第12話 旦那さまとウェディングドレス…中編
半月もすぎると、ようやくベッドから起きあがれるようになった。ひどい打ち身のため、しばらく安静にする必要があったからだ。
朝、リスター家のメイドに起こされると、いつものように新聞と茶を運ばれる。それを読んだあとは、昨日、執事マリガンから届いた手紙の返事を書くのが、最近の日課だった。
ウォリック卿と揉めたあの日から、卿とは会っていない。いや、会うのが怖かった。
あのようすでは、謝罪しても到底、受け入れられそうにない。ブランドン・リスターも卿に会えないでいた。その代わり、卿の従者からメモをあずかったという。
――義弟のきみは表面的な付き合いで許そう。だが、あの女には、決して社交界に顔を出すなと伝えておきたまえ。
仕方がなかった。秘密が秘密なのだから、卿の指示を受け入れるしかない。反抗するると、ハートレー家の当主が女だという事実を暴露される。
やっかいな相手に秘密を握られたことを後悔するサンドラだったが、リスターの妻である妹令嬢のレディ・クレアは何も知らない。朝食後、「庭にきれいな百合が咲いていたわ」と言い、花瓶の花を取り替えた。
「おはよう、サンドラさん。ご気分はどうかしら」
おっとりした笑みのクレアに答える。
「ええ。だいぶ良くなりました。そろそろ、散歩をしたいわ」
「よかった。階段から落ちたって聞いたでしょう。あちらこちらにひどい痣があったし、たまたまブランドンさんと同じ夜会に出ていたから、よかったわ」
「ええ。なんてお礼を言っていいのか」
「お礼なんていいの。だってわたしたち、お友だちなのよ」
サンドラは複雑な思いだった。
兄からは罵倒され殴られ、妹からは心配され看病される。髪と瞳の色は同じだが、あまりにも対照的な兄妹だった。
「そういえば、オスカー兄さまったら、昨日、世界一周の旅に出るって言って、ロンドンを出て行ったの。まずは大西洋を横断して、ニューヨークへ行くみたいね。ああ、わたしも行ってみたいわ。自由の女神を見てみたいの」
「ブランドンさんにお願いすれば、行けるわよ」
「そうね。でも、彼、多忙だからなかなかまとまった休暇が取れなくて。それに、子どもも生まれるから」
そう言いながら、クレアは愛おしそうにふくらみかけたお腹をさする。
順調な夫婦生活に、サンドラはうらやましくなった。以前の自分なら、結婚などしたくなかったはずだが、クレアを見ているうちに考えが変わってしまった。
クレアが客室を出ていく。
とたんに悲しくなった。
――メス豚。
ウォリック卿にそう呼ばれたことが、ずっと心にひっかかる。あれだけ親しくされたのに、性別がわかったとたん、手のひらを返したように態度が変わった。衝撃的だった。
――私は私のままなのに。
しょせん、人は外見しだいなのだ。
ウォリック卿だけでなく、マリガンたちも真実を知ればどう思うのだろう?
