第11話 きみは羽ばたく…後編



 ウィルフレッドが言っていたとおり、劇場の興行主たちの夜会には貴族もいた。招待客夫妻があいさつを交わし、上品に談笑をする。耳をそばだてていると、つぎの流行はどんなジャンルにしようか、と思い思いに語っていた。

 言われてみれば、今年は歴史ものや悲劇ものが目立った。急遽、代理の劇作家の話を持ちかけられたときも同様のテーマだった。

――なるほど。オーナー連中が流行を作っているのか……。

 大衆がそのときどき好む演目は、自然発生するものでないようだ。作家として世間知らずのアレックスには、衝撃的な事実だった。

「きみ、ポートワインはないのかい?」

 恰幅の良い紳士に声をかけられ、今は給仕役になっているのを思い出した。表情を消したまま、つとめをこなす。

「ございます。すぐにお持ちいたします」

 酒類を管理している給仕のところへ行き、ポートワインがグラスに注がれると、それを銀盆へ乗せ、もどり、さしだした。ハートレー家の屋敷で何度も給仕の手伝いをしたおかげで、周囲からまったく怪しまれる気配はない。

 アレックスはホテルの裏口から出てくるボーイのひとりに声をかけ、代わりに給仕をするから制服を貸してくれ、とかけあった。ハッチャーが存分な謝礼を出してくれたおかげで、すんなり話がまとまり、臨時の給仕係のふりをして夜会の場に入ったのである。

 やがて主催者のあいさつが始まり、今宵最高の招待客を紹介する段取りになる。緊張した面持ちで上座にやってきたのは。

 ジャック・ヘストン。

 アレックスは広間の隅で目立たないよう、鉢植えの観葉植物の陰に隠れる。

 ヘストンのあいさつはときおり言葉をつまらせていた。招待にあずかった光栄に感激しているのか、それとも盗作をした秘密におびえているのか。

 当たりさわりのないあいさつが終わると、わっと拍手がわいた。オーナーらがつぎつぎに質問を浴びせる。ナポレオン一世を題材にした動機や、今までどんな作品を書いてきたのか、今後の構想は何か、主役のモデルはだれなのか、などなど。

 どの質問も盗作作家なのだから答えられるわけがない――とアレックスは思ったのだが、想像以上にやつは小賢しかった。のらりくらりと質問をかわす。

「ああ、作家なら一度は書いてみたいじゃないですか、ナポレオン。歴史ものは人気がありますが、そのぶんライバルが多い。今まで書いてこなかったのは、僕に依頼がなかっただけですし。どうやら歴史ものが性に合っていたようです。あはは……。モデルは僕のロマンチストな学友です。あいつ、どうしてるかな」

 初めての賞賛に酔いしれているようだ。照れくさそうに笑いながら、ワイングラス片手に語る。

「あ、僕、社交とか苦手なものでして。気のきいたことを話せなくて申しわけございません。そのぶん、作品で勝負することをお約束します」

「おお、たのもしい。楽しみにしてるぞ」

 オーナーのひとりが励ますように肩を叩くと、ほかの紳士淑女らも激励をおくった。

「ええ、期待してください!」

 浮かれているヘストンを見ているうちに、彼は虚栄心を満たしたかったのだと感じた。本気で作家として大成したいのならば、盗作などおのれの誇りが許さないはず。

 見ていられなくなったアレックスは、銀盆をテーブルに置くと、盗作作家のまえに出た。腰に手をやり、はっきりとした口調で言ってやる。

「なぜナポレオン一世を題材にしたのかは、僕のパトロンであるサー・ウィルフレッド・ハートレーの図書室がヒントになった。たくさんの新聞記事や日記があったんでね。それらを読んで書いてみたくなったのさ。ちなみにモデルはその日記にあった、某大尉だ。先々代の准男爵さまは、ワーテルローの戦いに従軍したことがあるそうで、某大尉はフランスのスパイだったそうだ。婚約者がフランス人だったらしい。それが発覚したときのことを、先々代は書いていた。そこから着想を得たのが僕の作品だ」

