第6話 コルセットとシガレットケース…後編



 ピクニックをかねた銃猟が終わったあとは、晩餐会がまっていた。しかし、気分がすぐれないからと、ウィルフレッドは欠席した。

 城館の客室のベッドで狩猟服姿のまま、ひとり身もだえする。

――ああ、誘惑に負けそうだ。

 リスターに愛撫された肌が、熱を帯びたように存在を誇示する。今までずっと抑えてつけていた女としての自分が、激しく抵抗しているようだった。

――だけど、コルセットに縛られた生活はいやなんだ。

 リスターと寝てしまえば、愛人として生きていくしかない。彼は自分の秘密を知っている。令嬢にもどされた自分は、彼の愛――いや、慰めに束縛される人生が待っている。

――ちくしょう。何が『女性としての喜びを知らないだけだ』。そのぶん、べつの苦しみがあるんだよ!

 悪徳な従兄、ゴードンが少女時代の自分にした仕打ちを思い出し、ぞっとした。

 だが、愛し合う生活が欲しいという心が、自分のなかにあるのを打ち消せない。

――そうだよな。このままだと、私は一生、孤独だ。だれとも愛し合えない。

 ならば、最初で最後のチャンスになるだろう、一夜を受け入れるほうがいいのだろうか。彼との子供ができれば、家庭を作ることもできる。これから待ち受けるだろう、恐ろしく孤独な生活とは無縁だ。

「ああ、もう、どうすればいいんだ…………」

 両手で顔を覆い、葛藤の涙を流した。

 ドアがノックされる。出たくなかったので、無視した。

「旦那さま。どうされました?」

 ランバートだった。

――彼なら話を聞いてくれるはず。泣き言なら受け入れる言っていたし。

 入室を許可すると、盆に軽食を乗せた彼が立っていた。

「あの、大食堂では今、晩餐会やってます。お腹空いてませんか?」

「ううん。ありがとう。それより、相談したいことが」

 ランバートが盆をナイトテーブルに置くと、紅茶を注がせた。そのカップを持ち、ウィルフレッドは屈辱をこらえながら、リスターから愛人になるよう説得されている件を話した。ただし、口づけと愛撫されたことは伏せた。

「……どう思う?」

 目をぱちくりさせ、ランバートは言った。

「どうって。旦那さまはどうされたいんです?」

「それがわからないから、勇気を出しておまえに相談したんじゃないか」

「おれからは何も言えません。どちらを選ばれても、後悔されるでしょうから」

「そうか。どちらを選んでも、か――」

「でもこれだけは言わせてください。もし、旦那さまがいなくなったら、マリガンさんたちは悲しむでしょう。あのゴードン親子が領主になったお屋敷、想像するだけで奉公したくありません」