容赦なく罵倒され、殴られた恐怖が一気によみがえる。震える身体を両手でさすった。
――ウィルフレッドになりたくない。
あれだけ紳士として生きたいと願っていた自分はいなかった。世間に責められることなく、ひとりの令嬢としてひっそりと暮らしたい。
――もう、あんな恐ろしい思いをするのはいやなんだ……。
リスターが救いにやってきたとき、とてもうれしかった。本物の紳士になりたくて、いつも肩肘を張っていたはずなのに。
ベッドで伏せているあいだ、しみじみ思った。
――紳士に守られるのは、女としてとても幸せなことなんだ。
クレアがうらやましくてたまらなかった。愛され、守られ、家庭を作るその姿に渇望する。紳士の格好をして、自分だけの力で解決する限界を思い知らされた。
それでも、マリガンからの手紙を無視するわけにはいかなかった。当主である自分が不在のため、手紙を通したやりとりで指示を出す必要がある。
ため息をつきながら、ベッドの上で便箋にペンを走らせる。
まずはスイスで療養している母への仕送りだった。あいかわらずわがままなようで、夜会に着ていくドレスが必要だとしきりに、看護婦へ訴えているらしい。しかし社交界は愚か、自由に外出できない。だから、決して要求はのまないように指示をし、代わりにファッションカタログを送ってごまかすことにした。
つぎは農場の牛が乳腺炎で立て続けに死んだため、子牛を買う資金をいくらか提供して欲しいと要望があった。だから二頭分だけ、援助をすることにした。吝嗇なのも問題だが、あまり甘やかしてしまうと、あることないこと理由をつけて要求されるので、ぎりぎりの線を見極める必要がある。
そしてマリガンの休暇願い。しばらく妻と会っていないので、一日でいいから、とあった。
「ずっと任せきりだものな。早く帰ってやらないと……」
そう独り言をついたとたん、震えが走る。ウィルフレッドになりたくないと。
「どうすればいいんだ、私……」
自分がいなくなれば、死期が近いシドニー叔父でなく、あの放埒者ゴードンが当主になってしまう。屋敷の管理だけならまだしも、あいつのことだ、家計が赤字になって領地を切り売りするのが目に見えている。
苦労をかけて悪いが、もうしばらく休暇は先に伸ばすよう、返事を書いて終わった。
呼び鈴の紐を引き、メイドが顔を出すと、リスターを呼ぶよう言づける。すぐに彼はやってきた。
「手紙をマリガン宛てに出して欲しいんだ」
「毎日、ごくろうだね。わが家のように、家令を雇って管理を任せてみればいいのに」
「そうしたくても、資金がなかなか。それに、信用に値する人物か私が判断する必要がある。それが一番、問題なんだよなあ」
世間知らずな自分の悩みだった。
手紙を受け取りながら、リスターは何気ない口調で言った。
「今、留守を任せているマリガンという、執事がすればいいじゃないか」
「え?」
「指示を忠実に守っているのだろう。信用できるから、きみはこうして手紙を書いている。ちがうのかい?」
「そうか。マリガンがいた」
ぱあっと、サンドラの視界が明るくなる。彼を執事から領地管理人に昇格させれば解決する。マリガン夫人と安住し、よほどの事情がないかぎりずっといてくれるはず。
――よし。さっそくその方向で話をまとめてみようか。
「やっと元気になった」
「私、そんなひどい顔をしていた?」
「ああ。怪我の不調だと思っていたけど、いろいろ悩んでいるみたいだ」
「うん。それは」
ここで話すのもなんだからと、サンドラから散歩の付き添いをたのんでみた。まだひとりで出歩くには、体力がもどっていないし不安だ。ちょうどよい口実だった。一時間以内なら、と承諾された。
表の通りへ出ると、周囲には邸宅やフラットマンションが建っていた。そのなかでひときわ大きいのが、リスター家の邸宅だ。まだ田舎に領地を持っていないリスター家は、莫大な貯金の利子で暮らしていた。商会の経営の大半は信頼できる者に任せ、オーナーであるジョゼフ・リスター氏はもっぱら社交に精を出している。念願叶って、爵位を叙せられるまでに、領地を購入する予定であるという。
「しかし、なかなか上流階級は閉鎖的でね。売りだした土地があっても、すぐにほかの買い手に渡ってしまう。ウォリック卿が揶揄しているように、僕の曽祖父は古物商を営んでいた。要するに、ゴミや盗品を集め、買い取り、価値がありそうな物を商品として売っていた。曽祖父の目利きは冴えていた。だから商売がとてもうまくいって、僕の父が少年のころは貿易商として、成金の一族だった。おかげで父は名門寄宿学校へ進学できたのさ。その出自が今でも僕らにまとわりつく」
