第10話 女神は二度、微笑む…後編



 レストランのまえにランバートはいなかった。酔ったまま、さきに帰ったのかもしれないが、あの彼が自分を置いていなくなるとも思えなかった。

――いつも私のそばにいたものな。

 ブランドン・リスターが手紙に書いていたとおり、ランバートは自分のことを好いている。初めて知ったときは冗談かと思ったほど、信じられなかった。

――なぜ、この私を?

 ウォリック卿が言っていたとおり、自分は相当な変わり者だ。サンドラになったときだって、明らかに周囲の女性たちから浮いていた。どこにも恋される魅力などない。

――だけど、そんな私を好いてくれている……。

 その事実が心を温めた。それだけで充分だった。

 だからこそ、ランバートには早く独り立ちしてもらいたかった。

 もし将来、売れっ子作家になれば、過去の経歴が彼を苦しめるかもしれない。女優をしていた件もそうだが、もしも何かのきっかけで自分の秘密が世間に知られると、従者をしていた彼も好奇の視線にさらされるだろう。スキャンダルが重荷になれば、作家生命だってあやうい。

――そう、彼は何も知らない。いや、知ったからこそ、私から逃げ出した。そんな事情にしておいたほうがいい。

 独り立ちさせるために、執筆の時間はもちろん、身の振るまいかたも教えている。ひとりの紳士として成長すれば、どこかの令夫人がパトロンになってくれる可能性だってある。

――一日でも早く、彼と別れなくては。ただの主人と従者として。

 雨が降りだす。アスファルトで舗装された道路がいっきに濡れ、雨粒の匂いがウィルフレッドをいらだたせる。

 辻馬車を探しているのかもしれないと考え、大通りに出てみた。ひっきりなしに通る馬車やひとびとの姿があったが、ランバートはいない。またレストランのまえにもどり、あたりをうろつく。裏口をのぞいてみた。

 まさか、ウォリック卿に言われたことが腹立たしいあまり、たしなめた自分を置いて帰ってしまったとか。しかし卿を非難するわけにはいかない。親しい友人ならともかく、三度しか会っていない伯爵令息なのだから。

「まったくもう。私を心配させるなよ」

 そんな愚痴がこぼれたとき、怒鳴り声が聞こえた。中年の男と少年が何やら言い争っている。ばっと半開きだったドアがあいたかと思うと、ヴァイオリンケースを抱えた少年とまともにぶつかった。

 その勢いで、置いてあった大きなゴミ箱へ背中をぶつける。

「あいて!」

「ごめんなさい!」

 少年の背後からまた怒鳴り声がした。あまりにも迫力があったものだから、無関係なはずのウィルフレッドもびっくりする。

 脱兎のごとく、少年が逃げ出した。あまりにも切羽詰まった顔なのが気にかかってしまい、つい追いかけてしまう。あの少年はレストランで見事な演奏を披露したヴァイオリニストだ。

「きみ、まちたまえ!」

 呼びかけるも彼は振り返らなかった。それどころか、そのままの勢いで夜の大通りへ飛び出す。馬車とぶつかる――と思った瞬間、フロックコート姿の男が少年の腕をつかむ。ランバートだった。

「危ないぞ!」

「ご、ごめんなさい!」

 そしてまたその場から逃げ出そうとするのだが、ウィルフレッドは引き止めるよう命じる。

「ランバート、何か深い事情がありそうだ。ひとまず、この子といっしょに逃げよう」

「旦那さま、厄介ごとをもちこむのですか?」

「その是非はあとでいいから、早く!」

 運良く、空の辻馬車が通りかかったので乗りこむ。三人はきつかったが、無理して座った。御者はいい顔をしなかったものの、運賃を多めに払うと軽快に馬に鞭をあてた。

 ウィルフレッドは後ろを見る。怒鳴っていた男の姿はなかった。ハートレー家の町屋敷のある通りへと、行き先を告げる。

 辻馬車の道中、ランバートは言った。酔いがひどいあまり、裏道で吐いてしまった。慣れない貴族の御仁と食事をしたせいで、緊張がひどかったのがよくなかった。だから、酔いを覚まそうと思い、大通りのカフェに入って紅茶を一杯飲んでいたという。

