旦那さまはお嬢さま
早瀬千夏
第1話 ふたりのアレックス…前編
その夜は盛大なパーティーが催された。准男爵であるハートレー家の当主、サー・ウィルフレッドが二十一歳の誕生日を迎えたからだ。
屋敷の広間では、夜会服で着飾った紳士と淑女たちが、グラス片手に記念すべき一日を楽しんでいた。黒い燕尾服姿の男性らとは対照的に、ドレス姿の女性らはみな、華やかだった。
スカートの裾を傘のようにふくらませる骨組みの下着――クリノリンはとうに廃れ、腰にボリュームを出すバッスルが主流になっていた。部屋と部屋のあいだを移動するだけで、人や物に容赦なく接触するあのドレスが下火になってよかった、と昔の社交界を知る者はそう思っただろう。
黄色や桃色、水色の布をまとった令嬢たちに囲まれているのが、今宵の主役だ。
黒い髪が印象的なサー・ウィルフレッドは、「ありがとう」とあいさつをするだけで、ほとんど話をしていない。祝賀が嬉しくないのか、顔に社交の笑みはなかった。
その寡黙さがかえって謎めいた魅力を高めているらしく、三人の少女が若き当主の近くにいた。もし花嫁になれば、准男爵夫人になれるからだ。だが残念なことに、サファイアのように深く青い色の瞳は、どの花をもとらえていなかった。
サー・ウィルフレッドはいまだ結婚どころか、婚約者すらいない。恋のスキャンダルもまったく流れない。病弱のあまり成長が止まり、女性に興味がないのでは、という噂が流れ始めているほどだった。顔立ちだって十代なかばをすぎたぐらいに見えたし、背は男性にしては低く、小柄だ。
そんな甥を神妙な表情で見守っている紳士が、シドニー・ハートレー氏とその息子ゴードンだ。
法廷弁護士をしていたという五十代なかばの氏は、義理の姉であるレディ・ハートレーに一度あいさつを交わしたきり、近づこうとしなかった。ときおり、冷たい視線を送るぐらいである。
今宵の客はハートレー家一族のそうそうたる顔ぶれだ。
相続権が近い順に……シドニー・ハートレー氏と息子一家、先代の従兄一家、亡くなった伯母の息子一家……。その他、昔から交流のあるジェントリ――郷士一家が三組。彼らはハートレー家の遠縁であった。
レディ・ハートレーの親族もいたが、姉ふたりだけだった。ソファで長々としゃべっているのが、その姉たちだ。
二十一歳――それは成人を意味する。後見人の叔父シドニー・ハートレー氏から、本当の自由を得る日でもあった。成人になれば、サー・ウィルフレッドは領地の管理や農場経営を独断で運べる。叔父は干渉することができない。
とくに大奥さまである母親のレディ・ハートレーは、ようやく迎えたひとり息子の成人に、ひどく歓喜している。一週間前、あまりに興奮されたのか、寝間着姿で深夜の庭園を駆けまわった。何度もわが子の名前を口にし、笑いがとまらない大奥さまを捕まえる仕事は最悪だった。
――あの夜は三時間しか眠れなかったんだよな。
広間でグラス片手に歓談している女主人を横目で見た。
今夜は精神が落ち着いているようだ。大奥さまは感情の起伏が激しく、どんな小さな騒動でも嘆いて、ひどいときは泣き崩れる。その代わり、嬉しいことがあれば正気を失ったようにはしゃぎまわる。まるで無邪気な少女のように。
ふりまわされる使用人たちは、大奥さまの面倒をみきれないと、ときおり愚痴をこぼしていた。
「おい、アレックス。なにぼけっと突っ立っている。空のグラスを回収しろ」
「すぐ行きます」
背後から小声で指示された。返事は即座にしたものの、怖くてふり返ることができない。執事マリガンの表情のない顔に、冷たい光を放つ目。想像するだけで背筋が寒くなる。
銀盆片手に早歩きで広間を回る。
グラスを回収したアレックスは広間を出て裏階段を降り、地下の洗い場へ運ぶ。そこはつねに湯をわかしているせいで湿気がこもり、熱気で顔がほてるほどだった。
グラスを流しに置くと、下働きの老メイドがアレックスを見た。興味ありそうな視線を向けながら。
「ねえ、アレックス。おまえは見たの、大奥さまのお姉さまを?」
「見たけど」
「すごい厚化粧らしいねえ。胸元がばーんと開いたドレスでさ。ハウスメイドの連中が言ってたよ」
「たしかにそうだったような。それが?」
老メイドはちらりとまわりを見わたし、小声になる。
「……大奥さまってね、ご結婚される前は端役女優やってたらしいよ。もちろん客もとってたろうね。そのなかのひとりが、先妻を亡くした大旦那さまってわけだ。つまり後妻だよ、ご・さ・い」
そうか、それで姉以外、パーティーに招待されなかったのか。わが准男爵家にはふさわしくない客だと。昨日まで後見人をしていたシドニー・ハートレー氏の判断にちがいない。
「シドニーさまは楽しくなさそうだ。大奥さまが大旦那さまをかどかわさなければ、准男爵になっていい暮らししてだろうしねえ。だってさあ、大旦那さまと先妻とのあいだには、子供ができなかったっていうじゃないか。面白くないよね、そりゃ……」
老メイドはこらえきれないように、失笑した。使用人たちは主人たちのスキャンダルが大好物なのだ。単調でつらい奉公生活の潤いなのだろう。
「じゃ、おれは忙しいから」
「ええ? 興味ないのあんた」
「マリガンさんににらまれたくないんだよ。まだ入って十日目だろ」
「がんばりなよ、新人」
老メイドの気の良い励ましを背に、アレックスは洗い場を出てふたたび裏階段を上がった。
――そういえば、あのおばさんメイド、なんていう名前だったけ? メアリ? アンナ? ジェーン?
