第5話 黒いマリア…後編



 ピットマン邸は一軒の屋敷を縦割りした住まいだった。土地の狭いロンドン市内では、よく見かける中流階級向けの家である。

 辻馬車を降り、正面玄関へ立つが、ローズマリー姿のランバートは不満いっぱいに愚痴をこぼす。

「なんでおれがメイド役なんですか。旦那さまのほうがしっくりくるのに……」

「おまえが主人を演じるには無理がある。紳士になる教育をしていないし、言動が子供っぽいからな」

「どうせ身長以外はまだまだ未熟ですよ……」

 そんなこんなを話していると、ピットマン家のメイドが顔を出した。まだ幼く、十四、五歳ぐらいだろうか。こげ茶色のおさげが愛らしい。

 名刺を差し出し、小さな玄関ホールで待つ。一匹の猫が階段から飛び降りた。白い長毛種のそれは、人なつっこそうに身体をすり寄せてくる。ウィルフレッドの足元から離れようとしない。

「よしよし。おまえがこの家の主人かい?」

 猫を持ち上げ、話しかけたら、にゃん、と返事をした。

「かわいいなー。母上が猫嫌いじゃなかったら、飼いたいんだけどな」

「かわいいですわね」

 マリーローズへ猫を手渡そうとした。が、猫は突然、牙をむいて威嚇する。

「かわいくねー、猫……」

 つい、地声になる彼がおかしかった。

 奥からやつれた女性が出てきた。ピットマン夫人だった。

 痩せた身体に黒い喪服のドレスをまとっている。十歳の息子がいるとは思えないほど華奢で、若く見えた。成熟した女性というより、世間を知り始めた少女のような雰囲気だ。

「まあ、チャーリーったら、お客さまに甘えて。申しわけございませんわ、サー・ウィルフレッド」

 猫を床へ下ろす。シルクハットとステッキを少女メイドに預けながら、社交の笑みを作った。

「いえいえ。かわいくて癒やされますね。こちらこそ、突然、訪問して申しわけない」

 まだ猫はごろごろ喉を鳴らしている。

「おかしいわね。チャーリーは息子と若い女性にしかなつかないんですのよ。どうしたのかしら」

――なんだって!

