第7話 透きとおった冷たい炎…後編



 翌朝、いつものように茶と新聞を主人の寝室へ運ぶが、痛みがおさまらないようだ。昨夜と同じようにアレックスを見るなり、うめき声が返ってきた。

「かなりつらそうですね。医者にかかります?」

「いやだ。あいつはスケベ…………」

「ああ、たしかにあの医者はどスケベですから、おれも苦手です。でも、スケベ野郎だからいやだ、と悠長におっしゃってる場合ではありませんよ。スケベなとこぐらい、我慢しましょうよ。あのスケベさ以外は、いい先生ですから」

「……何度も強調するな」

「それで行きますか?」

 しばらく無言が続き、ようやく決心したようにウィルフレッドはうなずいた。

 ふたりで屋敷を出、庭の外れにある園芸用の物置小屋へ入る。周囲が木々に囲まれているから、人目を避けるに好都合だった。

 もしものときのために用意しておいた、ローズグレーのワンピースを主人に着せ、ボンネットの帽子を頭に被らせた。顎でリボンを結べば髪が短いのを隠せるからだ。

 どこにでもいそうな村娘に変装したウィルフレッド――サンドラを背負って、アレックスは荷馬車に乗せる。使用人夫婦を装っているため、箱馬車は使えなかった。

 村にある診療所はさいわいなことに、ほかの患者はいなかった。医者もちょうど外診を終えたらしく、ひと息ついて妻の看護婦と茶を飲んでいた。

 が、アレックスたちを見るなり、勢い良く両手を広げる。

「ようこそ、新婚さん! ……いや、もう新婚じゃあない? もしかしておめでたかな?」

――やっぱり来るんじゃなかった!

 踵を返したいのをこらえながら、アレックスが症状を説明した。

 緩みっぱなしだった医者の顔が、真面目なものに変わる。悪い病気なのかと不安になった。

「きみ、奥さんをこき使ってはだめだよ。メイドをしているのだろう? 週末ぐらい、のんびりさせてあげなさい」

 どうやら盛大な思いちがいをしているようだ。だが、本当の生活ぶりを話すわけにはいかないため、曖昧な返事をするしかなかった。

「あと、煙草を吸ってないかい?」

「え? べつに……」

 とっさに嘘をついた。

「そう。じゃあ、奥さん、隠れて吸ってるんだね。いけないなあ、それは」

「それほどだめです?」

「だめだめ。ご婦人の健康には良くないよ。まだ若いのに、そうとう血行が悪いんだろうね。顔が青いじゃないか」

「そうですか……」

「あとは身体を冷やさないように。とくに腰とお腹ね。夏だからといって、薄着は禁物だよ。子供ができない身体になったら悲しいだろう」

 結局、「もっと奥さんをいたわれ」という説教とともに、痛め止めの薬を処方された。

 医者にかかるあいだ、サンドラは一言も話さなかったが、帰りぎわの荷馬車で、悔しさいっぱいの声で言った。

「…………私に煙草をやめろ、だと。無茶言うな」

 アレックスはなだめる。

「医者の言うとおりですよ。おれ、前から心配してましたよね。吸い過ぎじゃないかって。これを機会にやめましょうよ」

「いやだ」

「わがままおっしゃらないでください。それとも、毎月、苦しみます?」

「……」

 煙草を吸えないことがかなりこたえたらしく、また目を閉じ、唸り、黙ってしまった。

――煙草は紳士の必須アイテムだからなあ……。

 気の毒に思いながらも、安堵している自分がいた。

 いくらウォリック卿に認められたからといって、中味は女性なのだ。本物の紳士たちと同じように行動しようにも、限界がある。

 美しい銀細工のシガレットケース。アレックスは好きでなかった。

 ブランドン・リスターもだが、ウォリック卿もあまり関わりたくない種類の人間だ。どちらの貴公子も、主人が親密になればなるほど、本来の彼女の姿から遠ざかるような気がしてしまう。

 だけど。

 アレックスは隣で目を閉じるサンドラを見て、おのれの心にぞっとした。

――ああ、おれは何を自惚れているんだ?