「私に一言告げればいいものを」

 ステッキで軽く頭を叩くと、ランバートは苦笑した。

「もっとゆっくりお食事をされると思ったんです。おれがいないほうが、話しやすいでしょうし」

「バカ。そんなわけないだろう。心配させるな」

「すみませんでした、旦那さま」

「あの、どこの旦那さまなんです?」

 会話に不安そうな少年の声がくわわった。

 ありったけの笑みで、ウィルフレッドは自己紹介をする。

「ああ、まだ名乗っていなかったね。私はウィルフレッド・ハートレー。彼は私の友人、ランバートだ」

「旦那さまって言ってたから、召使かと……」

「昔ね。今は友人。そういうわけさ」

 ランバートが補足する。

「ハートレー家の准男爵さまだぞ。言葉に気をつけるように」

「貴族さま? た、助けていただき、ありがとうございました」

 ウィルフレッドは言った。

「まだ礼を言うのは早いよ。きみはなぜ、レストランから逃げ出したのか、事情をきかないと」

「それは……」

 少年は口ごもってしまった。だから町屋敷へ到着するまで問いかけなかった。



 町屋敷に帰ると、ランバートにリネンのタオルを用意させる。雨に濡れた服と身体を拭くため、ウィルフレッドは寝室に入った。まだ名乗らない少年はランバートに任せる。

 しばらくすると、ノックしたランバートがドア越しに言った。

「旦那さま。あのガキ、手に負えません。おれが拭こうとしたら、ひどくいやがって、顔をひっかかれました。どうしましょう」

 寝間着に着替えたウィルフレッドはガウンを羽織り、ドアを開けるよう言った。濡れたフロックコート姿のままのランバートが入室し、肩をすくめた。

「だからおれ、言ったじゃないですか。厄介ごとを持ちこまないでくださいって」

「まだ事情を聞いていないんだ。判断はそのあとでいい」

「では、彼をお呼びしましょう。直接、お話しください」

 いったん退室したランバートは、少年を連れてやってくる。彼は大事そうにヴァイオリンケースを抱えていた。

 濡れて立ったままの少年に、ベッドに腰掛けたウィルフレッドは問うた。

「窮地を救ったのだから、きみは私たちに事情を説明する義務がある。そう思わないかな?」

 彼は答えない。視線を下に落とす。

「話によっては力になろう。ひどく怒鳴られていたが、親方か何かなのかい?」

「父です」

「ずいぶんと厳しそうな父ぎみだね。いつも殴られているとか?」

「いいえ」

「ではなぜ?」

 しばし沈黙したあと、少年は言った。

「音楽学校へ行けと言うんです。レストランの常連客に、そこの校長がいて推薦してくださるから、と。でもぼくはいやなんです」

「ヴァイオリンが好きじゃないのか」

「いいえ、好きです。とても」

「学校そのものがいやなのかな」

「本当は行きたいんです。でも行けない」

「深い事情があるようだね」

「……」

 ふたたび沈黙してしまう。何度かウィルフレッドが話しかけるが、それ以上、口をきいてくれなかった。よほど話したくない事情のようだ。

 だから今夜はひとまず休んで、明日、続きを、と言った。

「それはともかく、きみ。濡れた身体を早く拭きたまえ。風邪をひいてしまうよ」

 ランバートが手にしていたリネンのタオルが、身体にあてられる。

「やめろよ!」

「このガキ、いいかげんおとなしくしろ」

「ぼくにさわるな!」

 ランバートが言ったとおり、少年はひどく警戒している。ヴァイオリンをきつく抱え、身をかばうような姿勢になる。ひどく赤面していた。

 そんな光景だったが、どこかで覚えがある。

 あれ?

 まさか?

 そうだ。覚えがあるはずだ。目の前の少年は昔の自分のよう……。

 ウィルフレッドはランバートに退室するよう命じた。

「旦那さま、今夜はもういいでしょう。このガキが自分で拭きますよ」

「まだ話があるんだ。彼だけに」

「そうですか……」

 不服そうなランバートだったが、それ以上言わず、ドアを閉めた。彼には悪いが、あとは秘密を抱えた者同士でゆっくり話したい。

 なかばおびえた少年のまえで、ウィルフレッドはガウンを脱いだ。そしてこちらへ来るよう言った。

「あの、まだ何か?」

「きみが秘密を教えないのなら、まず私から見せよう。どう?」

「どうって言われても……」

「他言しないことを約束するなら、私もしない。取引だよ」

「それはお約束しますけど……」

 煮え切らない少年だったが、薄手の寝間着姿の自分を見ているうちに「秘密」がなんなのか察知したようだ。まさかと言わんばかりにヴァイオリンケースを床に置くと、鳶色の目を見開き、混乱したように薄茶色の髪をかきむしる。