そう話す彼はいつもの微笑みをくずさない。すでに慣れきっているように、淡々と話す姿がかえって不憫だった。
杖をつきながら、サンドラはゆっくりと歩み、近くの公園に入った。小さな噴水のそばにあるベンチに腰を下ろす。隣にリスターも座った。
「ウォリック卿が僕を嫌うのも無理ないさ。賤しい一族が伯爵令嬢を娶ったんだ。金でなんでも解決する汚いやつ、と思われるのも仕方がない。実際、世界一周旅行の件がそうなのだし……」
しかしサンドラは思い出す。たしか、べつの理由があってリスターを嫌っていたと。
「話は変わるけどさ。きみ、寄宿学校時代に、ある手紙を教師に渡した覚えはないかい?」
「手紙? 僕の?」
「いや、きみと不仲だった同寮生の」
数秒、間があった。
「ああ、あれか。たまたま庭の花壇に落ちているのを見つけたんだ。差出人を見たら関わりたくない上級生だったから、教師経由で返却させた。それが?」
「それ、嘘じゃないよね」
「嘘をついてどうするっていうんだ? そもそも、きみがなぜ、それを知っている?」
サンドラはウォリック卿が言った内容を話して聞かせる。たちまち青ざめ、しばらくすると不愉快そうな表情をして、耳まで真っ赤になった。
「そんな内容の手紙だったなんて、僕は知らなかった! たしかにあいつらは仲が良さそうだったが。とにかく、関わりたくなかっただけだ。不仲といっても、向こうが一方的に、いやがらせをしていたにすぎない。ああ、いつものあれさ。貴族の父親が僕の父に借金をしていて、その仕返しだ」
案の定、リスターは誤解されたにすぎなかった。その手紙のぬしがたまたま、彼に悪意を抱いた人物だったため、黒い噂となって、本人のあずかり知らぬところで駆けめぐったにちがいない。
「じゃあ、教師がこっそり開封して読んだとか?」
「さあ。以前からあいつらの関係を怪しんでいたのかもな。とにかく、僕は何も知らない。それだけはたしかだ」
「そうか。安心したよ。ウォリック卿が旅行から帰ったら、誤解をといたほうがいい。相当、きみを逆恨みしているようだから」
「その逆恨みにきみを巻きこんでしまったようだ。すまない」
「もういいよ。遅かれ早かれ、発覚する運命だったのだし。こうなってしまった以上、ウィルフレッドは消えたほうがいいかな、と思っている」
「まさか、きみ」
リスターにまじまじと見つめられる。喜んでいるのか悲しんでいるのか、サンドラにはわからなかった。
「その、えっと。私も結婚したいな、って。きみとクレアさんを見ていたら、幸せそうで、その……」
急に恥ずかしくなって、顔がほてる。視線を落とし、手持ちぶたさのあまり、手袋をした指と指を突き合った。
その自分の手を、ぐっとリスターに握りしめられる。
「そうか。きみ、ついに決心したのか! もちろん僕は応援する。きみが望むなら、縁談もたくさん持ってきてやる。よかった、よかったっ!」
本人以上に喜んでいる友人を見ていると、困ってしまう。
――うまくいくかどうかわからなのに、あまり張り切られても……。
翌々日、マリガンから来た手紙の返事を書き終えるころ、来客があるとメイドが告げる。その見舞客の名前を聞き、サンドラは乾いた笑いが出そうになる。
――リスターのやつ。さっそくあのソートン先生を呼んだか……。
予想していたとはいえ、あまりにも素早い対応である。
一年ぶりに再会したネイサン・ソートンは変わっていなかった。牧師らしい温和な笑みとともに、花束を手渡される。ピンク色の薔薇だった。
「あの、階段から落下されたそうですね。リスターくんからお聞きしたとき、驚きました。お元気そうでよかった」
「まあ、ありがとう。私、おっちょこちょいですから」
形式的なあいさつがすむと、今年の夏はともに別荘ですごせないことを残念に思う話に始まり、怪我がよくなったら観劇でもしようかと、約束を交わす。あまり気がすすまなかったが、リスターがソートン氏を呼んだ手前、断るのも角が立つ。
一週間後、約束どおりソートンがふたたびリスター邸にやってきた。黒いフロックコート姿の彼が、白い夏の訪問着姿になったサンドラの手をそっと取り、ともに辻馬車に乗る。
「昨年も思いましたが、とてもおきれいです。それでいて、お元気なところが僕の好みなんです」
ストレートな好意にサンドラは顔が赤くなるのがわかった。
「おしとやかにすごせないんですの。リスターご夫妻にご迷惑ばかりおかけして、お恥ずかしいかぎりですわ」
「いえいえ。僕の妻は身体が弱くて、息子を産んだあと亡くなってしまいました。とても家庭的な妻でしたが、やはり元気なのが一番です。息子に母親がいないのも、仕方がないとはいえ、かわいそうですから」
これは求婚なのだろうか?