「赤字だらけで、領地がすべて失われるかもな。残るのは准男爵の称号だけだ」

――だからこそ、今まで守ってきたのに。孤独に耐えながら。

 また堂々巡りが始まる。

「それより、お着替えをしましょう。まだ狩猟服のままじゃないですか」

「ああ、そうだな」

 ウィルフレッドはツイードの上着を脱ぎ捨て、ベストを外した。それを拾うランバートだったのだが、カラーとネクタイを外した自分を見て、眉をひそめた。

「ああ、そうだったのですね…………」

 そしてぎゅっと抱きしめられる。

「おいおい、いきなりどうした?」

「おれ、ああいうずるい男がきらいなんです。まるで――」

「まるで?」

 しかしランバートはそれ以上言わず、さっと身体を放すと、旅行鞄から主人用の寝巻きを取り出した。

「今日はもうお休みください」

「そうしようか」

「晩餐会は午前すぎまで続きます。ご決断までの時間はまだあります」

 そして彼は表情を無くし、退室した。

「何なんだ、あいつ……」

 いつもとようすが違うわが従者に、ウィルフレッドは首をかしげる。



 どれぐらいたったろう。

 ベッドに入るが、眠れそうになかった。

――あと一時間か。

 懐中時計を閉じたウィルフレッドはまだ迷っていた。領民のためにも行ってはならない、と案ずる自分と、それ以上の孤独に耐えられない、と悲観する自分がいた。

 ようやく冷静になり、うーんと考える。

――だいたい、あいつは何事も性急すぎるんだ。もう一度、じっくり話し合ったほうがいい。そうだ、そうしよう。

 そう、結論を出す。

 ガウンを羽織り、リスターが客室にもどるだろう時刻を待った。

 ドアがノックされた。ランバートだった。

 盆を持った彼は、満面の笑顔で入ってくる。

「よかった。まだ起きてらしたのですね」

 ナイトテーブルに乗せられたのは、酒瓶とグラス、氷、チーズだった。

「これ、上等もののウイスキーです。晩餐会があったから、開封したのはいいんですが、ほとんど飲まれませんでした。旦那さま、ウイスキーがお好きでしょう。ここの執事さんが欠席された旦那さまを気遣って、届けてくれ、とたのまれたんです」

 なんだ、そんなことか、とウィルフレッドは失笑した。

「ああ、うれしいよ。眠れそうになかったし、ちょうどよかった」

 ランバートが注いだ琥珀色の液体を喉に流す。

 少しだけ苦味があったが、悩んでいた気分をほぐすには充分すぎるほど、芳香な味わいだった。ほとんど食べてなかったのを思い出し、チーズに手を伸ばした。

 それからの記憶がなかった。

 目覚めると朝だった。

 起き上がろうとしたら頭痛がし、二度寝をした。



 午後、ようやく起床したウィルフレッドは、城館を散歩する。夜会までのひまつぶしだ。

 従者ランバートを連れ、庭園へ出た。まるで迷路のような薔薇園に、感動する。咲きかけの花々が、春の芳香を放っていた。空は青く、小鳥がさえずり、さわやかな風が駆け抜ける。

 うーん、と大きな背伸びをした。

「気持ちいいな」

「ええ旦那さま。おかげんは良くなられたのです?」

「ああ。なぜだか知らないが、とてもすっきりした。あれだけ悩んでいたのが嘘みたいだ」

「きっと、お疲れだったのでしょう」

「慣れない銃猟のせいだろう。これでよかったんだ」

「ええ」

――そう、これでよかった。

 ウィルフレッドは何度も自分にそう言い聞かせた。

 しかしリスターと会わせる顔はない。彼は令嬢サンドラとしての自分を欲していたのだから、友人のままでいるのはむずかしい。

――結局、私は彼を失った。

 天秤にかけたつもりはなかったが、リスターにしてみれば捨てられたことになる。おのれの愛が選択されなかったと、今ごろ苦悶しているのだろうか。

 ふと、一輪の白い薔薇が目に留まる。早咲きのそれは、清々しいほど美しかった。

 ウィルフレッドはそっと手に取り、甘い匂いをかいだ。

「きみ、花が好きなのか」

 背後から声をかけられ、ふり向くとウォリック卿がいた。

 洒落者の貴公子として知られるだけあり、細身のフロックコート姿がさまになっていた。ウィルフレッドが見たことのないデザインは、最新の流行なのだろう。彼ら貴族が流行を作り、平民たちが模倣するのが紳士のファッションだった。

「ええ。ウォリック卿はお好きです?」

「そうだね。花は咲いたばかりのころが一番美しい。まだ世界のけがれを知らない、無垢な花びらだ」

 そう言って微笑む。水色の瞳と亜麻色の髪が印象的だ。たしかリスターより三つほど年上だったはず。

 ウォリック卿は白い薔薇を手折ると、ウィルフレッドのフロックコートのボタンホールに挿した。

「うん、似合うね。わが家の薔薇はきみにふさわしい。どぶさらいの末裔とは大ちがいだ」

――どぶさらいの末裔……?

 いったいだれのことだろう、と頭を巡らせていると、卿は顔を近づけ、小声で言った。

「…………きみ、あの男――ルームメイトだったそうだが、仲がいいのかい?」

「え?」

「銃猟のとき、いなくなったろう? もしかして以前から、そういう関係?」

「は?」

「極めて不適切な関係で、きみがやむを得ず退学したとか? で、あいつは金で解決」

「どういう意味――ま、まさか……」

 ウォリック卿は愉快そうに目を細める。どうやら、リスターと男色関係にあったのだと、誤解したらしい。

「その顔だと、不適切な関係ではなかったようだね」

「はあ……」

 そっと、手袋をはめた手を取られる。指先を軽く撫でられた。

「せっかく貴公子に生まれたのに、おしゃれが足らないな。指輪のひとつぐらいしたらどうかね?」

「そういうものですか。淑女じゃないのに?」

 卿は首を軽くふる。

「ご婦人のおしゃれはただの飾りだ。だが、私たちはちがう。本当の紳士とはなんたるかを、密かに誇示するエレガントな小物だよ。そのためなら、少しぐらい散財しても痛くない」

