第12話 旦那さまとウェディングドレス…後編



 田舎屋敷に帰るなり、マリガンがたいそう喜んだ。あまりにも帰ってこないので、歩けないほどの大怪我をしたのではないかと、気が気でなかったという。

「リスター家の別荘が楽しくてね。つい、長居してしまった」

 そう言いわけをしたあとは、書斎にこもってたまった手紙をかたっぱしから読んだ。請求書はともかく、社交関係の手紙はすべて欠席や断りの返事を書いた。社交界に顔を出すな、というウォリック卿の警告がそうさせた。

 それが終わるとどっと疲れが出て、ベッドで眠る。

 翌日の午後、さっそくブランドン・リスターからの手紙が届いた。予想していたとおり、狩猟の夜の件の謝罪と、ソートン氏との婚約を考え直して欲しいという懇願だった。

「なにが、突然のことで、先生は動転しただけだよ。明らかに不審者を見る目つきだったじゃないか……」

 そう独り言をつき、『ソートン氏とは終わったし、しばらくきみとはやりとりしたくない』と、メモのような返信をしておいた。

 さすがのリスターも、あきらめたのだろう。それから手紙は来なかった。

 そして、ウィルフレッドにもどった自分も、これからどうしていいかわからず、成人前のように、屋敷に閉じこもったまま、憂鬱な日々をすごす。

 未成年だった自分は、大人になれば自由を得て楽しい生活がまっているはず、と信じながらすごしていた。希望があったから、孤独に耐えられた。しかし、現実は何も変わらなかった。偽物の当主としての立場をのぞけば、何ひとつ持っていない。それすら、いつ奪われるのか、不安でたまらない。

 静かに目立たぬよう、息を潜めるようにして、ウィルフレッドは屋敷に閉じこもるしかなかった。

 そんな晩秋のある日、書斎の整理をしていたら、青いガラス玉で作った首飾りが出てきた。使いみちがないあまり、引き出しの奥で眠らせていたものだ。

 もうひとつ出てきたのは、精巧な蔦模様の細工がほどこされた、銀のシガレットケース――。

 見たくないあまり、シガレット・ケースは即座に捨てることにしたが、高価なものだ。従僕ハンクを呼び、「いつもごくろう」と言って、いまいましい小物を投げ渡す。

「これ、いただいていいんですか?」

「ああ。売るなり自慢するなり、好きにしろ」

「ありがとうございます! 実家で自慢します!」

 素朴な庶民らしい感謝に、つい笑みがこぼれる。

「旦那さま。笑われたの久しぶりですね。マリガンさんが心配してますよ。いつも悲しそうなお顔をされているって」

「そう……」

「よろしければ、新しい従者を雇いましょうかって、話も出てますが」

「だめだ。予算がない」

「そうですか」

 ハンクが退室する。

 ウィルフレッドはおもちゃのような首飾りを手に取り、海水浴をした日を思い出した。やわらかい陽の光にガラスが輝き、執務机に反射する。澄んだ青色は、まるでブライトンで見た海のようだった。

「あいつ言ったよな。ずっと従者でいてもいいって……」

 本当はうれしかった。

 ずっといて欲しかった。

 でも、それは自分のわがままだと知っていたから、厳しく叱責した。自分の秘密のために、未来ある彼を縛りつけたくなかった。

「ランバートのバカ。私に楽しい思い出ばかり残しやがって……」

 あいつを従者にするんじゃなかった。性別を知られたとき、ただのつまらない男だったらよかったのに。さんざん脅し、屋敷から追い出して終わったはず。

「なんで女優なんかしてたんだよ。面白すぎて、つい、そばに置いてしまったじゃないか」

 ランバートが去って一年近くたつのに、ウィルフレッドはつい昨日のことのように思えてたまらない。朝、目が覚めると、彼が新聞と茶を運びながら言うのだ。

――おはようございます、旦那さま。

 そんな幻聴を毎朝、聞いた。



 青いガラス玉の首飾りが出てきた三日後、シドニー叔父の訃報が届いた。黒枠の不幸を報せる封書が、予想していたとはいえ、一気にハートレー家の屋敷をざわつかせる。

 執事マリガンを筆頭に、葬儀に参列する支度が始まった。

 ウィルフレッドは本家の当主として埋葬に参列し、あの従兄ゴードンが泣きくずれるのを、不思議な気持ちで見つめる。

――最低なくそ野郎でも、悲しいのか……。

 寂しくはあったが、叔父親子とは良い関係だったといえず、悲しみはわいてこない。そして思った。

――もし、私が死んだら、だれが悲しむのだろう?