サンドラの心臓が高鳴る。意識していない相手だったが、素直に気持ちを寄せられるとくすぐったくなる。
――愛されるのが女の幸せ。
クレアを見たとき感じたそれが、脳裏によぎる。
「あの、私、家庭的なことが苦手なの。ピアノも刺繍もおもてなしも。それに、その、今、着ているドレスだって、ブランドンさんのお母さまからお借りしたものですわ。ファッションにもうとくて、ふだんは地味すぎるほど地味で……」
「それを気にしないと、僕が答えたら?」
「ええ?」
「僕の妻として、そばにいるだけで充分です。面倒なことは家政婦に任せてしまえばいいのですよ」
サンドラは答えなかった。
それ以上、話を進めてしまうと、求婚を承諾したことになってしまう。
沈黙がしばし流れ、辻馬車が目的地の劇場前に到着したとき、ほっとした。
開演までにまだ時間があるということで、ソートンがチケットを買ったあと、近くのデパートに入る。ウィンドウショッピングをしてひまをつぶす。
展示された商品を見ながら、たわいのない話をした。そのとき、ふと、紳士服のネクタイが陳列しているのが目に留まる。流行の紫を使った粋な色づかいと、丹念で細やかなダマスク柄に心奪われる。
反射的に近寄り、手にとった。
「これ、いいな」
思わずそんなつぶやきが出てしまう。
「サンドラ嬢。ご兄弟がいらっしゃるのです?」
ソートンの呼びかけにはっとする。
すぐに令嬢の笑みを作り、ごまかした。
「うふふ。従弟によ。今度、おみやげに買って行こうかしら」
「そういえば、サー・ウィルフレッドはご健在ですか。病気がちで、お屋敷から出れないと以前、お聞きしましたが」
「ええ、元気――」
と、言いかけ、やめた。
――そうだ。ウィルフレッドには消えてもらわないと。
「だったらいいわね。最近、不調で、スイスへ療養に行こうかしら、っていう話が出ているの。心配ですわ」
「そうでしたか。ならばお見舞いにおうかがいしたいなあ」
「それはよしたほうがいいわ。彼、とても人見知りだから……」
「ああ、残念です」
ここで会話は終わった。
ウィルフレッドがいなくなるのなら、ランバートにたくさん餞別をやればよかった。
おそらく、もう袖を通すことがないだろう、たくさんの衣服が眠っているクローゼットを思い出す。同時に、従者だった彼の別れぎわの顔が眼前によみがえる。
――今にも泣きそうだったよな。
永遠の別れになるのに、あまりにもつらくてまともに話すことすらできなかった。しっかり抱きしめてやりかったと、後悔した日々が忘れられない。
つぎに向かったのは宝石売り場だった。興味のないサンドラは素通りしようとしたが、ソートンが立ち止まる。
「あの、サンドラ嬢。お好きな宝石はありますか」
「いいえ、べつに」
「あの、その、僕の気持ちであって、その、買わせようとか、ずるいことを思われないご婦人なのは、承知しています。ただ、もしプレゼントする機会があれば、参考にしたいな、とその……」
「本当に興味ないんですの、私。だって、着飾る以外、何の役にもたたないでしょ」
「ええ?」
目をぱちくりさせる彼に、失言したのだと悟った。
「あ、そうね。財産にはなるわね。何かあったときのために、売ることができるもの。それで、私も借金を返したことがあるわ」
「ずいぶんとご苦労されているのですね……」
取りつくろってみるも、かえっておかしな印象を与えてしまったようだ。ソートンが引きつった顔で笑みを浮かべている。
「よろしければ、僕がプレゼントします」
「なぜですの?」
「なぜって、僕の気持ちです」
「亡くなった奥さまにもプレゼントされたのかしら」
「婚約したときに」
「奥さまは喜ばれた?」
「ええ、はい」