 リスターが言い残したあのときのように、冷たい炎がおのれを包むのを感じた。



 診療所から帰宅するなり、ウィルフレッドが煙草を吸わないよう、アレックスは喫煙道具をすべて隠した。紙煙草とシガレットケースはもちろん、来客用の葉巻、先代がつかっていたパイプと嗅ぎ煙草入れ、マッチ、灰皿などなど。

 マリガンにも協力してもらい、主人が煙草を一本だけ、と所望されようが、かたくなに拒んだ。主人が病気がちの原因のひとつが、過剰な喫煙だと知ったマリガンは大賛成だったようで、あれだけアレックスと確執していたのが嘘のように親しくなる。

 しかし当の禁煙中の本人は納得できないようで、やたらと呼び出しベルを鳴らしては「少しぐらい、いいじゃないか」と寝巻き姿でアレックスに詰め寄る。

「いけません。医者の言うとおり、妊娠できなくなったらどうするんですか」

 勢い良くクッションが飛んでアレックスの顔面を直撃する。羽根が寝室に散った。

「いきなり生々しいことを言うな!」

「わからないですよ。もしものことがあるかもしれません。まさかの将来のために、お身体を大切にしてください」

「ランバートのバカ、バカ、バカ…………」

 そしてうめき声をあげ、ベッドに倒れる。激しい腹痛が襲ってきたようだ。

「なんで私ばかりこんな目に……」

 嘆く気力すらなかったらしく、それきり無言になった。

――こればかりは、おれもどうしようもないからなあ。

 また気の毒に思いながら、耐えてくれるのを祈るしかなかった。

 翌日もそのまた翌日も呼び出されては煙草を所望され、断り、八つ当たりされを繰り返す。

 あまりにもしつこいから、アレックスはバード夫人にお願いし、ハーブの入った飴玉をいくつかもらった。

「煙草を!」

 寝室へ呼ばれ、所望されるなり、用意した飴玉を主人の口へ入れた。

「飴でまぎらわせてください。ミントが効いてますから、気分転換にはいいですよ」

 がっくりとうなだれ、彼は言った。

「…………かっこ悪すぎる」

「おれしか見てないから気にしないでください」

「そういう問題じゃ……。うう……」

 さらに一日すぎたころは諦めたのか、ウィルフレッドはすっかりおとなしくなった。腹痛も和らいだらしく、呼びだされてもうめき声が聞こえることはない。

 久しぶりな笑顔の主人に茶を所望され、アレックスは安堵した。

 その深夜、狭い自室で眠っていたアレックスだったが、何者かが部屋を荒らす音で目が覚めた。

――泥棒?

 同僚である使用人のだれかが、金欠か何かで私物をあさっているのだろうか?

 怖くなり、しばらく目を閉じたままじっとしていた。

 暗闇に目が慣れてくる。何者かの背中がぼんやりと見えた。相手が大男でないとわかった瞬間、アレックスは飛び起き、泥棒らしき何者かを捕らえる。

 小さな悲鳴があがる。

 その声を聞いて、脱力した。

「旦那さま。おれの部屋で何をされているのです?」

 小声で、しかし怒気をしっかり含ませそう問うと、消沈した答えがあった。

「煙草……」

「すっかり中毒になってますね。困ったなあ」

「一本だけ。な?」

 従者の部屋に忍びこんでまで煙草を探しだす、情けない主人に折れてしまう。

「わかりました。一本だけですよ。催促してもそれきりですからね」

「よかった」

 アレックスはベッド下へ置いている旅行鞄をあけた。捨てようにも捨てられない原稿が入ったままの封筒を取り出す。中から銀細工のシガレットケースを取り出して、蓋を開いた。

