第12話 旦那さまとウェディングドレス…前編



 投票をすべて開票した支配人が高らかに告げる。

「全員の賛成票を確認しました。わがヘブンズ・クラブへようこそ。このたび、晴れてメンバーとなりました、御仁をあらためて紹介いたします。サー・ウィルフレッド・ハートレー」

 広間にいる二十八人の紳士たちがいっせいに拍手し、新たなクラブの会員――メンバーを迎え入れる。そのなかには推薦人のスプリング伯爵令息であるウォリック卿もいた。

「どうもありがとうございます。今後ともよろしく、みなさま」

 ウィルフレッドはひとりひとりにあいさつし、握手を交わす。そのとき彼らは自己紹介をしたのだが、有名人が数人いた。貴族や、作家、音楽家、画家、政治家といった面々である。一見するとつながりのない彼らだったが、ひとつだけ共通点があった。

――へえ。みんな独身なのか。

 ウィルフレッドはあらためてメンバーを見る。若い貴公子だけでなく、初老の紳士もいた。一度でも婚姻歴があると、ヘブンズ・クラブへの加入はできない。つまり、生涯独身を通している。

――私は結婚できないし、好都合なクラブだな。

 初めは加入を考えていなかったのだが、屋敷ですごす単調な日々に嫌気がさし、以前、誘いのあったウォリック卿へ手紙を書いた。クラブのメンバーになりたい、と。

 すぐに卿は返事をくれ、クラブを見学させ、承諾するとメンバーに根回ししてくれた。約束の日、緊張しながらクラブの邸宅へ足を踏み入れ、来客用の部屋で結果を待っていたのである。

「どう、私が約束したとおりだったろう。すぐにメンバーになれた」

 微笑むウォリック卿。

「これでロンドンですごす楽しみが増えました」

「今夜はきみの加入祝いだ。いっしょにシャンパンを飲もうか」

 誘われるまま食堂へ入る。クラブには専用の従僕たちがおり、料理人もいた。注文すればいつでも好きな食事ができる。新聞も雑誌もあるし、メンバーがいればビリヤードやカードゲームもできる。宿泊も可能だ。まさしく、優雅な紳士らしい生活を体現してくれる空間だった。

 シャンパンと軽食を楽しみながら、ウォリック卿はクラブの決まりごとを話した。

「以前、手紙で書いたとおり、ここでは堅い話は好まれない。とくに政治談義はしないように。のんびりすごすのが主義だ。親しくなったメンバー同士で、語らうのもいいし、ひまつぶしでもいい。気が向いたとき、いつでも快適にすごせる」

「私も政治は苦手だし、スポーツもできないし、ちょうどいいクラブだな、と思ったんです。みなさん、穏やかな方でほっとしました」

「だろうね。きみは争いごとを好まなさそうだから。長い付き合いになりそうだが、よろしく」

「はい。でもウォリック卿」

「なんだい?」

「つまりそれは、ご結婚される意思がないということです?」

 卿は目を細め、肩をすくめる。

「ずっと自由でいたいのでね。私より元気な弟がいるし、何かあっても従弟か甥が跡を継ぐさ。きみこそ、妻帯する意思はないんだね?」

「ええ、まあ。その、事情がありまして」

「知ってるよ」

「え?」

 ウィルフレッドの心臓が止まりそうになる。まさか自分の秘密を?

 でもでも、知っていたら女人禁制のクラブを紹介しないはず。

「言わなくても私にはわかる。だから、今さら告白する必要はないよ」

「そう言ってくださると、助かります……」

 おそらく卿が想像しているのは、ゴードンのやつが言っていたことと同じ内容だろう。真実はべつだったが、そのまま誤解されたほうが、今後のためにもありがたい。

 それから話は社交界での噂話や最近観た演劇の話へ移った。

 ウィルフレッドはアレックス・ランバートのことが気になり、毎日のように新聞の演劇欄を読んだ。まだ当分さきのこととはいえ、ランバートの名が出たら、すぐさまその劇場へ足を運ぶつもりだった。

 二度と会わないと誓ったものの、遠くからそっと見守るぐらいは許されるだろう。

――あいつ、どんな劇にするんだろう?