「……と、突然、何を?」

「さあ、認めたまえ。例の作品は盗作なのだと」

「きみこそ、ただの使用人のくせに、いつ、僕の創作日記を盗み見たんだ?」

「いいかげんにしろ」

「それは僕のセリフだ。そのままおとなしく去れば、許してやる」

「まだ認めないのか?」

「無教養な使用人に書けるわけがないじゃないか」

「きみと同じ人間だ。努力すれば書ける」

「中等学校すら卒業していないきみに言われたくないなあ」

「また学歴を出すのか? 以前も言ったろう。作品とは無関係のはず」

 アレックスとヘストンは真正面からにらみあった。激しく火花が散る。

 盗作をしたヘストンは意地でも認めない。無理を承知でその場を乗り切り、一作きりとはいえ、おのれの手柄にしたいのだ。それだけ有名な作家になりたかったともいえる。

 会場がざわつく。突然降ってわいた盗作疑惑に、驚かない者はない。主催者の紳士は困ったように言った。

「せっかくの親睦会だというのに、とんだ闖入者だな。ホテルのボーイが真の作者だと言い始めた。これは演出かい、ミスター・ヘストン?」

 すぐさまアレックスは否定するのだが、同時にやつは言った。

「ええ、そうです。よくおわかりになりましたね! 皆さん、はらはらしましたでしょう? どうでしたか、僕の演出は」

「演出なんかじゃない。あれは僕が書いたんだ!」

「もういいよ、きみ。チップが足りないのなら、あとで支払う。よくやった」

「だからあれは――」

 オーナーたちの視線が痛いほどアレックスに注がれる。どの目も蔑みのそれだった。

 アレックスは悟った。紳士としてではなく、ボーイ――労働者として発言してしまったために、まったく信用を得られなかったことを。

 学歴がないことを指摘されたのもあり、さらに立場が悪かった。

 自分が書いたという証拠がない以上、悔し涙をのむしかないのだろうか。

「おいトム。彼はお疲れのようだ。退場させろ」

「かしこまりました、旦那さま」

 それ以上抗議できないまま、アレックスは屈強な護衛に引っ張られるようにして、夜会の場を出た。廊下に出るなり、乱暴に突き飛ばされる。絨毯をひいた大理石の床へ思いきり身体をぶつけた。

「すごいな、ヘストンくん。面白かったぞ」

「さすが一躍売れっ子になっただけある。最高の驚きだ」

「次回作がとても楽しみですわね」

 やつを大絶賛するオーナーたちの声が聞こえる。広間にもどったトムがドアを閉めると、しんと静まり返った。

――ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!

 順調に歩み始めたはずの作家人生だったが、ヘストンの陰謀のせいで一気に転がり落ちた。これではまるで、盗作したのは自分のようではないか。

「せっかく旦那さまが応援してくださったのに……」

 盗作された作品は諦め、やつの手柄にしておけばよかったのだろうか。

 いや、急な依頼で短い期間だったが、心血を注いだ作品だ。たとえ落選だったとしても、作者を偽られるのは許しがたい。

「そのようすだと、ヘストンに負けてしまったようだね」

 広間の外で待機していたハッチャーが、がっかりした表情で腰を落とす。床でうなだれることしかできない自分の肩を、いたわるように叩いてくれた。

「今夜はいったん引き上げよう。そのうちやつのほうがボロを出すさ」

「あいつ、一作かぎりで引退しそうです」

「まさか。作家人生じゃなく、名誉が欲しいと?」

「だから意地でも認めないんですよ」

「どこまでも不埒な野郎だな。僕は初めからあいつが好きになれなかった。直感が当たったらしい」

「その直感、わけてください。だまされた僕が情けない……」

 ハッチャーに支えられるようにして、よろよろと立ちあがるアレックス。休憩室にいるボーイに制服を返すため、ホテルの裏階段を降りようとしたら、聞き覚えのある声が近づいた。

「きみ、きみ、そこのボーイのふりをしたきみ!」

 肩ごしにふり返ると、恰幅の良い黒髪の紳士――たしかポートワインをたのんだ中年の男がいた。人なつこい笑顔で、陽気に両腕を広げる。

「なんでしょう?」

「しょぼくれた顔をするんじゃないぞ。ほら、笑って笑って。今年一番の話題作を書いたのだろう? うーん、最高だったよ。僕は三度、観た。激動とロマンチストが時代劇らしくていい。少々くさいが、大衆向けにはじゅうぶんだ」

 またヘストンの野郎の差し金だろうか?