 ピットマン夫人は純朴そうだからよかったが、猫ごときで秘密が発覚するのは勘弁して欲しい。だから、靴の先で「しっ、しっ」と、白猫を追い払った。

 居間に通され、ソファに座る。マリーローズは居間の手前で待機した。

 こちらが訪問した理由を話す前に、ピットマン夫人が言った。

「あの、新聞を見ていらしたのでしょう。ピットマン――夫とはどのようなご関係ですの?」

「ミスター・モーリスの義兄の雇い主です。マリガン――その義兄夫妻なのですが、モーリスさんは殺人を犯すような人間ではない、という話を耳にしたものですから」

 夫人の顔がこわばった。

「興味本位でいらしたのね。悪いですけど、お話できることはありませんわ」

「では、モーリスさんを見殺しにされるのか。冷たいなあ」

「……彼から何を聞いたの?」

 ウィルフレッドは腕を組み、静かに、しかしはっきりと言った。

「あなた、夫からひどい暴力を受けていたそうじゃないですか。なのに証言されず、主人を恨んだ殺人犯のままとは。モーリスさん、お気の毒に」

「何のことですの?」

 どうやらピットマン夫人は認めたくないらしい。そのときのために用意したローズマリーを呼び、合図の手拍子をした。

 打ち合わせ通り、ローズマリーはピットマン夫人の腕を掴むと、強引に居間から連れ出した。隣室から壁を通して声が聞こえる。

「おやめになって!」

 中味が男のローズマリーでは、か弱い夫人は抵抗できない。気の毒だが仕方がない。

 再び居間にもどったローズマリーは、きっぱりと報告した。

「胸と背中、脚にも殴られた跡がありましたわ」

 乱れた喪服を直しながら、涙声でウィルフレッドを非難する。

「ひどいわ! 何の権利があって、あたくしを辱めるの」

「証言されるだけでいいのですよ。モーリスさんはあなたを救うために、ピットマン氏を殴ったと。罪は免れないでしょうが、少なくとも死刑や終身刑にならないはずです」

 夫人は黙ったまま、視線を落とした。答えが出ないらしい。

 階段を降りる足音がし、少年が居間へ入ってきた。

「母さん。またお客さん?」

「ピーター。おまえには関係ないことよ。さあ、お部屋にもどりなさいな」

「でも母さん、泣いているよ?」

 新聞に書かれていたピットマン氏のひとり息子だった。母親に似て、愛らしい顔立ちをしていた。チョコレート色の髪と瞳は父親ゆずりだろう。

「いいから、お行き!」

 なかば叱咤するように夫人が命じたものだから、ピーター少年は踵を返す。

 その直前、ウィルフレッドと目が合った。

 少年の愛らしいはずの顔は恐ろしいまでに歪んでいた。一瞬のできごとだったが、ウィルフレッドはぞっとした。



 ハートレー家の町屋敷へもどり、近くのパブで買った夕食をとりながら、今日のできごとを話し合う。温かい料理が出るレストランへ行きたかったが、ピットマン家のことを公の場で話したくなかった。

 冷えたチキンとプディングを食べながら、向い合って座るランバートはメモを見る。

「ええーとですね。ポーリーちゃん――あの少女メイドがおれに教えてくれたのは、ピットマン氏と夫人は主従関係みたいだったそうです。毎日、氏の怒鳴り声と、夫人の悲鳴が聞こえてきたとか。そのころ、使用人は女料理人ひとりと執事モーリスさん、そしてポーリーちゃんの三人でした」

「今はポーリーだけか」

「はい。事件の夜、女料理人は辞めたそうです。いや、辞めさせられたのかな」

 上流階級の紳士ウィルフレッドが階下へ行くと、ポーリーが警戒して話さないと思い、メイドとしてローズマリーを行かせ、話を聞いた。あらかじめ質問することを彼に教えておき、答えを報告させる。

「辞めさせられた?」

「夫人がひどく責めた翌朝、いなくなったそうですよ。今朝、姿を現すまで屋敷にもどってきませんでした。転職するための紹介状を取りに来たそうです」

「何を責めた?」

「ピーター坊っちゃんに生焼けの菓子ばかり出したとか。まだ子供ですから、女料理人がなめていたのかもしれません。要するに手を抜いてもばれないってことです」

「ふうん。よりによって、一家のあるじが殺された日に、ねえ……。あと、亡くなる前のピットマン氏のようすは?」

「嘔吐と下痢、あとひどく疲れて寝込んでいたそうです。なんでも三ヶ月ぐらい前から、病気がちだったとか。抜け毛もひどくて掃除が大変だったと、ポーリーーちゃんはすまなさそうに言ってました。で、あの日、夫人が看病をしに寝室へ入ったら、例の事件があったわけです」

「モーリスが止めに入ったわけか。夫人も肝心なことを教えてくれないんだよな。となると、ふたりのあいだには、言えない何かがあったのだろう」

 さすがにポーリーは、主人の寝室であったできごとまで目撃していない。あとは推測するしかなかった。

 夕食を終え、煙草に火をつける。居間のカーテンを開け、表の景色を眺めた。

 通りではひっきりなしに馬車が通り、勤めを終えた男たちが通りを往来している。ガス灯の明かりから、浮浪児が飛び出した。ひとりの男へ近づいたかと思うと、駆け去った。スリをしたのだ。ピーター少年と同じぐらいの歳だが、彼は生きるために必死だ。

