第5話 黒いマリア…前編



 最近、レディ・ハートレーは頻繁にお茶会を催す。ともにテーブルを囲むのは、ひとり息子のサー・ウィルフレッドだけだ。使用人は居間にいない。

「お茶のおかわりは? おまえ、木苺のタルトが好きだったわよね。もっとお食べなさいな」

 少女のように愛らしい笑みを浮かべながら、母は紅茶ポットを手にした。

「もう結構です。あまり食べ過ぎると、太ってしまいますから」

「まあ、かわいらしいこと。今度、お洋服を新調しましょうよ。こっそりドレスを注文してもいいのよ。たまにはかわいらしい格好をして楽しみなさいな。乙女の特権よ」

「興味ありません」

 またこの話題か、とウィルフレッドはうんざりした。

 空になったカップをソーサーに置くと、話もそこそこに居間を出た。

――今さら、娘としてかわいがってどうするつもりだ?

 あまりにも白々しい母娘劇に、反吐が出そうになる。

 先月、感冒にかかったウィルフレッドは、危うく死にかけた。もし従者のランバートが診療所へ連れていかなかったら、叔父がサー・シドニーとして、この屋敷のあるじになっていたかもしれない。

 高熱で意識がもうろうとしていたとき、母はたしかに言った。

――ウィルフレッドだけがあたくしの子供なの。

 あとの言葉は覚えてないが、あまりにも自分勝手なセリフにぞっとした。

――ああ、アレクサンドラとしての私に価値はないんだ。

 子供のときから薄々あった黒い感情が、真実になった瞬間だった。

 本音を聞かれてしまったと、母は怖くなったのだろう。熱が下がった日から、やたらと賢母のごとく振るまって接してきた。ふたりきりになれば、愛娘として扱う。

 そもそもだ。アレクサンドラだった少女時代、母はわからなかったのだろうか。ファッションも宝石もショッピングも手芸も人形もロマンス小説も、まるで興味がないことに。

「理解できないから、いまだに言うんだろうな……」

 書斎の執務机で、大きなため息をついた。

 銀盆片手にランバートが入ってくる。いつものように手紙を運んできた。

 ほとんどが支払いの督促だ。一年前、従兄ゴードンが領地の収入を横領したため、家計が大赤字になっている。支払うべきものが足りず、どこから捻出するか悩むのが日課だった。

 使用人を減らしてもいいが、給金などたかがしれてる。彼らの反感を買うのも得策ではない。何かを処分したお金で、その場をしのぐほうがいいのだろうか。ゴードンが返済するのを悠長に待っていられない。

――でもなあ、領地を売るのは忍びないし。

 うーんと、頭を悩ませる。

――何がドレスの新調だ。わが家はそれどころじゃ――まてよ。

 そばで控えていたランバートに命じた。

「母上を呼べ。あと、侍女も」

「かしこまりました、旦那さま」

 母が侍女を伴って書斎に入ってきた。前置きを省き、用件を伝える。

「母上、ドレスと貴金属を売ってください。あと靴や帽子も。わが家の家計を助けるためです」

 たちまち顔色が変わる。

「なんですって! おまえ、正気?」

「正気も正気です。あんなもの数枚あれば事足りるでしょう」

「ひどいわ! 女の大切な財産を手放せ、とおっしゃるの?」

「私も父上の懐中時計コレクションと、姉上の形見の宝石を売ります。これでおあいこのはず」

「おまえはよくても、あたくしは無理よ!」

 金切り声が書斎に響き渡る。見ていられないと思ったのか、侍女は母の味方をした。

「旦那さま、大奥さまは何も悪いことをされてませんわ。手持ちのものをいくつか、ぐらいに留めておけませんか?」

「着飾って喜ぶ客人がいるわけでもあるまいし。いい加減、現実を直視してください、母上」

 涙を流す母は話ができる状態ではなかった。

 仕方がない。今日はこれぐらいにして、明日、あらためて説得することにした。

 書斎にランバートとふたりきりになると、彼は言った。

「黙って売られてはいかがです?」

「ええ?」

 冗談かと思ったが、彼の目はいつになく真剣だった。

「大奥さまは良くも悪くも女性らしい御方です。貴金属は命の次に大切なはず。説得ぐらいで手放されるとは思えません」

「そこまでするか?」

「旦那さまは肝心なときに譲歩なさるから、大奥さまは泣き落としをされるのです。劇団でいやというほど、女同士のいざこざを見てきましたから、おれにはわかります」

 母は不自然に優しくなったが、ランバートは母のことになると、だれよりも厳しくなった。自分が高熱で倒れた夜、母と彼が言い争っていたような気がする。意識がもうろうとしていたから、よく覚えてない。