 空想するだけで、自分の心が温かくなるのがわかった。

 しかし、ウォリック卿にはランバートのことは話さなかった。使用人だった彼を、卿は好いていないからだ。



 クラブで宿泊した翌朝、田舎屋敷へ帰るために邸宅を出ようとしたら、従僕が電報を銀盆でさしだした。受け取り、差出人を見たらブランドン・リスターだった。今日、ひまがあれば、数分でいいから自分と会って欲しいと打ってある。

 田舎屋敷へ手紙でなく、直接クラブへ電報とは、火急の用件だろうか。

 一抹の不安を覚えながら、ウィルフレッドは辻馬車でリスター家に向かう。ロンドン郊外の屋敷に到着すると、顔を出した執事に来訪を告げた。

 すぐに執事がもどり、屋敷のなかへ案内される。応接間でも居間でもなく、私的な空間の寝室だった。部屋着姿のブランドン・リスターが出迎える。

「やあ、急な呼び出しですまなかった」

「いったいなんの話? しかも寝室……」

「周囲に聞かれたくないんでね。失礼を承知できみをここへ呼んだ」

 ソファへ腰掛けるとリスターみずから、ウイスキーをグラスに注ぎ、あらかじめ執事が用意した氷を入れた。それを受け取ったウィルフレッドに、彼は言った。

「悪いことは言わない。きみ、例のクラブを辞めるんだ」

「なぜきみが知っている? 昨夜、入会したばかりなのに」

「ウォリック卿の使いから手紙が届いたんだよ」

「わざわざ関係のないきみに? なぜ?」

「それは僕がききたい。何か裏があるに決まっている。僕は卿に好かれていない――いや、目の敵にされているようだから」

「そんな陰湿なクラブに見えなかったけど……」

「だいたいだ。よく入会する気になったな。あそこは男しか許可されない。大胆もいいところだ」

 それを指摘されてしまうと、何も言えなくなった。

 ランバートが辞めてしまい、その寂しさにたえられなくなった、と素直に言えたら、どんなにらくだろうか。弱味を見せてしまうと、愛人にされかねない。

 ウイスキーをあおったリスターは、ふう、とため息をつく。

「……しかし僕が指図できることじゃない。きみが決めたのだから。ならば、僕にできるのは助言ぐらいだ」

「そう。その忠告、覚えておくよ。ありがとう。きみはどんなクラブに入ってるの?」

「入ろうとしたが、三度、全員の承認を得られなかった。だからまだ、どこにも入会していないのさ」

「ええ? 社交的なきみが? それこそありえないじゃないか」

 面白くなさそうな顔をし、リスターは苦々しく言った。

「紳士たちの秘密の世界に、僕を入れたくないようだ。なぜだろうね。学生時代もそうだった。親しいと思っていた連中なのに、微妙な距離を置かれてしまう」

「さあ。さすがに私にもわからない」

 リスターは両手を頭の後ろにやり、気分転換をするように背を反らした。

「あーあ。きみにさきを越されてしまったなあ。もし僕がどこかのクラブに入っていたら、根回しして入会させたのに。僕がいれば、安心だろう」

 やや間を置き、ウィルフレッドは呆れた顔をしてやる。

「いや、かえってまずいと思うけど。レディ・クレアに悪いよ」

 われに返ったのか、リスターも失笑した。

「いまのはただの冗談だ。忘れてくれ」



 その日はクラブのメンバーたちとカードゲームをしてひまをつぶした。

 昨年の春に農場や牧畜の経営を見直したおかげで、領地の収入が増えた。派手で贅沢な暮らしはできないものの、高額なクラブの年会費をまかなえるほどにはあった。

 メンバー同士のつながりで、安定した投資先も教えてくれた。閉鎖的な空間は、紳士同士の絆を深める場でもあった。知人と友人の中間である彼らは親切だった。

 そろそろゲームを終えようとしたころ、ウォリック卿がクラブにやってきた。ウィルフレッドを見るなり、笑顔を向けられる。卿を通して入会したのもあって、彼と話すときはメンバーは距離を置いた。ともに世間話をすることはない。