 死んでしまえば秘密を隠しとおすことは無理だ。悲しむどころか、大騒ぎにちがいない。ハートレー家の名誉を汚した自分は、墓に入ることすら許されないかもしれない。

 そんなことを考えながら、シドニー叔父の棺が墓に埋められるのを、ぼんやりと見守った。

 葬儀が終わり、屋敷に帰った翌日、散歩をしていたウィルフレッドの足は自然と、一家の墓地へ向かっていた。

 小さなウィルフレッド――幼くして亡くなった弟が入っている、自分の名が刻まれた墓前に立つ。そっと話しかけた。

「ごめん、ウィルフレッド。私、疲れてしまったのかもしれない。秘密を守るのもだけど、サンドラになるのも。正気じゃない、母さまの面倒も看なきゃいけないし。どうすればいいの……」

 弟の魂は答えない。

 無言のまま、墓を見つめることしかできなかった。

 どれぐらいたったのだろう。マリガンが自分を呼ぶ声で、われに返る。

「……旦那さま。こちらにいらっしゃいましたか。そろそろお帰りください。お風邪を召されますよ」

 あまり心配させてはならないと、無理に笑顔を作ってやる。

「ああ。叔父上の葬儀で疲れたのかもしれない」

「温かい茶を用意してますから、さあ」

 最近、マリガンが常に自分を見守っているのを感じていた。屋敷に閉じこもる自分を案じるその姿は、まるで父親のようだ。



 十二月初旬のある日。

 ウィルフレッドは青いガラス玉の首飾りを手にした。シドニー叔父が亡くなってから、なんとなく始めた就寝前の習慣だった。

「あいつ、どうしているかな」

 師匠であるレナード・モンティーニ氏のもとでタイプライターを打ち、作家仲間たちと社交をし、ときには海外旅行をしているだろう、ランバートの姿を思い浮かべる。

「まったく。早く新作を公開しろよな。ずっと待ちぼうけな私の気持ちを考えろよ」

 今、ウィルフレッドのたったひとつの楽しみが、友人が書いた脚本の劇を観ることだった。一年やそこらではむずかしいのだろうか。

 眠くなってきて、目を閉じた直後、寝室のドアがノックされた。

「旦那さま。まだ起きてらっしゃいますか?」

 上体を起こし、返事をする。

「どうした、マリガン。何かあったのか?」

「お客さまです」

「こんな時間に? ずいぶんと非常識な客だな。出直してこい、と伝えておけ」

「いえ、わたくしがお呼びしたものですから、追い返すわけにはまいりません。会ってくださいますよね、アレックス・ランバートに」

「え――?」

 予想だにしなかった登場人物に、ウィルフレッドはしばし固まる。

「会ってやってください、旦那さま。旅先のイタリアから駆けつけてきたそうですよ」

「ああ、ああ、もちろん!」

 うれしさのあまり、ベッドを飛び出すが、今、自分は寝巻き姿だった。あわててガウンを羽織ると、寝室の施錠を外す。ドアを開けたら、とびっきりの笑みを浮かべたランバートがいた。

「お久しぶりです、旦那さま!」

「どうして、きみ?」

「どうしてって、マリガンさんが手紙に書いてたんですよ。ずいぶん、寂しそうにされているから、一度、会って欲しいと。お元気そうでよかった」

「元気なものか。おまえが全部、私の元気を持って行ったくせに」

「旦那さま……」

「バカ、ランバートの大バカ……」

 ぎゅっと抱きしめられる。涙が止まらなかった。

「では、わたくしめはさきにお休みいたします」

 真顔のまま、マリガンが寝室を去る。彼なりに気をきかせたにちがいない。



 一年ぶりに再会したランバートは、すっかり大人の男になっていた。少年めいた愛らしい笑みは、さわやかな青年のそれに変わり、身体つきがたくましい。使用人をしていたころのように痩せておらず、顔色も良かった。