――ああ、それでリスター家の富が必要なんだな。

 洒落者は金がかかるな、と内心、呆れていると、かわいらしい女性の声がした。

「オスカー兄さま。ここにいらしたのね」

 ぱっとウォリック卿は手を放し、妹令嬢に優しく声をかける。

「クレア。おまえも薔薇を見にきたのかい?」

「ええ。そろそろ咲いてるかしらって……あら、そちらの御仁は?」

 ウィルフレッドは社交の笑みであいさつした。

「ごきげんよう、レディ・クレア。ウィルフレッド・ハートレーと申します。あなたさまの婚約者、ブランドン・リスター氏の学友です」

 まだ少女の幼さを残したレディ・クレアは、兄と同じ色の瞳と髪をしていた。ちがうのは、彼女の笑顔が純真だったことだ。ひと癖ありそうな卿とは対照的である。

「まあ、ブランドンさんの? たくさんお友だちがいらっしゃるのね。舞踏会でもお会いしたわ」

「ええ。リスターのやつは、だれからも好かれますから。学業はもちろん、スポーツもできて学生時代から人気者でした」

 そう言うが、成長した彼の姿を知る前に寄宿学校を退学した。想像だけの嘘だった。

「令嬢たちはどうなのかしら?」

「もちろん。しかし、彼はレディ・クレアを選ばれたのですよ。ご心配なさならずに」

「みなさん、そうおっしゃるわ」

 くすくすと笑うレディ・クレア。

 そんな乙女の姿を見ていると、政略結婚であることを気に留めていないようだ。サンドラとして出席した夜会で見たとおり、リスターのことを素直に好いている。

 ウィルフレッドの胸がずきり、と痛んだ。

――彼と肌をあわせなくてよかった……。

「きみは個人的に親しいのだから、クレアにたくさん教えてやってくれないか」

 ウォリック卿が、ウィルフレッドの顔をのぞきこむようにして言った。

「たくさん教えてさしあげるほどの、付き合いがあったわけでは」

「銃猟のとき、ふたりだけで抜けだす仲じゃないか」

――もしかして見られていた?

 ふと、そんな不安が脳裏をよぎる。

「息が切れた私を気遣っただけです。ああいう男なんです」

「へえ、ずいぶんとお優しいようで。気の良い義弟ができて、私はうれしいよ」

「ええ、あいつはいいやつです」

 ここでウィルフレッドはあいさつをし、ランバートとともに薔薇園を出た。それ以上、伯爵家の令息、令嬢と話したくなかった。



 スプリング伯爵家での滞在二日目は盛大な夜会が開かれた。銃猟に参加した上流階級の紳士と、ピクニックで微笑んでいた淑女がいっせいに大広間で、思い思いに歓談したり、ダンスをして楽しんでいた。

 燕尾服姿のウィルフレッドは、昨日、晩餐会を欠席した非礼を詫びながら、グラス片手に世間話をした。領地で収入を得ている貴族や郷士と顔を合わせると、それとなく、管理が厳しい、といった愚痴をこぼしてみる。

 そのなかの親切な一名から、「機械化で収穫量を増やしたり、農畜産物の種類を人気種に変更してみては」という答えがあった。

――なるほど。農場経営そのものを見直すのか。

 赤字はすぐに解消されないだろうが、長い目で見れば安定した収入を得ることができる。クリスマスやイースターで、子供たちへ配る菓子代すら捻出できない今、どんな方法でも試したかった。