屋敷の使用人が多すぎて、いまだに顔と名前が一致しない。
広間へもどると、四人の奏者が演奏するヴァイオリンとチェロの音が優雅に響いていた。最近、流行し始めたワルツという音楽なのだと、同僚の従僕がそっと教えてくれた。お屋敷奉公をする前に何度も聞いた、リズムのあるポルカやカドリールとはちがい、ゆったりとして心地良い――しかし睡眠不足には子守唄に聞こえる音楽だ。
軽食をとりながら紳士淑女が丸テーブルで語らい、カードゲームをするグループがあった。レディ・ハートレーと姉たちだけ、広間の壁際にあるソファでしゃべり続けていた。
あくびをかみころし、焼き菓子が盛られたケーキスタンドをテーブルにのせる。
熟れた苺に真っ白なクリームがたっぷりぬられたケーキが、空腹の虫を鳴らした。マドレーヌとトライフルがさらに誘惑を増す。
――どれもうまそうだな。残らないかな。
使用人の役得のひとつに残り物をいただける、という慣習がある。晩餐会やサロンがあれば、必ずといっていいほど食事と菓子が余る。食べきれないほどのごちそうが、上流階級の生活ぶりを物語っていた。
が、片付けるさい、焼菓子はうまくかすめ取らないと、執事や家政婦のもとへ運ばれてしまう。ふたりの上司の温情があれば、わけてもらえるのだ。使用人の世界は上下関係が絶対だった。
べつの思いがわいてきた。
――せっかくのパーティーなのに、食い物のことしか頭にないじゃないか!
当主の成人祝いなど、なかなか遭遇しない。二度とない可能性が高い。奉公仕事をしながら、上流階級のひとびとの生活を観察するのが真の目的だった。
すべてのテーブルに菓子を配膳し終えると、休む間もなく茶の給仕が待っていた。執事と先輩従僕を真似しながら、客人たちのカップへ紅茶を注いだ。
「今度のキツネ狩り、ぜひ招待くださいませ。楽しいピクニックになりますわ」
「ええ、ぜひ」
「まあ、うれしい! お父さまがお聞きしたらなんておっしゃるでしょう」
「その代わりいつ開催するかは未定です。ご承知ください、ミス・フォーブス」
「サー・ウィルフレッドのご都合のよろしいときでいいですわ。わたし、忙しくありませんから」
「それはどうも……」
アレックスはフォーブス嬢のカップに紅茶を注いだ。つぎにサー・ウィルフレッド。
――ごきげん麗しくないな。
笑顔を見せないハートレー家の主人。今夜はいつにもまして表情が堅かった。暗い瞳がさらに面影を陰鬱にさせる。ふっくらした唇は血の気がなく、気だるそうなため息がかすかに聞こえた――ような気がした。
ほんのわずかに口が動く。二度、三度、言葉なく。
そんな少年のような面差しの准男爵。相手の気持ちを知ってか知らずか、フォーブス嬢はべつの話題をふった。旅行への誘いだった。いつもブライトンの海水浴場で過ごすフォーブス家。新鮮な空気をたくさん吸って、太陽の日差しを浴びれば体調がよくなるにちがいない、と。
夏の旅行である。気が早い。今は十一月だ。
「考えておきます。ただ、可能性は大きくないですよ。あまり遠くへ出歩けませんから」
「かまいませんわ。まだまだ時間がありますもの。うんとおまちしてます」
サー・ウィルフレッドは目を細めた。退屈だと言わんばかりに。
フォーブス嬢がまた話題を変えるが、生返事だけだった。
給仕を終えたアレックスは隣のテーブルへ移動する。茶を注ぎ、空になった皿を下げ、ケーキスタンドへ菓子を補充する。 フォーブス嬢の話を耳にしながら。
――絶対、その気がないはず。