 ウォリック卿に遠慮をしているのだろう、とウィルフレッドは思うのだったが、その理由がわからなかった。

「やあ。順調に楽しんでいるかい?」

「はい。いつでもゲームの相手がいるのって、いいですね」

「それだけでも入会する価値はある。今日は最高の煙草を持ってきた。いっしょにどうだい?」

 健康上の理由で禁煙していると、以前、言ったはずだが、忘れているのだろうか。

「少しだけなら」

 断るのも気が引け、今日だけだと自分に言い聞かせながら、ウォリック卿とともに応接間へ入る。ふたりきりの室内で、マッチで紙煙草に火をつけた。

 久しぶりの煙草はうまかった。

 しかしこれほどうまかっただろうか。

 半分ほど吸い終えたころ、酒を飲んでいないのに、妙に気分が華やぐ。なぜか笑いが止まらなかった。

「あはは。これ、最高ですね!」

「だろう? 今、流行のアヘン入り煙草さ」

「アヘン……」

 知っていたら吸わなかった。常飲すると、中毒になってやめることができないからだ。デカダンス気取りの男たちが好んで吸う、麻薬入りの紙煙草にぞっとする――のだが、すぐにどうでもよくなる。

 いつもの自分でない自分を不思議に感じながら、ウィルフレッドは気になっていたことを話した。

「ウォリック卿。リスターのやつもどこかのクラブに入会させましょうよ。彼、三度も全員の承認を得られなかったと、がっかりしていました。卿の人脈で、ね?」

 煙草を吸っていたウォリック卿の手が止まる。

「だめだ。私が入会させない。あいつとは関わりたくないのでね」

「なぜです? 義弟じゃありませんか。レディ・クレアともうまくいっているようですし、本心では親しくしたいはずですよ、彼」

「まさか」

 吸い殻を乱暴に灰皿に押しつけ、卿は二本目のアヘン入り煙草に火をつける。

「リスターはいいやつです。強引なところがあるけど、私は好きだな」

「それはなぜ?」

「なぜって、そのままですよ。卿こそ、なぜ彼をさけるのです?」

「あいつを見るだけで、むかむかするからさ。それ以上の理由はない」

「ですからなぜ……」

「もっと知りたい?」

「ええ」

「さあ、もう一本吸いたまえ。話はそのあとに」

 一本だけで終わるつもりだったが、その先をどうしても知りたくて二本目を吸った。甘い香りのする紫煙が、ウィルフレッドの意識をさらに夢見心地にさせる。

――ああ、これはたまらない。

 ランバートが去った寂しさが、嘘のように消えた。あれほど孤独を感じていた自分は何だったのだろう、とバカらしくなる。また意味のない笑いが出た。

 向い合って座っていたウォリック卿が立ちあがり、ウィルフレッドは腕をとられた。壁際のソファへならんで腰を下ろす。肩を抱かれ、囁かれた。

「…………きみ、あの御曹司とはどういう関係?」

「学生時代の友人です」

「それだけではないだろう? そう、たとえばこんなことを――」

 卿の人さし指が軽く、ウィルフレッドの唇に触れる。

 その手を払いのけるが、力が入らなかった。アヘンのせいかもしれない。

「ただの友人ではないのだろう?」

「……」

「初めてきみたちを見たときから、感じていたよ。白状すれば、なぜ私があいつを嫌っているのかを教えてやろう」

「成りあがりのブルジョワだからじゃなかったのです?」

「そんな狭量に見えるかい? 言っておくが、私なりに、あいつを許せない理由がある。だから、まずきみが」

 ウィルフレッドはブランドン・リスターとの秘められた関係を否定しようとするのだが、ウォリック卿の魅惑的な駆け引きに心が揺さぶられる。

――ああ、知りたい。過去にいったい何が?

 緊迫感のある会話のはずだが、それも愉快な笑いで打ち消してしまう。何を話しても楽しくてたまらないのだ。

 ウォリック卿は眉をしかめた。

「しまった。アヘンを入れすぎたか……」

「あはは。リスターのやつ、私に愛人になれって言うんですよ。婚約したばかりなのに、笑わせますよね。いつも勝手に決めて強引なんだから。あはは……」

「そうか」

「でも仕方ないですよね。彼、とても魅力的だから。おかしいぐらいに」

「なるほど。私の読みはあたっていたようだな。もっと早く察知していれば、クレアと結婚させなかったのに」

「ウォリック卿?」

 夢見心地のまま、ウィルフレッドはとんでもない失言をしてしまった――ような気がした。卿の水色の瞳が怒りで赤みを帯びていたからだ。

「私がアメリカの富豪令嬢との結婚を拒んだ代償が、妹の婚約だった。だから父上には強く反対できなかったんだ。今さら悔やんでも仕方がないが」

 ソファから立ちあがったウォリック卿は呼び鈴を鳴らす。すぐに従僕がやってきて、気つけ用のレモネードを所望した。やがて、注文の飲み物がふたつ運ばれると、グラスをウィルフレッドに渡す。