 レナード・モンティーニ氏はかなり豪快な人物で、妻がいるのに三人もの愛人を抱えていた。氏の秘書をしているランバートは、旅行直前、愛人同士がかち合った場面に遭遇してしまい、逃げ出した師匠の代わりになじられたという。

「何がなんだかわからないまま、謝罪しましたよ。そのあと、愛人のパトロンだった老紳士までやってきて、ステッキで殴られてしまいました。僕が寝とったと誤解されたんです」

「殴られっぱなしだったのかい?」

「弱っちいですからね。下手に反撃して、揉めるのもいやですし」

「あいかわらずだなー、きみのヘタレっぷりは……」

「これでも、あちらこちら旅をしたおかげで、体力ついたんですよ。先生、かなりの大食漢ですし、つられて食べては動いてばかりですから。夏はアルプスで登山までしました」

「太るまえに節制しろよ。燕尾服が着られないと、社交ができなくなるものな」

「ええ」

「そのようすだと、多忙そうだな。執筆する時間はあるのかい?」

「週に二度ほど、自由な日を与えられています」

「師匠だからといって、はいはいばかり言ってはだめだぞ。ただの太った中年になったら、悲しいだろうに」

「旦那さまもあいかわらずですね。ありがたーいご指導ばかりです」

 ふたりは見つめ合い、昔にもどったようだと言いながら笑った。

 ウィルフレッドはランバートの頬を両手で包んだ。そっとキスをする。

 顔を離したら、頬を真っ赤にした彼が言った。

「その、えっと。友人以上の関係で、いいんですよね……」

「バカ。それ以外の意味があるか?」

 ウィルフレッドは寝間着を脱ぐ。一糸まとわぬ姿になると、ベッドに入り、いっしょに寝るよう、目で合図をする。

 ランバートは一瞬、表情を堅くしたが、小さくうなずくと、服を脱ぎ捨てなかに入ってきた。たがいの温もりが心地よい。

 そのあとはためらってしまった。まだ恋人同士になった実感がなく、ウィルフレッドは奇妙な気持ちになる。急に恥ずかしくなった。

 だから、話をして夜をすごす。

「フィレンツェってどんな街なんだい? 芸術の都と聞いたことがあるけど」

「とても美しい町並みですよ。花のマリア大聖堂のドーム屋根があって、その周囲に石造りの建物があるんです。赤茶色の屋根と白い壁がずっと続いて、ルネサンス時代を旅するようでした。大聖堂の天井の宗教画を、旦那さまにも見せたかったぐらいです」

「へえ、いいな。わが家のごたごたがなければ、従者のきみと旅をする予定だったのに」

 ランバートは微笑む。

「旦那さまがよければ、いっしょに旅をしませんか?」

「いいのか?」

「僕らの仲じゃないですか。モンティーニ氏に、同行の許可をお願いしてみます」

 行きたい、と思うが、断った。

「きみに迷惑をかけるから、遠慮しておく。ふたりきりならともかく、同行者に私の秘密を知られるわけにはいかない」

「海に行ったときみたいに、サンドラ嬢になるとか」

「旅券の問題がね……。私は死んだことになっているし」

「そうですか」

 残念そうなため息をついたランバート。気を取り直すように、ナイトテーブルにあった青いガラス玉に手を伸ばし、見つめる。

「僕があげた首飾り。まだあるなんて」

「ああ、それ。捨てそこねただけだから」

「顔が赤いですよ」

「……」

 こらえきらないように、ランバートは身体を震わせる。

「くうう――! 旦那さまのそういうところが、かわいくてたまらないんだよな! 何度、もだえたか!」

「そうだったのか?」

「ええ、そうです。そのかわいさがわからない、リスター氏を選ばなくてよかった。あいつ卑怯ですから、銃猟ゲームがあった日の夜、無理やり愛人にしようとしたんです。今だから、話せますが」