どうやらわが主人はフォーブス嬢を気に入っていないようだ。おしゃべりなところが玉に瑕だが、広間にいるどの令嬢よりも可愛らしい。階級と年齢がサー・ウィルフレッドにふさわしい。
うんざりしているのだろう主人の心情を想像するも、顔色が悪いのがひっかかった。いつも表情がないから断定できないが、かなり体調が良くないのかもしれない。
アレックスは再び隣のテーブルを見た。
さらに唇の色が青くなっていた。
確信したら早い。
いったん、ポットを持って広間へ下がり、洗い場で湯を補充した。しかし半分だけにしておき、あとは瓶に入った冷たい水を足した。
「あんた、ぬるま湯を入れてどうすんのさ?」
「旦那さまがご所望なんだ」
老メイドにそう答えながら、裏階段を上がった。
二階の広間へ足を踏み入れ、給仕のふりをしながら主人のテーブルへ向かった。
背後からそっと声をかける。
「差し湯はいかがですか」
一瞬、目があった。
どう見てもカップに飲みかけの茶が残っているというのに、気が利かなすぎる召使め。
そう思っているにちがいない。
アレックスは阿呆な召使を演じたまま、ポットを持ち上げ、湯を注ぐ。勢いあまって主人の腕へかかる。
「も、申しわけございません!」
すぐさま用意していた白いリネンを広げ、テーブルの中央にあった花瓶の水をかける。それで主人の濡らした腕を巻きながら言った。
「大変です。やけどしてはいけません。すぐに手当をいたします」
やや間があって、サー・ウィルフレッドはうなずいた。
「……そうだな。大変だ」
ほんのわずかだったが、笑みがあったのをアレックスは見逃さなかった。
ふたりは広間を出て行く。
始めは主人の寝室で手当をするつもりだったが、断られた。
「母上と顔を会わせたくない。だれかをやって先回りされたらだめだ。子供部屋にしよう」
今、屋敷には主人一家の子供はいない。だれもいないあそこなら、レディ・ハートレーはやってこないはず。
子供部屋は二階の隅にあった。そのふたつ上は女性使用人たちが寝起きする屋根裏部屋で、育児を担当するナースメイドのいる部屋と長い階段でつながっている。夜中に何かあってもすぐに駆けつけることができるように作られた――と、初日に屋敷を案内されたとき、先輩従僕からそう聞いた。
ドアを開けて学習室を通りぬけ、奥にある狭い寝室へ入った。子供用のベッドは小さかったが、小柄な主人の背丈には足りた。ぎりぎりすぎて、寝返りを打てば頭をぶつけそうだった。
手袋を脱ぎ捨てたサー・ウィルフレッドは、着替えもせずそのままベッドへ転がり目を閉じる。かなり気分が悪かったのか、それきり指示を出そうとしなかった。
――めでたい成人祝いの夜なのに、お気の毒だな。
初めて主人の顔を見た日から、一度も話しかけられたことはなかったが、いつも暗い表情をしていた。必要最低限のことを話している姿しか知らない。同僚である階下の使用人たちが言うには、ウィルフレッド坊ちゃんは生まれつきお身体が丈夫でないらしい。
そっと子供部屋を出て、また広間へ下りたのだが、待っていたのは執事マリガンの怖い顔だった。だれもいない書斎へ連れて行かれ、解雇通告を受ける。
「おまえは旦那さまになんてことを。明日、荷物をまとめて出て行け」
「ええ? あれぬるま湯ですよ。旦那さまはやけどしてません」
「そんなことはわかっている。だがな、大奥さまがご立腹だ。俺にはどうしようもできん」
アレックスは脱力した。足早に客間を去るマリガンの背中を、うなだれて見送るしかなかった。
コネを使ってようやく潜りこめた奉公仕事なのに。
せっかくの貴重なネタが!
