第8話 自転車と六月の花嫁…後編



 リスター家の別荘にはテニスコートが設けられていた。招待客があれば、遊びや社交として使われ、みなでスポーツを楽しんだ。

 新婚旅行から帰ったばかりのリスター夫妻。サンドラ・ブラッドリーは別荘に招待されたが、ブランドン・リスターのこともあり、あまり気乗りしなかった。しかしクレアの女友達なのだから、あれこれ理由をつけて断るのも良心が痛んだ。

 自分で自分のことをお人よしだ、と自嘲しながら、久しぶりのテニスをした。

 ぽん、とテニスボールが飛んできたので、思いっきり打ち返した。勢いついたボールは、相手コートから外れた位置で跳ね返る。

 リスター家の従僕がそのボールを拾っているあいだ、ペアになったネイサン・ソートン氏が、紳士らしい笑みとともに和やかに言った。

「惜しかったですね。つぎは僕にお任せください。点を入れてみせますから」

 テニスラケットを構え直し、サンドラは答える。

「私も入れますから、心配ご無用ですわ」

「あはは。面白いご婦人だね」

「……」

 唇を尖らせ、陽気に笑うソートンをにらんでやる。

――うっとおしいやつだな。

 コルセットがなかったら、もっと早く動けるのに、もどかしくてたまらない。

 今朝、別荘に到着したとき、すでにソートン氏はいた。ブランドン・リスターと旧知の仲らしく、彼らは歳の離れた兄弟のように親しく話していた。

 その後、紹介し合ったのだが、ソートン氏はリスターのパブリック・スクール時代の個人教授だった。上級生のとき、進路指導を受けていたという。

「父は僕を政界へ出したかったけれど、僕はいやでたまらなくてね。延々と議論するのが苦手なんだ。でも反対されるのが怖くて、ソートン先生に相談したのさ。先生は僕のために尽力してくださって、父を説得した。だから、希望の進路に進めたんだ。今でも大恩人だよ」

 紹介時、リスターはそう言った。だから毎年夏になると、別荘に招待してのんびり楽しんでもらっていた。

 教鞭をとっていたソートン氏だったが、長男の兄が病死したため、実家である牧師館に帰った。牧師として後を継ぐためだった。そのとき、村長が紹介した女性と結婚したのだが、出産時、妻を亡くしてしまった。三年前のことだ。今は兄嫁とその娘、小さな息子とで暮らしているという。

 別荘の居間で茶を飲みながらそんな話を聞いているとき、壁やマントルピースに飾られたリスター一家の写真が目に入った。どの写真もみな笑顔で明るく、幸せそうな顔をしていた。

 とくに両親にかわいがれ、期待されているリスターの写真は多かった。少年から青年、そして大人へと成長していく彼の姿がまぶしく、うらやましくもあった。

 四つ下の弟もいたが、彼は残念ながら運動も勉強も苦手だと聞いた。背は高いが、顔は男前とはいえない。気の毒なほど写真が少なかった。家族と写っているのがわずか二枚、あとは優雅にヴァイオリンを弾く姿があるぐらいだ。

――へえ、弟がいたのか。初めて知った。

 不出来な家族を隠すような雰囲気の一家に、サンドラは複雑な思いがした。彼はひとり息子だと思いこんでいたのだ。結婚式にも披露宴にも姿がなかったことから、問題がある弟ぎみなのだろうか。

 その謎の弟ぎみは別荘にいない。両親もいない。新婚夫婦だけでゆっくりすごして欲しいという、両親の計らいだった。

 男女ペアでテニスをしているうちに、サンドラは飽きてきた。後方にいるソートンがよけいな気を使って、ほとんどのボールを打ち返したからだ。ときおり、目のまえに飛んだ緩いボールだけを打つのなら、小さな子どもだってできる。

