第9話 ライバルは明日…後編
パーティーが終わった。いろいろありすぎて、アレックスはホテルの部屋にもどるなり、燕尾服を脱ぎ捨ててベッドに転がる。
「じゃあ、私は居間のソファで寝るから。おやすみ」
「ええ?」
アレックスは身体を起こす。寝室を見回すと、ベッドがひとつしかなかった。
――ああ、夫婦だから二人用の…………。
かつらを外してネグリジェ姿になったサンドラのもとへいく。
「お嬢さまがベッドでおやすみください。おれがソファに」
「何を言う。今回の旅はきみが主役なんだ。私は脇役でいいさ」
「いけません。お身体を冷やしてしまいます」
サンドラは肩をすくめた。
「今は従者じゃないんだぞ」
「あなたさまがいるかぎり、おれは従者のつもりです」
ため息が聞こえた。
「さっきのパーティーで思ったんだが、きみは自分自身の言葉を持っていないな」
「おれの言葉?」
「そう。作家アレックス・ランバートとしてのだ。あれこれ質問されたろう? そのときどう答えるべきか、きみは言葉を持っていなかった。なぜなら――」
少しだけ間をおき、彼女は話し続ける。
「大切な少年時代を、女優としてすごしてしまったからだ。ほら、私が令嬢サンドラとしての言葉を持っていないように、きみはひとりの紳士としての言葉を持っていない。だから返答に困ってしまうのさ」
「そうなのでしょうか」
「しかも女優でいるあいだは、ちやほやされた。そうしないと、きみが逃げ出してしまうと、支配人は思ったはず。売れっ子だったのに、用がなくなれば干されたのが、その証拠だ」
さすがに悪く言いすぎだ。アレックスは反論せずにいられない。
「支配人は貧しかったおれを劇団に入れてくれました。仕事仲間たちだって、かわいがってくれました。俳優になれなかったのは、演技が下手だったからです。音痴だったのもあります」
サンドラはまったく表情を変えなかった。
「表向きはね。だけど、よく考えてごらん。本当にきみの将来を思っているのなら、四年間も女装などさせなかったはず。ちやほやされたから、きみは残念なほうへかんちがいしてしまった。どう?」
「……」
「その顔。納得できないようだな。まあ、いいさ。それはそれ。まずは、きみにいろいろ教える必要がありそうだ」
ソファから立ちあがったサンドラは、アレックスの肩に手を置き、鏡台の前へ連れて行った。そしてふたりでのぞきこむ。オイルランプの明かりのもと、対照的な顔が映っていた。
「ほらごらん。今、きみは侮辱された、という顔をしているだろう。私はどうだい?」
「いつもどおりですが」
「それさ。残念ながら、作家になる者の大半は紳士の教育を受けている。いつ本音を出していいのかを計算しながら、交流しているのさ。だけどきみは?」
悔しいが主人の言うとおりだった。
作家たちに見下されたとき、どう答えるべきかわからなかった。感情的になってしまえばみっともないのは理解している。しかしそれよりさきの言葉が見つからない。
励ますように肩を叩かれた。
「きみがよければ、私ができる範囲でしよう。紳士としての教育を」
「旦那さまが?」
「私はマリガンから教わった。寄宿学校を退学したあと、あまりにも悔しくて泣いていたら、マリガンから言ってくれたんだ。『よろしければ、わたくしがお教えしましょうか』って。彼は以前、ある男爵の従者をしていた。主人が亡くなったから、私の屋敷へ転職した。だから紳士たる者のふるまいをよく知っている」
「そうだったのですか」
「ああ。ただし、本物にはなれないけどね。精神までは学べない。それでもふるまいを知れば、あとは自然と自信がついてくる。堂々としていれば問題ないさ」
決断は早かった。
アレックスは絨毯の上で跪くと、教えを請うた。
「お願いいたします。サー・ウィルフレッド。おれを紳士にしてください」
サンドラは破顔した。
「決まりだな。明日――は遊んで、明後日からにしよう」
そして主人はソファの上で目を閉じる。そこで眠るらしい。
アレックスはベッドで寝たふりをし、寝息が聞こえだしたのを合図に、サンドラをベッドに運ぶ。そっと身体を置き、優しく毛布をかけた。
自分はまだぬくもりの残るソファで横になり、ようやく夢の世界に入った。
翌日、アレックスは砂浜で日光浴をした。ふだん、薄暗い屋敷の階下や自室ですごしているから、まぶしいまでの太陽はありがたい。ここぞとばかり、日焼けした。
サンドラは浴用車に向かい、そのなかで水着に着替えて泳いでいるはず。自分が見ることはかなわないが、白いニット編みのドレス型水着がよく似合っているにちがいない。無邪気に楽しむ姿を想像するだけで、胸がいっぱいになった。
――旦那さまってかわいいんだよな。
たしかに女性らしくないが、だれかを言いなりにしようとしたり、策を講じて利用しようとはしない。その少年のような純真さにひかれている。
そしてときおり見せる、無自覚な女としての戸惑い。その落差がたまらない。
だから好きになったのだと、ようやく気がついた。
あとは、まっすぐに立ち向かう勇気と強さ。自分に一番ないものだ。
その主人が、劇団の支配人を良く思っていなかったことが、ショックだった。
――もしかして初めから、劇作家になれるわけがないと、思われていたとか?
