第6話 コルセットとシガレットケース…前編
一年でもっとも賑わう祭り――イースターは春の訪れを告げる祭りでもあった。村の道では、花の妖精のように着飾った子供たちが、仮装行列を楽しんでいる。大人たちはごちそうを食べ、酒を飲み、小さな訪問者たちを歓迎した。
領主であるハートレー家の屋敷にも、子供たちが歌いながら列をなして裏口から訪問した。毎年、お菓子をふるまうのが慣例である。
家政婦とメイドたちが包んだ菓子袋を、ひとつずつ手渡す。無邪気な笑顔で「ありがとうございます」と喜ぶ子供たちの姿に心が和む。
庭園でその光景を遠巻きに見つめていたウィルフレッドだったが、明日のことを考えると胃が痛くなりそうだった。
「今年が、わが家の最後のイースターにならなきゃいいけど……」
思わずそんな独り言が口をついた。
ため息をつきながら、屋敷にもどり、書斎に入ると見たくないものが山積みになっていた。どれもこれも支払いを催促する手紙だ。
従兄ゴードンが横領した領地の収入は、催促してもほとんど返ってこない。なのに、また借金ができてしまった。
――どうしてありもしない投資話に飛びついたんだよ、母上!
自分が数日、田舎屋敷を留守にしたのを見計らったように、母が亡くなった父の知り合いを招き入れた。以前から、母宛てに手紙を送っていたらしい。
その知り合いというのがこれまた胡散臭いやつで、本当に父と交流があったのか怪しかった。いろいろ母から話を聞いて判断するに、架空の開拓事業で投資話を持ちかける詐欺師だろう。
今すぐ株券を購入しないと、ほかの買い手が契約してしまう。
そう急かされ、母は契約した。しかし架空話なので、手元に残ったのはただの紙屑である。ウィルフレッドが気がつくもすでに遅し。投資をもちかけた男とは、さっぱり連絡が取れない。
まったく悪気のない母は「家計の助けになると思ったの。悪い人には見えなかったわ」と、呑気に謝るだけだった。
何もかも腹立たしくなり、母のドレスや靴、鞄、帽子、貴金属のほとんどを無断で売りに出した。しかし借金の額にはほど遠い。それが十日前である。
「旦那さま、お顔の色がすぐれないようですが」
執務机で放心していると、ランバートが心配そうに声をかけた。
「母上はおとなしくしてるか?」
「はい。バード夫人が言うには、塔部屋は寒いから暖炉のある部屋に変えて欲しい、と訴えているそうです。あと、自由に散歩をしたいと」
「ああ、そう。わが家は石炭すら買えなくなるかもしれないのに。どうしようもない脳天気だな」
「侍女が欲しいともおっしゃっているそうです」
「言ったろう。雇う余裕がなくなったと。だいたいだ、母上が勝手に私の貯金を使いこみをしたのに、また宝石を返せだ。どこにそんな金がある? 来月、使用人に払う給金すらないのに」
「困りましたね……」
「領地を売るしかないか……。何のために私が――くそう!」
幼くして死んだ本物の准男爵である弟のために、自分が必死に守ってきたものを、愚かな母のために失う。あまりにもバカげた結末に、乾いた笑いしか出てこなかった。
今までは愚かな母でも、そこまで行動的でなかった。シドニー叔父が後見人として、収入を管理していたからだ。自分が成人したことで、多少の失敗は許されると思っているにちがいない。
「どうごまかそうが、しょせん、私は相続権のない娘だからな。偉そうな私の忠告を聞くのが、母上には解せないのだろうよ」
やりきれなくなって、シガレットケースに手を伸ばしたら、ランバートに制される。
「ずっと吸われてるじゃないですか。お身体を壊しますよ」
「いいさ。私がくたばっても悲しむ者はいない。愉快なお祭り騒ぎだろうね」
ばん、と力強く、彼は執務机を叩いた。
「ここにいます! 自棄にならないでください!」
見たことがないほどの怖い顔をしたランバートがいた。また執務机を叩き、まっすぐに緑色の瞳で自分を見つめる。
「……いいですか、おれはあなたさまの覚悟に惹かれて、従者をしているんです。泣き言はいつでも受け止めますが、自暴自棄になるのはいただけません」
ウィルフレッドは目が覚める思いだった。
「脚本のネタ作りのためじゃなかったのか?」
「初めはそうでした。でも、あなたさまと接するうちに考えが変わったんです。そりゃ、おれはたよりないですが、それでもできる限りのことは力になります。いけませんか?」