 一ゲーム終了した。僅差でリスター夫妻の勝ちだった。

「あはは。若い夫婦にはかないませんね。ミス・ブラッドリー」

 タオルで汗を拭うソートン。

「ええ、そうね」

――そっちが単独で張り切るからだよ。

 そう突っこみたいのをこらえながら、微笑んだ。クレアも爽やかな笑顔を見せた。

「ねえ、ペアを交代しましょうよ」

「それいいですね」

「ならば」

 そう三者が会話するのを、サンドラはさえぎった。男女ペアになれば、つぎはリスターのやつがほとんど打ち返すのが見えている。

「私、レディ・クレアとペアを組みたいわ」

「ええ?」

 三人が同時に驚きの声を出した。

「一度でいいから、女性対男性で対戦してみたかったの。ねえ、面白そうじゃない?」

 ラケットを両腕に抱き、思いっきりおねだり声で懇願してみた。

 ソートンは「ご冗談を」と苦笑するのだが、リスターは同意した。

「いいね、それ。僕は賛成だ」

「ブランドンさんがそうおっしゃるのなら、わたしも」

「一回だけですよ」

 サンドラが後方、クレアが前方に立ち、相手がわはリスターが後方、ソートンが前方だった。

 まず、サンドラがサーブを打つ。渾身の力をこめて、ラケットを振った。

 すぱーん、と小気味よい音がし、ボールはコートに着地して跳ね返る。

 どうせご婦人だから、と高を括っていたのだろう。男ふたりは唖然とそのボールを見つめているだけだった。

 つぎはリスターがサーブを打った。サンドラは予想していた位置へ走り、両手でラケットを握って打ち返した。うまい具合に、コートぎりぎりにボールが入り、弾んだ。

――リスターのやつ、少年時代の癖が抜けてないな。

 寄宿学校にいたころ、何度も彼とテニスをした。たいてい、自分が勝った。なぜなら、何度か対戦するうちにパターンを読めるようになったからである。

「すごいわ、サンドラさん!」

 素直に喜ぶクレアにガッツポーズをしてやる。

「これがスポーツ精神ってものよ。やるなら本気を出しなさい、と坊っちゃん学校で習わなかったのかしら!」

 そう言いながら、二度目のサーブを打つ。リスターが打ち返した。それを追いかけ、打ち返す。ソートンが打つが、力が入りすぎたのかコートから外れてボールは着地した。

「やったー、また点が入ったわ!」

 無邪気にはしゃぐクレア。

「その勢いで頑張りましょ!」

 さあ、来い、と相手のサーブボールを構えて待つ。ソートンが打った。

 あまり動きのなかったクレアが走り、打ち返そうとした――が、間に合わなかった。代わりにサンドラが打った。

 そのとき、みぞおちに痛みが走った。コルセットの締めつけで、身体の動きに無理がきたのだ。

 それでも我慢して、試合を続けた。体力が落ちてきて、初めのころの勢いがなくなる。しまいには、まったく点を入れられなくなった。終盤は息が切れ、立っているのもやっとのほどだった。

「ミス・ブラッドリー!」

 試合が終わるなり、ソートンが駆け寄る。本意でなかったが、彼に抱きかかえられるようにして、テニスコートをあとにした。

 ランバートがいればいつものように、彼が気づかってくれたろう。しかし、休暇をやったので別荘にはいない。侍女として連れて行くことはしたくなかったし、執筆させる時間を与えたかった。



 翌日はサイクリングを楽しんだ。

 近ごろ、安全自転車が上流階級のひとびとのあいだで普及し始めていた。庶民にはとても買えない高級品だが、富豪であるリスター家にしてみればただの流行品のひとつにすぎない。別荘には五台の自転車が用意されていた。

 サンドラは感激した。

――バイシクレット型自転車、乗ってみたかったんだ!

 くそったれゴードンや、どうしようもない母親が借金を作らなかったら、欲しかった品物の筆頭だった。

 牧師のソートンも同じ思いだったらしく、初めて乗る自転車に目を輝かせている。

 彼らの乗る自転車はかっこいい。鉄でできた繊細な骨組みは、前輪だけが巨大な自転車――ペニー・ファージング型より、はるかに乗り心地が良さそうだ。

 リスターが言うには、後輪駆動に変わった結果、車輪が前後同じ大きさで走れるようになったらしい。そのおかげで、安定して駆動できるから、長時間のサイクリングも可能になったのだ。それまでのペニー・ファージング型はあまりにも不安定すぎて実用性がなく、スポーツというより好奇心を満たす遊びに近かった。

 だが。

 サンドラは悔しさのあまり、涙がこぼれそうなのをこらえる。

――どうして、紳士だけの乗り物なんだよっ!