 領地にもどったら、さっそくマリガンを使って、農場経営の状況を調べよう。

 そう考えていると、離れた位置からある男の視線を感じる。ブランドン・リスターだった。

 が、ウィルフレッドと目が合うと、さっとそらし、彼はほかの招待客と歓談を始める。

 ぎゅっと唇を噛みしめ、ウィルフレッドは背を向けることしかできなかった。

「きみ、真面目だね。遊びに来て、堅苦しい領地管理のお話かい?」

 近づいてたきたウォリック卿が苦笑しながら、ウィルフレッドの肩を軽く叩く。

「お恥ずかしながら、今、家計が苦しいのです。なりふりかまってはいられません」

「ふうん。さっき、きみのことを陰で笑っている者たちがいた。場違いな話題だと」

「少しでも役に立ちそうな情報があれば、笑われるぐらいどうってことありませんよ」

「なるほど。見かけによらず、しっかりしているね。社交にうつつを抜かす、どぶさらいの末裔とは大ちがいだ」

 その末裔とはだれを指すのか、ようやく理解した。

 ウィルフレッドは笑顔を消して言った。

「どのような末裔だろうが、今は立派な一族じゃないですか。では、ごきげんよう」

 不愉快さでいっぱいになりながらグラスをテーブルに置き、大広間と続くテラスへ出た。表の空気を吸って、気分転換したかった。懐から携帯用の革製シガレットケースを取り出し、マッチで煙草に火をつけようとしたら、切らしていた。

 そのとき、聞き慣れた声がした。

「旦那さま。こちらにいらしたのですね」

 白い巻き毛のカツラを被ったランバートがやってきた。大貴族の従僕らしく、赤い縞模様のベストと灰色のコート、半ズボンに絹のストッキング、黒いパンプスという出で立ちだ。十八世紀に大流行した貴族の服装だった。大規模な夜会のため、主人の付き添いでやってきた使用人たちも、手伝いとして借り出されていた。

「ちょうどいい。マッチはあるか?」

「はい。そう思って、追いかけてまいりました」

「なかなか気が利く」

 ランバートが少しだけ屈み、ウィルフレッドがくわえた煙草に火をつけた。

 ふうっと、紫煙を吐き、テラスの欄干へ背中をあずける。

「……いけ好かないな。いや、ウォリック卿に悪気がないのはわかるが」

「おれも見てましたよ。見下していたはずのブルジョワから、援助してもらうのが気にいらないのでしょうね」

「嫌味ばかりでは、レディ・クレアが悲しむだろうに……」

 ランバートは笑みを浮かべる。しかしどこか寂しそうだ。

「旦那さまはお優しいのですね。だからこそ、リスター氏は愛されたのでしょうけど」

「私のどこが優しいという? 冗談にしては寒すぎる」

「冗談だったら、どんなによかったでしょう」

「……」

 欄干から離れ、ぺちぺちとわが従者の頬を叩いた。

「おまえ、最近おかしいぞ。何かあったのか?」

「旦那さまに秘密があるように、おれにもいろいろあります。気分が沈むことだってありますよ」

「そうくるか。悩み多きランバートどの」

 そして、冗談の続きだと言って、時代錯誤で大仰なお仕着せが似合わない、とからかってやる。カツラを取っておのれの頭に乗せてみた。

「どう、似合う?」

 ぷーっと彼は吹き出す。

「まだおれのほうが似合いますよ。だいたい、それ、後ろ前が逆です」

「そこ、つっこむな。面白いと思ってわざとやったのに」

「旦那さまはふだんの毒舌ぶりのほうが、面白いです。狙ってやると、ただのマヌケな紳士じゃないですか」

 唇を尖らせてやる。

「あーあ。マヌケな従僕に言われてしまった。だいたいだ、毒舌な私が優しいわけないだろう」

「ええ。そういうことにしておきます」

 残りの煙草を吸いながら、ウィルフレッドはランバートと笑った。

 大広間にもどると、何やら人だかりができていた。燕尾服姿の紳士たちと華やかなドレス姿の淑女たちが、大広間の中央で固唾を飲み、見守っている。

 何事かと思い、ウィルフレッドも身を乗り出して騒動を見た。

 驚いた。ウォリック卿とブランドン・リスターが激しく言い争っていたのだから。

 卿はともかく、あのリスターがひどく興奮し、人目もはばからず憤怒する姿など想像したことがあっただろうか。

 ウォリック卿の胸ぐらをつかんだリスターが言った。

「……きさま。その言葉を訂正しろ」

 不敵な笑みを崩さず、卿は答える。

「何度でも言ってやるさ。『大英帝国の寄生虫一族』。きさまらが海外の穀物を輸入して売りさばくせいで、私らの地代収入が激減したんだ。本当のことを言って何が悪い?」

「ものには言いかたというものがあるだろうがっ!」

 リスターが拳を振りあげる。同時に見守っていた若い貴公子たちが、止めに入った。

 しかし興奮した彼はやめない。貴公子たちに羽交い締めされながら尻もちをつき、叫ぶように言った。

「銃猟ゲームも晩餐会もこの夜会も、僕の父が出した金じゃないか。その金がないと、優雅な暮らしができないきさまらのほうこそ、寄生虫そのものじゃないか。ええ、何か言ってみろよ、伊達男!」