 おそるおそる少年が近づく。冷たい彼の手を取り、おのれの胸に手をやった。

「……ああ、――わたしと同じだったなんて!」

「きみもなかなか大胆だね。ひとのことは言えないが」

「大胆だなんて。わたしは仕方なく……」

 少女の視線がまた下へ落ちる。

「父ぎみに言われて?」

「はい。歳のはなれた兄がいるんですが、ヴァイオリニストだった父ほどうまくなれませんでした。でもわたしだと、弾けるんです。だからどうしてもわたしをヴァイオリニストにしたいって……」

「そうか。深すぎる事情だな」

 おそらくドアのそばにいるだろうランバートを呼ぶと、案の定、彼はいた。母の寝間着と温かい飲み物を用意するよう命じた。

「ああ、そういうことだったのか…………」

 主人以外にも同じ秘密を抱えた者がいるとは、思ってもいなかったのだろう。少女へ向けられたのは驚きではなく、励ましだった。

「よかったな。おそらく世界中で一番、心強い味方だぞ――えっと、名前は?」

「ジョージアナ。――ジョージアナ・タイラーです」

 立ち去ったランバートの代わりに、ウィルフレッドは言った。

「いい名前だね。ジョージィと呼ぼうか」

「やめてください。男の子みたいでいやなんです」

「なるほど。きみは私とはちがうようだ。かわいそうに」

 ランバートが盆を片手にもどってきた。赤面したままのジョージアナへウィルフレッドが寝間着を着せ、ミルクティーを飲ませる。タオルで短い髪の毛を拭いてやった。

「今夜は遅いから、いっしょに寝ようか。シーツを用意する時間がない」

「ええ、でも……」

「たまには女同士で話がしたいのさ」

「だったら……」

 恥ずかしがるジョージアナがとても愛おしく感じられた。本意でない男装をしていたものの、自分と同じ境遇の少女に出会えたことがうれしかったのだ。

 ジョージアナの話を聞いているうちに、望みどおり、ひとりのヴァイオリニストにしてやりたくなった。しかし、給仕や料理人とちがい、女性が奏者として活躍するのはかなり険しい。女流作家のように、ペンネームを男性名にするという策も使えない。

「そうだよな。女学校でもヴァイオリンなんて教えないものな。ダンスと刺繍とフランス語とあとはピアノか。ピアニストも結婚したら、主婦になっておしまいだが」

「レストランでアルバイトをしているときも、少年のふりをするよう言われました。遅い時間だし、不愉快に思う客がいるからって」

「まったく。きみの才能を活かせないのが歯がゆいな」

 ウィルフレッドはふと思った。ジョージアナの本心はどれだろうと。

「あらためて質問をしようか」

「はい」

「きみはどうしたい? まずは父ぎみの言うとおり、ヴァイオリニストになるために男装を続ける。それが一番確実な近道だ。ただし、相当の覚悟が必要だ。秘密を守りとおすために結婚はもちろん、恋人はできないし、友人もかなり吟味しないとのちのち大変なことになる」

「かわいい服を着られないのがいやなんです」

「ああ、それもあるね。ならば、ジョージアナとしてヴァイオリニストの道を目指すのはどうかな」

「そうしたいけど……」

「学校には行けないし、アルバイトもできない。一番の問題は、ヴァイオリニストとしての仕事が来ない可能性が高いことだ。相当な実力がないと、道は断たれる。二流の男どもと変わらないレベルだと、きみが舞台に立つ意味がないからな。興行主だってリスクを取りたくないはず」

「だから父は反対するんです。ジョージアナだとヴァイオリニストになれないって」

「ならば最後の選択は、諦めるしかないか。世間の娘たちと同じように、ダンスや刺繍、家事を覚えて数年後に結婚する。それが一番、平凡だけど安定した幸福を得られるよ。どう?」