「空腹を満たされても、家族に不和があれば幸福とは言えない、か……」

 そんな独り言が口をついて出たとき、食後の茶を階下から運んできたランバートが言った。

「やっぱりあれですかね?」

「うーん、あれ」

「そうです、あれです」

「誘惑のあれ――か」



 翌日、ウィルフレッドは再び、サミー・モーリスと面会した。監獄特有の臭気をこらえながら、未決囚へ質問する。早くここを出たい一心で、単刀直入に言った。

「きみ、ピットマン夫人と不倫をしてたのかい?」

 彼は答えなかったが、表情がすべてを物語る。

「で、それがピットマン氏に見つかり、夫人が罵られ、殴られた。どう?」

「ちがいます。半年前、俺が奉公を始めたとき、すでに夫人は殴られていました。理由なんてなんでもよかったんです、あいつは。外面だけはよかったですから。夫人が親戚に助けを求めても、だれも信じなかったほどです」

「主人をあいつ呼ばわり、か。それでも辞めなかったのは、夫人のことが好きだったんだね。どう?」

 がっくりと肩を落とし、モーリスは言った。

「……とっさとはいえ、夫人を救うためだったのに、証言してくれませんでした。しょせん、俺は使い捨ての使用人なんです。仕方ないですよね、体裁が悪いですから。ピーター坊ちゃんの将来にも響きます。ええ、父親が使用人の間男に殺されるなんてひどすぎます」

 そして泣き崩れる。

 マリガン夫人が言うとおり、モーリスは心優しい男だった。暴力を振るわれる夫人を見捨てて転職することができず、つい、深い仲になったのだろう。

「私がピットマン夫人と交渉してみるよ」

 相手が何かを言う前に、面会室を逃げ出す。監獄の外に出たら、思いっきり深呼吸をした。

 つぎはピットマン邸を訪問したが、夫人は会ってくれなかった。それでもモーリスを救うため、しぶとく玄関ホールで待機する。

 昨日と同じように白猫チャーリーが飛び出した。狙いを定めたかのように、ウィルフレッドの胸に飛びこんでくる。ごろごろ喉を鳴らし、離れようとしなかった。

「その猫、もしかしておっぱいが好きなんじゃ――あいて!」

 ランバートの失言すぎる失言に、げんこつをお見舞いせずにいられなかった。

「おじさん、母さんをまた泣かせるつもり?」

 見上げると、階段の踊り場からピーターが降りてきた。「おじさん」と言われたことに内心、ショックを受けながら、返事をしてやる。

「サー・ウィルフレッドと呼べ。それより、執事モーリスのこと、きらいかい?」

「どっちでも。母さんを泣かせるやつは、許せないだけだ」

「それはたのもしいな。では小さな騎士にたのみたい。モーリスを救うため、きみの母上とお会いしたいんだ」

 少しだけ間をおき、ピーターは承諾した。

「うん、いいよ。チャーリーがなついてるし、悪い人じゃなさそう」

 ピーターがあいだに入ってくれたおかげで、ウィルフレッドだけピットマン夫人と話すことができた。ランバートは玄関で待機する。

 だが成果を得るのはむずかしそうだった。モーリスが言っていたとおり、使用人との不倫が原因だと世間に知れると、ピットマン母子は表を歩けなくなるだろう。同情してくれた人々が、蔑みと嘲りのネタにするのはわかりきっていた。