「そう。それが普通なのね……」
「サンドラ嬢?」
ソートンの瞳が曇る。
「すみません。決して、妻とあなたを比べているわけでは」
「あら? 私、そういう意味で言ったわけじゃ」
「いいえ、僕が悪かったです。申しわけない」
サンドラは素直な気持ちを言ったつもりだが、ソートンはそうとらえなかったようだ。
開演時間がせまってきたので、劇場へもどる。一階の席に座って、レナード・モンティーニの新作を観た。前作の悲劇とはことなり、現代を舞台にした喜劇である。浮気を隠すために、ある紳士があれやこれやと画策し、恐妻に隠そうとするも、ラストは発覚てしまうというお決まりのオチだ。
面白かったが、明らかにランバートの作風ではなかった。彼が書いたものはどれも、情緒たっぷりで悲哀をふくんだメロドラマ的なものだった。コメディの場面ですら、どこか物哀しい。
初めてランバートの書いた脚本を読んだとき、まさかあれほど上達するとは予想していなかった。もともと素質があったのだろうが、父親が亡くなってしまったことで、教養を身につける機会に恵まれなかった。
タイプライターを贈ったのだって、本気で作家になれると信じたわけでない。女主人である母をふり切ってまで、高熱に倒れた自分を診療所へ運んでくれたお礼だ。
だから才能がある、と判断したとき、できるかぎりの支援をした。自分の秘密を忠実に守り、孤独だった生活を楽しいものに変えてくれた、せいいっぱいのお返しだった。
――あいつ、どうしてるだろう……。
周囲が笑いに包まれるが、気分が晴れなかった。
「サンドラ嬢?」
ソートンの呼びかけで、われに返る。
「ご気分がすぐれないのですか?」
「久しぶりに外出したから、少し疲れてしまったの」
「そうですか。このあといっしょにお食事を、と思ったのですが、帰宅したほうがいいみたいですね」
気を使わせてばかりの彼に悪い気がして、つぎの機会に、と答えた。
「僕はいつでもおまちしてます」
「ええ、近いうちにお会いしましょう」
「はい!」
うれしそうな相手を見ていると、つい微笑んでしまう。
ある日、仕立屋がやってきた。ドレスを注文するためだ。
カタログを見てどの生地とデザインにするか選び――といっても、決めたのはクレアだが――、さっそく採寸した。
それから一週間もしないうちに、仮縫いしたドレスを持って仕立屋が再訪した。
姿鏡の前でサンドラは純白のそれを着、おのれを見つめた。
そこに映っているのは、知らない自分だった。長いベールを被れば、花嫁姿そのものである。
うれしいのかそうでないのか、よくわからないままぼうっと見つめていると、ブランドン・リスターに声をかけられる。
「よく似合っているよ、サンドラ嬢」
「ありがとう」
「きみがソートン先生との結婚を決めてくれて、紹介した僕もうれしいよ。先生はとても優しいから、きみをずっと守ってくださるはず」
「ええ、そう信じてる」
クレアも入ってきて、感嘆する。
「きゃあ、きれい! サンドラさんって、背が高いからシンプルなドレスが映えるわね。ああ、わたしももう一度、結婚式を挙げたいぐらいだわ」
妻の大胆発言に、リスターが失笑した。
「あはは……。どきどきする冗談だね。あまり気軽に言わないでくれよ」
「あら、あなたに言われたくないわよ。だって、夜会のとき令夫人が親しくされようとするじゃない。気が気でないんだから」
少し頬をふくらませる妻に、夫が軽くキスをする。
「これも商売のためだよ。妻と生まれる子どもを守らないといけないだろう」
「わかってるわよ。ちょっと妬いただけ」
と、クレアの視線がサンドラへ向けられる。兄であるウォリック卿に似た、鋭いそれだった。
サンドラの鼓動が早くなる。
――気づかれていた?