 渡す間もなく、ウィルフレッドがすばやく煙草を手にした。ナイトテーブルに置いているマッチをすり、火をつけてやった。

「…………ああ、生き返るっ!」

 そのマッチの火でろうそくを灯す。橙色の明かりに照らしだされるのは、紙煙草を吸う小粋なウィルフレッドの姿だった。

「煙草はいいから、そのシガレットケース、返してくれないか?」

「だめです。誘惑のもとをすべて断たないと、吸いたくなりますよ」

「ウォリック卿からいただいた私の宝物なんだ」

「それでもだめなものはだめです」

 ウィルフレッドは唇を尖らせた。

「それがあれば、心強いんだ。だめ?」

 そんなことを言われてしまえば、なおさら渡したくなかった。

「しっかり禁煙できるようになるまで、おれが預かっておきます。いいですね」

「ちぇ。厳しいな」

 煙草を吸い終わったとたん、ウィルフレッドの手が封筒に伸びた。渡すものか、とアレックスが奪い返すと、勢いで封筒が逆さになる。ばらばらと例の原稿が床に散らばった。

「へえ、きみ、新作を?」

 即座に回収するには枚数が多すぎた。読ませたくなかった原稿の一枚を手にしたウィルフレッドは微笑む。

「資金がなくてパトロンは無理だが、感想はいいだろう。だって私はきみへネタを提供しているのだから」

 断りたくてたまらなかったが、提供元から催促されれば首肯するしかなかった。



 翌朝は何も言わなかったウィルフレッドだったが、その日の夕刻、午後の茶とともに書斎に呼び出された。

 ついに酷評の嵐が来たか、と身構えるアレックス。

 紅茶にクリームを入れ、飲み、ソーサーに置いたウィルフレッドはようやく言った。

「すごいな。前作よりずいぶんと良くなっている。きみが書いたとは思えないほどだった」

「ええ? あれ、劇場の支配人に上演できないって言われた代物なんですが……」

「大衆劇場はそうだろうね。どちらかといえば、文芸サロン向きだよ」

「文芸サロン……。そんな集まりがあるのですか」

「私は好きだな。ほかの者にも読ませてみよう。もしかすると、パトロンを名乗り出る淑女がいるかもしれない。出版社の者も参加しているかもしれないぞ」

 予想外すぎる好評価にアレックスはとまどう。本心から褒めているのか不安になり、具体的な感想を求めてみた。

 やや沈黙があり、答えが返ってきた。

「だれもがうらやむはずの貴公子の正体が、強欲な化け猿だなんて、初めは喜劇かと思ったんだ。でも、その猿貴公子が求婚した姫にだけは、正体そのままの姿に見えるという設定が気に入ってね。さらにその姫に密かに恋している森番の息子――結局彼だけが姫を信じて救い、猿貴公子を殺害した罪で、死刑になってしまうわけだが、なぜハッピーエンドにしなかったんだろうって、ずっと考えてしまった」

「まあ、悲恋ものですから」

「姫と森番の息子が結ばれるのなら、大衆劇場で上演できたかもしれないよ。それでもなぜ、悲恋に?」

「それは…………」

 アレックスは言葉に詰まる。

「それは――そのほうが現実的だからです。それだけです」

 頭のなかをさまざまな言葉がかけめぐり、ようやく出した答えがそれだった。

 ウィルフレッドは少しだけ苦笑した。

「計算しながら書いていないのか。感性豊かな劇作家だな」

「ええ、はい」

「前作のようにモデルがいるのか?」

「いえ、いません」

「なんだ。いるかと思って期待したのに」

 アレックスの心臓が止まりそうになる。

――猿貴公子のモデルが、ブランドン・リスターだなんて、死んでも言えない!

 はらはらしながら執務机の前で立っているアレックスへ、ウィルフレッドは意外な贈り物をすると言った。

「名刺ですか、おれの?」

「ああ。もしきみを紹介して欲しい、と名乗り出る者がいたら、その名刺を渡したい。名刺はすべての紳士淑女に必要な小物だよ」

「いつ紹介するのです?」

「社交界で知り合ったなかに、朗読サロンを開いている令夫人がいるんだ。私がその脚本を読んでみようと思う」

「すごいことになってきましたね」

 ウィルフレッドはどっと笑い、いつものようにアレックスを小突いた。

「あはは。きみ、劇作家を目指しているのだろう。すでに怖気づいてどうする?」

 朗読会で披露するには長いので、書き直して短い話にまとめるよう依頼される。

 やがて、ウィルフレッドのもとへ朗読会への招待状が届いたのを見ると、アレックスは緊張を覚えずにいられなかった。



 ロンドンのウエスト・エンドにある某邸宅で、朗読サロンが開かれた。

 演劇や文芸に興味がある紳士淑女たちが集い、それぞれ持ち寄った脚本を朗読する。シェイクスピア初め古典を詠じる者がいれば、流行作品を選ぶ者がいる。そして無名作家や、落ちぶれた作家が、自作小説を披露する場でもあった。参加者のなかには、出版社の上役がいて、もし彼らが気に入れば出版契約を結ぶこともある。ただ、確率は低かった。