「いや……」
「だからおひとりで抱えこまないで、どなたか信頼できる人に相談してみてはいかがですか? 領地の管理や、投資に詳しい人とかいませんか?」
「いたかな?」
「だったらまず、先代のお知り合いから探してみませんか?」
「ああ……」
ランバートの気迫におされたウィルフレッドは、言われるまま返事をする。異論を挟めないほどの、真っ当な助言だった。
まさか、きみから手紙が来るとは思わなかったよ。
あの別れかたでは、僕から連絡を取っていいのか判断がつかなかったからね。
正直、あれで終わってしまうんじゃないかと、残念な気分になっていたんだ。
きみ、大変そうだね。
事情を読ませてもらったが、株や投資にもいろいろあってね。
きみの母ぎみが失敗したのは、その筋の連中と交流がないからだよ。
以前、話したように、僕は今、父や母とともにに社交界に顔を出している。
決して貴族連中のような遊びではなく、政財界の名士と親しくなって、わが商会との取引を勧めるのが本来の目的なんだ。
社交界にはときどき、僕も驚くような大物がいる。
だれだかは、きみには話せないけれども、投資話に詳しい御仁や令夫人ならいるよ。
ひとりやふたりじゃない。
きみがその気になれば、領地の収入以上の利益をもたらすかもしれない。
だけど始めに書いたとおり、まずは人脈だ。
僕から父か母を通して、幾名か紹介しよう。
ただし、個人的にではなく、あくまでも社交界で知り合ったというかたちにしておいて欲しい。
本当に利益をもたらす話は、簡単に教えてはいけないものなんだ。
きみ自身が彼らに好かれれば、最高の投資先をこっそり教えてくれるかもしれない。
そうだな、まずは社交の招待状だ。
ふさわしい場を探してみるから、返事をしばらく待ってくれないか。
一週間もあれば、わが家の秘書がきみ宛に届けるよ。
ブランドン・リスター
夕刻。ロンドンにあるハートレー家の町屋敷の寝室で、ウィルフレッドはいつもよりきつく胸の帯布を巻いた。
「旦那さま、苦しくないですか?」
白いリネンのシャツを着せながら、ランバートが案ずるように言った。
「少しね。だが、最上の燕尾服を着こなすためなら、これぐらいどうってことない。コルセットに比べたら天国だ」
身体の線にそって縫製された黒の燕尾服は、着るのが一苦労だった。ランバートに手伝わせながら、ぴったりと肌に吸いつくようなズボンを履くと、成人祝いのときよりきつくなっていた。
――やだな。少し太ったみたいだ。
首にカラーをはめ、白い蝶ネクタイを結び、白いベストのボタンを留める。黒いイブニングコートの袖を通すと、やはりきつくなっていた。
それでも買い換える資金がないから、我慢して着る。自分だけでなく、社交界の紳士たちはそうやってドレスコードを守っていた。
後ろへなでつけた髪が乱れていないか、二度、三度、鏡で確認し、白い子羊革の手袋をはめる。
「よし、完璧」
それを合図に、ランバートが広げた灰色の袖なしコートを羽織った。シルクハットを被り、ステッキを小脇に挟む。
あらかじめ待機させていた辻馬車に乗り、ふたりは郊外にあるリスター家の屋敷へ向かった。
馬車を降りる。従者ランバートは裏口へ進み、ウィルフレッドは正面玄関からなかへ入った。
白い巻き毛のカツラを被った従僕が差し出した銀盆へ、名刺を置く。応接間へ案内されて待機していると、知らない紳士と淑女が何人もいた。
とりあえず「ごきげんよう」とだけあいさつをしておく。
明らかに値踏みするような視線が返ってきた。だが、令嬢サンドラとして夜会に出たときとは異なった空気を感じた。彼らはすぐに目をそらさなかったからだ。
――緊張するなあ。
ふだん、社交界に出てないから、たまに出席すると落ち着かなかった。
数分もしないうちに、執事が晩餐会の始まりを高らかに告げる。さきに女性、つぎに男性がぞろぞろと食堂へ入っていった。まばゆいばかりの銀食器、グラス、燭台が一同を出迎える。細長いダイニングテーブルに飾った蘭の花や南国の果物は、どれも色鮮やかである。
従僕が引いた椅子に座り、全員が顔を揃えるとリスター夫人が主催する晩餐会が始まった。ウィルフレッドとペアになったのは、老嬢――いわゆる中年の独身令嬢だった。
まず前菜が運ばれ、ひと口食べる。海亀のスープだった。
――おいしい!