 ウォリック卿はすっと背筋を伸ばし、冷静なまなざしのまま、イブニングコートの襟元を整える。

「ふん。見苦しい男め。紳士同士の協定を忘れたようだな。そんなこと、互いに承知しているはずだが」

「さきにけしかけたのは、きさまのほうだろう? これだから貴族はきらいなんだ!」

 その場がひどくざわついた。

 ウィルフレッドは血の気が引く。

――リスターのやつ、決して言ってはならないことを……。

 そして思った。

――ああ、私が彼を拒絶したから…………!

 ひどく荒れた姿を見て、動揺せずにいられない。

 気がついたときは、言い争いをしている両者のあいだに割って入っていた。

 そっと屈み、リスターへ静かに言った。

「きみ、ウォリック卿に謝りたまえ」

「……」

 感情を丸出しの表情でにらまられるが、彼は何も言わなかった。

「さあ。それとも、婚約者に恥をかかせるつもりかい?」

「……」

「もし婚約破棄などしたら、レディ・クレアが悲しむよ。彼女、きみのことを心から好いている」

「……」

「それでも許せなければ、私が代わって卿に謝罪しよう。本当のことを言えば、きみのことを許してくれるはず。きみの心をかき乱した、私が悪いのだから」

 リスターの目が悪夢から覚めたように、生気を取りもどす。

「だめだ。それだけは。だってきみは――」

「いいさ。それ以上、大切なきみを傷つけたくない」

「サン――サー・ウィルフレッド。僕はそんなつもりは」

 リスターは立ちあがる。表情のないウォリック卿の前で跪くと、非礼をわびた。

「お許しください。ただの冗談を本気にしてしまいました。お気がすむまで、僕を殴られてもかまいません」

「殴る価値などない。せいぜい、笑い話の種になることだな」

 卿は大声で言った。

「いいか、これは笑い話だ。マリッジブルーになった貿易商会の御曹司の、な。その愚痴を私が聞いてやった。そうだろう?」

 だれからともなく、同意の声がした。そして何事もなかったかのように、夜会が再び始まる。

 どっと涙を流したリスターは、父親のジョゼフ・リスター氏に連れられるようにして大広間を出た。その後姿に声をかける者は、だれひとりとしていなかった。



 夜会が終わりに近づいたころ、ウィルフレッドは伯爵令嬢クレアとダンスを楽しんでいた。音楽が奏でられると、彼女から近づき、誘って欲しそうに見つめるから、仕方なく、といった流れだった。

 ワルツの調べに乗り、大広間の隅へ移動する。待っていたように、レディ・クレアが言った。

「ブランドンさんとどのようなご関係でしたの?」

――やはりそうきたか。

「親友だよ。彼、泣き虫のいじめられっ子だったからね。私がいつもかばって、なぐさめていた」

 レディ・クレアの水色の瞳がきらきら輝く。

「まあ、意外! いじめられっ子だったなんて。ブランドンさんって、いつもにこやかでたのもしく見えるのに」

「失望した?」

「いいえ。うれしいの」

「ええ?」

 予想外の反応にウィルフレッドは戸惑った。

「だって、弱いブランドンさんを知ったら、安心したわ。妻として支えていけそうって思えたもの。ほかに好きなひとがいてもかまわない」

「ちょ――!」

――ちょっとまってくれ。きみはリスターに想い人がいるのを知っていたのかい?