「さあ、飲んで。きみの気分が落ち着いたら、約束どおり話してやろう。――私がなぜ、ブランドン・リスターを嫌悪しているのかを」

 酸っぱい飲み物で喉をうるおすと、ふわふわした気分がおさまる。まだいくらかぼんやりしていたが、相手の話を聞けるだけの正気を取りもどした。

「あの御曹司がクラブに入れないのには理由がある。信頼されていないからだ。きみはすぐに退学したから知らないようだが、学生時代、彼は卑怯なことで有名でね。まあ、表立ってだれも指摘はしなかったものの、陰ではいろいろ噂されていた」

「以前から知り合いだったのですか」

「いや、向こうは私の存在を知っていても、話をしたことはない。妹の婚約話があるまで、接点はなかった。ただし、御曹司がわだが」

「どういう意味です?」

「やつと不仲だった同寮の学生が、私の友人だったのさ。その友人は御曹司の策略で、退学させられた。しかも極めて不名誉な方法で」

「いったいなにが……」

「何が原因でもめたのかは知らない。しかし、それにしてはやり方が卑劣すぎる。今回の結婚もそうだ。クレアと婚約をしておきながら、きみと関係を持っていた」

 ウィルフレッドは一気に酔いがさめた。

「ま、まってください! 私たちはそういう関係では――!」

「白状しただろう? 否定しても遅い」

「本当に、何も。誤解です」

「今さら、しらばっくれるつもりかい?」

「男女の関係になるまえに、距離を置きました」

「おかしなことを言う。男同士じゃないのか?」

――しまった!

 みずから秘密を暴露してしまったようなものだ。

 が、相手は驚かない。

 やはり感づいていたのか――。

 それ以上、話をするとまずいことになると思い、ソファから立ちあがったのだが、ひどい頭痛がした。耐え切れず、身体をまたソファへあずけてしまった。胃がむかむかする。

 逃すものか、と言わんばかりにウォリック卿が容赦なく覆いかぶさってきた。ぐっと顔を近づける。吐息を感じるほどに。

「アヘンを吸うと心地良いが、そのあと吐き気と頭痛がするのがやっかいでね。悪く思うな。そうでもしないと、きみは本心を話さなかったろう」

「ひどい。初めからそのために、クラブへ誘ったのですか」

「それもあるが、きみのことを気に入ってるのだよ。私たちが仲良くなれば、あいつ、どう思うだろう。嫉妬でおかしくなるのかな。それとも、今度は私たちの醜聞を流そうとするのかな。やれるものならやってみろ。そのぶん、たっぷり復讐してやる」

「リスターはそんなやつじゃありません」

「きみはだまされている」

「いいえ。彼のことは少年時代から知っています。ずるいところはあるけれど、罠とか貶めるとかそういうのをきらっているはず」

「やつをかばうのは、恋をしているからだ。ちがうのかな」

「それとこれとは話がべつです」

「いや、同じことだ。私の友人の手紙を盗み、教師に渡した男のどこがいいやつだと?」

「その手紙、まさか」

「そう、そのまさかだ。不適切な関係が知られ、退学になってしまった。しかも彼は父親の侯爵に勘当され、廃嫡されたという最悪な結末だ。その大問題になった、手紙の受取人の名をあててごらん」

 ウィルフレッドは言えなかった。

 今、目の前にいる男こそ、不適切な関係の相手だったのだ!

