第1話 ふたりのアレックス…後編
翌朝、アレックスが目を覚ますと、すでに同室の先輩たちはベッドにいなかった。
深夜すぎまで広間の掃除をしていたはずだが、彼らはタフだ。翌日もいつもの時間に起床し、奉公務めをこなす。
――やっぱり、使用人はやめよう。ほかのネタを探すか……。
今日から仕事仲間でない自分を、親切に叩き起こすものはいなかった。
つぎは新聞社の見習い記者にでもなって、あらゆるスキャンダルが舞いこむメモを見ようか。支配人の知り合いに紹介状を書いてもらえば、潜入できるかもしれない。
――でもなあ。すぐ解雇になったと知られたら、新聞社への紹介状を反故されるかも。
使用人生活はいやだったが、今後のことを考えると、我慢して続けたほうが良策のは自分でもわかっていた。少しのあいだでも大きなお屋敷で奉公した経歴があれば、転職先を見つけやすい。
そんなことをぐずぐず考えながら、とりあえず私物をまとめようとベッド下へ腕を伸ばした。
「あれ?」
旅行鞄の感触がない。左右に動かすが、空をつかむだけだ。
どこかへまぎれたのかもしれない。同僚三人のベッド下ものぞきこんだ。自分の鞄はなかった。
「ちっくしょう!」
だれかが盗んだのだ。あれには着替えよりも大事なものが詰まっているというのに。
何がなんでも取りもどさなくては!
ブーツを履き、従僕用の寝室を飛び出す。まっすぐ向かったのは、朝食中の使用人ホールだった。
「おれの鞄を返せ!」
叫ぶように呼びかけ、同僚たちを睨んだ。執事マリガン、家政婦、先輩従僕たち、ハウスメイドたち、御者……。反応はない。
騒ぎになるかと思ったが、彼らはひどく落ち着いていた。
ナプキンで口元を拭ったマリガンが答えた。
「返して欲しければ、サー・ウィルフレッドへお願いすることだな」
「旦那さまが?」
「昨夜、就寝前に俺を呼び、旦那さまはおっしゃった。『従僕アレックスの私物をすべてよこせ』と。だからおまえが寝ているとき、鞄ごとお渡ししたのだ」
「なぜ……」
「そんなこと俺らは知らん。面倒事に巻きこまないでくれ」
マリガンがナイフを動かすと、平然と食事が再開した。
着替えようにも私服まで没収されたアレックス。主人一家の住む階上へ上がると、白い寝間着姿のままサー・ウィルフレッドの寝室へ向かった。使用人たちの食事時間だったため、だれにも遭遇しなかったのが不幸中のさいわいだ。
ノックをし、ドアを開けようとしたが鍵がかかっていた。
「おれです。アレックスです。荷物を返してください」
ドアを叩く。
「お願いです。返してください!」
足音が近づいた。
「おまえだけだろうな?」
「はい」
ゆっくりとドアが開く。引っ張られるようにして、アレックスは寝室へ入った。ふたたびドアが閉められ、サー・ウィルフレッドが施錠する。
「向こうへ行け。出入り口と窓には近づくな」
言われるままソファが置かれたところへ歩いた。
薄紫色のガウンをまとったサー・ウィルフレッド。ナイトデスクの引き出しから、日記帳を取り出した。あるページを開いて読む。
「――十一月七日。夜。准男爵の成人祝いが開かれた。そのパーティのために朝、八時半から銀食器を磨く。銀器は執事室の隣室で保管しており、彼の許可がないとなかへ入ることができない。先輩従僕が言うには、盗まれることがたまにあるそうだ。……飛ばして。――H家の成人したばかりの当主の母親は、女優をしていたらしい。本当は娼婦だったのか。客のひとりが先代准男爵という噂だ。使用人たちはだれもが知っている。新入りの自分に楽しそうに老メイドが話した。女主人の姉たちも下町育ちのようだ。化粧が上流階級の淑女より明らかに濃かった。当主は母親の言いなりらしく、ほとんどしゃべらない。病弱だと聞いたとおり、身体も少年のようで小さい。見るから丈夫そうな叔父や従兄とは大ちがいだ。」
サー・ウィルフレッドは、ぱたん、と日記帳を閉じた。
「きさま、嘘をついたな。やはりゴシップ狙いのネズミ記者か。それとも、私のことを嗅ぎまわる、叔父上のスパイか?」