「考えておくよ。助言、ありがとう」

 いつもの温厚従順な笑みにもどると、ランバートは退室した。



 その日の晩餐には、執事マリガンの姿がなかった。代理として第一従僕のハンクが給仕を仕切り、助っ人として従者ランバートがグラスを運んだ。

 就寝前の身支度にやってきたランバートに、マリガンはどうしたのかとたずねる。

「あの、階下ではその話題でもちきりです。だけどおれから言っていいのかなあ」

「えらくもったいぶるな」

「だってマリガンさんの義弟――奥さんの弟さんが、逮捕されたんですよ。しかも奉公先の主人を殺害した罪で――あ、しまった!」

 ランバートは、慌てて口元に手をやる。

「マリガンさんが結婚していたこと、ないしょだったんだ!」

「あいつ独身じゃないのか?」

「週末婚だそうです」

「それはおめでたいことだ。今度、私からお祝いを贈ろう」

「ありがとうございます。よかった」

 十年以上も奉公しているのだ。今さら既婚者だろうが、務めをこなしてくれれば問題ない。

 ウィルフレッドはウイスキーのソーダ割りをたのむ。奉公先の主人を殺害、というセンセーショナルな話題をもっと知りたくなった。

 しばらくすると酒と新聞を銀盆に乗せて、ランバートが再び寝室にやってきた。

「本日の朝刊――デイリー・テレグラフです」

 ベッドの上でグラスをかたむけながら、ウィルフレッドは新聞を開いた。

「似たような事件はたくさんあるからな。どれだ?」

「四頁の中段にある記事です」

「ええと――これか? ロンドン、ランベスに住むセオドア・ピットマン氏四十八歳が、使用人に殴殺された。逮捕されたのは、サミー・モーリス三十五歳。ピットマン氏は紡績工場を経営しており、夫人と十歳の息子と暮らしている。やたらと慈善的な経歴か――要するに待遇に不満を持っていた執事モーリスが、かっとなって寝起きのピットマン氏を殴打したんだな。氏に暴言を吐かれたのか。怖いな。私も心しておかないと」

 ふと、ランバートと視線がぶつかった。

 ウィルフレッドはすぐに否定した。

「いや、おまえがそういう人間じゃないのは承知しているよ。あくまで一般論だ」

「もちろん存じてます。旦那さまの毒舌は、愛がこもっていると信じておりますから」

 気まずい空気が流れる。

 こほん、と空咳をし、ウィルフレッドは新聞紙を畳んだ。

「で、マリガンは信じていないのか、この記事を」

「ええ。バード夫人からの又聞きですが、モーリスさんはとても穏やかで、争いを好まない人柄だそうです。以前、どの職場でもトラブルひとつ起こしたことがないとか。マリガン夫人が必死になって、弟の無実を証明するのだと駆けまわっているそうですよ」

「モーリス自身はなんて言ってる?」

「さあ。おれの耳に入ったのはここまでですから」

「へえ。それはとっても気になるな」

 ランバートが困ったように眉をひそめる。

「探偵みたいなことをなさらないでくださいよ。警察と判事が解決してくれます」

「お上こそ信用ならないぞ。あいつらにとって事件は仕事だ。動機もあることだし、モーリスは有罪――終身刑か死刑だろうな。主人と使用人では分が悪すぎる」

 せっかくの機会なのだ。たまには家や親族のごたごたから離れて、べつの騒動を探ってみるのもいい。気分転換にもなるし、進展があればマリガンも喜ぶだろう。

 明日、さっそくモーリスに会ってみよう、と言ったらランバートはがっくり肩を落とした。



 三月のロンドンはまだまだ寒かった。石炭から出る煤煙で空は薄茶色に濁り、道行くひとびとは早足でうつむき加減である。さいわいだったのが昨夜、雨が降ったことでいくらか空気汚染が緩和されたことだ。

 辻馬車に乗っていると、目的地のニューゲイト監獄が見えてきた。レンガ造りのだだっ広い平面的な建物は、まるで地獄の入り口に佇む冷たい砦のようだった。

 馬にひかれた黒い護送車ががらがらと音を立て、辻馬車を追い越す。虚ろな目をした囚人たちが、名残惜しそうに車窓から娑婆を見つめていた。少年から老年の薄汚れた顔が、ずらりと見世物のごとく並ぶ。