 しばらく返事がなかった。ジョージアナはまだ十三歳だ。心のなかでたくさんの葛藤をしているのだろう。

「あの、サー・ウィルフレッドはどうして……。その、えっと……ご結婚とかされたくないのかな……と。すみません」

 本当の性別を知ればだれもがする質問だった。ぎゅっと彼女を抱きしめ、優しく答えた。

「私は男装しているほうが、本当の私になれるんだ。だから結婚など考えたことはないし、するつもりはない。たしかに秘密を守るのは孤独だけど、令嬢にもどるのは窮屈すぎるんだよ。どちらかを選べと問われれば、前者さ」

「ええ? ドレスとか着たくないんです?」

「まあね。でもきみはちがう。ならば、本当のきみにもどしてやらないと。そうだ。明日、服を買いに行こうか。臨時収入があったから、プレゼントするよ」

「そんな。悪いです」

「まだ子どもなのだから、素直に甘えたまえ。センスのいいスタイリストがうちにいるんだ」

「はい」

 少女らしい笑みになるジョージアナを見ていたら、眠くなってきた。ウィルフレッドはそのまま目を閉じる。



 翌日の午前は買い物に費やし、ジョージアナの訪問着をデパートで購入した。少女用のコルセットやペチコートなどの下着をはじめ、紺色のドレスにベルト、帽子、傘、靴、ハンカチと小物もひと通り用意する。

 ジョージアナが言うには、二年前、母親が病死してから少女用の服を買ってくれなかったという。腕の良かったヴァイオリニストの父は、階段から落下した怪我のために、うまく弾けなくなった。何がなんでも兄を同じ職業につけたかったらしいが、兄はあまりうまくなかったし演奏が好きでなかった。

 その代償として、ジョージアナを一流のヴァイオリニストにしたかったらしい。父に教えられながら演奏をしていたのだが、友人やライバルがいたほうが勉強になる、と知り合った校長に説得されたという。奨学金つきの推薦だったのもあり、父は断りきれなかった。

 その音楽学校へ、ウィルフレッドは訪問着姿のジョージアナに案内されて向かった。ランバートがヴァイオリンケースを抱えてお伴をする。

 レンガ建てのいかめしい建物が見えた。門番の老人に校長と面会した旨を告げると、玄関ホールへ案内される。出てきた執事へ名刺を渡し、しばらく待機した。

 ヴァイオリンやチェロの音色が聞こえてきた。生徒が順番に演奏しているらしく、同じメロディーが繰り返される。どれも微妙に異なっていた。

 それらを聞くと、レストランで演奏したジョージアナのほうがずっとうまかった。校長が入学させたくなるのもわかる。

 やがて執事がもどってくる。

「エルドン校長がお待ちです。三十分なら時間をとれるそうですので、すぐにお会いしてください」

 まるで運が良かったのだと言わんばかりの執事。校長は多忙らしい。

 執事に案内され、廊下を歩き、ジョージアナとともに執務室へ入る。灰色のあごひげを生やした校長がいた。初老の彼は立ちあがると、笑顔で握手をした。

「はじめまして、サー・ウィルフレッド・ハートレー。して、私どもにどのようなご用件ですかな」

「ミス・タイラーの件です。貴殿から入学を推薦されているとお聞きして、私が代理人として交渉にまいりました」

 校長は首をかしげる。

「はて? ここは女子校ではありませんぞ。それにタイラー氏といえば、ジョージという息子さんがいらっしゃるはず」

「じつは娘さんなんです」

「はあ?」

 目を丸くした校長は、まじまじとジョージアナを見つめる。そして額に手をやり、嘆息をもらした。

「ああ、なんということだ。少女だったのか……。とても優秀な生徒を見つけたというのに」

 予想どおりの反応だった。ソファに座ったウィルフレッドは淡々と説得する。

「ミスター・エルドン。才能があるのでしたら、男女で選別するなど惜しいと思われませんか。寄宿が無理なら、近所で下宿して通学させることもできます。将来、彼女が立派なヴァイオリニストになれば、貴殿の学校だって大変な栄誉を授かることでしょう」