「ち、ちがいます。おれのために書いたんです。決してスパイなんかじゃありません……」
「日記にしては、観察眼がある」
「……」
アレックスは震えた。拳銃を突きつけられたからだ。言葉がうまく出てこない。
「白状しろ。私の秘密を叔父上に報告するつもりだったのだろう?」
勢いよく首を横にふった。
「ゴシップが欲しければ、きさまの心臓と引き換えだ。天国で好きなだけ暴露するがいい」
「ち、ち、ち、ちがいます……」
「今、正直に答えれば、命だけは助けてやる。死ねば恋人が悲しむはず。その代わり、シドニー叔父上のことを探れ。あいつの弱みを握りたい」
「恋人なんていません……」
「また嘘を。大切な写真なのだろう、色男くん」
サー・ウィルフレッドはガウンのポケットから、一枚の肖像写真を取り出した。ひらひらと顔に近づけ、冷たい笑みを浮かべる。
アレックスは身悶えする。日記以上に見られたくなかったものが目の前にあった。
「なかなかの美少女だな。きさまは金髪が好きなのか。へえ、マリーローズちゃん。『愛しのアレックスへ』なんて、妹とは言わせないぞ。大切な彼女を傷つけたくなかろう」
「だから、恋人なんかじゃ…………」
「観念したまえ」
銃口が額に押し当てられた。
「おれです。その写真、おれです」
「はあ?」
「さ、三年まえ、背が伸びたから引退しました。おれ、売れっ子の女優だったんです。役者が足りなくて、仕方なく女装したら、すごく似合ってて。だから、その――最後の記念撮影です」
「……」
サー・ウィルフレッドが言葉を失う番だった。
「でも俳優になったら、演技下手だし、男らしさがないし、ぜんぜん売れなくなってしまって。端役ばかりで、その……ガキのときの夢だった劇作家になろうかな、と。いろいろネタを集めているんです」
「……」
「……」
凍りついたような沈黙が流れた。
たがいの顔を見つめ、どう反応すべきか悩む。
ああ、恥ずかしさで死にそうだ……。
よりによって『愛しのアレックス』バージョンを見られてしまうとは!
あのサインがあれば、写真の人物が本人だとだれも思わない。それが裏目に出てしまった。
拳銃を下ろし、サー・ウィルフレッドが真顔で言った。
「見かけによらずナルシストなのだな。おのれの写真に愛など書くやつの気がしれない」
気が抜けたアレックスは撃沈するように倒れるが、サー・ウィルフレッドが受け止めた。
「しっかりしろ。誤解した私が悪かった」
――やわらかい……。
昨夜と同じ感触がアレックスの頬を包んだ。おそらくガウンの下は何も身に着けていないのだろう。
「顔が赤いぞ。熱があるのか」
本人は自覚がないのだろうが、異性を惑わせるには充分に豊かな胸だった。
「その墓に眠っているのが、私の弟だ。本来の准男爵さ」
翌日の午後、アレックスはフロックコート姿のサー・ウィルフレッドとともに領内を歩いていた。従者として散歩のお伴をするのだが、ほとんど案内といってよいほどだった。
ハートレー家の墓地は、丘をひとつ越えた小さな教会の裏にあった。かつて貴族の荘園だったという領地は、富を成した先祖が買ったという。ジョージ二世統治時代の当主が王家に仕え、爵位が授与された。金で爵位を買った家とはちがい、格式と伝統があった。
サー・ウィルフレッドはステッキの先で、墓に刻まれた名前を示す。
「『アレクサンドラ・ハートレー』。かつて私はそう呼ばれた。弟は私を『アレックス』と呼んだ。今でもその名を耳にすると、やるせない」
――一八五七生。一八六九年没。
わずか十二歳でアレクサンドラは死んだことになる。
「弟は生まれつき身体が小さく弱かった。ふたつ違いの弟が肺炎で死んだとき、悲しみよりも恐ろしさのほうが勝った。父上が亡くなり、その一年後、准男爵を継いだ弟まで。後妻の賤しい母は、叔父上たちからひどく嫌われている。あとは想像がつくだろう」
レディ・ハートレーがパーティでのけものにされた光景が目に浮かぶ。
相続権がない娘には用がない。母娘ともども無一文で追い出されると、死活問題だ。財産のない女が生きていくには、結婚か娼婦しかない。