 と言おうとするも、絶句してしまい、言葉が出てこない。

 ウィルフレッドの鼓動がひどく高鳴るのを知ってか知らずか、レディ・クレアは笑顔になる。

「うふふ。ないしょですわ。彼を見ていたら、なんとなくわかるものよ。でも不思議ね。ほかの殿がたとだったら、こんなお話できないのに、サー・ウィルフレッドとだったら、なぜか心を許せてしまうの」

 引きつった笑みを浮かべずにいられない。

「それは光栄です」

「わたし、ずっと不安だったの。貴族のお友だちしかいないし、いても親族だけ。ブルジョワ家庭になじめるのかしら。ブランドンさんがわたしたち貴族のことを、きらってるっておっしゃてたから……」

「ああ、それね。ただの迷いごとだよ」

「そうかしら?」

「そうだよ。だから心配はいらない」

「……」

 さすがにどう元気づけてよいのかわからなかった。笑い話とはいえ、伯爵令嬢と婚約したブルジョワ紳士の失言にしては痛すぎる。

 リスターが悪いのは事実だが、彼をひどく傷つけたのは自分だ。あの失言の責任は、自分にないとはいえない。

 だから、これからもレディ・クレアの力になりたくて、ある提案をしてみた。

「よかったら、私からあなたへお友だちを紹介しようか?」

「お友だち? どんな方ですの?」

「私の従姉だよ。ミス・ブラッドリーっていうんだ。私によく似ていてね、性格もそっくりの祖父譲り。きっと気が合うはず」

 花のような笑みを浮かべ、彼女は同意する。

「ええ、ぜひ、お会いしたいわ」

「じゃあ、きみたちの結婚式に顔を出させよう。きっと従姉も喜んで出席する」

「約束よ。楽しみにしてますわ」

 ワルツの音楽がやみ、にぎやかなカドリールに変わったところでふたりは手を放した。

 そろそろ夜会から引きあげて、就寝しようか、と思ったが、ランバートは忙しそうに銀の盆を持って右往左往していた。自分だけ先にもどるのも気が引け、またテラスへ出て、煙草を吸う。

 半分ほど灰になったところで、ため息をつきながらウォリック卿がやってきた。

 卿は懐からシガレットケースを取り出す。自分が持っているのとはちがって、精密な銀細工が施された蔦模様のそれだった。カードのように薄いのに煙草が収まっているのに感動した。

 美しい小物につい見惚れる。

「素敵ですね」

「何が?」

「シガレットケース」

 ウォリック卿は破顔した。

「おしゃれに興味がなさそうなきみが、褒めるとは。ありがとう」

「いえ」

「あと、あの大バカ御曹司に謝罪させたこと、恩に着る。下手すれば、私たち一族も大恥をかくところだったからな」

「友人ですから、当たり前のことをしたまでです」

 ふう、っと紫煙を吐き、卿は苦笑する。

「友人、か。それ以上の関係にしか見えないが」

「気のせいでしょう」

「そういうことにしておこうか。クレアもきみが友人を紹介してくれる、と喜んでいた。まったく、きみには頭が上がらない」

 煙草を吸い終わったウォリック卿は、シガレットケースを懐から取り出す。二本目を吸うのかと思ったら、ウィルフレッドの手に握らせる。

「ウォリック卿?」

「私からきみへのお礼だ」

「そんな。困ります」

「安物さ。痛くもかゆくもないほどのね。私が認めた、最高の紳士への贈り物と思ってくれればいい」

 じん、と胸が熱くなる。

――最高の紳士!

 女であることを疑われないよう、男らしくしようと努めていたが、どうしても性差の壁を乗り越えるのは厳しい。

 そう落胆していたのに、洒落者紳士として知られるウォリック卿から、認められるとは!

「おいおい、そう喜ぶな。ただのシガレットケースごときに」

「ありがとうございます。私の宝物にします」

「素直なきみはかわいいな」

 ウォリック卿はそう言い残し、背を向け、大広間へもどっていった。

 感激のあまりしばらく放心していると、疲れきった表情のランバートがやってきた。

「はあ……。ここの執事、人使いが荒すぎます。もう、部屋に帰りたいな、おれ」

「じゃあ、帰ろうか。テラスを抜けて、庭園からもどれば解決だ」

「勝手に抜けてだいじょうぶでしょうか?」

「だれかが言ってきたら、私を呼べ。一声で蹴散らしてやる」

 ランバートはどっと笑う。

「強引ですね、旦那さま。でもそこがらしくていいです!」

「面倒事がきらいなだけだよ。だから、真正面からぶつかるのさ」

 そう答える自分がいつになく笑顔になるのがわかった。

 光り輝く銀細工のシガレットケースを、そっと懐に収め、ランバートとともにテラスの柵を越えた。



おわり

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