「知ってる。あいつが自爆したから」

「ええ?」

「きみが去ってから、いろいろあってね」

 ウィルフレッドは聞かせた。孤独に負けて、女人禁制のクラブに入会したこと。それがウォリック卿に発覚し、容赦なく打ちのめされ、社交界への出入りを禁じられたこと。そしてウィルフレッドとして生きることに限界を感じ、リスターを通じて彼の恩師と婚約し、破棄したこと。

「旦那さま――いえ、サンドラさん。それほど心を痛めてらしたなんて。おそばにいたほうがよかったかも」

「だめだよ。生涯、使用人なんてもったいなさすぎる」

 そう言い、優しく頬をなでてやった。

「でも、僕、いやなんです。好きなひとを泣かせるのは。だから、リスター氏もだけど、ウォリック卿も気にいらなかった。僕とちがって、はるか上の世界に住む貴公子だけど――」

 やや間をおき、ランバートは言葉を続ける。

「あいつら自分の都合のいいようにしか、サンドラさんのことを考えていなかったじゃないですか。どうすれば本当に幸せになれるのか、ぜんぜん……」

「ランバート……」

「って、おこがましいですね。ただの従者なのに」

「ただの従者なものか。きみは私の大切な――」

 それ以上、どう言っていいのかわからず、ウィルフレッドはランバートに抱きついた。頭をなでられ、ささやかれる。

「ずっとあなたのことが好きでした。使用人だったからこらえてましたが、もういいですよね」

 ウィルフレッド――いや、サンドラはついにおのれの純潔をささげるときがきたのだと感じた。

「ええ。私を愛してください」

「そして――」

 ランバートは起き上がり、ベッドから出る。床にひざまずいた。

「サンドラさん。僕と結婚してください。今すぐは無理でも、そのうち絶対に作家として名を上げますから。夫婦になれば、堂々と旅行もできます」

「……」

 すぐに承諾できない。ネイサン・ソートン氏の件が脳裏によぎり、まったく女らしくない自分が妻になっても、彼を幸せにできるのか不安になる。

「お約束します。僕を信じてください」

 しばらく沈黙があった。

 求婚を後悔したのだろう。ランバートは頭を垂れ、しゅんとする。

「…………すみません。やはりおこがましいですよね」

「ちがうんだ。本当に私でいいのか? 恋人ならともかく、妻だぞ、妻。作家になったきみこそ、男勝りでズボンを履くような妻がいると、いい笑いものになるんじゃないのか?」

「そんなことですか……」

「そんなこと? 醜聞を甘く見るんじゃない」

「だれかが男勝りな妻だと笑ったら、言ってやりますよ。僕は昔、女優をしていました。お似合いの夫婦でしょう、ってね」

「ランバート、きみ……」

 サンドラはベッドから出て、大好きな彼に飛びついた。

「はい、私でよかったら」

「サンドラさん!」

 激しく口づけを交わす。互いに求め合い、ベッドの上で思い思いに触れる。

 やがて彼の唇がサンドラの乳房を含んだ。優しく吸われ、舐められ、甘い悦びが全身を包む。我慢できなくなって、恋人の指をおのれの敏感な部分へ触れさせた。とめどもなく濡れていく。

「あ――、いや――」

 言葉にならない声が出て、吐息がもれた。

――女に生まれてよかった!

 ブランドン・リスターやネイサン・ソートンといたときにはなかった、幸福感で胸が満たされる。

――ああ、私がずっと欲しかったのは、その言葉だったんだ。

 無理に令嬢らしくしなくてもいい。自分は自分のままでいい。そんな自分を愛してくれるひとがいる。

「ああ、だめだ……」

 いよいよこれから、というとき、ランバートはぐったりと横になってしまう。

「どうした?」

「……腹が減って力が。旅行先のフィレンツェのホテルで、マリガンさんの手紙を受け取ったでしょう。それから不眠不休で、ここまで駆けつけました。サンドラさんのことが心配すぎて、ほとんど食べられなかったんです」