二度ほど読んでもらったが、主人と感想が正反対だった。
――そうだよな。ちょっと金を出せば、ハッチャーのような気鋭作家がいくらでも書くだろうし。でもいい人なんだけどな。しょせん、商売だからかな。
憂鬱になりながら、そんなこんなを考えていると、ワンピース姿のサンドラが歩いてきた。スカーフを頭に巻いた彼女は、かなり泳いだのか、疲れた顔をしている。
隣に座るなり、感想をもらした。
「調子に乗って、海水を飲みすぎた。もう、しょっぱくて喉がからからだ」
「いったい何をされたんです?」
「潜って、泳ぐ魚を見たくて……。そしたら痛くて目が開けられないし、やっと見えたと思ったら黒い昆布ばかりだし、監視係のおばさんに叫ばれるし。溺れてるって思われて、おじさん集団に連れもどされた。まったく、おせっかいだなあ。おもいっきり笑われたよ」
「サンドラさんらしいですね」
あまりにも子どもっぽくて、アレックスはどっと笑った。
「あーあ。やっぱり笑われた。二度と来ないだろうから、思いっきり楽しんだのさ」
「来年も泳げばいいじゃないですか」
「バカ。おまえはいないんだぞ。私の秘密を知らない者を、お伴にするわけにいかないじゃないか」
「あ――」
アレックスは忘れていた。
そうだった。従者なのはあくまでもネタを集めるため。めどがついたころ、奉公生活を辞める約束だった。
始めは一年もあればいいかな、と呑気に考えていたのだが、知らず知らずのうちにいつまでも奉公するような錯覚におちいった。
「その顔。考えてなかったのか?」
「すみません。目の前のことばかりに追われて、いつまでとはまだ」
「そうか……」
しばらく会話がなかった。
ふたりは黙って、よせ返す青い波を見つめる。
――旦那さまと別れるなんて、耐えられない!
アレックスはつい、心の奥底へ閉じこめていた思いをもらした。
「あの、ずっと従者でもいいですよ、おれ」
「え?」
「作家なんて、だれでもなれるものじゃないし。売れたとしても、一作だけだったらたちまち貧しい生活にもどります。もともと、有閑な人たちがする職業だし、その」
立ちあがったサンドラは怒鳴った。
「ランバートのバカ野郎! しょせん、その程度の夢だったのか? 湖水地方へ行くつもりが誤って山小屋になったとき、おまえは言ったじゃないか。『そんなつまらない人生はいやなんです』って。自分からそうなってどうする? くそ弱虫め!」
「だっておれは――」
――あなたが好きなんです。
そう言ってしまいたかったが、ぐっとこらえた。
「意気地なしはきらいだ。いつでも従者にもどれると思ったら、大まちがいだぞ。そんな情けない従者、私は要らないからな。わかったか!」
かなりの剣幕に、アレックスは動揺した。自分なりの優しさを見せたつもりが、主人を激怒させてしまった。
何がいけなかったのだろう。
サンドラは背を向けて歩き出す。あとをついていこうとするが、足が動かなかった。
そのままホテルにもどる――と思ったが、とうとつに彼女は踵を返してもどってきた。苦虫を踏みつぶしたような表情とともに。
「最悪な旅だ。また会いたくない連中がいた」
「例のドスケベ医者が?」
「いや、フォーブス一家だ」
「ええ? それは最悪ですね……」
クリスマスの日、ジェミマ・フォーブス嬢との縁談を、ウィルフレッドがひどい言葉で断ったできごとを思い出す。そういえば成人祝いのパーティーで、ジェミマは言っていた。一家は毎年、夏になると、ブライトンで海水浴を楽しむのだと。
あれからまったく交流がなかったから、すっかり忘れていた。主人も同様のはず。
「しかもよりによって、同じホテルだ。フォーブス氏がロビーにいた」
「向こうは気がつかれました?」
「いや。サンドラになっていて助かった」
「じゃあ、何食わぬ顔でもどりましょう。給仕係だったおれのことなんて、向こうは覚えていないはずです」