――それでもモーリスを愛していたのなら。

 ウィルフレッドがそう説得しかけたら、わっと泣かれた。

「お願い、もう関わらないで!」

「じゃあ見殺しにするのですか? あまりにも酷いじゃないですか」

「殿がたにはあたくしの気持ちなんてわからない。不倫をしても、最後に責められるのは女なのよ!」

――一応、私も女なんだけど…………。

 自分には夫人の気持ちがわからない。たとえ罪深いことだろうが、信念を通して闘って欲しかった。

――そういえば、母上にもよく言われたな。女の子なのに、どうしてあたくしの気持ちがわからないのって。

 これ以上の説得は無理そうだった。あとは夫人の勇気と良心にゆだねるしかない。

 居間にポーリーが入ってきた。長引く話し合いに気を使い、茶と既成品のビスケットを用意してくれた。そっと来客用のカップを置かれる。

 その隙を狙うかのように、白猫チャーリーが入ってくる。またも勢い良く跳躍し、ウィルフレッド目掛けて飛びついた。がちゃん、と派手な音を立ててカップが割れる。

「ああ、すみません」

 ポーリーが拾う前に、自分でかけらを片付けた。

「にゃーん」

「おまえ、私は飼い主じゃないぞ」

 うれしそうに頭をすり寄せるものだから、呆れながらなでてやる。甘えるように、ぺろり、と手袋をした指を舐めてきた。

「よせ、チャーリー!」

 顔色を失くしたピーターが走ってきて、ウィルフレッドから強引に猫を奪う。そして叫んだ。

「二度と来るな!」

 幼い当主に疫病神扱いされては、これ以上留まるわけにはいかない。

「これからも騎士らしく母ぎみを守りたまえ、ピーターくん」

 そう言い残し、ランバートとともにピットマン邸をあとにした。

 いやな予感がして、革の手袋を慎重に外した。河岸へ向かう。十分ほど歩き、テムズ河へ思いっきり投げ捨ててやった。

 辻馬車に乗り、ストランド通りへやった。ある一軒の書店に入ると、目的の書物を探して購入する。ハートレー家の町屋敷へ帰宅したら、さっそくページを開いた。

――あった。記憶のとおりだ。

 まだ弟が生きていたころ、医者になりたい一心で医学書をいろいろ読んだことがある。しかし女子へ医学の道は開かれていない現実を思い知ったあと、どうでもよくなって図書室へ放置したままだった。