「……もちろん、手は打った。当時、屋敷で働いていた使用人はすべて解雇し、親戚との交流もしばらく断った。喪に服すという建前でな。だからマリガンたちは私の秘密を知らない」
「マリガンさんには、打ち明けてもだいじょうぶじゃないでしょうか。とても忠実で真面目ですし」
サー・ウィルフレッドは人さし指をおのれの唇にあてる。
「だめだ。なんのことはない世間話から発覚する可能性がある。おまえは偶然、私の秘密を知った。だから従者として雇った」
「慎重にすごされていたんですね。……はあ、おれ、できるかな?」
「やってもらわなければ困る。もし私が姉だと知れたら、すべてを失ってしまう」
「はい」
「弟がもう永くないと覚悟した日、私は母上と画策した。私と弟の顔を知る者すべて、屋敷から追い出した。理由なんてなんでもいい。弟が命じたことにすれば、使用人は従うしかないからな。葬儀もそうだ。生きている弟が命じたことにして、私の葬儀に牧師を呼ばなかった。村にいた旅芸人を雇って、彼らに墓穴を掘らせた。眠っているのは私の白いドレスを着た、小さなウィルフレッドだよ。当主はともかく、姉の葬儀なんて簡素だろうが不思議に思われない。私と弟の写真だってすべて捨てたし、疑う者はいないはず」
くるりと墓に背を向けたサー・ウィルフレッドは、ゆっくりと歩き出す。そのあとをアレックスはついていく。
「叔父上たちとも顔をあわせないよう、ずっと距離を置いていた。病気を理由にして。だが、成人したからには、やつらの好きにさせない」
そう言ってふり返り、笑みを浮かべるのだが、温かいものではなかった。
「お気の毒です」
「気の毒?」
「ご母堂のために、ドレスを着られない人生を歩まれるなんて」
鼻で笑われる。
「あはは。それこそ私の人生には要らない。解放されたとき、自由を得て清々しいほどだった」
「ええ? ドレス、いいじゃないですか。あれを着たらぱあっと変わるんですよ!」
アレックスは拳を握り、力説した。
「たしかに窮屈です。ですが、あの不自由さが紳士たちを夢中にさせるのです。大きく広がった裾のなか。決して夫にしか見せない脚線美。ふわりと胸元を包むレース。だれもがお姫さまになれる魔法の服。夢がいっぱい詰まっているのにもったいない!」
サー・ウィルフレッドは呆れた顔をした。
「本当に女優をしていたのか。信じられん」
「おれだって、旦那さまに胸があるのが、まだ信じられません」
「……」
「……」
どちらからともなく、失笑した。
「愉快だな。お互い秘密を抱えた者同士、仲良くしようじゃないか、アレックス・ランバート」
「はい。お世話になります、サー・ウィルフレッド」
「事情が事情だから、従者を雇えなかったんだ。これで念願の旅行ができる」
サー・ウィルフレッドが手を差し出した。アレックスと握手する。
――これでたくさんのネタを収集できる!
思いがけず従者になれて、無邪気に喜ぶのだったが、使用人たちが快く思っていないのをアレックスは悟ることになる。
屋敷にもどり、階下で昼食をとろうとしたら何もなかった。皿が片付けられ、使用人ホールには難しい顔をした執事マリガンがいた。
「言ったはずだろう。遅刻は厳守だと」
「すみません。旦那さまの散歩にお付き合いしていたら、時間がかかってしまいました」
「だからパンをくれと?」
「さぼっていたんじゃありません。従者だから仕方ないじゃないですか」
「旦那さまにうまく言いわけして遅刻しないのも、従者の務めだぞ。なぜ俺らが新入りのおまえごときに気を使う必要がある」
アレックスは言葉を飲みこんだ。それだけマリガンは機嫌が悪かった。何をどう言っても厳しい言葉しか返ってこないだろう。黙って使用人ホールを去る。
――腹減ったな……。
主人たちとちがい、使用人の食事は質素で少ない。朝だって薄いトースト一枚とバターだけだった。昼食がないと力が出てこない。
ふと、厨房ならまだ何か残っているかもしれないと思い、マリガンに見つからないよう足を踏みいれた。残念ながらパン一枚どころか、リンゴのひとかけらすらなかった。キッチンメイドにお願いしようにも、彼女たちは休憩で屋根裏部屋にいた。