ハートレー家が作るのとは別格だった。同じ晩餐会でも、食材の質がまるでちがうのを舌が感じ取る。明らかに缶詰ではなく、本物の海亀だ。感激した。
つぎに置かれた皿は、ヒラメのムニエルだった。続いて、子羊のカツレツ。頬がとろけるようで、夢中になって全部食べてしまった。
「まあ、お若いですのね。色気より食欲のお年ごろかしら」
「失敬、ミス・ギビンズ。おいしくて、つい……」
目の前の食事にばかり気を取られてしまい、淑女のエスコートを失念した。紳士として失礼極まりない態度である。
しかし、隣席のギビンズ嬢は、ゆったりとした笑みを浮かべる。
「あら、よろしくてよ、サー・ウィルフレッド。噂では最近まで体調がすぐれなかったとお聞きしましたわ。お元気になられたみたいですわね」
「ええ、はい……」
「あたくしもリスター夫人の晩餐会は楽しみですの。いつも美味なお料理だもの。明日はダイエットですわね」
「私もそうなりそうです」
笑顔でごまかすしかなかった。
皿を下げられ、つぎはウズラのプディングとロブスターのゼリー寄せが出てきた。食べたいのをぐっとこらえ、シェリー酒の入ったグラス片手に話題をふる。
「あの、近ごろは海外の小麦のせいで、以前ほど穀物が高値で売れなくなりましたよね。わが家もそのあおりを受けてしまいまして、新たな投資先を探しているところなんです」
「あら、そうですの」
「ミス・ギビンズはご存知ないですか。おすすめの投資先などを」
「さあ、存じませんわ。あたくし、そういうの疎いんですのよ」
「そうですか。私のほうこそ、失礼いたしました」
それからしばらく会話がなかった。話しかけても、つれない返事があるだけだったからだ。
――もしかして、失態を?
だがウィルフレッドには、何が悪かったのか判断がつかない。自分では世間話のつもりだったのだが。
仕方なく料理を食べ――ああ、おいしいからすべて許せる!
「ごきげんよう、サー・ウィルフレッド。ようやくお顔を見せてくださったのね」
顔を上げると、リスター夫人がいた。立ち上がり、握手をする。
「ごきげんよう、ミセス・リスター。十二月の夜会以来ですね。またお会いできてうれしいです」
リスター夫人は目を丸くする。
「あら、あのときはたしか……ミス・ブラッドリーが代理でなかったかしら」
――しまった!