 校長は首を横にふる。

「たしかにそうですが。女子生徒が在籍しているとなると、父兄の苦情が殺到します。ここは男子校です。女学校ではありません」

「しかし、女学校ではヴァイオリンを教えていません」

「仕方がないでしょう。女子生徒は卒業しても、主婦になれば引退してしまいます。たとえ才能があったとしても、活躍できる期間が短すぎる」

「だから入学はさせないと? 結婚するとはかぎらないのに?」

「残念ですが、私どもは女子を入学させるつもりはありません。わが校の伝統です」

「ああそうかい。どいつもこいつも……」

 ウィルフレッドは「おじゃました。ごきげんよう」とだけ言い、ジョージアナを連れて執務室を出た。あのようすだとどう説得しようが、校長は許可しないだろう。時間のむだだ。

 玄関ホールにもどると、ヴァイオリンケースを抱えたランバートが待っていた。

「どうでした?」

 ウィルフレッドは肩をすくめる。

「取り付くシマもない。校長の言い分もわかるが、そこで男気を見せろよな。臆病者め」

「男子校ですもんね。女子生徒がいたら、彼らも落ち着かないでしょう」

「ひとりぐらいなんだ。ともに学ぶ仲なのに」

 ランバートは困ったような笑みを浮かべる。

「あはは。思春期の少年集団を舐めないほうがいいですよ……」

「少年は選択肢があっていいよな。ジョージアナがかわいそうすぎる」

 ずっと黙っていたジョージアナが口を開いた。

「ありがとうございました、サー・ウィルフレッド。お気持ちだけでもうれしいです」

 明らかに落胆してるだろう、少女をぎゅっと抱きしめる。

「すまないね。何も力になれなかった」

「いいんです。独学でがんばりますから」

「ああ。応援するよ」

 またヴァイオリンの演奏が聞こえた。さきほどとはちがうメロディーを、生徒たちが順番に演奏している。ときおりミスがあるのが微笑ましい。

「せっかくですから、ここで一曲、演奏して帰ります」

「それがいい。学び舎にいる少年たちに聞かせたまえ。ジョージアナ・タイラー、ここにあり、と」

 ヴァイオリンケースから楽器を取り出したジョージアナは、弦の調律をしたあと、弓を手に演奏を始めた。

 レストランで聞いたのとはちがう、情熱的で力強い曲だった。ありったけの思いをこめるように、彼女は弓を弾く。メロディーが玄関ホールに響き、こだました。突然の聞き慣れない奏者の演奏が、校内のひとびとを呼び寄せた。

 執事はじめ、雑用係の従僕、掃除をするメイド。つぎは空き時間の教師たち、階下の料理人とそのメイド。後半になると、やんちゃな男子生徒たちがどっと押し寄せ、口々に賞賛したり、驚いていた。断った手前、顔を出しづらいのだろう。校長の姿はない。

「おい、女子だぞ。入学するのか?」

「ここは男子校だぜ!」

 だれかがそう言うと、生徒たちは興味津々に質問を投げかけたり、声援を送る。それらにまったく触れることなく、ジョージアナは一心にヴァイオリンを弾いた。

 弾き終わると、ジョージアナは一礼し、ヴァイオリンを手にしたまま玄関ホールを出る。まるで逃げるように。そのあとをウィルフレッドとランバートは追いかけた。



 ジョージアナと音楽学校のまえで別れて半月後、彼女から一通の手紙が届いた。

 銀盆を手にしたランバートとともに、書斎で近況を読む。

 驚いたことに、玄関ホールでの演奏がきっかけとなって、さる有名ヴァイオリニストの、個人授業をうけることになったらしい。あまりにも見事な演奏ぶりに感銘した教師たちが、知り合いのプロ奏者を紹介してくれたのだ。

「やっぱり旦那さまは、勝利の女神なんですよ。おれのつぎはジョージアナちゃん。これで証明されましたね」

 あまりにも臭いセリフに、ウィルフレッドは赤面せずにいられない。

「偶然だよ、偶然。それよりきみ、ローマン座に送る脚本は順調かい?」

「はい。もう少しで完成です。時間がありませんから、細かい修正はなしですけど。どのみち採用されたら書き直しでしょうし」

「送るまえに私に読ませてくれよ。楽しみにしてるんだ」

 ランバートは照れくさそうな笑みを浮かべた。

「もちろんですが、いつも不安なんです。書いた本人は面白いかどうかわかりませんからね」

 ウィルフレッドは余裕の笑みを作り、新人作家を軽く小突いた。

「きみ、言ったじゃないか。私は勝利の女神だと。ならば、大船に乗った気でいたまえ」

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