「あれがブラック・マリアか」

 田舎屋敷にいるとまず見かけない乗り物に、ウィルフレッドはかすかな興奮を覚える。

 従者ランバートが苦々しく言った。

「何度見ても、気持ちがいいもんじゃありませんね。おれの知り合いも、何人かあれに乗って監獄へ行きました」

「どんな罪で?」

「ほとんどがささいな窃盗です。親父が死んでスラムへ引っ越したとき、おれも誘惑にかられました。腹が減ってたまらないから。劇団に入れなかったら、どうなっていたんだろう」

「そうか。おまえには不吉な使者だったのだな」

 辻馬車を降り、監獄の門をくぐろうとしたら、門番に止められた。囚人や未決囚と面会するには、あらかじめ許可が必要だという。だからいくらかの心付けをやったら、すんなり通してくれた。

 ロビーに入ると、マリガンがいた。こちらに気がつくなり、驚いた顔を見せる。そしてひどく恐縮した。

「旦那さま。まさか、わたくしどもの面倒事をお気遣いになられたのですか」

「まあね。おまえが姿を見せないから、ランバートから事情を聞いたら、協力したくなったのさ」

 本音は好奇心からだったが、他人の不幸を面白がるには不謹慎すぎた。

 マリガンの隣にはやつれた顔の中年女性がいた。マリガンがこっそり結婚した妻だろう。彼らが震える前に、知っているのを白状した。

「ミセス・マリガンかい?」

「え、ええ」

「あなたのご主人には、十年以上、お世話になっている。その真面目な彼が職務を放棄してまで、駆けつけたんだ。よほどの事情があったのだろう?」

「サミー――あたしの弟はとっても優しいんです。子供のときからだれからも好かれました。たまたま暴言を吐かれたぐらいで殴るなんて、ありえません。きっと深い理由があるんです」

「あなたを見ていると私もそう感じるよ」

「ああ、お優しい御仁――主人が言ってたサー・ウィルフレッドですのね」

 わっと泣き出したのはマリガン夫人でなく、執事マリガンだった。

「ううっ……。旦那さまのお世話ができず、役に立たないわたくしのために。このようなご厚意をかけてくださるなんて、夢のようです!」

「そんなに感激しなくても、マリガン……」

「いいえ! 新人従僕が従者になったとき、わたくしは旦那さまにとって、もう必要がないのだと思ってしまいました。一方的に悪くとってしまったこと、お赦しください」

「そういうのはいいから……」

――野次馬根性だと知れたら、また泣くかもな。

 つい、引きつった笑みでごまかす。横にいるランバートが肩を震わせている。どっと吹き出しそうなのを、必死にこらえているのがわかった。

 マリガン夫人を通して、サミー・モーリスと面会する。また心付けが必要だったが、囚人たちの家族ですら迅速に面会させないのだから、マリガン夫妻もしぶしぶ払ったにちがいない。

 小さな薄汚れた面会室に入って待っていると、不快な臭気が鼻をついた。身体を洗浄しない人間の体臭と、糞尿と、小動物の腐臭だった。

 我慢できない。

 ウィルフレッドは胸ポケットからハンカチを取り出し、鼻と口元を抑えた。しかしランバートは平然と待機している。スラムに住んだことのある彼にとっては、慣れた臭いなのだろう。

 看守とともに、手錠姿の未決囚サミー・モーリスが奥のドアから入ってきた。マリガン夫人と同じくすんだ金髪と青い瞳の男だった。青い縞の囚人服を着た彼は、かなり憔悴したらしく頬がこけ、目の周りが黒ずんでいた。

「あなたは?」

 ハンカチを下ろし、彼の素朴な問いに答える。

「私はウィルフレッド・ハートレー。ミスター・マリガンの雇い主だ」

「姉さんから聞いたことがある。サー・ウィルフレッド……」

 そんな上流階級の御仁がなぜ?

 顔がこわばるモーリスを安心させるため、さきにマリガン夫妻から聞いた話と、新聞記事が矛盾していることを話した。

 するとモーリスは悲しそうに視線を落とす。

「……俺が殺しました。罪を償うのは当然です」

 無実を訴えるのかと思えば、まさかの告白に戸惑う。

「では、新聞記事のとおり、ピットマン氏の暴言に腹が立って、殴ったというのかい?」

「否定できませんが、肯定もできません」

「いやに曖昧な物言いだな。話せない理由が?」

「警察には話しました。ですが、旦那さま――ピットマン氏は慈善家としても知られています。俺はただの使用人です。罪を逃れる嘘つきと思われるだけです」

「たしか、新聞記事にあったな。慈善家としての経歴が。そのピットマン氏が何をしたというんだい?」

「奥さまをひどく殴り、罵られていました。俺が止めに入ったとき、拳が旦那さまの顔に当たって――。ベッドの柵に頭を打ち付けた旦那さまは血を吐き、そのまま亡くなられました」