おいしい料理でつい、気が緩んでしまった。
慌ててしまうと不自然に映ってしまう。一呼吸おき、社交の笑みを作る。
「……と、従姉サンドラが申してました。今宵は私が代理としてごあいさついたします」
「まあ、よく似てらしてるのね、あなたがた」
「よく言われます。まるで姉弟みたいな、いとこ同士だって」
ウィルフレッドは冗談っぽく笑うしかなかったが、リスター夫人は令夫人らしく上品に微笑んだ。
――よかった。疑われなかった。
リスター夫人が言った。
「あなた、ブランドンの学生時代のお友だちですのよね。泣き虫だったあの子が、すっかりたくましくなって卒業できたのも、あなたのおかげですわ。感謝していますのよ」
「そんな。私は病気ですぐに退学してしまいましたし。ブランドンさん自身が努力なさったからです」
「そうかしら」
「私のほうこそ、ブランドンさんに感謝しています。学生時代、親しくしてくださったのは、彼だけですから。もしお力になれることがあれば、いつでもかけつけます。それが私から彼への友情の証です」
「あら、まあ。想像していたより、しっかりなさった御仁ですわ。たのもしいですこと。これからもよろしくしてやってくださいね」
リスター夫人はとびっきりの笑みを残し、べつの招待者へあいさつをしに移動した。
サンドラだったときとはまるでちがう、夫人の態度にウィルフレッドは戸惑う。同時に、思った。
――ウィルフレッドには価値があるが、サンドラはそうじゃない、ということか。
幼いときからあった屈折した思いが、現実になった瞬間でもあった。
デザートが運ばれてくる。パイナップルのパイと木苺のアイスクリームだった。
どっと疲れが出て、黙って食べていると、ギビンズ嬢が話しかけてきた。
「リスター夫人のご子息のご学友ですのね。夫人、とても息子さんをかわいがってらっしゃるのよ。ああ、あたくしも若かったら、ブランドンさんと親しくなりたかったですわね」
「ええ。たしかに彼はとても男前です。学生時代とまるでちがうものだから、久しぶりに再会したとき、だれだかわからなかったほどなんですよ」
「泣き虫だと、夫人はおっしゃっていましたけど?」
「本当です。しょっちゅう、私がなぐさめていました」
「あらまあ! かわいらしいあなたが――失礼。あたくし、そういうつもりでは」
「いいんです。よく言われますから。学生時代で成長が止まってしまいました。でもそのおかげで、ご婦人がたに警戒されません。いいこともあるのですよ」
自嘲っぽくそう言って見せると、ギビンズ嬢はおかしかったらしく、アイスクリームを前にしてしばらく肩を揺らしていた。
晩餐が終わると、女性は居間で食後のコーヒー、男性はそのまま食堂で喫煙するのが慣習だった。
ウィルフレッドは年上の紳士たちに混じり、用意された葉巻を吸う。これもまた最高級品らしく、うまかった。
――リスター家は相当な金持ちだな。
その財力を披露する晩餐会であったのは明らかだった。
晩餐時では話せなかった紳士たちと、世間話をする。といっても、ウィルフレッドはもっぱら聞き役だ。そのなかに投資に関する話題はなかった。
――ちぇっ。せっかく晩餐会に来たのに、収穫なし、か……。
こちらから話題を切り出してしまうと、ギビンズ老嬢のように警戒されてしまうかもしれない。一度、溝を作ってしまうと、挽回するのは面倒だった。
食堂にひとりの青年が入ってくる。ブランドン・リスターだった。
「ごきげんよう、みなさま。晩餐会はお楽しみいただけましたか?」
燕尾服でなく、フロックコート姿の彼は帰宅したばかりの風貌だ。少しだけ落ちた前髪があるにも関わらず、男前が乱れることはなかった。
リスター家の御曹司に、紳士たちはみな感謝の言葉を贈る。ウィルフレッドもその場の流れで、あいさつを交わす。
「楽しめたようで何よりです、サー・ウィルフレッド」
にこやかにそう言うリスターだったが、きつく手首を握られた。そして「失敬」と言った彼に、ウィルフレッドは食堂から連れ出される。廊下を歩き、明かりのついていない部屋に入った。
ドアを閉め、オイルランプに火を灯すなり、リスターは怖い顔をして言った。