 リスターとソートンは六月の爽やかな風を浴びながら、別荘の周囲を軽やかに自転車で走る。あまりにも楽しそうで、笑顔のふたりを見ていると怒りがこみあげるほどだった。

「わたしたちもサイクリングをしましょうよ」

「ええ……」

 自分の思いを知らないクレアは、何の疑問を持つことなく用意された三輪自転車にまたがる。スカート姿の女性でも乗れるように車高は低いし、何より三輪なのだから転倒する心配がない。

 しかしスピードが遅すぎた。ペダルは重くて、早歩きするのと変わらない。

 そして何より耐え難かったのが、かっこ悪いことだった。

 さらに憂鬱なことに、自分とクレアの後ろを、バスケットや水筒を抱えた従僕とメイドがついてくる。まるで子守りをされているようで、居心地悪いことこのうえない。

 クレアの横へ自転車を走らせ、サンドラは言った。

「ねえ、リスターさんたちが乗ってらしてる、あの自転車。乗ってみたいと思わない?」

 彼女は目をぱちくりさせる。

「サンドラさん、乗ってみたいの? あれ、殿がた用に作られているのよ」

「いや、そういう意味じゃなくて……。純粋にうらやましいとかない?」

「なぜ? スカートですもの。無理だわ」

「ズボンだったら?」

 クレアは顔を紅潮させる。

「やだ、そんな、はしたないかっこう、できるわけないわ!」

「そうよね…………」

 あの二輪自転車を見た彼女も同じ思いかと、期待した自分が愚かだった。

 コルセットは苦しいし、自転車は三輪だし、窮屈すぎる令嬢の生活は楽しめないことだらけだ。クレアと会話を合わせるのも、神経を使った。油断すれば、いつもの自分が出てきそうだった。

 丘の上に到着する。すでにリスターとソートンが待っていた。自転車を木陰に止め、おいしそうに紙煙草を吸っている。禁煙中のサンドラには、誘惑いっぱいの煙だった。

 ぞろぞろと召使たちも到着し、敷物を敷いた。バスケットからサンドウィッチやスコーン、ケーキを出し、カップに紅茶を注ぐ。用意されたランチを食べながら、サンドラはピクニックを楽しんだ。

 いや、楽しむふりをしていた。

 キュウリのサンドウィッチを食べていると、ソートンが話しかける。

「ミス・ブラッドリーは楽しいですね。僕の知っているご婦人に、あなたのような方は今までいませんでした」

――ああ、きたか。

 無理に笑顔を作り、答える。

「まあ、そうですの? 私、いつもこんな風ですから、自覚がなくって……」

「へえ、いつも? それは愉快だな。さぞかしお家はにぎやかでしょうに」

「いえ、ひとり暮らしですの」

「お仕事――家庭教師を?」

「准男爵の従弟から援助を受けてますの」

「そうでしたか。それは大変失礼な質問をしてしまいました」

「いえ、いいんです。みなさま、そうおっしゃるから気にしてませんわ」

「あの、もうひとつ不躾な質問をしたいのですが」

「よろしくてよ」

「ご結婚の約束をされている御仁はいらっしゃるのですか?」

「……」

 昨日会ったばかりなのに、突然何を言う?

 ウィルフレッドの自分なら間髪入れず、質問返しをしてやるのだが、令嬢サンドラの自分はどうしていいのかわからない。視線をそらし、赤面するしかなかった。

「だめですよ、ソートン先生。ミス・ブラッドリーだっていろいろご事情があるんですから」

 リスターが困った顔であいだに入ると、クレアも苦笑した。

「そうですわ。もっとべつのお話をしましょうよ。――そうね、サンドラさんはどなたからテニスを習われたの? とってもお上手で感激したのよ、わたし」

――寄宿学校で。

 と、口にしそうになり、急いでべつの理由を考える。すると、リスターが言った。

「仲の良い従弟どの――サー・ウィルフレッドだよ。僕と同級生だったんだが、なかなか筋が良くてね。いつも負かされた」

 そして苦笑する。

 ソートンが口を開く。

「へえ、僕もお会いしてみたいな。社交界とはあまり縁のない生活だから、お見かけする機会がなくてね」

 クレアが思い出したように笑う。

「サンドラさんに似てらっしゃるのよ」

「性格が似てるのかい?」

「いえ、背格好が似てるの。雰囲気も。だけど、中味はとてもかっこいい御仁だから、お会いしてみたら楽しいわよ」

「ミス・ブラッドリーと外見が? ますますお会いしたいな」

 リスターが手を軽く横にふった。

「あまり興味本位でお会いしないほうがいいですよ。彼は少年時代から病気がちでしてね。背丈が伸びなかったのも、それが原因なんです。寄宿学校だって、わずか一年半で退学してしまいました」