後悔しても遅かった。
解雇通告を受けたアレックス。
残りの給仕や後片付けの仕事をする気になれず、階下にある使用人ホールにいた。
「そんなふざけた態度とっていたら、紹介状書いてもらえないよ」
女料理人のミセス――名前はなんだったかが、呆れた口調でいさめる。
「いいよべつに。おれ、奉公人になるつもりないから」
「あんたなに言ってんのさ。どうやってこれから生きていくつもり?」
「つぎは客船のボーイでもしようかな。臭いし、船酔いするから人気ないんだぜ。いつも募集しているだろ」
「のんきな男だね……」
呆れたのか、肩をすくめて女料理人は出て行った。
自分ひとりだけ使用人ホールにいるのをいいことに日記帳へ、今日、見聞きしたことを書き綴った。とくにパーティーのことは、念入りに描写する。上流階級の紳士たちの会話、淑女の会話、その世界からはみ出している後妻の大奥さま。身体の弱い若き当主――。
――たった十日じゃ、材料が足りないな。かといって転職するのも面倒だしな。
ひと通りメモをしたアレックスはため息をついた。
だいたいだ。自分は狭くて厳格な使用人世界になじめそうにない。ネタになりそうになかったら、一日でも早く、ここを出たいぐらいだ。
――ああ、でもこれだけだと……。
やはり紹介状を書いてもらい、べつの屋敷を探して潜りこむか。でも、でも、でも……。
焦げ臭い臭いがした。厨房で料理でも焦がしたのだろう、と思ったがたちまちひどくなる。裏階段を駆け下りる足音が大きくなり、同僚の従僕が大声で知らせた。
「火事だ! 広間のカーテンが燃えた! 水を!」
反射的に立ち上がり、厨房を抜け、洗い場へ駆けた。老メイドを押しのけ、目についた寸胴鍋へ洗い場の湯を入れる。
「何すんのさ!」
「広間が火事だ」
ぎゃっと小さな叫び声をあげた老メイド。これは大変、と桶を持って井戸水を汲みに庭へ飛び出す。洗い場を出ると、入れ替わるように同僚の使用人たちが、必死の形相でやってきた。動転したのか、小さな花瓶を持ったメイドがいる。
アレックスが広間へ入ると、真っ白い煙が充満してよく前が見えなかった。煙を吸ってはいけないと、腰を落とした姿勢で寸胴鍋を抱え、火元へ近づく。
白いシャツ姿の紳士たちが咳きこみながら、燕尾服の上着でカーテンをはたく。
「どいてください!」
そう叫びながら、燃えるカーテンへ水をかけた。炎が小さくなったが、さらに煙が充満した。
耐え切れなくなった紳士がひとり、ふたりと広間を走り去る。
アレックスは息を止め、まだ燃えていないカーテンの下へ走り、窓を開けた。晩秋の風がどっと流れてくる。深呼吸した。
しかし新鮮な空気が炎を復活させてしまった。 熱気が動揺を大きくする。
まぬけすぎる自分を呪いながら、寸胴鍋を持って広間を出る。それぞれバケツや鍋を持った使用人たちが水を次から次へとかけた。
カーテンがほぼ消失し、シャンデリアと天井が煤焦げたものの、被害がその程度で鎮火した。石造がさいわいした。木造邸宅だったら大火災になっていたかもしれない。
なんでもカードゲームで負けた紳士の煙草から引火したのだという。気分転換に葉巻に火をつけ、窓の外を眺めようとカーテンをそっと開いたら、燃え移ったらしい。
はた迷惑な招待客は「失敬、失敬」と苦笑しながら、謝罪して回った。
気力と体力を消耗した部下たちへ、マリガンは無情な指示を出す。
「これで祝賀会はお開きだ。さあ、客人を見送ったあとは片付けに入るぞ」
先輩従僕が不服そうに言った。
「あの真っ黒けのシャンデリア磨きもです?」
「当然。明日の朝までにできるかぎり、元通りにしろ、と大奥さまのご命令だ」
落胆の声が使用人たちからいっせいにもれる。
――朝までって、睡眠時間が……。
やはり今日かぎりで解雇になってよかった。二度と、使用人はしない。
そう誓いながら食器や花瓶を片付け、折りたたみテーブルを移動させる。ふと思い出した。
――そういえば、サー・ウィルフレッドは?