 さすがにサロンに顔を出すのはまだ早すぎる、というわけで、アレックスは従者としてついていった。

――いきなり参加しろ、って言われても何も話せないよな。

 いつものように影役に回ることができて、ほっとする。

 邸宅の階下にある使用人ホールで待機するのが常だったが、今回は自作が朗読されるのだ。適当に理由をつけて抜け出す。裏階段を使って廊下を歩き、広間の出入り口横でようすをうかがう。

 そっとのぞいたら、古典劇を朗読している老紳士の番だった。明らかに読んでいるおのれに陶酔しているらしく、ときおり頭を揺らし、拳を握り、朗々と語る。王のセリフは威厳たっぷり、小姓の愚痴は愛嬌いっぱいでさながら喜劇役者のようだった。

――すごいな。素人とは思えない。

 上中流階級の有閑な人々は、無報酬でさまざまな特技を披露するのが高尚な趣味とされていた。ある者は朗読会のように演劇、またある者は音楽、またある者は政治、またある者はスポーツ、いった具合だ。

 しかし貧しい庶民は労働だけで精一杯だ。紳士たちがいうアマチュアリズムとは無縁の生活だった。どんなにうまくて面白い脚本を書いたとしても、売れなくては生きていけない。固執すればするだけ、周囲から蔑まされる。

 老紳士が終わると落ち着いた拍手が鳴り、感想が語られ、つぎの朗読者へと移る。

 眼鏡をかけた彼は若かった。しかし覇気がなく、語る内容もつまらなかった。見たことも聞いたこともないタイトルの作品である。

――もしかして、あれが売れない作家?

 せめて代わりの者に朗読をしてもらえばいいのに。いや、ひょっとすると本人が直接顔を出すほうが、出版社の人間に覚えてもらえるから好都合なのかもしれない。

 彼が終わったら、拍手はあったが感想は曖昧に濁されるだけだった。だれも具体的にコメントしないことから、冴えない結果に終わったようだ。

「もうやめようかしら」

 主催者である令夫人がぽつり、とつぶやいたのが聞こえた。とたん、青年の顔が真っ青になる。青いガス燈の明かりでさえはっきりわかるほどだ。

――ああ、パトロンをやめるのか……。

 まるで自分のこれからの境遇のようで、アレックスは生きた心地がしなかった。

 そしてつぎはウィルフレッドの番だった。燕尾服姿の彼はアレックスがタイプした原稿片手に、広間の中央へ歩む。すうっと、一度深呼吸し、少年のように澄んだ声で、朗読を始めた。

 老紳士のようにうまくはないが、切々と訴えるような語りにだれもが耳をかたむける。

 演劇に興味がなさそうな主人がなぜ、朗読を嗜んでいるのかというと、寄宿学校時代、課外活動の一環だった。ちなみにピアノとヴァイオリン演奏もふくまれていた。

 アレックスは両手を組み、神に祈らずにいられない。

――ああ、どうか、無事に終わりますように!

 パトロンとか出版のことは頭になかった。

 なぜなら、あの脚本の内容を披露されることが、何より恥ずかしかった。

――そう。あれはおれの悲恋の話。今さら気がつくなんて!

