の入る隙などないな。
そもそもサンドラ・ブラッドリーなどどうでもいい客なのだ。ほかの招待客の態度もそうだし、寄ってくるのは下心丸出しの男だけ。
すぐに帰るのも失礼だと思い、とりあえず壁際で運ばれてきたシャンパンを飲んだ。隣でランバートがため息をつく。
「リスター夫人がご執心のご婦人、スプリング伯爵令嬢だそうですよ。ほかの客人が話しているのを小耳にはさみました」
「だろうな。無駄骨だったわけだ」
「せっかくおれが、きれいにしてさしあげたのに……」
「もういいよ。おまえの化粧技術を堪能できただけで満足だ」
「そう言っていただけるとうれしいです」
ふたりは顔を見合わせ、苦笑した。
せっかくだから菓子でも食べようか、と隣室に用意された軽食堂へ入った。生クリームがたっぷり塗られたケーキを口にしたとき、リスターの声がした。
「ああ、ここにいらした。……母上からなかなか解放されなくてね」
ケーキを飲みこめないまま、サンドラは答える。
「よろしいんですの?」
こんな自分に用事があるはずがない、という意味で言ったのだが、相手はそう受け取らなかったようだ。
「きみとお話したいと、招待状の返事を受け取ったとき思った。ここではなんだから、テラスへでも行きましょう」
話とは何だろう?
ウィルフレッドのことだろうか。そうに決まっている。そもそも彼の代理としてやってきたのだから、自分のことなど眼中にないはず。
「さあ、サンドラお嬢さま」
ローズマリーに肩を押され、さきに歩き出したリスターのあとをついていった。
テラスといっても外は寒い。正確にはテラスのそばにある大窓だった。気を利かせたローズマリーは、ふたりと距離を置いた位置で待機する。
ガス灯に照らされる庭園を眺めながら、リスターは言った。
「サー・ウィルフレッドに年ごろの従姉がいたなんて、僕は知らなかったよ。そもそもあいつ、自分のことを話さないやつだった。カフェで再会したときもそうだ。僕がたずねても言葉を濁して逃げるだけ。なぜだろうな」
予想どおり、ウィルフレッドのことだった。内心、動揺しながらつとめて笑顔で答える。
「人付き合いが苦手ですのよ。わたくしともほとんど話さないの。だから代理で夜会へ出て欲しいって、聞いたときは驚いたわ」
「そうなのかな?」
こちらを見つめたリスターに笑顔はなかった。
「ええ、そう。どうしようもない従弟よ」
「そのどうしようもないあいつと、僕は仲がよかった。少年時代、親友といっていいほどに。僕といっしょのときはよく笑っていた。しかしある日、突然、病気が再発したといって消えた。何があった?」
「さあ……」
目の前にその親友がいるとは、夢にも思っていないはず。
「きみは知らないのかい? 従姉だろう?」
「ええ……」
視線をそらすしかなかった。
すると、手首をつかまれる。
「同じだ。きみもあいつと。肝心なことは何も教えてくれない」
「そうかしら? 従弟だから似たもの同士なのね」
「そういう意味じゃなく、もっときみたちのことを知りたい。いけないことかい?」
「ミスター・リスター……」
冗談などではない、真摯なまなざし。温和な紳士の笑みは微塵もなかった。
――これがあのリスター?
彼は自分が思っていたよりずっとはるかに成長していた。優しさのなかに秘めている、意思の強さに心揺さぶられる。
ふたりはしばらく見つめ合った。
ほんの十数秒だったが、とても長く感じた。
すっと、足音を立てず従僕がやってきて、リスターに耳打ちする。
「ああ、わかった。すぐにもどるから」
手首を放したリスターは肩で大きなため息をつく。
「……母上が呼んでいる。悪いが、またの機会までごきげんよう」
踵を返し、遠ざかっていく相手の背中が、心なしか疲れているように見えた。
「よかったですね、旦那さま。リスター氏からの二度目のお誘い、断ってはいけませんよ」
「でも、なあ…………」
ウィルフレッドはリスターからの手紙を読むたびに、憂鬱な思いにかられる。書斎で何度も繰り返し相手の真意を考えるが、答えは出てこなかった。
「私とサンドラがいっしょに会おう、とある。どうすればいい?」
相談相手のランバートは迷う様子を見せない。
「決まっています。旦那さまは欠席、お嬢さまが出席です。うまくいけば、ご結婚までこぎつけるかもしれません」
ウィルフレッドは失笑する。
「まさか、ありえない。だいたいサンドラは本来、存在しないんだ。それにもう、あいつは……」
ランバートは顔色ひとつ変えず、淡々と答える。
「まだ間に合います。だから正直に告白して、サンドラ嬢にもどられるべきです。リスター氏はお金持ちですし、絶対に不自由はさせません。おれ、思うんです。ずっと不自然なことをされては、いつか最悪なかたちで発覚するんじゃないかと。ならば傷の浅いうちに、安定した生活を手に入れるのです」
胸がかっと熱くなる。
――こいつ、何も知らないくせに。なんて偉そうに!