 ソートンの代わりにクレアが決まりの悪そうな顔をした。

「まあ、そうだったの。わたし、何も知らなくてつい……」

「申しわけない、ミス・ブラッドリー。決して興味本位で詮索したのではないこと、ご理解いただけますよね?」

 ようやく話が終わりそうだ。サンドラは社交の笑みとともに答えた。

「ええ、もちろんですわ。あ――紅茶のおかわりいただけます?」

 従僕がポットから熱い紅茶を注ぐ。それを飲みながら、話題はリスターとクレアの新婚旅行へ移った。



「ああー、疲れたー……」

 長かった一日がようやく終わり、客室のベッドにぐったりと横たわる。昨日もそうだった。

 サイクリングのあとは刺繍をしながら、クレアと話をしたのだが、これもまた興味のない話題ばかりで、どうしようかと思ったほどだ。

 流行のファッションはわからないし、社交界の令夫人のこともよく知らないし、独身だから結婚生活のあれこれは話せないし、だからといって従弟――いや自分自身のことを話題にするのは避けたかった。話せば話すほど矛盾が出てきて、秘密が発覚しそうだ。

 途中、リスターがソートンを呼び、四人でカードゲームが始まったときは安堵した。空気を読まず――いらいらしてあえて読まなかったのだが、セブンブリッジを三連勝してやった。ソートンからまた「楽しいご婦人」と言われたのには辟易したが。

 そんな自分の前でリスターとクレアは見つめ合い、微笑んでいた。新婚旅行で仲睦まじくなったのだろう、以前のようなよそよそしいふたりではなかった。

――まさか、ソートン氏との縁談を勧めるんじゃ……。

 そんな予感がし、背筋が寒くなる。

――あとでしっかりリスターのやつに釘を刺さなくては!

 カツラをはずして箱に隠し、頭にスカーフを巻いた。ネグリジェ姿でベッドに入る。万が一、だれかが入ってきたときのための予防策だった。

「あーあ、私、何をしているんだろ……」

 寂しそうなクレアを元気づけるために、女友達になったのはいいが、自分がいなくても楽しそうだ。

「なんなんだよ、あいつ……」

 あいつとはもちろん、ブランドン・リスターのことだ。

――何が『僕はときおり、愛するひとの慰めが欲しくなる』だよ。どう見ても、必要なさそうじゃないか。

 そうつぶやいたとたん、なぜか涙がにじんだ。

――バカ、バカ、リスターの大バカ野郎。ふざけた野郎め…………!

 枕に八つ当たりするも、虚しくなる。

 目を閉じて、明日の予定を考えた。

 午後には帰るから、ソートン氏の件を早めに話しておかないと。あと、適当な理由をつけて、単独行動をしたい。

――あのかっこいいバイシクレット型自転車に乗りたい!

 計画を練っているうちに、眠りに落ちた。



 朝、メイドが自分を起こしにやってきたら、体調が良くないから、と言って着替えを手伝わせなかった。朝食をベッドに運ばせ、そこですばやくとる。

 その後、午後の出発まで休むと理由をつけて、客室にだれも入らせないようにする。おそらくクレアが気づかって部屋に入ろうとするだろうから、眠るので遠慮したいと、あらかじめ部屋付きのメイドに伝えておいた。

 リスター夫妻とソートン氏が朝食をとっているあいだ、サンドラは着替える。旅行鞄に入れておいた旅行用の男性スーツを取り出した。何かあったときのために、一着だけ用意したのだ。役に立ってよかった。

 ズボンの上にスカートを履き、夏用の袖なしコートを羽織る。スカーフを頭に巻き、大きめのかばんを肩からかけた。

 そっとドアを開け、廊下にだれもいないのを確認すると、一気に駆けた。正面玄関を突破し、裏庭にまわって車庫へ向かう。途中、玉子かごを抱えたメイドと遭遇したが、彼女は料理担当らしく、自分を見てもまったく気に留めなかった。