 そのなかに毒薬に関する書物があった。たしか。

「ひどい嘔吐と下痢。脱力と倦怠感。抜け毛と目の充血。ピットマン氏の症状そっくりだな」

 脱いだばかりのフロックコートに、ブラシをかけていたランバートが寄ってきた。

「ええ? 毒殺、ですか……? 殴殺じゃなく?」

「真相はわからない。でもありうる」

「なぜそう思われたのです?」

「始めから違和感があった。殴ったとはいえ、あまりにも簡単に死んでしまったと。そうじゃなかったんだ。そもそも、ピットマン氏はもうすぐ亡くなる予定だったのさ」

「どういう意味です?」

 分厚い薬学書を閉じ、ウィルフレッドは舌打ちをした。

「私がやられるところだったよ。あの母子に」

 そして新たな計画を練る。



 翌日、またもマリーローズはピットマン邸にいた。ちがうのは、裏口から入ったことだ。彼女が階下の台所に入るなり、ポーリーが無邪気に喜んだ。

「マリーローズさん!」

 にっこり微笑みながら、彼女は持参した菓子の材料を作業台に置く。

「ポーリーちゃん、ひとりじゃ大変でしょ? あたし、今日、休暇だからお手伝いに来たの。お菓子を焼くわね」

 感激する少女メイド。

「うわあ、うれしい! スコーンを焼きたかったの。お店のは高いし、既成品のビスケットは美味しくないし。奥さまと坊ちゃんがかわいそうなのよ」

「じゃあ、早く用意しましょう。お茶の時間までに間に合うように」

「はい!」

 メイドふたりは、きゃっきゃっ、と楽しそうに作り始めるのだが、じょじょにトーンが低くなった。ついに、泣き言が聞こえてくる。

「マリーローズさん。お菓子作れないの?」

「うーん、じつは昨夜、練習したんだけど……」

「一度だけ? あたしよりひどいじゃない。がっかり」

「ごめん。ほんとは旦那さまにたのまれて来たの」

 勝手口の隙間から見物していたウィルフレッドは、見ていられない、と判断し、紳士禁断の台所へ入った。ポーリーへエプロンを要求する。

「メイドがふたりもいて、菓子のひとつすら焼けないのか。しょうがないなあ」

「すみません、旦那さま」

 頭を下げるマリーローズへ、シルクハットとステッキ、フロックコートを渡す。ポーリーが持ってきた白いエプロンの紐を結ぶと、手袋を外し、ボールに小麦粉を入れた。

 ウィルフレッドになる前の少女時代、いやいや習得させられた菓子作りが役に立つとは思わなかった。あまりにも少女趣味がないものだから、困惑した母が家政婦に命じて菓子作りをさせたのだ。好きな食べ物を使えば、乙女らしさが芽生えるかもしれないと思ったらしい。

 ブランクがありすぎて失敗するかと、不安になったものの、ときおり家政読本を参考にしながら、スコーンとビスケットを焼く。

 あまりにも手際が良かったのだろう。ふたりの半人前メイドは瞳をきらきら輝かせる。

「きゃー、美味しそう!」

「ひとつならどうぞ」

 ポーリーは割れたビスケットを食べる。

「いただきまーす。……ああ、これドライフルーツ――パイナップルが入ってるんだ。美味しい。あたしも作りたい!」

「そう。よかった」

「マリーローズさんのご主人さま、素敵。お菓子も作れるなんて、夢みたい」

 うっとりするポーリーの瞳は、恋する乙女そのものだった。

「ああ見えて、かなり乙女力が高いのよ、サー・ウィルフレッドって。お裁縫もできるんだから」

 得意げに腰に手をやるマリーローズを、ウィルフレッドは軽く小突いた。

「バカ。おまえが役に立たないから、私が仕方なく加勢したんだろうが。最初で最後だからな」

「ええー、もったいないです」

 ポーリーとマリーローズが口をそろえて、そう連呼した。

 菓子の用意が終わると、ウィルフレッドはポーリーに何度も念を押す。

「いいかい、今日の焼きたて菓子はマリーローズが作った、って言うんだ。そして彼女が自分の境遇を話す。そのあとお出ししなさい」

「はい」

 まだまだ子供のポーリーは、素直に指示をきいてくれる。ひねくれたメイドでなくてよかった。

 茶盆を手に裏階段を上がるポーリーとマリーローズ。そのあとを、ウィルフレッドがそっとつけた。ピットマン親子に見つからないよう、廊下から居間を見守る。

「奥さま、坊っちゃん。今日のお茶菓子は知り合いのメイドさんに焼いてもらいました。スコーンとパイナップルビスケットです」

 ポーリーは居間のサイドボードへ茶菓子の乗った盆を置いた。もうひとつの盆を持ったマリーローズが顔を出すと、ピットマン夫人とピーター少年は困惑したような顔で彼女を見た。

「こんにちは、ミセス・ピットマン。昨日はあたしの旦那さま――サー・ウィルフレッドが失礼な訪問をして申しわけございませんでした。そのお詫びといっては何ですが、お菓子を焼きましたの」

 夫人は引きつった笑みを浮かべる。

「あらまあ。お気遣いありがとう」

 ピーターは怖い顔をした。

「母さんを泣かせたやつの子分か」

 歓迎されない雰囲気に負けることなく、マリーローズは女優のような可憐な笑みで話し続けた。

「寂しいですわねー、奥さま。あたしも夫が三人いたんですけど、みーんな死んでしまいましたの」

「まあ、まだお若いのに?」

「十六歳のときの夫は朝、職場へ行く途中、倒れてしまいました。十八歳のときの夫は眠っているあいだに冷たくなってました。三人目は先月、食中毒で天国へ逝ってしまいました。……ああ、あたし、どうして不幸なのかしら。でもうん、と年上の夫ばかりでよかったですわ。メイドをしながら、妹と念願の砂糖菓子のお店を開くことができましたもの。夫の遺産に感謝しなきゃ」