「いいか、私は決して結婚などしないし、サンドラにもどるつもりもない。おまえに指図される筋合いなどない!」
自分の顔がよほど恐ろしかったのだろう、ランバートはそれきり何も言わず退室した。
「きみこそ、何を考えてるのかわからないよ……」
リスターの手紙を執務机に放り投げ、目を閉じると夜会のできごとが目に浮かんだ。
――きみたちのことをもっと知りたい。
たしかに彼はそう言った。「きみ」ではなく、「きみたち」だ。
なのに、あいつはあのうら若きスプリング伯爵令嬢と婚約してしまった。つい、三日前のことだ。新聞の社交欄記事で知った。
だいたいだ、初めから失恋するのは明らかだった。それでももう一度、会いたいという想いに勝てず、悪い選択をしてしまった。いつもの自分なら、決してしない失態だ。
――これが恋というものなのか……。
「とんだくそったれだな、リスターのやつ」
なかば八つ当たりのつぶやきだった。いらいらするあまり、立て続けに煙草を吸わずにいられなかった。
王立歌劇場のホールにいたリスターはこちらに気がつくなり、とびっきりの笑顔を見せた。社交のときとはちがって、心底うれしそうだった。それが余計、サンドラの心をかき乱す。
「ごきげんよう、ミス・ブラッドリー」
「お待ちになられた?」
「ほんの十分ほどね。僕には一時間ぐらいに感じられたが」
そこで彼は白い歯を見せるのだが、言い難いことを伝えなくてはならない。
「あの、お返事ではウィルフレッドといっしょに、と書いたのだけど。彼、やっぱり調子が良くないの」
「ああ、そうか。残念。じゃあ、行こうか」
あれやこれやと詮索されるのかと予想したが、はずれた。あっさりとした態度に拍子抜けしてしまう。
オペラ鑑賞は紳士淑女の社交場であった。客席はランクごとに分かれており、舞台袖上の桟敷席がもっとも高価だ。数人で鑑賞できる個室のため、男女の密会にも使われていた。
それに対し、天井桟敷は庶民向けの席だった。二流になると椅子などなく立ち見をする劇場もある。その中間が一階席である。
侍女ローズマリーとリスターの従者は一階へ移動し、サンドラとリスターは劇場のボーイに案内され、個室の桟敷席へ入った。
「ミス・ブラッドリー。オペラはお好きかい?」
「どうかしら。あまり見たことがないの」
「へえ、きみも従弟どのと同じく、箱入りなんだな。おきれいなのに、もったいない」
「まあ……」
お世辞なのだろうが、恋する男に言われるとくすぐったくなる。生まれて初めて味わった、甘い感情だった。そして、同時に思った。
――まさか、私にこんな感情があるなんて……。
夜会のときは周囲に人が大勢いたからうまく話せなかったが、ふたりきりのためか今夜は落ち着いていた。
やがて客席の照明が落ち、舞台の幕が開いた。荘厳な音楽が流れて、『トスカ』が上演される。
有名歌手トスカの恋人である画家カヴァラドッシは、政治犯の逃亡を手助けしたとして逮捕されてしまう。死刑宣告を受けたカヴァラドッシを救うため、トスカは警視総監スカルピアを殺すが時すでに遅し。恋人は処刑されてしまった。絶望したトスカは自殺する――そんなストーリーだ。
音楽が流れるなか、静かにリスターは言った。
「あれほど愛しあっているのに、なぜ彼は結婚しなかったのかな」
「ご事情があったんですわ、きっと」
「どんな事情だと思う?」
「トスカが有名だったから。でも画家は売れない貧しい男。祝福されないのがわかっていたからよ」
「ほかには?」
「まだあるの?」
「じつは画家には妻子がいて、外国へ逃亡したのかもしれないよ。それじゃあ、絶対に祝福されない。それでも、トスカは彼を愛していた――とか?」
リスターが何を言いたいのかがわかった。
――まさか、まさか……。
鼓動が早くなり、ぎゅっと両手を握りしめる。その手をリスターが包んだ。
「きみはすでに知っていると思うが、僕は婚約した。あのときお会いしたスプリング伯爵令嬢だ。言っておくが、愛しているとかじゃない。家のためだ」
「ええ、もちろん存じてますわ」
「ならばもうわかっているだろう、僕の気持ちを」
「そんな。まだ二度しかお会いしてないのよ」
「いいや、僕らはずっと前から親しくしていたじゃないか。今さら他人のふりをしないでくれ」
「リスター、きみ――!」
サンドラ――ウィルフレッドは脳天を殴られた気分だった。
何もかもリスターは見抜いていたのだ!