 なぜ悲恋にしたのかといえば、いくら主人を愛しても結末は報われないと決まっているからだ。従者として仕えながら、ときおりこみあげてくる衝動が虚しかった。

 ウィルフレッド、いや、サンドラはブランドン・リスターに恋している。理性では恋仲になることを拒否しているものの、何度か見せた涙が本心を物語っていた。おそらく、彼女自身ですらその感情にとまどっている。

 いくらずるい紳士だろうが、彼は男前だ。そして既婚者になっても、愛する女性を充分満たせるだけの財力もある。声は甘く、ささやきの言葉は媚薬のようだ。

 一方的に愛人にしようとしたり、孤独につけこんで肉体関係を結ぼうとしたが、それだけ魅力ある貴公子なのだろう。スプリング伯爵家の夜会で、「友人として」リスターの窮地を救ったことが何よりの現実だった。おのれの秘密をウォリック卿へ打ち明けてまで救いたいほど、大切なのだ。

 そんな男と争っても、まったく勝ち目はないのは自分自身がよくわかっていた。

 架空の世界だからと、猿貴公子に化けさせて、劇で願望を満たそうとする自分が醜くてたまらなかった。

 やがて朗読は、猿貴公子を弓矢で貫き、死なせた森番の息子が非難される場面になる。姫が何度も真実を訴えるものの、猿の魔力に惑わされたままの領主は貴公子を愛息子と信じている。だから、姫の訴え虚しく、最後、見世物にされて処刑されてしまう。

――だけど、そうでもしないと、姫の心には残らない。一生。

 決して報われない恋ならば、おのれの死を賭けてまで姫を救うのだ。それしかない。

 姫は死ぬまで、おのれのことを忘れないだろう。いや、忘れたくても忘れられない。不毛で残酷な恋愛成就の手段である。

――どうして旦那さまのことが、好きになったんだろう?

 女性らしさが微塵もないし、怒れば容赦なく辛辣な言葉を浴びせるし、憎い親戚には拳銃までぶっ放すとんでもない令嬢だ。そして紳士として生きたい、と願っている。まったく恋の相手にふさわしくない。

 答えが出ないまま、広間の入り口で立ち尽くしていると、拍手が鳴った。

 一礼するウィルフレッドへ、感想が告げられる。

 なかなか好評だったが、それで終わりだった。次回作の要望や出版の話は出てこず、作者がだれなのか問いかける者はいなかった。

 次の朗読者が詠じ始めたころ、アレックスは階下の使用人ホールにもどった。朗読会が終わるまで放心したように、ぼうっと天井を見つめていた。



 その日の晩餐はレストランでとった。主人と向い合って座り、朗読会の成果を話す。

 カレー料理を食べながら、ウィルフレッドが言った。

「感触は悪くなかったな。けれど、朗読者がまずかったかもしれない」

 申しわけなさそうにされると、かえって恐縮してしまう。

「いえ、たくさんの紳士淑女がたに聞かれただけでも満足です。そういう機会、まずありませんから」

「野心がないなー。以前の意気込みはどうしたんだい?」

「あの作品、書いたおれが言うのもなんですけど、あまり好きじゃないというか……」

「なぜ?」

「感傷的すぎるような気がして」

「そうかな。あれぐらい情念をぶつけたほうが、聞き手の心を揺さぶると思うよ、私は」

 情念、と言われ、どきりとした。

 まるで自分の心をのぞき見されたような気分になったからだ。

――旦那さまはおれの気持ちに気がついているのだろうか?

 ふと、そんな思いがよぎる。

「そんなものないですよ。なんていうか、その、想像というか……」

 ウィルフレッドはワイングラスを置いた。にっこり微笑む。

「そうか。きみ、恋をしたらいいんだ。ほら、よく言うじゃないか。だれかを好きになれば、世界が変わるって、ね」

「……」

――その恋の相手はあなたなんです!

 喉から出そうになった言葉をのみこみ、ごまかし笑いをするしかなかった。

 もし告白してしまえば、主人と従者の関係は終わってしまう。いつもそば近く仕えているのだから、異性として意識していることを知られると仕事にならない。そもそも、それが従者になる暗黙の了解だった。