 喜ばせておきながら、裏で笑うとか……。

 疑心暗鬼に凝り固まった自分に、中年紳士は遠慮なく抱きついてきた。まったく距離感のなさに、アレックスは戸惑い、さらに警戒した。

「あなたも目撃したはずです。ヘストン氏の演出だと」

「そんな嘘、僕には通用しない。なぜかって。作家同士だからさ。きみが動機を語ったとき、すぐにわかった。嘘をついているのはヘストンのほうだとね」

「作家なんですか?」

「毎年、オーナー連中にお呼ばれするんだが、今年はヘストンがいて助かったよ。面倒なあいさつがぜーんぶ、向こうへ流れていった。おかげでワインを堪能できて最高の夜だ」

 そして豪快に笑う。あまりの屈託のなさに、アレックスは引きつった笑みを浮かべずにいられない。

「あの、どなたでしょうか?」

 中年紳士はぱっと、アレックスと距離を置く。あらたまったように姿勢を正すと、懐から名刺を取り出した。受け取り、名前を確認する。

「『レナード・モンティーニ』だって! あの『ヘンリー八世の仕立屋』を書いた。あの――」

 ともに名刺をのぞきこんだハッチャーが、まっさきに驚愕した。アレックスはすぐに実感がわかず、数秒後、震えが走った。オーナー連中のひとりと思いこんでいたからだ。

「でも肖像写真とずいぶんちがいますよ、ね。もっと痩せてらしたような……」

 つい、素朴な疑問を口にしてしまうアレックスに、モンティーは快活に笑う。

「あははっ! あれ、十年前の僕だ。中年太りしてしまったらしくてね。夢を壊したくないから、写真は撮らせないのさ!」

 想像していた大作家とは、雰囲気がまるでちがう。下町の親父のようだ。作家仲間たちだって、快活とは縁遠い連中だった。

 ハッチャーがおそるおそる言った。

「ミスター・モンティーニ。おっしゃるとおり、彼――ランバートくんが書いた作品なのです。気の毒なことに盗作されてしまいまして、劇場のオーナーたちに事情を説明してくださらないでしょうか。使用人をしているせいか、なかなか信用されないようなんです」

「うーん、どうしようかなー……」

 子どものように唇をとがらせたモンティーニは、腕を組んだ。十数秒ほど思案したのち、真顔になってアレックスの両肩を叩く。

「きみ。あの作品はヘストンにあげたまえ」

「ええ? あきらめるってことですか?」

「ちがう。それ以上の作品を書くのさ。本当の作家ならば、またべつの構想を思いつくはずだ。つぎからつぎへと。僕はそうやって、たくさん書いてはいくつかのヒット作を生み出した。一作で終わってしまうやつは、ただ運が良かっただけだ」

「でも、たくさん書けるほど教養も経験もありません。だから、どうしても盗作を認めさせたかったんです」

 モンティーニは力強い笑顔を見せる。

「教養も経験もあとから身につく。しかし才能はべつだ」

「才能……。僕に才能が……」

 まさか大作家の先生に、そんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。アレックスの胸がじんと熱くなる。

「ああ。そうだ。よかったら、僕の秘書にならないか? たしか使用人をしていると言っていたね。今の仕事よりはるかにためになるはず。僕の手書き原稿をタイプライターで清書するのと、資料の整理がおもな仕事だ。それ以外は、読書に観劇、社交、旅行がある。もちろん執筆用の休暇も。数年、いっしょに活動していけば、次回作のネタにも困らないぞ」