「呆れる。ムードぶち壊しだな。まったく……」

 こらえきれず、爆笑する。

「あははっ! マヌケなランバートらしいな! あのくそ寒いなか、路線をまちがえた旅行を思い出すじゃないか!」

「うう、肝心なときに、すみません……」

「疲れていたんだね。私が何か食べるものを持ってこよう」

「僕が行きます」

「だめだ、だめ。きみはお客さまなんだ。私がマリガンにたのむよ」

「ありがたいです」

 寝間着に袖を通し、ガウンを羽織ると、サンドラはオイルランプを持って階下へ向かった。マリガンのいる執事室をノックしたら、まだ彼は起きていた。すぐにドアが開かれる。

 ランバートの夜食を、と言いかけたら、神妙な顔で彼は言った。

「旦那さま。決して、だれにも言いません。ですが、バード夫人には用心してください。道徳に外れたことをひどくきらいますから」

「あ、そうか……」

 ランバートに手紙を書いたことといい、マリガンは自分の秘密を察知していたようだ。

 そっと執事室のなかに入り、ドアを閉めたサンドラは言った。

「いつから知っていた?」

「旦那さまが長い不在から帰られたころです。新しい従者を雇おうとされませんでしたし、よほどアレックスのことを気にいっているのだと、思ったしだいです」

 やはり、と、ため息をつかずにいられない。

「おまえには大きな秘密を背負わせてしまったな。すまない」

「謝罪される必要はありません。わたくしの義弟――サミー・モーリスを窮地から救ってくださったじゃないですか。妻ともども、生涯、サー・ウィルフレッドへの恩義は忘れません。何があっても、忠実なあなたさまの味方です」

「そうか。助かるよ」

 単なる好奇心で始まったピットマン氏殺害事件の追求だったが、今になって役立った。人生、何がどう動くかわからない。

 が、マリガンのつぎの一声で、サンドラの血の気が引く。

「執事界隈の噂ですが、主人――男性同士で愛し合われるのは、旦那さまだけではありません。だから、あまり気に病まれないでください。そういうこともあるのだと、わたくしは受け止めておりますから」

「あ、それは、どうも…………」

 めまいを覚えながら執事室を出るが、用件を思い出し、告げる。

「ランバートに何か食べるものを。彼、ここに来るまで、ほとんど食事をしなかったらしい」

「かしこまりました」

 頭を下げるマリガンを見ていると、否定したい気持ちでいっぱいになるものの、これでよかったのだとおのれに言い聞かせる。

――女だと知られるよりかはいいか。そのうち手放すとはいえ、家督とか財産の問題でごたごたするだろうし……。

 寝室にもどると、寝息が聞こえた。疲れ果てたのか、空腹のままランバートは眠ってしまったようだ。

 起こしては悪いから、サンドラはだれもいない母の部屋で、一晩の睡眠をとることにした。



 翌朝、寝坊したランバートが丘の上にやってきた。寝室のナイトテーブルに置いたメモ書きを読み、あわてて服を着たらしい。フロックコートから見える青いネクタイが曲がっていた。

「遅いぞ。いつまで寝ている」

 唇をとがらせてやると、残念そうに彼は言った。

「……せっかくの夜だったのに、いつのまにか眠ってしまいました。やっぱり、僕はマヌケ野郎ですね」

「今夜があるだろう」

「いえ、午後までにはお屋敷を出る予定です。モンティーニ氏に無理を言って、サンドラさんに会いに来ました」

「もう? そんな……」

「原稿の締め切りが近いんです。氏の手書き原稿は解読するのが難儀でしてね。慣れるまでは考古学者の気分でしたよ。タイプライターで清書しないと、出版社に渡せないですし……」

「そうか。忙しそうだな。旅行中でも執筆をしてるのか」

「はい。先生はとても精力的な作家で、びっくりすることばかりです。馬車に乗っていたら、突然、ひらめいたとか言い出して、しゃべる内容をメモさせられるんですよ。揺れるから、気分が悪くなるしめまいはするし。なかなかハードな日々です」