「だから殺した、というのか……」

「はい。それ以上、何も言うことはありません、サー・ウィルフレッド」

 それから二度ほど問いかけるが、モーリスは固く口を閉ざした。虚ろな視線だけを送る。

――どうせ興味本位で来たんだろう、いいところの若さま。

 そう責められているような気がして、別れのあいさつもなしに面会室から退散した。



 ハートレー家の町屋敷に帰ると、ランバートが暖炉に火を入れた。使用人がいないため、ウィルフレッドは暖炉で沸かした湯を使い、茶の用意を自らした。

 紅茶を二階の居間で飲みながら、ため息をつく。

「……後味が悪いな。マリガンのやつを悲しませるだけだった」

「だから言ったでしょう。余計なことに首を突っこまないほうが、いいですよって」

「うーん、すっきりしないなあ」

 ランバートが階下から持ってきたビスケットを食べたら、ひどく湿気ていた。苦味がある。かびたのだろう。

「いつのだ、これ?」

「上段の棚にあったのを持ってきました。缶に密閉してましたから、ネズミにかじられてないはずですが」

「そういうときは、私に出す前におまえが食べるんだよ」

「まるで毒見役じゃないですか」

「騎士時代の召使の立派な仕事だぞ。そういえば、フランス王妃だったメディチ家のカトリーヌは、息子のシャルル九世を毒殺したという説があるらしい。国を統治するにはあまりにもたよりない王だったそうだ」

「母親に殺されるのですか?」

「あくまでも説だ。それだけ毒殺は、昔からよくある魅惑的な大罪――」

 食べかけのビスケットを持った左手を、ランバートに握られていた。なぜか憐れむような目で自分を見つめている。

「どうした?」

 われに返ったのか、慌てて彼は手をひっこめる。

「……いえ、味見を思いつかなくてすみませんでした」

 あまりにもしょげているから、友人として肩を叩いてやった。

「きみは使用人の演技をしているだけだ。これもネタにすればいいさ。そうだ、いっしょに菓子を買いに行こう。私が子供のときによく通った店を案内するよ。オレンジとマロンのケーキが美味しいんだ」

 ひとつ通りを隔てた菓子屋は健在だったが、いつも店番をしていた女店主はいなかった。若い男店主に元気にしているのかたずねたら、母は三年前に亡くなったと答えがあった。

 残念に思いながら、ケーキとスコーンを買う。

 町屋敷にもどり、居間で紙包みを開き、再度紅茶を淹れなおした。フォークでぷすりと刺したケーキを、ランバートの口元へ持っていく。

「さあ、毒見係どの。ほら、口を開けて」

 彼は真っ赤になる。

「ええー、いいですよ。これじゃ毒見係というより…………」

 言葉を濁す。

「毒見係じゃなくなんだい?」

「新婚みたいじゃないですか」

「……」

 村の中年医師が頭に浮かんだ。診察時、メイドの格好をしてたため、深い男女の仲と思われている。ランバートの顔を見るたび、新婚さんと声をかけるそうだ。意味ありげな含み笑いつきで。

 急にこっ恥ずかしくなり――だいたい、ランバートのやつがスケベ医師の言葉を意識しすぎなのだ。

 だから鼻をつまんで、口を開けたところへケーキを突っこんでやった。

「スーツを着た新婚同士がいるものか。バカ!」

 視線をそらし、黙って菓子を食べた。店主が変わったためか、以前より味が落ちていた。それとも思い出のなかの味が昇華されていたためか。

 紅茶ポットが空になったころ、話題を変えるようにランバートが言った。

「あの、モーリスさんの件でおれ思ったんですが」

「何を?」

「ピットマン夫人が罵られ、殴られていたんですよね。救ってくれたのに、警察には何も言わなかったんでしょうか」

「夫を殺されたから擁護する気がなかった、とか。しかし暴力を振るわれたのがひっかかるな」

「モーリスさんは警察に言った、と言いました」

「うん。使用人だから相手にされない、と彼は言っていた。でも雇い主の夫人は?」

 ふたりは顔を見合わせ、うなずいた。

「よし、ランバート。明日はピットマン宅を訪問しよう」

「賛成です、旦那さま」

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