「きみ、僕はたしか招待状に書いたはずだ。サンドラ嬢として出席しろ、と。なぜ約束を破る?」
問い詰められるのはわかっていたので、用意していた答えを口にした。
「わざわざ変装してどうする? これが私なのだから、これでいいじゃないか」
「よくない」
壁際に追いつめられる。逃げることを許さないように。
「……きみは令嬢として生きるべきだ。不自然なことをしていると、きみ自身が不幸になる。いや、すでにそうなりかけている。もし、サンドラ嬢にもどるのなら、僕ができるかぎり助けてやるつもりだったのに」
「投資先を教えてくれるの?」
「ああ。ミス・ギビンズがいたろう。彼女、有名な投資家なんだ。だから今夜の晩餐会に招待したのに、きみがサー・ウィルフレッドでは意味がない」
「へえ。なぜ? 仲良くなれそうだったけど」
「親しくなるには、男女の仲にならなきゃいけないんだ。きみの肉体では、彼女を抱けない。もちろん、投資先なんて教えてくれない」
「……」
「サンドラ嬢だったら、女友だちになれたのに。残念だ」
ウィルフレッドは顔がひどく紅潮するのがわかった。そしてあまりにも下品な、男女の駆け引きに吐き気をもよおす。
何も言えなくなった自分に、リスターは追い打ちをかけるように言った。
「ずっとそうやって、ひとりで生きていくつもりかい? このままだと、きみはだれとも愛しあうことはできないんだよ。一生」
さらに距離を縮めるリスター。ウィルフレッドは顔をそらす。
「だからもう、そんな燕尾服は着るな。きみに似合うのは上品なドレスだ。僕がいくらでも買ってやる。わがままだって許してやる。だから令嬢にもどって――」
「もどって、今度はきみと男女の仲になれっていうの? それこそ、ミス・ギビンズと同類じゃないか。投資が援助に変わっただけのね」
「……」
「ちがう?」
つぎはリスターが言葉をなくす番だった。
「友人として投資先を教えてくれるのかと、期待した私が愚かだった。手紙なんて書くんじゃなかった。きみしか友人がいないのを見透かされて、駆け引きに使われるなんて思わなかった。私はそんなにかわいそうに見える?」
「いや、そういうつもりでは……」
ふたりの距離が空いた。
疲れきったように、リスターはそばにあったソファに座る。
「きみのことを知ろうとすればするほど、きみという人間がわからなくなる」
イブニングコートのしわを伸ばしながら、ウィルフレッドはため息をつく。
「きみは策士だね。天使のようだったころが別人だよ」
「天使か。あのころは泣けば、だれかが助けてくれたから、甘えていただけさ」
「そう。甘やかした私も悪かったか。まるで死んだ弟みたいだったんだ」
「きみはだれかに甘えたりしないのか?」
「なぜ?」
「なぜって、それがご婦人の特権だよ」
ウィルフレッドは鼻で笑わずにいられない。
「だれの助けもないときは、それこそ終わりじゃないか。特権もくそもない」
「きみらしいな」
食堂へもどろうとドアノブに手をかけた。ソファに座ったまま、リスターが言った。
「今回は悪かった。つぎは正々堂々とサー・ウィルフレッドを招待するよ。銃猟ゲームなんてどうだい?」
銃猟は紳士のスポーツだ。令嬢が参加するのは世間が許さない。
ウィルフレッドの顔に、自然と笑みが浮かぶ。
「ああ、いいね。銃猟ゲーム、してみたかったんだ」
上流階級の貴族たちは広大な領地を所有している。秋と春はキツネ狩り、冬には銃猟を催し、社交するのが伝統だった。
銃猟が春に行われるのは一般的ではなかったものの、主催者のスプリング伯爵の粋なはからいで、特別に開催された。季節外れの銃猟は注目を集め、国内のあらゆる地域から社交界の名士たちが参加する。
森番が集め、飼育した何百羽ものキジと、ウサギが森に放たれる。ツイードの狩猟服に身を包んだ紳士たちが、ショットガンを構え、森に潜んだ獲物を撃った。数を競うため、絶え間ない爆音と煙が続く。
獲物をけしかけるため、勢子役の使用人たちが笛を吹き鳴らす。ぴーぴー、うるさすぎて耳がおかしくなりそうだ。
ウィルフレッドはショットガンを構え、勢子に驚いて飛んだキジを撃つ。見事、一発で仕留めてやった。しかし、問題があった。落ちたキジを猟犬がくわえてやってきたのだ。