 車庫に入る。五台自転車が並び、そのなかから一番、汚れているのを選んだ。黙って借りるのだから、返却したとき使用感が目立つようではいけない。

 サンドラは自転車を押しながら、別荘から離れた。周囲を見渡す。リスター家の召使はいない。

 木陰に入り、スカーフとコート、スカートを外す。かばんから山高帽を取り出し、被った。外した衣類はかばんに詰める。

 そして念願の自転車にまたがった。ペダルをこぐ。初めて乗る二輪車はバランスをとるのがむずかしかった。おそるおそるスピードを上げてみる。三輪車とは比べものにならないほど、軽かった。そして早かった。

 まるでつむじ風のように走る乗り物に、サンドラ――ウィルフレッドは感動した。

「早い、早いぞ!」

 笑いがとまらず、丘を走っているあいだ興奮がやまなかった。味わったことのない楽しさだったが、しばらくすると慣れてきて、自分がどこを走っているのか気になった。

 近くにある道標を見たら、村まで四マイルほどあった。

「よし、パブでビールを飲もう」

 丸二日も窮屈な令嬢生活をした自分へのご褒美だった。

 ひたすらペダルをこぎ、目的の村を目指す。さきほどまで晴天だったのに、だんだん雲が厚くなって空が暗くなる。雷が鳴った。

 突然の大雨。そのままやりすごそうと思っていたが、とても旅ができる天候ではない。仕方なく、雨宿りできる場所を探す。残念なことに、どこを見ても丘と草原だけだった。

 こうなったら村まで自転車をこいだほうが早いかもしれない。

 そう判断し、水を吸った服の重さと気持ち悪さをこらえながら、道を進んだ。

 自転車が大きく揺れた――かと思った瞬間、ペダルが空回りした。バランスを失い、転倒する。ぬかるみのなかへ身体を打ちつけた。

 口の中に泥水が入った。立ちあがり、ぺっぺと吐く。そして地面に落ちた山高帽を拾うのだが、泥だらけで被れそうになかった。

 自転車は故障していた。ペダルをこいでも車輪は回らず、押して歩くしかない。どうやら車輪を駆動させるチェーンが切れたようだ。一番、使い古したのを選んだのがまずかった。

「最悪だ…………」

 山高帽をサドルにかけ、とぼとぼと自転車を押して歩く。右足が痛みだした。パブまであとどれぐらいかと、十字路にあった道標を見たら二マイルだった。

――まだ中間地点だったのか。

 ならば潔く別荘にもどったほうが早い。自転車の向きをぎゃくにして、来た方向へ歩いた。

 雨足はじょじょに弱くなり、さっきまでの悪天候が嘘のように晴れた。爽やかな初夏の陽気がよみがえる。しかし、ウィルフレッドの右足首の痛みはひかなかった。それどころか、だんだんひどくなる。歩くのが苦痛になるほどだった。

 ふと、ランバートのことが恋しくなる。

 何かあったとき、いつも従者の彼がいた。役に立たないことも多かったが、一番、さきに駆けつけてくれたのが彼だ。どうしようもない事態に陥っても、ランバートがいれば八つ当たりできたし、それでかえって冷静になることができた。

「ランバートのバカ。肝心なときにいないとは……」

 いつもの八つ当たりだったが、今回は遠く離れているからやってくることはない。

 ついに歩みが止まる。荷馬車が通るのを待って、乗せてもらうしかない。道の端に座り、雨で濡れた身体をさすった。

――そういえば、以前も似たようなことがあったな。

 二月にゴードンの野郎に冷水をぶっかけられたときだ。

 あのときはあまりにも頭にきて、濡れた格好のまま馬車に乗ってしまった。近くの宿かパブに入って暖炉にあたり、服を乾かせばよかったのに、屋敷に帰ることしか考えられなかった。

 体温を奪われたせいで感冒にかかり、高熱で死にかけるところだった。そんな自分のそばにずっといたのは、ランバートである。

――あのあとなんだよな。母上とランバートの仲が険悪になったのは。

 執事マリガンと対峙したときとは違い、とても冷たい空気をまとっていた。もともと母は気分屋で、好かれるタイプではないが、ランバートの嫌いかたは尋常ではない。

 ウィルフレッドはあの夜のことを思い出す。

 高熱でよく覚えていないが、ほかにも母が何か言っていたような……。

――ウィルフレッドのまま死なせたら、あたくしに貯金が。

 そんな意味合いの言葉を聞いたような。もしかして自分を見殺しに?