「あら、それはお気の毒……」

 明らかに夫人は血の気が引いていた。

 脳天気な笑みのまま、マリーローズは居間をぐるりと見回した。

「それにしても素敵なお家。坊っちゃんのお嫁さんになる娘さんがうらやましいわ。でも、新婚生活にお姑さんがいるのって、冷めちゃうのよねー。あ、奥さまのことではありませんわ、もちろん。あたしの経験話ですわ。おほほ……」

「……」

 夫人は返す言葉が見つからないのか、固まるだけだった。

 ポーリーが菓子を卓に置いた。マリーローズが紅茶を注ぐ。

「召しあがれ、奥さま、坊ちゃま」

 気を取り直すように夫人がスコーンを取った。同時にピーターがその手を払いのける。

 スコーンが飛び、絨毯に転がった。

「よせ、母さん。その女に殺されるよ!」

「冗談かしら?」

 目をぱちぱちさせる夫人。必死の形相で止める少年。

「冗談なものか。ぼくにはわかるんだ。こいつ、遺産狙いの毒殺魔だよ。母さんはだませても、ぼくはだまされないからな」

「失礼だな。私のメイドを毒殺魔呼ばわりするなんて」

 ウィルフレッドが居間へ入ると、今にも泣き出しそうな顔でピーターが飛びかかってきた。すぐにマリーローズが少年の首根っこをつかみ、床へねじ伏せる。十歳と十八歳の少年の力の差は大きかった。

「だましたな、ちくしょう!」

「何をだましたの?」

 まったく事情をのみこめない夫人のようすからして、彼女は完全に無関係のようだ。だからピーターだけ屋敷の外へ連れ出した。



「……そうだよ。ぼくが父さんの寝酒にヒ素を入れた。毎日、少しずつ。そうでもしないと母さんが殺されそうだったんだ」

 ヒ素はもっとも一般的な毒薬だ。殺鼠剤として簡単に入手できることから、女性がよく使うことで知られていた。痕跡が残らず、臭いや味もなく、使いやすい。俗に『相続人殺しの毒』と言われるほどだった。

 人気のない公園のベンチで、ピーターはうつむき、涙をこぼした。

 少年は毒を熟知しているだけあり、メイドのマリーローズが出した菓子をひどく警戒した。それとなく世間話をし、すぐに毒殺魔だと発想する姿こそもっとも疑わしい。

 深いため息をつき、ウィルフレッドが続きをうながす。

「しかし間に合いそうにない、と判断したきみは、ヒ素の量を一気に増やした。ピットマン氏の症状は急性中毒のそれだ。そしてたまたま、モーリスが殴ってしまったことで、あっけなく氏は亡くなった」