そうにちがいない。学友の従姉というだけで、熱心に面倒をみる夫の姿。それを見ているうちに、クレアは察したのだろう。
――早く結婚して、身を固めないと。
結婚そのものにあこがれはなかったが、大切な友人夫妻の仲を壊すことはしたくなかった。
その翌日、内輪の婚約祝いが行われた。
出席者はブランドン・リスター夫妻と両親のジョゼフ・リスター夫妻、そしてネイサン・ソートン氏と義姉親子である。まだ三歳の小さな息子は、子守係のナースと留守番だった。
サンドラの従弟であるサー・ウィルフレッドは、健康がすぐれないため欠席する理由をつけた。いっぽう、執事モーガンには、怪我の療養のため、ブランドン・リスター夫妻が招待した別荘で暮らしている、という旨の手紙をだいぶ前に送っておいた。
その後、誘われた海外の旅先で体調をくずし、そのまま病死させる、という筋書きを作っている。遺言書も作成した。マリガン夫妻を領地管理人にさせ、家計は彼らに任せる。母はその家計で生涯、スイスで療養させて欲しい。
あとはゴードンの自由にさせるつもりだ。当主は彼なのだから、あまりたのみごとをすると、かえって約束を守らない可能性が大きくなる。いくつもやっていられるか、と。
ウォリック卿はまだ世界一周旅行から帰っていない。顔を会わせたくないので、ちょうどよい機会だった。結婚式も内輪で挙げる予定だったから、卿は招待しないつもりだ。
リスター邸の食堂で豪勢な食事をしながら、サンドラとソートンは祝福された。夫になる彼は牧師だから、今後は村のひとびとを見守る生活がまっている。牧師夫人として、采配をふるえるのか不安だった。
「だいじょうぶ。きみなら、やっていける」
パーティが終わり、ふたりだけでそんな話をしていると、リスターがはげましてくれた。
蘭の香りが漂うだれもいない温室のなかで、そっと手を握られる。
「やめて。レディ・クレアは知っているわ」
「そうだろうね。それでも僕は、きみのことが好きなんだ」
悪びれもしない態度が彼らしい。しょせん、政略結婚なのだからと割り切っているのだろう。
「だから、もうそれは――」
口づけされる。サンドラは静かに受け入れた。
――ああ、私、まだ彼のことが好きなんだ……。
女として愛されている実感が心地よかった。彼がいなければ、令嬢として人生をやり直す決心がつかなかった。それだけこの恋は魅力的だったが、悲しくもあった。
どれぐらい唇を重ねていただろう。顔を離したリスターに、愛おしそうに頬をなでられた。
「これでよかったんだ。きみはソートン夫人になるから、これからは気軽に会えない。大切な親友のままだ」
「ええ、ずっと親友でいましょう」
「すっかり令嬢らしくなって、安心したよ。ほら、以前、僕は言ったじゃないか。紳士のきみは不自然だと」
夜会でなじられたあのできごとを思い出し、サンドラは苦笑した。
「そうね。あなたの言うとおりだった……」
そう答えるも、心に何かがひっかかる。
「そういえば、きみの従者がいたじゃないか、あの痩せた金髪の」
「ランバート?」
リスターは苦い顔をし、眉根を寄せる。
「そう、あいつは僕に言った。『おれたちが無理に奪っても、悲しまれるだけです』と。あいつが変な気をきかせなければ、もっと早くきみを令嬢にもどせたのに」
「え? どういうこと?」
「スプリング伯爵家で狩猟をした日の夜、あいつは酒に睡眠薬でも入れたのだろう。僕がきみの部屋へ来るのを見張っていたものだから、話すことすらできなかった」
「ランバートが? あのランバートが睡眠薬を私に?」
「そうさ。つまり、あいつはきみに恋していた。僕ときみが愛人になるのが許せなかったのさ。だから僕たちのじゃまをしたのだろう。まあ、今になって思えば、真面目なソートン先生と結婚できるし、それでよかったのかもしれないが。遠回りしてしまったのは、事実だ」
「……」
「なかなかあいつを解雇しないから、大事なことにならないかと、心配していた」
「大事なこと? 肉体関係を結ぶという意味?」
「それ以外ないだろう」
「彼はそんな不埒な男じゃない。いつも私を一番に守ってくれた!」
大切な友人を侮辱されたように感じ、サンドラは平手打ちをした。ぴしゃり、と衝撃音が温室に響く。
そして、約束を破ったリスターへ怒りを覚える。かつて感じたことがないほどの不快さがこみ上げた。
「きみこそ嘘をついたじゃないか。何が『きみが来るのをまっている』だよ。つまり、夜這いしようとしたんだろう。強引に。それじゃああの、ウォリック卿と同じじゃないか」
リスターは首をかしげる。
「僕がウォリック卿と同じ? まさか」
「私はさんざん、悩んでいたのに……」
そこまで言うと、心の奥底へ眠らせていた感情に一気に火がついた。
「バカ、バカ、バカ、きみなんかきらいだ!」
「サンドラ嬢!」
「女だと思ってずっとバカにしていたんだろう?」
「ちがう」
「ちがうものか!」
「あのときの僕はどうかしていた。今はちがう」
「ついさっきまで、私を認めようとしなかったくせに。サンドラになることが正しくて、ウィルフレッドはまちがいだと言ったじゃないか!」
「悪く考えすぎだ、だからサンドラ嬢――!」
呼び止めるリスターを無視し、温室を飛び出す。客室へ入ると、わっと泣いた。嘘をつかれたことよりも、自分自身を見失い、安易に友人をたよってしまったのが情けなかった。
下心のある男に媚びて窮地をしのぐ。
――それこそ、私が一番、嫌悪していたはずなのに!