子供部屋は二階。ここは一階。煙は充満して上へ。
テーブルを床に置き、われを忘れて二階へ上がった。先輩が何やら怒鳴っていたが、耳に入らない。頭にあるのは目を閉じた主人のことばかり。
子供部屋は入ろうとドアノブに手をかけるが、押しても開かなかった。出る時は鍵をかけなかったし、そもそも子供部屋には鍵がついてなかった。
助けを呼び、ドアを壊したほうがいいと考えたとき、ナースメイドの部屋とつながっているのを思い出した。裏階段を上がって、屋根裏部屋のある廊下へ出た。さいわいなことに、片付けに忙しいメイドたちは、まだ部屋にもどってなかった。
男子禁制の空間である。上司に無断で入っただけで、解雇になるのだと初日に忠告された。
ナースメイドの部屋は奥にあった。子供部屋の真上なら、突き当りだろうと読んだのがあたった。古い子供服が並ぶ部屋の壁に小さなドアがあり、開くと狭い階段が見えた。
夜目でも真っ暗で見えず、部屋にあったオイルランプに火を灯し、長い階段を降りていった。
ドアを開け、そっと子供部屋の寝室に入る。煙の臭いがしたが、部屋を閉めきっていたからあまり入ってこなかったようだ。
ほっとするものの、本当に無事なのか心配は消えず、失礼を承知で眠っている主人の顔をのぞきこんだ。
「お怪我はございませんか」
「う、うーん……」
返事というより、うなされた声だった。目は閉じたままだ。
確実に目覚めてくれ、と祈りながら頬を軽く叩いてみた。わずかに目が開いた。唇が動く。
「朝?」
「さきほど広間で小火騒ぎがありました。お怪我がないのかと――」
目の前の紳士に違和感があった。黒い上着と白いベストを脱ぎ、ボタンを外した白いシャツ姿。そばには白く長いリネンの帯。ランプの明かりが照らすのは、不自然なふたつの山である。
――まさか?
真実を確かめたいあまり、空いた手で胸のふくらみをつかむ。
――すごく、やわらかい……。
同時に頬がかっと熱くなる。叩かれた。
「きさま、なぜここにいる!」
今まで聞いたことのない、主人の勢いある怒声だった。
「ですから、広間で小火が」
それ以上言葉が出ない。上体を起こしたのは紳士――じゃなく、淑女?
だが女子は当主になれないはず。男子でなければ、実の娘でさえ爵位と財産はいっさい相続できない。昔から延々と続いている決まりごとだ。
「答えろ。なぜ、ここにいる」
サー・ウィルフレッドは獅子のごとき表情で、アレックスをにらんだ。
知られてはいけない秘密を自分は見てしまったのだ。そう悟るしかなかった。
「煙を吸われたのではないかと、心配になって屋根裏部屋から、ここへ通じる階段を使いました」
「嘘ではないだろうな」
「おれ、明日、ここを出るんです。クビになりました。もちろん見たことは忘れます」
「何かしでかしたのか?」
「パーティを中座させたことで、大奥さまのごきげんをそこねたようです」
「そうか。今さら取り繕っても仕方ない、というわけか」
「……」
ひどく気まずくなり、背を向け、黙って子供部屋を出て行く。
はずのアレックスだったが、呼び止められる。
「おまえは私の秘密を知った。ならば、隠す必要はない。手伝え」
「は、はい」
内心、関わりたくなかったが、主人をそれ以上、怒らせたくなかった。
「汚れたものを始末しろ。だれにも見つからないように」
なんだそんなことか。秘密を知られた腹いせに、無理難題を突きつけるのかと思っていた。
だが、始末するものを見たとたん、ぎょっとした。
主人が掛け布団をはがすと、血に染まったシーツと下着が出てきた。ぴったりとした燕尾服のズボンはぐしゃぐしゃに丸められ、シーツのなかへ押しこまれている。まるで汚らわしいものを隠すように。
「お怪我をされたのですか。大変だ」
「まあ、待て。怪我などではない。経血だ」
「……」
「今回は強い腹痛があってな。広間で歓談などしたくなかったのさ」
「は、はあ」
「出血もひどい。ばからしい成人祝いで、気をもんだせいだろう」
「……」
淡々と話す主人。
――おれに言われても困る!
メイドならまだしも、アレックスには実感がわかない。
「というわけだ。着替えを持って来い。部屋着だ。あと清潔なリネンも。まちがえるな――名前は?」
「アレックスです」
「よりによって…………」
盛大なため息をつかれる。
託された汚れ物を隠すように抱え、廊下に出ようとしたらドアの前を教卓が塞いでいた。踵を返し、寝室から屋根裏部屋へもどる。
物置状態のナースメイドの部屋に暖炉があった。破ったシーツの切れ端をオイルランプの火で燃やし、暖炉のなかへくべた。汚れ物が勢いよく燃えるように、オイルランプの油をぶちまける。
わずかな時間、炎が室内を赤く照らした。
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