「モーリスのことはどうでもいいんだ。あいつも好きじゃなかったし」

「母ぎみと仲がよかったから?」

 ピーターはうなずいた。

――残酷だな……。

 ほかに言いようがなかった。

「適当に理由をつけて、女料理人を解雇させたのもきみだろう?」

「あのメイド、殺鼠剤が減っているのを母さんに告げ口したんだ。母さんが鈍いからよかったけどさ」

「先手を打って追い出したのか。なかなかやるね。そういえば、猫のチャーリーは? いつも私になついてくるのに、今日は姿がなかった」

 ぐしゃぐしゃの泣き顔を見せながら、少年は悔しそうに答える。

「……知ってるくせに。おまえのカップに塗っておいた毒で、病気になったよ」

「やはり、か」

 メイドの扮装をといたランバートが、逃げようとしたピーターの両肩をつかむ。小さな毒殺犯はそれを払いのけようとした。

「ぼくをどうするつもり?」

「さあ、どうしよう。できればきみを警察へ突き出したくない。モーリスの罪が軽減されればそれでいいんだ。決して同情からじゃないよ。面倒事に関わりたくないのさ」

 ぱあっと、ピーターの表情が明るくなる。涙も嘘のように止まる。それがかえって、ウィルフレッドの気持ちを暗くした。

 正義感は強いが、冷酷でずる賢い少年。道徳や情で言い聞かせても、理解できないだろう。母親を苦しめる者は、容赦なく退治するのだから。

 ならば。

 ウィルフレッドはランバートに煙草を命じた。口元へ運ばれる。

「私じゃない。ピーターくんへ。きみをひとりの紳士として扱おう」

「ぼくを?」

「取引だよ。私とランバートがきみのことをだれにも話さない代わりに、モーリスの罪を軽くするんだ。もちろん真実を話せ、と言っているわけじゃない。以前から父ぎみの体調が悪かったとか、眠れないせいで夫人に暴力を振るったとか、きみが法廷で証言すればいい。まだ十歳の無垢な少年の言葉なら、大人たちはみな信じるさ。そして――」

 顔をぐっと近づけ、にらみ、語気を強めた。

「二度と、私に近づくな。将来、社交界で顔を見ても、話しかけるな。もし約束を破ったら、ピットマン氏殺人事件の真犯人を新聞社に暴露するからな」

 火をつけられた煙草を吸い、むせ、ピーターは鼻で笑う。

「わかったよ、おじさん――じゃない。サー・ウィルフレッド。ぼくの完敗だね」

「では、ごきげんよう」

 背中を向け、公園を出た。あとに続くランバートが、不安そうに言った。

「いいんですか、放置しておいて。あのまま成長するのが怖いような」

「あとはピーター自身が決める。彼の将来を、私たちが導く必要はないさ」

「でも父親を……」

「そうしないと、母親が死んでいた。私には責められない」

 ランバートは解せない表情を残したが、それ以上、ピーター少年のことを話さなかった。



 その後、裁判にかけられたサミー・モーリスは、懲役刑を言い渡された。五年だった。ピーター・ピットマン少年の証言で、裁判官が情状酌量したのだという。新聞も読み手の同情を誘いながら、ピットマン氏殺害事件の結末を報じた。

 執事マリガンはその日の新聞を握りしめながら、書斎にいるウィルフレッドへ何度も頭を下げる。

「旦那さま、ありがとうございます。サミーから聞いたのですが、ピットマン夫人と交渉してくださったのですね。ああ、なんとお礼を申しあげてよいのやら!」

 そしておいおい、男泣きする。

「ああ、それね。たまたまうまくいっただけだよ。感謝されるほどじゃないさ」

「その謙遜されるお姿が、わたくしの誇りです! 執事マリガン、一生、あなたさまにお仕えいたし、どこまでもお守りいたします」

 辟易していたウィルフレッドは、失笑するしかなかった。

「あはは。だからそういうのはいいって。ランバートによくしてやってくれさえすれば、私は満足なのだから」

「アレックスを?」

 泣いていたはずのマリガンの顔が、一瞬にしていつもの真面目なそれにもどる。眉をきりりと引き締め、堅い口調で言った。

「失礼ですが旦那さま。従者だからといって、特別待遇するわけにはまいりません。それでなくても、協調性がなくてわたくしは困っているというのに。空き時間や休暇があるたび、自室に閉じこもっているのですよ。同僚たちと親睦をはかるのも、使用人の努め。なぜなら、わたくしどもの仕事は連携が何より必要なのです。それをわたくしがアレックスに口酸っぱく申しあげても――――」

 ウィルフレッドはつい、わが従者の名前を出したことを後悔した。

――許せ、ランバート。またマリガンとの確執を深めてしまって……。

 心のなかでそう謝罪した。


第5話:おわり



※作者から補足。

 十九世紀後半ごろの科学捜査は、現在とは比べ物にならないほど、進歩していませんでした。指紋照合はもちろん、死因を特定する検死もほとんどされないため、ピットマン氏が毒殺されたとすぐに判明しないのもそのためです。裁判は情に訴えて判決を下されることが多く、証人の証言が最重視されました。

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