令嬢にもどってしまうと、結婚するしか生きる道が残されていない。だからといって、ウィルフレッドになると、秘密におびえながら暮らす生活がえんえんと続く。それだけウォリック卿が恐ろしかった。
だからリスターやソートンといったたよれる紳士にすがり、生きていく道を選んでしまった。弱り切った自分はまるで、結婚前の母と同じだ。美貌で誘惑し、好きでもない裕福な男の伴侶になる。代わりに得るのは、窮屈だが安定した家庭生活……。
それでいいのだろうか。
泣き疲れたあとは、本当に結婚したいのかを自問する。
ウィルフレッドにもどりたくないが、サンドラとして生涯、すごすのも息苦しい。
たしかにソートン氏は優しいものの、彼は令嬢サンドラとしての自分しか知らない。夫婦になるのだから、隠しごとをしたまま生活したくなかった。
「大切な話って何かな?」
翌朝、食事もそこそこに婚約者ソートンを庭園へ呼び出した。令嬢らしい笑みを消し、真面目な顔で告げる。
「あの、あなたに黙っていたことがあるの。それを言わないと、結婚してはいけないような気がして」
サンドラは一度、深呼吸し、遠まわしに話してみる。
「私、かなりのおてんばでしょう? まだまだあるのよ」
ソートンはいつもの温和な笑みを浮かべる。
「なんだい? もしかしてやってみたいスポーツがあるとか」
「スカートじゃ二輪自転車に乗れないでしょう。だからズボンをはいたことがあるの」
「えっ――?」
笑みがこわばる。女性がズボンを履くのは世間的にありえない。裾を風船のようにふくらませたブルマ型ドレスですら、敬遠され、嘲笑される。
「一度だけだよね?」
「いいえ。毎日」
「ええっ!」
すっかり笑みが失せた。開いた口がふさがらないように、氏はぽかんとする。
「ドレスなんて裾がじゃまで動きにくからきらいよ。コルセットは苦しいし。だからあなたの妻になっても、ズボンを履きたいの。もちろん、お屋敷のなかだけでかまわないわ」
「きみ、本気で言ってるの?」
「ええ。本気も本気」
「無理だ。村人の模範になる牧師の妻だぞ。僕はともかく、世間的に示しがつかない。村の笑いものになってごらん。僕ら一家は出歩けなくなる」
「そう。それで?」
「それでって。きみはどうかしている」
うーん、とうなり声を出したソートン。うなずき、笑顔で言った。
「わかった。前妻ときみを比べるから、不安になってしまったんだね。だから僕がどれだけ本気が試してみた。そうだろう?」
「試してなんかいない」
信じてもらえないもどかしさのあまり、思いきってカツラを外した。伸びかけた黒い髪が朝風に揺れる。
さすがにソートンも告白が偽りでないと悟ったのだろう。目を丸くしたまま、一歩、また一歩下がる。彼の無意識にとったその行動が、サンドラの決心を固めた。
「婚約は破棄しましょう。もっとあなたにふさわしいひとがいるはず。残念ながら、私はいい妻になれそうにない」
「……」
「婚約するまえに言えばよかった。ごめんなさい」
背中を向けて庭園を小走りに去る。
ソートンが追いかけることはおろか、呼び止められることすらなかった。
客室にもどったサンドラは書き置きを残し、リスター邸を出た。借りたままのドレスや小物はあとで送り返すことにし、ハートレー家の町屋敷へ行った。
なかに入ると、掃除が行き届いており、寝室のタンスにあった紳士服を取り出す。それに着替え、田舎屋敷へ帰る。久しぶりのシルクハットは、重みがなつかしかった。
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