 アレックスが返事をするまえに、彼はつけくわえるように言った。

「そういえば、タイプライターは打てないよな。まず、その習得をしてもらうのがさきだ」

「打てます。持ってます」

「使用人をしているのにか?」

「旦那さま――僕のパトロンが買ってくださいました」

「おお、すでにきみの才能に目をつけた御仁がいたのか。なかなかやるな! では、決まりだな、ランバートくん」

 作家としてではなく、単なる偶然の事故でウィルフレッドの従者になったのだが、主人の後ろ盾がなければ、ここまでやってこれなかった。感謝してもしきれない。

 すんなり話がまとまった自分に、ハッチャーがさわやかな笑顔とともに言った。

「よかったな、ランバートくん。僕も応援するよ。将来、きみのライバルとして、ともに文芸誌の表紙を飾れたらいいな」

「ありがとうございます、ハッチャーさん」

 アレックスたちはホテルを出ると、それぞれの帰路へ向う。ハッチャーとは友人として握手を交わした。モンティーニとは今後のことを話し合うため、明日、あらためて再会する約束をする。



 シドニー氏とその一家がクリスマスにやってきた。さすがのゴードンも、今回はおとなしくしており、本家の主人であるウィルフレッドの言うことを黙ってきいていた。だからカードゲームはしなかったし、酒もあまり飲まなかった。

 静かに終わったクリスマスの翌日は、使用人のクリスマスパーティだ。アレックスは従者として、参加した。階下の使用人ホールでは、後輩従僕がピアノを弾いた。去年は侍女が演奏したのだが、彼女は解雇されたためにいない。

 下手くそな旋律で、使用人たちはダンスを踊る。とくに見ものだったのが執事マリガンと家政婦バード夫人の組み合わせで、ダンスが苦手なマリガンが夫人の足を踏むたび、からかいと爆笑が起こった。

 さんざん笑ったあと、アレックスたちは茶と菓子を食べながら、主人からいただいたプレゼントを開ける。メイドたちはレースのハンカチ、従僕たちは靴下だった。

「かわいい! レースのハンカチ、欲しかったのよね」

「これがあれば、あたしもお嬢さまみたい」

「妹たちに自慢できるわ」

「まあ、あたしにもハンカチを。奉公を続けてよかったねえ」

 下働きの老メイド、ソーニャはとくに感激したらしく、まっ白なハンカチをぎゅっと握りしめる。

 メイドたちはうれしそうだったが、従僕たちは不満そうだ。

「ネクタイじゃないのかよ。ちぇ」

「去年は葉巻だったよな。しけてるなあ……」

 アレックスは心のなかで謝罪した。

――すみません。ハンカチの出費でどうしても。

 主人の代わりにプレゼントを選んだことがばれないよう、自分も「靴下かー」と同意しておいた。ちなみにマリガンは万年筆、バード夫人はティーカップだった。

 パーティの最後、空咳をしたマリガンが「一同に大切な話がある」と、告げた。

「ええー、突然だが、従僕をしているアレックスが、今年いっぱいで奉公を辞めることになった。新しい仕事に就くそうだ」

 先輩従僕ハンクがうらやましそうに言った。

「貴族のお屋敷にでも行くのか?」

「いえ、その、えっと。ぜんぜんちがう仕事を……」

 あまりにも照れくさくて、アレックスは口ごもってしまう。代わりにマリガンが発表した。

「聞いて驚くなよ、みんな。なんと、レナード・モンティーニ氏の秘書だそうだ。あの有名な作家先生の」

 すぐさま怒涛の悲鳴があがる。だれもが信じられない、と驚き、冗談ではないかと言い出す始末だ。

 興奮が少しおさまったあと、バード夫人が目を丸くしたまま問う。

「ア、アレックス! あなた、いつどうやって? まさか小説を書いていたとか……」

「書いてました。空き時間を使って。夏に出版社から招待状が届いたのも、原稿を依頼されたからです」

「あ、あら、まあ……。小説家といっしょにお仕事をしていたのね、わたしたち」

「まだまだ無名ですが、いつか必ず、自分の作品を舞台で上演させます。そのときは、みなさんを招待しますから、楽しみにしていてください」

 またどよめきが起こった。

 そして拍手と祝福の言葉がアレックスを包む。奉公仕事になじめず、良くも悪くもいろいろあったが、同僚の優しさがすべてを流してくれた。自分も笑い、最後の使用人生活を楽しむ。

 パーティの締めくくりは、マリガンの涙だった。

「まさか、俺の部下が作家さまになるとは。ああ、こんな名誉なできごとがいままでにあったか? すまんな、アレックス。おまえには旦那さまとのことで、つらくあたってしまった」