「そうしよう」
ふたりは腕を組み、新婚夫婦らしく笑顔で話しながら歩いた。ホテルの玄関に入り、ロビーに足を踏み入れる。聞き覚えのある声が耳に入るも、無視して階段目指した。
二階の踊り場まで到達した。問題なかった。
アレックスとサンドラは顔を見合わせ、たがいの手を叩いた。楽勝だったと。
「あの、あなた、ハートレーさんのお屋敷で働いていらしてなかった?」
サンドラに腕を引っ張られるのだが、アレックスは反射的にふり返ってしまう。
「ミス・フォーブス?」
ジェミマ嬢が階段にいた。黄色と白のストライプ模様のワンピース姿がかわいらしい。
まずいと判断したらしく、サンドラはさっとスカーフで顔を覆う。
「……ああ、やっぱりそうなのね。まだお屋敷でご奉公を?」
「ええ、はい」
「夏季休暇かしら」
「そんなものです」
ジェミマは微笑む。
「あなたのご主人さまはお優しいのね。ブライトンで遊べるほど、給金をいただいてるのでしょう? 噂では家計が赤字で、いろいろ金策されているってお聞きしたわ」
どう答えるべきか?
しかしサンドラに言わせるわけにはいかない。声や話しぶりで正体を見破られる可能性がある。
「あくまで噂ですよ。わが旦那さまはしっかりされてますから、心配しておりません」
「そう、よかったわ。伝えていただきたいことがあるの。それで呼び止めたのよ」
「なんでしょう」
「三年前から求婚されていた遠戚の弁護士さんと、来年、結婚することにしたわ。だから、わたしのことはどうかお気に病まず、おすごしくださいって。お願いね」
なんだ、そんなことか。
なじられるのかと身構えていたアレックスは、安堵の笑みをこぼさずにいられなかった。
「承知いたしました。ミス・フォーブス」
ロビーから父親のフォーブス氏が、ジェミマを呼ぶ声が聞こえる。姉娘家族たちの声も加わり、とてもにぎやかな家庭風景がうらやましかった。
遅い昼食後、帰り支度をするアレックスのもとへ、ボーイが伝言メモを持ってきた。
『きみだけに大切な話がある。ぜひ、聞いていただきたく。ジャック・ヘストン』
なんだろう、と思い、メモされていた場所へ行ってみる。
ホテルの隣にあるカフェにヘストンはいた。奥隅のテーブルから手を振られる。
帰りの汽車の時刻が迫っているので、アレックスはコーヒーだけを注文すると、あいさつもそこそこに言った。
「大切な話ってなんですか?」
昨夜とはうってかわり、紳士らしい笑みを作るヘストン。
「ランバートくん。きみがよければ、ローマン座の舞台劇を書いてみないか? 僕の友人が依頼されていたんだが、病気で無理がきかなくなってしまってね。急遽、代わりの劇作家を探しているらしいんだ。今朝、僕あてに電報がきた」
ローマン座といえば、アレックスが働いていた劇団よりずっと有名だ。一流ほどではないが、開演すればかなりの来客を見込める。
しかし疑問もある。
「なぜおれなんです? ヘストンさんが書けばいいじゃないですか」
ヘストンの笑みが苦いものに変わる。
「もちろん、僕も書く。だが、採用されないだろう。何を書いても、今ひとつなんだ。文章は評判なんだけどなあ。ストーリーがだめなんだろう」
「おれらだけじゃないんですね」
「保養地に電報がきたぐらいだ。ほかの作家にも依頼しているんじゃないのかな。いくつかの脚本を集めて、そのなかから評判になりそうなのを選ぶらしい。正式な依頼はそのあとあるそうだ」
「へえ。それは絶好の機会ですね。ローマン座かあ」
「だろう? では、きみも参加するという意向でいいかい」
「もちろんです」
「ならば、来月末までに僕のところへ原稿を送ってくれ。住所は名刺にある。僕がまとめてローマン座へ持って行くから。テーマは歴史と悲劇だそうだ」
「はい!」
アレックスはヘストンと握手を交わすと、足早にカフェを出た。
――ブライトンへ来てよかった!