「その顔は、正解だね。あれをもみ消すのに、どれだけ苦心したか。彼は私のことをジョン――ミドルネームで呼んでいたのがさいわいした。同名は大勢いる。だれのことだかわからない、というごまかしがきいた」

「じゃあ、このクラブも…………」

「おや、それを承知で入会したのじゃないのかい?」

「単なる独身者の集いでは?」

 こらえきれないように、ウォリック卿は笑う。すました紳士らしいそれではなく、心底、愉快なようだった。

「あははっ! 本当にきみは世間知らずだな! 御曹司が惹かれるはずだ」

「私をだましたのですね。クラブは退会します」

 毅然と言い放つが、相手は解放してくれない。ソファの上で押し倒されたまま、口づけされる。スパイシーな香水の匂いが吐き気をもよおす。反射的に顔をそむけた。

「やめてください!」

「みずから私のもとへ飛びこんでおいて、そのセリフはないだろう」

「ですから、そのつもりでは……」

 抵抗するも相手のほうがはるかに力が強かった。おまけに頭痛と胃痛が激しく、その場を切り抜ける知恵が浮かばない。

――リスターの言うとおり、すぐに退会すればよかった!

 後悔するも遅すぎた。

 クラブのメンバーたちは、自分がウォリック卿の恋人だと思って、距離を置いたのだろう。助けを求めようとしても、痴話げんかに介入するほど野暮なメンバーはいない。そもそも、それが目的のクラブなのだから。

 シャツのボタンが引きちぎられた。あまりにも強引なやり方に、ブランドン・リスターへ復讐してやるのだという、強い一念を感じさせた。

――純潔を奪われる!

 恐れていた現実がせまっていた。好きでもない相手に襲われるという、最悪の事態で。震えが走り、声が出ない。

――いやっ! だれか、助けて!

 心のなかでそう叫んだとき、頭に浮かんだのはランバートの顔だった。

 そのとき、身体が軽くなった。覆いかぶさっていたウォリック卿が、悲鳴をあげてソファを飛び出したからだ。

「き、き、き、きみ! ま、ま、ま、まさかっ!」

 言葉にならない声を出しながら、ウィルフレッドの胸元を指さし、目を丸くした。伊達男ぶりはどこへやら。まるで、サーカスの綱渡りが落下した瞬間を目撃したような、動転境地の顔だ。

 解けかけた胸の帯紐を締め直しながら、ウィルフレッドは謝罪する。

「ごめんなさい。私、女なんです」

「そ、そ、そんなバカなことがあるか? きみは、きみは……ハートレー家の当主で、准男爵だろう。ご婦人は家督も爵位も告げないはず。ありえない」

「そのありえないことをしています」

「嘘だろう……。無謀すぎる。いや、頭がおかしい。くるっている。しかも、この私をだましていた」

「だましていたつもりは。私なりに領地を守っているにすぎません」

「よくもいけしゃあしゃあと、この私に言いわけをならべるな。――あ、わかったぞ。従姉だという、あのなれなれしいご婦人、きみだったのか」

「ええ、はい……」

「ふざけた真似を!」

 ウィルフレッドは殴られた。容赦ないウォリック卿の拳が、みぞおちに直撃する。

 うずくまり、げえげえ吐いた。アヘンの副作用も重なり、生きた心地がしない。

 そんな弱り切った自分の身体を、ウォリック卿はさらに靴の裏で、乱暴に踏みつける。あまりの痛さに悲鳴をあげずにいられない。

「きゃあ!」

「ええい、よく鳴くメス豚め。ああ、汚らわしい、汚らわしい!」

「ゆ、許してください……」

「許せるものか! きみはこの私だけでなく、ヘブンズ・クラブの名誉まで汚した。理由は言わなくてもわかるだろう?」

 リスターも言っていたように、クラブは紳士だけの神聖な社交場だ。そこへ女の自分がメンバーとして加わるなど、伝統が許さない。

 やがてウォリック卿は踏みつけるのをやめた。いつものように冷徹な口調にもどる。

「さあ、立て。男同士なら、拳で解決するものだ。ほら、どうした?」

「……」

「決闘が許された時代ならば、おまえに手袋を投げつけてやった。お望みどおり、男として死なせてやれたのに」

 ウォリック卿は盛大なため息をつく。

「名誉を汚されたとき、紳士ならば命をかけて闘うものだ。泣いて許しを請うなど、しょせんただの女だな。きさまにはそれだけの覚悟がなかった。だからよけい、私は腹立たしい」