 そして思った。

――ああ、おれが男らしくないから、旦那さまはおれを従者にしたのか。

 かつて女優をしていた経歴が今さらのように重くのしかかった。

 デザートのトライフルを食べながら、ウィルフレッドはため息をつく。

「うーん、そうか。元気がないな。どこからも声がかからなかったから、がっかりしているんだろう、きみ」

「いえ、かえってほっとしました。次回作と言われても、まだ何も考えてませんから」

「じゃあ、つぎのネタ探しだな。どこか旅行――と言いたいが、わが家の家計がなあ。間の悪いときに奉公させてすまないな」

「いつでもいいですよ。のんびりいきますから」

 食べ終え、レストランを出ると、ハートレー家の町屋敷まで歩いて帰る。いつものようにアレックスが主人の寝室を整え、洋服タンスから寝巻きとガウンを出し、就寝の準備を手伝った。

 田舎屋敷のように衝立がなかったから、シャツを脱ぐ主人へ背中を向ける。今、ふり返れば、肌をあらわにした彼女の姿があるはず。

 従者を始めたころ、何度か偶然、裸体を見てしまったが、まったく動揺しない主人に衝撃を受けたのを思い出す。恥じらってしまうと、女としての弱味を見せることになるから、あえて堂々としていたのかもしれない。

――もしブランドン・リスターだったら、そのままベッドへ押し倒すのかな。

 ふと、そんな光景を想像してしまった。

 見えない冷たい炎がアレックスを覆う。それはだんだん強くなり、息をするのが苦しいほどだった。

「あ、飴玉がない」

 寝巻き姿のウィルフレッドが、ベッドに腰かけ肩をすくめる。

「吸いたいなあ……」

 煙草の代わりに飴を舐めているのだが、肝心のそれが切れてしまったようだ。

「おれ、買ってきます」

「ええ? もう遅いぞ。店が閉まっている」

「裏口からお願いしてみます」

「いいよ。私が駄々をこねる子どもみたいじゃないか」

「いいえ。煙草に手を出されたらいけませんからね」

「小舅みたいだな……」

 呆れるウィルフレッドだったが、何かしら理由をつけて距離を置かないと、暗黙の了解を破ってしまいそうだった。



 朗読会から一週間がすぎた。

 使用人ホールで午餐を食べる直前、やってきた執事マリガンに、食後すぐに書斎へ行くよう、伝えられる。

 何事だろうか、と思いながら気もそぞろに食べ終え、食後の茶を飲まず、階上へあがる。書斎へ入るなり、駆けよったウィルフレッドに抱きつかれる。

「おめでとう、ランバート! ついにやったんだよ!」

「何をです?」

「これだよ、これっ!」

 執務机に置いていた一通の手紙を取り、アレックスの顔前で差出人を見せる。

「出版社からの手紙だ。私宛てに送られてきたんだが、朗読した作品の作者の問い合わせだった。あのときはまったく反応がなかったから、正直、あきらめていたけれど」

 信じられなかった。あの作品はお蔵入りにするつもりだったし、書いた本人はどうでもよかった。だが意外にも、聞き手には好評だったようだ。不思議なもので、前作のように書いた本人は気に入っていても、他人には不評なこともある。

「なんだい、その顔。うれしくないのか?」

 腰に手をやり、少しだけすねた顔をするウィルフレッド。

「いや、なんというか、実感がまるでなくて……」

 ばんばん肩を叩かれる。

「驚いているのか。私も手紙がきたとき、冗談かと思ったよ。なんでもいいから、来月中に短編小説を寄越してくれってさ。秋に娯楽小説誌を創刊するそうだ。作家の数が足りないとか」

 次回作の要望に、緊張が走る。

「なんだか夢みたいです」

「がんばって書けよ。そのぶん、奉公の時間は減らすから」

「はい!」

 ようやくうれしさがこみあげてきて、思わずウィルフレッドの手を取った。そして、陽気に踊った。

「やったぞ、やったぞ、やったー!」

「うわっ! 急に回るやつがあるかっ!」

 バランスを崩す主人を抱きかかえ、ぐるぐる書斎を回る。うれしすぎて、自分が何をしているのかわからないほどだった。

「やめろ。みっともないだろ」

「やめません。おれの勝利の女神ですから!」

 その日、笑いがとまらず、まるで仕事にならなかったが、ウィルフレッドもいっしょに笑った。執事マリガンは不可解な顔をするも、何も追求してこなかったのが助かった。



おわり

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