「ずっと前から好きだったんだ。でもなぜきみなのか、僕は夜会の日までわからなかった。少年同士なのにおかしいだろうって、ひどく自分を責めて……。きみがいなくなったとき、すごく泣いたよ」
「嘘だ」
「嘘なものか。きみが去ってしまったのも、僕の思いに気がついたからだろう」
「思い?」
「泣き虫の僕をいつも抱きしめてくれたじゃないか。きみの声とぬくもりが大好きだったんだ。そのうち、僕がきみを守ってやると密かに誓っていたのに」
「いいや、性別を偽りきれそうになかったからだよ。決してきみに恋していたわけじゃない」
「じゃあ、なぜ、サンドラ嬢になって僕の前に現れる? それがきみの答えじゃないのかい?」
「それは……」
――だめだ。恋心まで見抜かれている。
でも愛人になんてなれない。だからまた嘘をつく。
「これで最後だ、ときみに伝えるつもりだったんだ。サンドラ・ブラッドリーは二度と現れない、と」
「別れを言うためだけに? 手紙で充分だろう」
「私から直接言いたかった。だって私たちは親友じゃないか」
「親友? 今の僕らは男と女だ。愛しあうことだってできる」
抱き寄せられ、口づけされた。少年時代とはちがい、リスターの力は強かった。唇を離そうとしても、うなじにあてられた彼の手がそれを許してくれない。
たがいの息が溶け合い、舌の先が触れた。電流が身体を貫いたように、震える。
さらに彼が入ってきたら、理性を失ってしまいそうだ。ひどく恐ろしくなってしまい、反射的に押し返す。渾身の力をこめて。
距離が空いた。リスターはむせていた。
持っていたハンドバッグで、初めての唇を奪った男の頭を叩く。
「強引すぎやしないか?」
「……愛しあうのがそんなにいやなのか?」
「いやじゃない。だけど、きみの恋人――サンドラになってしまえば、私はあらゆるものを失う。残されるのは、きみからの愛という名の施しだけだ。そんなみじめで窮屈な生き方、二度としたくない!」
「サンドラ嬢、僕は、僕は……」
「想いに応えられなくてすまない」
リスターの泣き顔は少年のころそのままだった。ぐちゃぐちゃに表情をくずし、涙を流す。
ひどいことを言って傷つけてしまったが、仕方なかった。
――ほかにどんな選択肢があるという?