「へえ。面白いなあ。刺激的な師匠でよかったな」

「そうですね。最高の経験になりそうです。僕にないものをたくさん持ってらっしゃいますから。サンドラさんのようにね」

「うまいこと言うな、きみ」

 照れくさくなって、足早に丘を下る。そのあとをランバートが続く。

 やってきたのは、ハートレー家の墓地だった。アレクサンドラの名が刻まれた墓石のまえにランバートを立たせ、シルクハットを取ったサンドラは言った。

「さあ、本物のサー・ウィルフレッドにあいさつを。私がきみと結婚したら、この領地はゴードンのものになってしまう。さきのことは不安だが、本来はやつが受け継ぐはずのものだ」

「謝罪ですね。領地を手放すことへの」

「ああ」

 ランバートは墓前にひざまずくと、小さなウィルフレッドに言った。

「あなたさまのお姉さまと、結婚することをお許しください。必ず、幸せにしますから」

 そして立ち上がりふり返った彼と、口づけを交わした。



 午前十一時。屋敷を出発するランバートのために、サンドラは思いつくかぎりのものを手渡した。ほとんどが道中の食べ物で、バスケットにこれでもか、とバード夫人といっしょに詰めこんだ代物だ。

「ええー、こんなに? 重いなあ……」

「文句を言うな。せっかく用意したのに」

「ありがたいですが、旅行かばんもありますし、少し減らしてもかまいませんか」

「仕方がないな」

 玄関ホールで、ランバートはまずワインボトルを取り出した。二本はさすがに多かったようだ。

 つぎに取り出したのは、大量のクッキーが入った紙袋。ためらうことなくそばの椅子に置いたとき、サンドラはあわてて止めた。

「だめだ、だめ。それだけはだめっ!」

「そんなに食べられませんよ。焼き菓子」

 きょとん、とする彼に、咳ばらいをしてやる。意を決して告げた。

「ええー、それはだな。私が焼いたクッキー…………だ」

「サンドラさんが? まさか」

「おいしいって言ってくれたじゃないか」

「そういえば、ピットマン邸の階下で食べた記憶が」

「……」

「……」

 こっ恥ずかしくなって、うつむいた。

 ぎゅっと抱きしめられる。ランバートが噛みしめるように言った。

「たまらないなあ。僕をもだえ死にさせないでくださいよ、旦那さま!」

――ああ、黙っておけばよかった。

 後悔するも、無邪気に喜ぶ相手を見ているうちに、つい微笑んでしまった。



 ある日、待ちにまった一冊の文芸誌がサンドラのもとへ郵送された。以前、ランバートが話していた、新作が掲載された号だ。前作から間があったものの、読んでみるととても面白かった。以前にはなかった豪快な悪漢が登場しており、波乱万丈の中編だった。

 ハートレー家の寝室で縫い物をしながら、サンドラはつぎの新作を心待ちにする。

――モンティーニ氏が、僕に劇の脚本を書くように言ったんだ!

 先月、届いた手紙にそう書かれていた。ついに劇作家としてデビューするのだ。

 そのあと、結婚をする約束を交わしている。

 事情が事情だから、ふたりだけですませる予定だったが、さすがにいつもの男装姿ではまずい。

 サンドラはファッションカタログを参考にし、自分でウェディングドレスを縫うことにした。フリルの少ないシンプルなデザインだ。

――どちらが先に仕上がるか、競争だよ、アレックス。

 手紙にそう書いたのを思い出しながら、針を動かす。

 屋敷を出る準備は整いつつある。ひとりでは大変だからと理由をつけ、マリガン夫妻を領地管理人にした。屋敷の家政だけでなく、農場経営や投資先のあれやこれやを、伝授しているさなかだ。母の療養も彼らに一存する予定だった。

「あとはいつ、マリガンに真実を打ち明けるか、だな……」

 裁縫道具をテーブルに置き、窓を開けた。まだ寒い三月の風が室内に入る。結婚式を挙げる六月が、待ち遠しくてたまらなかった。



旦那さまはお嬢さま ~おわり~

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