作家仲間ができたおかげで、こうしてめぐってきた幸運を分け与えてくれる。その代わり、何か吉報があれば、自分もヘストンへ与えないとならないのだろう。借りっぱなしでは、人間関係が続かない。
――どちらにしても、これはチャンスだ。何がなんでも書かないと。
高揚した気分のまま、帰り支度をすませ、鉄道駅へ向かう。街道を通っていると、みやげ物屋がたくさんならんでいた。白い壁や赤い屋根のカラフルな建物に、色とりどりの貝殻がならんでいる。
ローマン座の脚本依頼で、アレックスは浮かれていた。目についた店に入ると、サンドラに言った。
「お好きなのを選んでください。おれのプレゼントです」
「ええー、いいよ。私はそういうの興味ないし」
冴えない表情の主人。
「じゃあ、お好きな色はなんです?」
「青かな」
「これにしましょう」
透明な瑠璃色のガラス玉が連なった、白い貝殻の首飾りを選び、レジへ持っていく。庶民向けのみやげ物なので大した金額ではなかった。
その買ったばかりの首飾りを、サンドラの首にかけてやった。
「とってもお似合いです」
「ああ、そう。いやにきげんがいいな」
呆れ顔のサンドラともに、鉄道駅へ向かう。プラットフォームにつくと、すでに列車は到着しており、急いで二等客車に乗った。
車内を見回すが、例の医者はいない。耳をすますが、聞こえるのは乗客が乗り降りする足音と、知らない人間の話し声、プラットフォームの物売りの呼び声、機関車の蒸気が吹き出す音……。
「ああ、よかった……」
「帰りは平穏無事だな」
すっかり安堵したアレックスとサンドラは、座席に並ぶとどちらからともなく、目を閉じた。たがいの肩を寄せあい、旅の疲れでうたた寝をする。
心地よい列車の揺れ。
スリにやられてはいけないと、ときおり目を覚ましたアレックスは、肩掛けカバンを抱え直す。肩にもたれかかったサンドラはすっかり安心したのか、寝息を立てていた。
――あれだけ泳いだんだ。お疲れなのだろう。
目を覚まさないよう、そっとストールをかけてやったとき、天敵の気配を感じ取った。
――まさか。まさか、まさかっ!
「おまえ、こっちの車両にいたぞ。やあ、きみたち。海水浴、どうだったかな?」
「…………」
アレックスは硬直する。そして歯ぎしりした。
――おまえら、わざわざおれらを探していたのかよっ!
こいつのことだ。プラットフォームの隅で、自分たちが駅へ来るのをまっていたにちがいない。ほかの時刻にも列車はあるのに、二度も偶然が重なるものか。堂々と姿を見せれば、隠れてしまうだろうから、故意にべつの車両に乗りこみ……。
考えるだけで頭痛がした。
診察スマイルの医者はアレックスの前の座席に腰掛ける。またも向かい合っての旅路だ。
さてさて、とさっそく話しかけた医者へ、釘を刺す。
「すみませんが、妻は疲れています。話しかけないでください」
「ええー? せっかくまた会えたのになあ」
拳を握りしめながら、それを彼らの眼前に見せる。
「いいですか、先生。これから一言でもお話になれば、沈黙の鉄拳がまっています」
「そうかい。きみ、拳闘――ボクシングは?」
「……」
正直に答えてしまうと、自分が弱っちいのがばれる。
「僕はね、学生時代、拳闘をしていたんだ。大学別の対抗試合へ出場したこともあるんだよ」
――やっぱり、いやなやつ!