 謝罪しなくては、と思うが声が出てこなかった。顔をあげることすらできず、絨毯の上でうずくまるだけだ。

「……しかし残念だが、今は貴族が何をしても許される時代じゃない。命を奪えば、あの御曹司が黙っていないはず。だから今回は見逃してやる。二度と、私のまえに姿を現すなよ。いいか、身のほど知らずのメス豚め」



「きみ、しっかりしろ。きみ!」

 ブランドン・リスターの声とともに、軽く頬を叩かれるのがわかった。

 目を開けると琥珀色の瞳が見えた。かなり動揺したのか、赤く潤んでいる。

「……きみ、なぜ?」

「なぜって、ウォリック卿の使いに呼ばれた。そうしたら、きみが床で気絶していて……」

 ウィルフレッドははっとした。

 そうだった。さっきまで自分は卿に殴られ、踏みつけられていた。あまりの苦しさで気を失っていたらしい。

 立ち上がろうとしたら身体が言うことをきかなかった。ひどい痛みと熱で力が入らない。

「おい、どぶさらいの末裔。そこの女を連れて、とっとと失せろ。まったく、おまえたちはどこまで私を侮辱すれば気がすむ?」

 氷のように冷たい表情のウォリック卿が応接間に入ってきた。手にしているステッキの先で、はだけたままのウィルフレッドの胸元を突く。

「とんだ醜聞ものだ。これでハートレー家は終わりだろう。女が当主をしているのだからな。おまえが追い出され、新たな当主がついても社交界には呼ばれない。いや、私が呼ばせない。そのまま一族ごと朽ちてしまえ」

 卿の怒りは相当なものだった。それだけの禁忌をおかしてしまったのだから、無理もなかった。

 意識がもうろうとする自分の代わりに、リスターが答える。

「彼女が当主なのも、深い事情があるゆえです。どうか、ご寛大なお許しを」

 卿は鼻で笑う。

「ふん。どこまでもずうずうしいやつだな。どのような事情だろうが、タブーはタブーだ。だいたいだ。不届き者をかばうのも、女だと知っていたからだろう? 残念だが、きさまは利用されていたのさ、そいつの色香に」

「利用したとかされたとか、そういうことしか考えられないのですか?」

「女とはそういうものだ。愚かで感情的で、男に媚びるしか脳がない。ならば貞淑なまま夫の言いなりになって生きていくしかない。それすらできないのは、ただのメス豚だ」

「彼女はそんなご婦人ではありません。中身は僕より紳士らしいです」

「ありえない。現に、そいつがきさまを惑わしているじゃないか」

「ずいぶんな言いかたですね。ご婦人だと知るまでは、僕を出し抜いてでも親しくされていたじゃないですか」

「知っていれば、初めから近づかなかった。きさま、なぜ、黙っていた?」

「言えるわけがありませんよ。僕のことをお嫌いなようですから」

「義兄でも?」

「そういうときだけ、兄弟扱いされるのですか?」

「……」

「ふだんはどぶさらいの末裔、とおっしゃるくせに。ずいぶんなご都合主義ですね」

 痛いところを突かれたのだろう。ウォリック卿はそれ以上、リスターを責めなかった。

 しばし両者はにらみあい――決着をつけたのはリスターだった。

「わかりました。黙っていた僕が悪かったです。だから、オスカー義兄さんにはお詫びしますよ。たっぷりと、ね?」

「どれぐらい?」

「そうですね。しばらく海外旅行などいかがです。豪華客船に乗って世界一周の旅とか」

「小遣いも相当必要になるが?」

「もちろんお出しいたします。ご友人も呼んで、楽しんでください」

「いいな。最高の憂さ晴らしだ」

 ウォリック卿に笑顔がもどる。しかし、愉快そうなそれではなく、明らかに見下したものだった。

「では、ごきげんよう」

 背を向け、卿は応接間を出て行く。

「きみ、立てるかい?」

 リスターの呼びかけに首を横にふる。

「ひどいな。骨折しているのかもしれない。僕の屋敷に連れて行くから、医者に診せよう」

 医者、という単語にウィルフレッドは身震いした。

「だいじょうぶ。もちろん、サンドラ嬢としてだ。着替えも用意する」

 その言葉にほっとし、意識を手放した。

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