犬が苦手なウィルフレッドは、銃猟どころではない。息を荒くして近づく犬を避けようと、慌てて茂みに非難する。
そのとき、だれかが仕留めたキジが落下した。がつん、と強い衝撃が肩ごしに響く。
「あいてっ!」
足元に転がった鳥の死体を見たら、不愉快になった。腕が痛くて、涙までにじんでくる。
銃の音はうるさいし、煙たいし、笛はうるさいし。せわしすぎて全然、楽しくない。
そのとき、勢子をしているランバートと目があった。
――旦那さま、鈍くさいですよ。
顔がそう言ってるような気がして、唇を尖らせてやった。
――しょうがないだろ。参加したことがなかったんだから。
すると、おかしそうに笑われた。読みは当たっていたようだ。
背後から声がした。
「きみ、ぼうっとしてないで、追いかけたまえ! 置いていくぞ」
ふり返る。伊達男として知られる、ウォリック卿だった。
彼はスプリング伯爵令息で、リスターが婚約した伯爵令嬢の兄である。嫡男の彼は名目子爵を名乗っており、正式名はオスカー・ジョン・ローレンソンといった。
「はい」
周囲の紳士たちに負けないよう、重いショットガンをかついで森を駆ける。犬たちが進んだ方向へ。
が、先頭へ進むのは気が引けた。犬が苦手だったからだ。だから後方へ回るしかなかった。
さすが、広大な領地を所有するスプリング伯爵家だけあり、森はどこまでも広い。銃猟のマスターはスプリング伯爵だが、真の主催者は貿易商会のオーナー、ジョゼフ・リスター氏である。なぜなら、氏が銃猟と晩餐会の資金を提供したからだ。それだけ金のかかるスポーツなのだ。
だれも表立って口にしなかったが、遠まわしに噂となって社交界に広まっていた。季節はずれの銃猟も、財力を誇示したいリスター氏が提案したのでは、という憶測が流れている。
ウィルフレッドもスプリング伯爵家の城館に到着したその日、だれかがそう話しているのを小耳に挟んだ。
領地の収入が減って家計が苦しくなったのは、ハートレー家だけでないようだ。大規模な社交を開く貴族階級だと、なおさら赤字だろう。准男爵は平民だから、貴族たちほどの交流がないのがさいわいした。
ブランドン・リスターがスプリング伯爵令嬢と婚約した理由でもある。リスター家が親族として富を提供する見返りに、スプリング伯爵が准男爵か男爵の称号をリスター家に授与させるよう、王族に計らってくれる約束をしたのだ。大ブルジョワが中流階級から上流階級へ成りあがる、典型的な構図であった。
ウィルフレッドは獲物を競う紳士たちのあとを追うが、息が切れてしまった。ショットガンを置き、草むらに座りこむ。
獲物として放たれた茶色のウサギが見えた。仕留める気になれず、愛らしい姿を見送る。ぴょん、と跳ねて茂みの奥へ消えた。
「くそう。みんなタフだな……」
――ああー、なんで男に生まれなかったんだ!
あまりにも悔しくてみじめで、拳で地面を乱暴に叩いた。
「だから言ったじゃないか。きみは令嬢として生きるべきだと」
驚き、見上げると、ショットガンの銃口を地面に向けたリスターがいた。たしか彼は、先頭で狩りをしていたはず……。
「私のあとをつけていたのか?」
こちらに近づき、彼は言った。
「ああ。初心者だからときおり、ふり返ってね。見事、遅れをとったようだ」
「どうせ策士なきみのことだから、私が脱落するのを見計らって、銃猟ゲームに招待したんだろう? いやなやつ」
やられた、と怖い顔をしてやるが、相手はまったくひるまなかった。それどころか、優しい笑顔が返ってきた。
「そうだよ。もし、きみが僕らと同じように活躍すれば、これからはサー・ウィルフレッドとして接するつもりだった。残念だが、体力の差はどうしようもないね」
隣に座ったリスターに、肩を抱かれる。
「よせよ。だれかに見られたらどうする」
「心配ない。みな、キジとウサギに気を取られている。ウォリック卿がいれば、僕はただの招待客のひとりだからね」
「ウォリック卿が義兄になるのか。すごいな。政略結婚さまさまだ」
「まあ、正直、卿は苦手だが……。ともに暮らすわけじゃないし、ただの義兄だ」