憤怒のあまり、アレックスは気が狂いそうになる。
その自分の表情があまりにもゆがんでいたのだろう。さすがに遠慮したほうが良いと判断したらしく、医者夫婦は「忘れ物をした」と理由をつけて、もといた車両へ退散した。
――なんとか追い払えた……。
ほっとした。またうたた寝をしてしまう。
そのとき、サンドラの手が自分の手に触れた。思わず握りしめる。そのまま列車に揺られた。
――もうすぐお別れだろうし。今日ぐらいいいよな……。
そう自分に言い聞かせ、サンドラが目を覚ますまで手を放さなかった。
ハートレー家の屋敷にもどった翌日から、アレックスの多忙な生活が再開する。従者としての仕事は減ったが、その代わり、ウィルフレッドが約束したとおり、紳士としての教育が始まった。
朝、いつものように主人を起こし、着替えをすませるのだが、そのとき服や小物の選び方を教わる。
「流行は必ず知っておくように。普段着は好きなのをくたくたになるまで着ても問題ないが、訪問の用事があるさいはそうはいかない。そうだな。きみは予算の都合があるだろうから、最低でも五年に一度は訪問用のスーツを仕立て直したほうがいい。収入が増えたら、できるだけ既成品は避けろ。サイズがちぐはぐしていると、それだけで印象が悪くなる。さあ、メモをとったかい?」
「はい、旦那さま」
「あと、ステッキ。籐製が軽くて丈夫で人気だ。格好つけて金属製など購入したら、あとで後悔するぞ。そしておしゃれを決めるのは、握りの部分だ。虎や鷲などの動物が無難だろう」
「はい。動物……と」
「外出では手袋も必ずするように。使用人を雇うだけの財力があるという意味がある。それは承知しているだろう」
「ええ。おれらは手袋なしですから」
「もちろん、シャツは白。値が張ってもリネンがいい。きちんと糊をしてアイロンをかけるように。これはマリガンから聞いているよな?」
「はい。あとカラーもですよね」
「黄ばんだものを決して訪問用に使うなよ。陰で笑われる」
「わかりました」
「ネクタイは黒か暗色。ベストは少しぐらい派手でもかまわない。おしゃれを楽しみたいときは、ベストにこだわるのさ」
「そうなんですか。旦那さまのベストはいつも地味ですね」
「私はおしゃれに興味がないからな。無難なのを選択している。できるだけ目立ちたくない」
「なるほど。どんな御仁なのかを、身なりで判断できるというわけですか」
「そうさ。メイドを雇うことがあれば、きみが教育するんだ。よく覚えておけ。あと、髪の毛は短くさっぱりしたほうが好感がもてる。伸ばすのはウォリック卿のような、洒落者としての自覚がある連中ぐらいだろう」
「さすがに長髪は挑戦しませんよ」
ここでふたりはどっと笑った。
身なりに関しての教育が終わると、ウィルフレッドは執事マリガンを呼んだ。彼に喫煙道具一式を持ってこさせる。
木箱の蓋を開けると、紙煙草の入った箱、葉巻、パイプ、嗅ぎ煙草、シガレットケースが詰めこまれていた。
「ランバート。きみに私の喫煙道具を譲ろう。煙草を吸わない紳士などいない。そうだな。紙煙草とシガレットケースだけでいいか。パイプもだが、葉巻は古臭い」
アレックスは迷った。
紳士しての小粋なアイテム、煙草。
たしかに憧れてはいるが、がんばって禁煙をしているウィルフレッドを差し置いて、自分だけ吸っていいものだろうか。
もし、彼の目の前で吸うと、どう思われるだろうか。
――本物の紳士になりたかった。
そう、うらやむのだろうか。
「お気持ちはありがたいですが、おれには必要ありません」
「え?」
まさか断られるとは思わなかったのだろう。ウィルフレッドの目が見開かれる。
「格好ばかりつけても、中身は半人前です。作品が売れて、自信がついたときまでのおあずけにしたいんです」
ウィルフレッドはうなずく。
「なるほど。楽しみはとっておいたほうが、やりがいがあるってものだ」
「はい」
そのつぎは姿勢、話し方と続くのだが、数日で身につくものではない。毎日、午前の時間を使って、こつこつと教育される。午後から就寝までの空き時間は、ローマン座で上演されるかもしれない脚本を書くのに使った。
その合間を縫って、マリガンを観察するのを忘れなかった。
見かけによらず、なかなかのキャリアの持ち主だ。貴族の従者をしていたことは知らなかった。そもそもそんな世間話をするほど、上司とは親しくない。
――思い切って、仲良くしたほうがいいのかな?
午後の茶の時間、満面の笑みで今日の天気の話題をふってみたが、マリガンは眉をひそめる。
「おまえ、熱でもあるのか?」
「いえ、健康です……」
そこで会話は終わった。
――ああ、おれ、まだ警戒されてる……。
がっかりするのだが、落ちこむひまはない。
アレックスは自室にこもると、十日かけて考えた劇の脚本を書くため、タイプライターに向かった。
おわり
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