「さようなら」
ウィルフレッドは立ちあがり、ひとり桟敷席を出ようとした。だが、背後からリスターに抱きしめられる。
またもあまりの強さに抗えない。女の自分では、大きな男の力の前では無力だった。
「しつこいな」
「きみは変わらない。どんなことがあっても流されない、その強さが好きなんだ」
「じゃあ、私に不倫をしろと? それが私を侮辱していると、きみは思わないのか?」
ようやくわれに返ったらしく、ふっと身体が離れた。
「すまない」
リスターはそれだけ言い残すと、足早に桟敷席を出て行った。とうに演目は終わり、音楽は流れていなかった。
入れ替わるようにローズマリーが入ってきた。こちらを見るなり、目を丸くする。
「お嬢さま、カツラがとれてますわ!」
「ああ、そうかい」
「ご帰宅されるまで、サンドラお嬢さまでいてください。だれかに見られでもしたら――あ、リスター氏はどうなさったんです?」
「さあね。いろいろと忙しいようだよ、彼」
「だから演技を……」
冴えない言葉遣いで、ローズマリーは察したようだ。呆れ顔でカツラを手にし、乱暴に乗せられた。
「せっかくのチャンスを――もったいのうございますわ!」
やれやれ、と肩をすくめるしかなかった。
「歌劇場へまた行ってみたんですが、どこにもありませんでした」
「仕方ないな」
「あれ、かなりのお値段ですよ。片方だけのイヤリングなんて、役に立ちません」
「二度と使わないだろうし、もう忘れよう」
「旦那さまって、ほんとに宝石やドレスに興味がないんですね……」
がっかり顔でランバートはネックレスとイヤリングを宝石箱にしまう。
オペラ鑑賞をした夜、町屋敷へ帰宅したら、紛失したことに気がついた。父から贈られた形見だったが、ないものはどうしようもない。諦めるしかなかった。
翌々日、田舎屋敷へ帰ると、クリスマスの支度で使用人たちが忙しそうに働いていた。マリガンにあれやこれやと招待客の予定があるのか、料理はどうするのかとたずねられる。
「母上に任せているはずだが」
「それがまことに申しあげにくいのですが」
マリガンが言うには、ウィルフレッドが屋敷にいない日、従兄のゴードンが訪問してきたという。成人したのにいつまでたってもひとり息子を結婚させようとしない、母親の失態をなじったらしい。それでなくても病気がちでいつ他界するのかわからない。のんびりしている時間はないぞ、と。憔悴した母はヒステリーを起こし、使用人たちに当たり散らす始末だという。
――よく言うな。私が死んだほうがうれしいだろうに。
単なる嫌がらせだ。相変わらずねちねちねちとしつこい野郎である。
母に会うと、これまたお決まりの嘆きが始まった。
「ああ、ウィルフレッド! ひどいと思わない? おまえだって事情があるのに、わたしの不実ばかり責めるの! 淫売の息子だから病弱だなんて言われるのよ!」
「言いたいだけ言わせておきましょう。弱い犬ほどよく吠える、っていうじゃありませんか」
「おまえには犬でも、わたしには狼なの。もう、耐えられない!」
ブルネット――黒髪の母は見た目こそ美しかったが、中味は世間知らずな乙女そのものだった。幼くして死んだ弟もそうだった。自分よりずっと優しかった代わりに、強さがなかった。じっと耐えることも、立ち向かっていくこともできず、親しい者に訴えるだけだ。
「わかりました。私が抗議しておきます」
「ああ、ウィルフレッド。お願い」
母のいる居間を出ると、ため息しか出てこない。
自分が成人したら少しはおとなしくなるかと思っていたが、かえって嫉妬の炎を大きくさせたようだ。病弱なのについに成人したのか、と憎々しい念をたぎらせている。
書斎でどう叔父宛てに抗議しようか悩む。
――そろそろ病弱を卒業しようか。
いい加減、閉じこもる生活に嫌気がさしたのもある。実姉だとさとられないよう、叔父たちとは接触しない理由をつけていたものの、甘い態度をとっていれば大きな顔をして干渉するだろう。
――でもなあ。そうすると結婚問題が…………。
これが一番の悩みどころだった。やはり病弱のままにしておこうか。
うーん、うーん、とペンを片手に考えていると、ランバートが来客を告げた。
「旦那さま、ブランドン・リスター氏がおみえです」
「何っ!」
がたん、と大きな音を立てて椅子から立ちあがらずにいられない。
「今さら何用だ? 会うつもりはない、と伝えろ」
「遠路はるばるお越しになられたのに、あまりにも失礼ですよ。忘れ物を届けに来たとおっしゃってます」
あのときの愛撫を思い出し、かっと頬が熱くなる。
――あいつとは終わったんだ。会ってもどうしようもないだろうに。
しかしそのまま帰すのも気が引けた。ランバートの言うとおり、鉄道に乗ってロンドンからやってきたのだ。彼なりの大切な用事にちがいない。
客間に入ると、チャコールグレー色のフロックコートをまとったブランドン・リスターがいた。顔に生気がなく、すまなさそうにこちらを見る。
人払いをする。ソファに座り、あらためて向き合った。
「ごきげんよう、ミスター・リスター。で、私に何か?」
努めて素っ気なさを装う。
リスターは上着の胸ポケットから、赤く輝く宝石を取り出した。劇場で紛失したもう片方のイヤリングだ。
「これを返しに来たんだ」
「ああ、そう。わざわざごくろう。使用人に託してもよかったんじゃないのかい?」
リスターは首を振った。
「謝罪のために来たんだ。あの夜、どさくさにまぎれて、きみのそれを盗んだ。また会える口実を作るために。でもあとで思ったんだ。僕は卑怯だってね。悪かった」
「あれだけ拒絶されたのに、諦めきれなかった。だから来たと?」
「……」
沈黙がしばらく流れる。
あまりの気まずさに、どう話を終わらせるか悩んでしまう。
「外に出ないか? 冷たい空気でも吸って、頭を冷やそう」
ウィルフレッドの呼びかけにリスターは素直に応じる。
屋敷の庭に出て、バラが植えられた茂みのそばまで歩き、周囲にだれもいないのを確認する。用意していた煙草に火をつけた。
「きみもどう?」
「いや、僕は。きみ、煙草吸うんだ」
「変?」
「いや……」
――令嬢が煙草を!