「まるでドブネズミだね、あんた」
声をかけたのは、老メイドのソーニャだった。
あとで知ったのだが、若いころはハウスメイドとして接客もこなしていた美人だった。農夫と結婚して引退したものの、十年まえに夫を亡くしてからふたたびメイド生活にもどったという。だが、とうに容姿は衰え、下働きのバイトとして通っていた。
住み込みの使用人たちと距離があるため、孤立しがちなソーニャは何かあれば、アレックスに声をかけていた。
「食うものがないんだよ。遅刻したから」
「そりゃ、意地悪さ。嫉妬されてるんだよ」
「嫉妬? おれに?」
意外な答えに、アレックスは戸惑う。そんな彼をソーニャーは引っ張るようにして、流し場の隅へ連れて行った。
「ほら、お食べ」
皿にビスケット五枚とコップ一杯の牛乳があった。礼もそこそこにその場でしゃがみ、隠れるようにして喉に流す。悪いことをしていないのに、まるでお菓子泥棒の気分だ。
「こういうときのための非常食さ。昔、こう見えてもあたしはきれいだったからね。主人に気にいられて、新人なのに接客係になったんだよ。階下の世界は陰険だから、ひどい嫌がらせがあった」
「おれもそうだと?」
「とくにマリガンさんが嫉妬してるのさ。上司があれだから、部下の連中も同じ態度を取ってるだろ」
「たしかに……」
従者になった日から、先輩従僕たちから無視されている。メイドたちだって、必要最小限の会話以外、してこようとしない。
「旦那さまはね、どうしようもないほどの人嫌いだ。触れられるのをひどく拒絶するほどなんだってね。だから今まで従者をつけようとされなかったし、お着替えすら手伝わそうとされない。お部屋にいつも鍵がかかっている。マリガンさんもほとほと困ってたんだよ、主人なのにお世話できないって。なのに、あんたはここへ来てたった十日で、旦那さまのお気に入りだ。嫉妬しないほうがむずかしいってもんだよ」
「だってそれは――」
アレックスは言いかけて、はっとした。冷や汗が背中を濡らす。
――旦那さまはお嬢さまだからなんだよ!
王さまの耳はロバの耳。穴があったら叫びたい。
「それは何だい?」
ソーニャは瞳を輝かせる。皺が刻まれた顔が少し若返ったようだった。
――教えて、教えて、教えて。極上のゴシップをあたしは知りたい!
そんな彼女の懇願が聞こえてきそうだ。
「ええと……。シドニーさまが干渉しそうだから、使用人を近づけないんだって言っていた。噂話がいつどこで漏れるかわからないからさ」
「大奥さまのせいだよ。シドニーさまを敵にしたくて、あれやこれや旦那さまに吹きこんだんだ。それで他人を信じられないんだねえ。おかわいそうに」
「おれもそう思う」
本心はべつだったが、形だけ同意しておいた。
その夜、アレックスは夢を見た。
いつものようにきれいに着飾り、舞台のうえで微笑み、記憶どおりに台本のセリフを語る。それだけでよかった。
毎日同じことの繰り返しだったが、飽きなかった。いつもたくさんの観客たちが声援を送ったからだ。舞台が終わり、楽屋にもどると花園のように花束が置かれ、大好物のチョコレート菓子が並ぶ。カラフルな包装紙とかわいいリボンでラッピングされた高級店のものばかりだ。
包みをひとつ開け、甘い香りのする粒を口に入れる。
――ああ、なんてたやすい仕事なんだろう。
始めは嫌でたまらなかったが、自分に向けられる好意と賞賛が心地よかった。劇団の連中も自分を大切に扱ってくれ、雑用はなかった。おとぎの国に住むお姫さまのようだ。
楽屋のドアが開いた。
「マリーローズちゃん。僕と結婚してくれないか」
造船工場の御曹司だ。M氏は半年前から楽屋に熱心に贈り物をし、愛のメッセージカードを添えていた。若いのに髪の毛が薄く、背が低い紳士だがとても優しくて誠実だ。なにより大きいのは、M氏の妻になれば、お金持ちになれる。
「はい、よろこんで」
と、口にしたとたん、身体中の関節が痛んだ。みしみしと聞こえない音をたてながら。十五歳のアレックスは非情な現実を呪った。
――背が、背が……!