 まさか。母親なのだからありえない…………。

 ぼんやりと記憶の糸をたどっていると、馬の足音が聞こえた。道向うから、乗馬服姿の紳士がやってくる。

 助けを求めようとしたウィルフレッドだったが、相手を見てやめた。

――ネイサン・ソートン!

 一瞬、彼と目が合うが、何事もなかったかのようにそらした。呑気に鼻歌を披露する。まるでサイクリング途中の休憩だと言わんばかりに。

 たちまち彼の姿が小さくなり、安堵した。しかし後悔もした。

――せっかくの助けすら求められないなんて……。

 心細いあまり、両膝を抱えてうずくまるしかなかった。

 数分もしないうちに、また馬の足音がした。今度こそ、顔見知りでないのを期待しながら相手を確認する。ブランドン・リスターだった。

 彼は自分を見るなり、馬から降りる。

「きみ、どうしたんだ、その格好は! 泥だらけじゃないか」

 黙って自転車を使ったため、言いわけなどできるはずもなく、素直に白状する。

「自転車に乗りたくて。そうしたら、途中で雨が降ってきて、チェーンが切れたんだ。そのとき転倒した。おまけに右足を捻挫したみたいで……」

 乗馬服姿のリスターは額に手をやり、大きなため息をつく。

「ああ、どうして僕に言わない? 乗りたいのならいくらでも乗せてやるのに」

 ウィルフレッドはむっとした。

「なんだよ。あのスカート姿で乗れっていうのか? それこそ笑われるだけじゃないか」

「僕だけに、そっと言ってくれればよかったんだ。そうしたら、ズボンだって貸してやったさ」

「本気で言ってるの?」

 以前、会ったとき、あれほど「令嬢として生きるべき」だと言っていた。彼らしくないセリフである。

 リスターは申しわけなさそうに肩をすくめる。

「僕の失態をきみが救ってくれたとき、考えを変えたのさ。きみの思いを尊重しよう、とね」

「私の思い? 私を許せないから、無視をしたんじゃないのか?」

「どう話していいのか、わからなかったんだ。僕のわがままにきみをふり回してしまったし、少年時代と何も変わらないと、情けなくなったのもある」

「少年時代とは別人のようだよ」

「外見だけさ。中身は簡単に変わらないものだよ。なぜなら」

 少しだけしかめっ面をし、観念したようにリスターは言った。

「僕がきみに泣きついたのは、きみを独り占めしたかったからなんだ。ほら、ときどきだれかが僕の文房具や靴を隠したことがあったろう? じつはあれ、僕の自演だったんだ」

「ええ?」

「きみが僕をかばい、慰めてくれるのが幸せでね。そのためだけに、嘘ばかりついた」

「そんな、まさか。きみが……。天使のようだと思っていたきみが?」

 リスターは苦笑する。

「従順なふりをして、策を練るのが僕の処世術さ。逆らえない父親とうまくやっていくためのね。ソートン先生のことだって、先生ならば僕の味方になってくださると判断したからだ。きみも感じたとおり、あの先生は人を疑うことをしない。そして弱い立場の者には親切なんだ」

「昔から策士だったのか。やられた」

「でも結局、きみの強さに救われた。これも昔から変わらない」

 ウィルフレッドはリスターに抱きかかえられ、馬に乗せられる。彼も馬に乗り、鞭をあてる。別荘の方向へ歩き出した。

「壊れた自転車は?」

「あとで使用人に取りに行かせる。面倒だったらそのまま置いておけばいいさ。だれかが拾って使うだろう」

「お金持ちはちがうなあ」

 リスターの背につかまりながら、気になっていたことを言った。

「あの、レディ・クレアとはうまくいってる? 彼女、心細そうだったから心配だったんだ」

「そうさせないようにする。両親のためとはいえ、結婚を申しこんだのは僕だ。無責任なことはしたくない」

「よかった。きみにはほかに好きなひとがいるんじゃないかって、私に相談したことがあったんだ」

「なんだって?」

 ふり返ったリスターは明らかに驚いていた。

「私も驚いた。だから世間知らずの伯爵令嬢だと思わないほうがいいよ。女性の直感はなかなか鋭いものさ」

「きみが言うと説得力あるな」

「まあね」

 そしてふたりで失笑した。これも昔にもどったようでうれしかった。

 ウィルフレッドの格好のままでもどるわけにいかず、いったん別荘近くの厩舎へ入る。リスターが馬をつなぐあいだ、隅でスカート、コート、スカーフを身につけた。これも雨で濡れていたが、かばんに入れていたおかげで、湿った程度ですんだ。