きっと彼はそう思っているにちがいない。
そのとき茂みが揺れる音がした。だれか来たのかと警戒するが、強い風が吹いただけだった。
わざとらしく煙を吐き出し、話の続きを再開した。
「二度と会わないほうが、お互いのためだ。ただの友人ならともかく、下手をすると一線を超えてしまいかねない。かわいい奥さんを悲しませたくないだろう」
「もちろんそのつもりだ。ただ、どうしても謝りたくて」
「だから何を?」
少し間をおき、リスターは言った。
「……僕の父には愛人がいる。若いときからずっと。母とはもちろん、政略結婚だ。でも母は悲しんでいなかったし、腹違いの妹もいる。それが当たり前だと思っていた。だから、つい、きみにもひどいことをしてしまった」
「ああ、その件か。まあ、価値観はそれぞれだからな。きみがどうしようと、私に関わらなければ自由だよ」
本音では傷ついていたが、弱みを見せたくないあまり、平気なふりをした。
「きみが女性だと確信したとき、気持ちを抑えきれなかった。だからすぐに、スプリング伯爵令嬢と婚約した。両親と対立するのが怖かったんだ。ああ、やっぱり最低だ、僕は…………」
頭を抱えてしまうリスターを見ていると、責める気になれない。
優しすぎていろいろ抱えこんでしまうのだろう。だから、もっともリスクの低い選択肢を彼なりに実行したのだ。
「悪かった、ハートレー――いや、サンドラ嬢」
「もう終わったことだ。気にするな」
情けない姿を見ていると、恋していた自分を遠く感じた。
たしかにリスターは成長した。自分よりずっと大きく。
打算的な部分を持ち合わせているが、それが大人になるということだ。きれいごとばかり言っても、現実は甘くない。そのときそのとき、自分にとって利益があるのかどうか、判断しながら進まなくてはならない。
貿易商会の跡継ぎなのだ。心優しい少年だったといっても、父親の背中を見て育つうち、自然と処世術を学んだのだろう。
リスターへ客人としてお茶をごちそうした。もう夕刻だったから宿泊させてもよかったが、同じ屋敷で一夜を過ごすつもりはなかった。
馬車で鉄道駅へ送るからと、屋敷の門前で待機してもらう。馬車がやってくるまで、ウィルフレッドはリスターといた。
「じゃあ、さようなら」
少しだけ笑みを見せてやると、ようやく彼も破顔した。
「ああ、さようなら。またどこかで会えたらいいな」
「そのときは無視する。覚悟しておけ」
「きみらしいお言葉だ」
馬の足音と車輪の音が聞こえてきた。夕闇のなか、馬車のランプが煌々と光る。
本当に最後のお別れだ。
ぎゅっと胸が締めつけられた、そのとき。
ウィルフレッドはリスターに唇を奪われた。一瞬だった。
彼は背を向けると馬車へ走っていく。ふり返りもせず、馬車の後ろをついてきた従者とともに、すばやく乗りこんだ。
唖然と見送るウィルフレッド。
――リスターの大ばか野郎!
なぜか、涙があふれて止まらなかった。
これで終わりにしたかったのに、彼は令嬢サンドラとのロマンスをあきらめないらしい。
第2話:おわり
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