小柄だった背丈が、たった三ヶ月で一端の青年へ成長を遂げた。そして肉体だけでなく、周囲も大きく変化した。
M氏は悲鳴をあげて逃げ去り、劇団員たちは嘲笑した。
「この役立たずめ。さっさと掃除しろ」
劇場の支配人が怖い顔をしてモップとバケツを突き出す。
「また舞台に立ちたいんです」
「だめだ。演技が下手、歌もダメ、見た目は貧相でブロマイドにもなりゃしない。それでも置いてやってるのはな、今まで稼いでくれたからだよ。悪いことは言わん。ボーイにでも転職したほうがおまえのためだ」
「そんな………………」
アレックスはようやく理解した。
「全部、おれの実力かと思っていたのに。見た目が可愛かったから、人気があったなんて……」
売れっ子女優として愛らしい演技をしていたつもりが、ただの人形にすぎなかった。ごまかしが効かなくなれば、支配人の言うとおりただの役立たずだ。
――どうして女に生まれなかったんだろう!
本物の女優だったら今ごろはM氏の妻となって、優雅なブルジョワ生活を送っていたはず。劇団仲間の先輩女優たちだって、ほとんどそれなりの男と結婚して引退した。そんな彼女たちがうらやましかった。
目が覚めるが、まだ未練がましい自分がいる。
あれから三年たったというのに、夢のような日々を忘れることができなかった。
朝、主人のために目覚めの茶を運んだ。決められたとおりまず四度ノックをし、アレックスだけに渡された合鍵を使ってなかへ入る。
「おはようございます」
返事はなかった。まだ眠っているようだ。
そっと茶盆と新聞をナイトテーブルに置いた。ベッドから小さな寝言が聞こえる。
「う、ん……」
「おはようございます、旦那さま」
「……」
寝ぼけ眼のまま、サー・ウィルフレッドがゆっくりと身体を起こす。が、その姿に衝撃が走った。
「何か着てくださいっ!」
目のやり場に困り、背を向け、ぎゅっと瞳を閉じた。脳裏に浮かぶのはなめらかな白い肌と、丸い乳房――。
「……朝か」
「そうです。だからガウンを……」
「おまえが来るのを忘れていた」
しゅるしゅるとシルクの布地が滑る音がした。
「もういいぞ。こちらを向け」
自分の裸を見られたというのに、相手はまったく動揺していなかった。薄紫のガウン姿で、優雅に茶を口に運びながら、主人は言った。
「慣れろ、ランバート。いちいち顔を赤くしていては、仕事にならんぞ」
反射的に両手を頬にやる。
「恥ずかしいです、おれ」
「女優をしていたのだろう。女の裸ぐらい何度も見ているんじゃないのか?」
「さすがにシュミーズぐらいは着てましたよ……」
「そうか。中味は少年のままだったのか」
「それに、うらやましくなるからです」
「なぜ?」
「おれはずっと女優でいたかったんです」
「だからなぜ?」
「なぜって、それは、ブルジョワ紳士と結婚したかったんです。乙女ならだれもが憧れる夢じゃないですか」
「……」
数秒だけ間があった。
こらえきれないように、サー・ウィルフレッドは笑った。苦しそうに腹を抱えるほどだ。
「ひー、ひー、おかしーなー、きみはっ! そうか、結婚したかったのかっ! まさしく夢見る乙女だっ!」
言うんじゃなかった、と後悔したアレックスは恥辱の海に沈みながら、背を向けて退室しようとした。
「まあ、待てランバート。きみは大いに誤解しているようだ」
ぐっと残りの茶を飲み干し、主人は言葉を続けた。
「いいか、きみが結婚に憧れたのは乙女心からではない。女の人生を楽勝だと思っている、ただの世間知らずだ。そもそも、相手の男におのれの人生を委ねるなど、本音は不安でたまらない。それでも彼女らが結婚するのは、ほかに選択肢がないからだよ。そのブルジョワ紳士どのだって、財力があるから若くて美しい女を選んだ。だけど容姿は衰える。十年後も変わらず愛されている自信はあるかい?」
「そんなこと、考えていたら結婚なんてできないじゃないですか」
「そう。だから深く考えず、流されるまま生きるほうがある意味幸せだ。でも私はあらがった」
サー・ウィルフレッドはベッドから出ると、着替えをよこすよう言った。
「クローゼットへ行って、午前用の服を用意しろ。昨日、教えたことは覚えているだろう」