「苦手? なぜ?」
だれともにこやかに接することができるリスター。彼らしくない言葉に、戸惑う。
「うん、なんて言うかな。僕を見る目がきみとはちがう。まあ大貴族だからそんなものかもしれないが、でも……」
リスターの眉間が曇った。
「ひょっとして、妹令嬢との結婚を良く思っていないとか?」
「そうだろうね。僕は身分もなにもない成り上がりの息子だから」
はあ、と大きなため息が聞こえた。ときおり疲れた背中を見せるリスターだが、政略結婚から生じる憂鬱だったのだ。
「だったら無理に結婚しなくても……」
「父と母の期待を裏切れと? それこそ僕自身への裏切りだ。お祖父さまから延々、願われた上流階級への道を断つわけにはいかない」
「リスター、きみ。あまり自分を追い詰めないほうが」
「そう見えるかい?」
彼の琥珀色の瞳は、少年時代のように潤んでいた。
「見えるよ、私には。階級が大切なのはわかるけど、それはあくまできみのご両親のお話だ。きみ自身はどうなの?」
リスターは首を横にふった。
「そう。立ち向かう勇気がないのか。かわいそうに」
「言われたくない。男装をしてまで、准男爵に固執するきみには」
「私自身が選んだんだ。後悔はしてないよ」
「僕だって不安はあるが、後悔はしていない。正しい道だから」
肩に置かれていたリスターの手が、ウィルフレッドの顎に移った。ぐい、っと持ちあげられる。
「だけど、僕はときおり、愛するひとの慰めが欲しくなる。きみはどう?」
「私は……」
必要ない、と言おうとしたが喉から出てこなかった。
求められるまま、唇を重ねる。甘い吐息が心地よかった。舌の先が触れたが、以前のように拒絶しなかった。
それが告白を受け入れたと思われたらしく、さらに深く入ってきた。舌と舌がからみあった感触が、ウィルフレッドの理性を失わせる。
押し倒され、被っていた鹿撃ち帽が飛んだ。そっと耳もとで囁かれた。
「きみの初めてが欲しい」
「……こんなところで!」
「まさか。今夜、僕のベッドの上でもらうつもりさ。約束だ、サンドラ嬢」
「そんな急に……」
拒絶しようとするが、力が入らない。ネクタイを緩められ、首筋に熱くキスされ、上着のなかへ手を入れられた。胸のあたりを優しく愛撫される。
リネンの帯で押しつけたはずの乳房が、言葉にならないほど感じる。思わず、声がもれる。
そっと耳たぶに口づけされ、リスターが言った。
「……きみはただ、女性としての喜びを知らないだけだよ。僕と愛し合えば、令嬢にもどりたくなるはず。男装して生きるのがバカらしいと」
「……」
何か言おうとしたが、恥ずかしすぎて視線をそらすことしかできない。
胸にあった手がそっと子宮のあたりへ触れ、スボン越しに敏感な部分へ落ちていく。じんわりと熱く濡れるのがわかった。
――ああ、屈辱だ。
相手に対してなのか、自分自身への自嘲なのか、ウィルフレッドにはわからなかった。ぎゅっと歯をくいしばる。
遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「サー・ウィルフレッド、どこですか――!」
ランバートが行方知らずの自分を探しに来たのだ。
さっとリスターは立ちあがり、ショットガンを手にする。
「約束だぞ。待っている」
そう言い残し、彼は疾風のように去っていった。
乱れた上着の襟を両手で握りしめ、呆然としていると、鹿撃ち帽を拾ったランバートが困った顔で言った。
「旦那さま。ぼんやりなさらないでください。みなさん、お探しですよ。リスター氏もどこで道草食ってるんでしょうかね。伯爵令息の――ええ、なんて言いましたっけ?」
「ウォリック卿」
「そうそう。ウォリック卿が不機嫌になられて、おれらビビりまくりです。せっかくの社交を乱す愚か者とかなんとか。リスター氏の親父さんが謝って、空気が悪いのなんのって」
「そう……」
「旦那さま?」
立ちあがる。身体に力に入らなかった。認めたくなかったが、あるのは、リスターへの欲情だけだった。
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