「いえ。おれも交流しようとせず、わがままばかり言ってしまいました。すみません、マリガンさん」

「いいんだ、いいんだよ。なにせ、将来を期待される作家さまなんだからな。女房にも自慢できる」

 そして、おいおい泣き出した。

――マリガンさんって感激すると、泣くタイプなんだよな。

 それがおかしかったらしく、メイドや従僕たちは必死の形相で、失笑をこらえていた。バード夫人はいつものことだと呆れながら、苦笑して茶を飲む。



 年が明け、アレックスがハートレー家の屋敷を出て行く日の朝になった。それは同時に、従者を辞めることを意味する。

 いつものように主人の寝室へ茶と新聞を持っていくと、すでにウィルフレッドは起床していた。着替えをすませていた彼は、クローゼットから呼びかける。

「ランバート、きみに似合うのはどれかな?」

 ウィルフレッドは数本のネクタイを手にしていた。アレックスが近づくと、肩にそれをあてる。

「黒より青のほうがいいね。きみの髪と瞳によく映える」

「あの、旦那さま。おれへの餞別ですか?」

「そう、きみはこれから大きく羽ばたく。その羽根が不格好だと、高く飛べないだろう」

「そんな。おれ、もっとたくさんのものをいただきました」

「できれば私のスーツをやりたいんだが、サイズが合わない。だからネクタイとカフスボタンはどうかなーって」

「タイプライターだけでもじゅうぶんです」

「遠慮するなよ。きみが従者をしてくれたおかげで、私はいろいろ楽しめたんだ。路線をまちがえた旅行だって、今思えば、なつかしい思い出だよ。あきらめていた海水浴だって、きみがいたから……」

 ここでこらえきれなくなったのか、ウィルフレッドはうつむいた。口元を手で覆い、アレックスに背を向ける。

「旦那さま。おれ、手紙を書きますから。ずっと友人でいましょう」

「だめだ。だめ……。きみは私と連絡をとってはいけない。だって……」

 小刻みに肩が震えていた。

 抱きしめたい衝動を必死にこらえながら、アレックスは渡された青いネクタイを握りしめる。

「なぜ、いけないのですか」

「だって、私は偽物の当主なんだ。もし、発覚することがあれば、きみも醜聞に巻きこまれる。……モンティーニ氏にも迷惑が。だから……」

 それ以上は言葉にならなかったのか、嗚咽が聞こえた。

 アレックスは思い出した。海水浴をしたあの日。ずっと従者でいてもいい、と言った自分を、主人は激しく叱責した。

「旦那さまは覚悟されていたのですね。おれとの永遠の別れを……」

「……」

「あなたさまがそう望まれるのならば、お約束します。二度と、お会いしないと。そして手紙も書かないと」

「……」

「今までありがとうございました。サー・ウィルフレッド」

 その場にいることがたえられず、アレックスは寝室を飛び出した。

 階下にある狭い自室に入り、主人との別れに涙する。

――ああ、初めから、旦那さまはそのつもりで。

 なのに自分は、呑気に手紙を書くなんて言ってしまった。性別を偽って生活をしている主人の覚悟を受け止めていなかった。いっしょにいるうちに、友人としてずっと親しくしてくれる、と信じてしまったのだ。

 ならば距離を置いた主従関係にしておくべきだったのだろうか。

 主人を泣かせてしまった自分が腹立たしくてたまらない。

 手早く荷物を旅行鞄に詰めたアレックスは、逃げるようにして自室を出た。主人のそばにいることが我慢できなかった。上司だったマリガンとバード夫人にあいさつをすませ、足早に裏口から庭園へ出る。

 一度だけ振り返ったら、書斎の窓ガラスに主人の姿があった。じっと自分を見つめている彼に、シルクハットを取って最後のあいさつをした。

「さようなら、サー・ウィルフレッド!」

 主人は軽く手をふってくれた。

 一年と二ヶ月の従者生活が終わった。

 そして初恋も終わった。

 ふたたび後ろを見ることなく、アレックスは鉄道駅へ向かった。


おわり



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