思い出しながら、モーニングコートとそれに合ったシャツとズボン、ベストもろもろをクローゼットから取り出す。それらを主人に着せる前、リネンの帯で胸をきつく巻いた。
――もったいないなあ。
ドレスを着せたらとてもシルエットが美しいだろうに。替われるものなら代わりたい。女優にもどってみんなからかわいがられたい。世間知らずだろうが、あの快感を味わってしまうと、今の自分がひどくみじめな生き物に感じる。
若い女性の身体が、味気ないスーツに包まれ、青いネクタイで胸元を飾るのが残念だった。
そんなアレックスの思いを知ってか知らずか、サー・ウィルフレッドは親指を立て、「合格」のサインを出す。劇団にいた当時、着付けは毎日のことだったから、造作なかった。
「演技の前にまずは形からだ。私はハートレー家の准男爵。きみはその私の従者。どこにでもいる主従の仲だ。顔を赤らめたりしては不自然だぞ。そして表情は使用人らしく堅くしろ」
「はい」
「そうそう。私の命令には必ず返事をしろ。『かしこまりました、旦那さま』だ」
「かしこまりました、旦那さま」
ぎゅっと抱きしめられる。
――胸が……ない。
「よし、よし、完璧。欲しかったんだよな、従者。来週、競馬にでも行こう!」
ほっとするものの、あの柔らかい感触がないのが寂しくもあった。
満面の笑顔のサー・ウィルフレッドだったが、一歩、寝室を出ると表情を消した。病弱で口数の少ない当主を演じるためである。
今日は昼食に間に合ったが、明らかに自分だけスープとパンの量が少なかった。従僕たちの半分だ。
――また、いやがらせかよ。
使用人ホールの食卓は会話がないまま進むのがふつうだったが、今日はちがった。ひとつ咳払いをし、執事マリガンが発言した。
「悪いが、うちの台所事情は赤字続きでな。贅沢ものには我慢してもらうことにした」
その贅沢ものが自分、と言いたいらしい。だが、さっぱり身に覚えがないので、言い返した。
「おれのどこがどう、贅沢なのか教えてください。今後の参考にします」
生意気な小僧だ、と言わんばかりにマリガンはにらみつける。
「その服装だ」
「これが? 旦那さまから支給された古着ですよ。おそばでお仕えするのに、従僕用のお仕着せじゃさまにならないからって」
「それは先代が着てらしたお召し物だ。はっきり言うが、おれらの給金ごときでは買える代物なんかじゃない。先代さまはたいそう、服装にこだわられた御方だったそうだからな」
「たしかにそうでしょうが、丈が合うのが先代さまのしかなかったんですよ。それに型が旧すぎて、売っても大した金額になりません」
「先代さまのお召し物だぞ。型が旧いとは失礼な」
「いただいたのだから、おれのものです」
「何をどう言って、旦那さまに甘えたのやら。小狡い小僧そのものだ」
アレックスはにらみ返した。いつもだったら面倒のあまりこちらが折れるのだが、今回ばかりは腹が立って仕方がない。まるで泥棒みたいな扱いを受けたからだ。
緊迫した空気を落ち着かせるように、メイドたちの上司である家政婦バードが言った。
「旦那さまからいただいたのだから、わたしたちが口出しできるものじゃないでしょう。そのお話は終わりにして、早く食べましょう。時間がないわ」
それきりマリガンは話さなかったが、同僚たちの視線が痛いぐらいアレックスに注がれた。
どうせまた使用人連中のかっこうの雑談話のネタになるのだろう。嫉妬した上司と思いがけず出世した部下の関係ほど、緊迫感のあるものはない。次の展開がまちどおしくてたまらないはず。
――そうか。これも脚本のネタだ!
いやがらせで鬱々していたアレックスだったが、天啓のように意識が輝いた。薄暗い階下の世界が、ぱあっと明るくなる。ネタの宝庫だ。劇作家になり面白い劇を上演して、世間から注目されたい。
突然、笑いがこみあげ、止まらなくなる。
――いいぞ、いいぞ。もっとこい!
笑い続けるアレックスがあまりにも不気味だったのか、マリガンは恐れた表情で見守っているだけだった。
あとでソーニャから聞いたのだが、いやがらせがすぎて気が触れたのかと思われたそうだ。
第一話:おわり
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