 リスターとソートンは村のパブまで、乗馬をしていた。自転車もよかったが、あれは尻が痛いからと、なじみある馬にしたという。たまたま目的地が同じだったため、ウィルフレッドを見つけることができたのだ。

「ソートン先生、パブで僕を待っているだろうに。そろそろ痺れを切らして、帰るころかもしれない」

「あとで私が謝っておくよ」

「いや、それはよしたほうがいい。一度、きみを見かけているのだろう? 疑われる確率が高まるだけだ。僕が適当な理由をつけておく」

 あとのことはリスターにたくし、ウィルフレッドはサンドラになって、そっと別荘の客室に帰る。メイドに湯を用意させ、泥だらけになった服を脱ぎ、訪問用のドレスに自分で着替えた。

 医者が来たので診察すると、軽い捻挫だった。ベッドから落ちたときひねってしまったのだと、嘘をついた。痛む右足は湿布してもらい、歩くときは借りた杖を使った。



 午後、杖をついたサンドラとソートンは別荘を出発する。リスター夫妻はもうしばらく、新婚生活を別荘で楽しむことにしていた。

 帰りの馬車に乗る前、長旅に必要だからと、軽食の入ったバスケットをリスターから手渡される。そのなかには手紙も入っていた。おそらく、感謝のそれだろう。

 向い合って座るソートンは、昔を思い出すように笑った。

「ブランドンくんは変わらないな。いつもにこやかで気配りを忘れず、父ぎみによく似てらっしゃる」

 見かけたことはあっても、話したことがないジョゼフ・リスター氏。興味を持ったサンドラは言った。

「ほかに似てらっしゃるところは?」

「うーん、そうだな。ハンサムなところだろうな。氏はとても女性から好かれていてね。若いときそれはもう、恋のスキャンダルが数多あったそうだ。だけど、夫人とご結婚されてからは、家庭を大切にされたそうだよ。まあ、建前はね」

「建前? どういう意味ですの?」

「あの家族写真、見ただろう? ブランドンくんの弟さん。父親はリスター氏でないという噂なんだ。僕が教鞭をとっていたときも、そんな話を耳にしたことがある。ブランドンくんも父親を見て思ったのだろう。弟ぎみのことはまったく話さなかったし、校内で会っても他人のふりをしたそうだ」

「そんな。知りませんでしたわ……」

「まあ、公然の秘密だよ。その話題を出せば、貿易商会のリスター家から交流を断たれてしまう。だれも口にしないのがマナーだ」

「そうですの。結婚式に出席されないご事情がわかりましたわ」

「弟ぎみのほうが、実家にまったくもどらないそうだ。この春、パブリック・スクールを卒業したそうだが、インドの貿易商会で働いているとか。昔の同僚から聞いた」

「じゃあ、お会いすることはできないのね」

「ああ。だからだろうなあ、氏が息子の彼に過剰な期待を寄せるのは」

 遠い目をして、ソートンは車窓の景色をながめる。彼なりにいろいろ思うことがあるのだろう、それからしばらく会話はなかった。

 鉄道駅までまだ距離がある。時間をつぶそうと、リスターからもらった自分宛ての手紙を開いた。

 ともに楽しい時間をすごしたお礼が簡単に書かれていた。

 そして、意外な人物のことが下の文章にあった。

――ランバートが?



 あと、きみの従者には気をつけたほうがいい。

 どうやら彼は、きみのことを主人以上の想いで見ているようだよ。

 なにかあるまえに、適当な理由をつけて解雇するのをおすすめしておく。

 あくまで僕の助言として、心の片隅に留めておいて欲しい。



 サンドラはその手紙をくしゃくしゃに丸めると、乱暴にハンドバッグのなかへ入れた。

 気持ちの整理がつかず、わが屋敷にもどるまで、ずっとそのことを考えた。



おわり

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