第4話 美しいメイド…後編



 馬車でシドニー・ハートレー氏の屋敷へ向かう道中、アレックスは主人から穏やかでない話を聞かされる。

 がたがたと揺れる車内で向い合って座っていた。ウィルフレッドの表情は冴えない。

「いいかランバート。決してあいつの家で出されたものは食うな。飲み物も辞退しろ。どんなに勧められてもだ」

「毒でも入っているのですか?」

「当たり」

 一気に背筋が寒くなる。

「叔父上はともかく、ゴードンの野郎が曲者なんだ。まだ弟が生きていたとき、あいつは毒入りのタルトを食わそうとした。いつも意地悪をするのに、なぜかその日は上機嫌でな。まだ七歳の弟は疑うことなく受け取ったよ。それを私が奪って、子犬にやったら泡を吹いて死んだ」

「……」

 従兄弟同士の確執とはいえ、そこまでするのかとにわかに信じられなかった。

「ついでに言うが、死んだ猟犬の母犬が怒って、私に跳びかかった。たまたま近くに森番がいたから助かったが、運が悪ければ死んでいたのは私だったろう」

「……」

 それで犬がお嫌いだったんですね、と呑気に応える気力はなかった。今まで主人が叔父一家を訪問しなかった理由がそれだ。

「というわけだ。気を引き締めて務めろよ」

「も、もちろんです、旦那さま……」

 声が震えるのが自分でもわかった。

 シドニー氏の屋敷はハートレー家の屋敷よりずっと小さかった。かつて法廷弁護士をしていた氏は引退し、今は職業軍人をしている長男夫婦と同居している。妻は三年前に他界した。

 馬車を降りる。ウィルフレッドが正面玄関へ歩いていったので、使用人のアレックスは裏口から入ろうとしたが止められた。

「別行動は危険だ。今日は私の秘書ということにしておこう」

 玄関のベル紐を引っ張る。しばらくすると執事が出てきた。

「いらっしゃいませ。名刺をお預かりいたします」

 懐から取り出した名刺を、銀盆に置いたウィルフレッド。そのまま執事のあとについていった。

 執事が困ったようにふり返る。

「お客さま。お取り次ぎをいたしますから、玄関でおまちください」

「私はサー・ウィルフレッド・ハートレーだ。それだけで充分だろう」

 彼は左右を見、目についた空き部屋に入った。火のない応接間だった。どっかりとソファに腰掛け、ステッキを立てたまま握りしめる。マフラーとシルクハットは執事でなく、アレックスにあずけた。

「お客さま勝手ですが、のちほどご案内いたします!」

「私はここがいい。シドニー叔父上を呼べ」

「あいにくお出かけです」

「ではゴードンの野郎は?」

「少々おまちくださいませ」

 面倒そうな客だ、と言いたげな表情を残し、執事は出て行った。ウィルフレッドの隣に座ったアレックスは不安になる。

「旦那さま、強引すぎやしませんか?」

「あいつが用意した部屋には、何があるか知れたものじゃない。予告無しの訪問だけではだめだ」

 かなり警戒している。

 しばらくすると執事が茶とビスケットを運んできた。馬車のなかで忠告されたとおり、アレックスは口をつけなかった。

 さらに十五分ほど経過し、ようやくゴードン・ハートレー氏が応接間に入ってきた。成人祝いのパーティーで見たときと変わらず、笑顔はない。従兄弟同士とは思えないほど、彼らは似ていなかった。がっちりした体格の氏は、いかにも軍人風情である。

「ごきげんよう、ゴードン従兄どの」

「何の用だ」

 ウィルフレッドは視線をそらしたままだ。

「用があっても来たくなかったが、わが家の家計が赤字続きでね。どういうことか事情をききにきた」

 なんだ、そんなことか、と言わんばかりに、向い合って座ったゴードンは鼻で笑う。

「さあな。きさまの母親が無駄遣いでもしたんだろ。淫売は着飾ることしか能がないからなあ」

「レディ・ハートレーと呼べ」

「きさまの召使以外は、だれも呼ばないぞ。伯父上は淫売の涙にだまされたんだ。けがらわしい」

「母上の話をしにきたのではないぞ、ゴードン」

 ウィルフレッドが手袋をした指で合図した。あらかじめ打ち合わせしたとおり、アレックスは鞄から一冊のノートと帳簿を取り出し、卓上で開く。

「なぜ赤字続きなのかを、私が調べてみた。……まず、ここ。使用人の数がちがう。そして給金の額もだ。わが家の執事に確認したのだから、彼がネコババしないかぎり帳簿がおかしいことになる。次に石鹸の数。その月は来客がないはずだが、異様に増えている。買い溜めでもない。翌月も購入しているから。わが家の家政婦の帳簿と照らし合わせてみたら、明らかに叔父上ときさまがつけさせた帳簿が多い。……あの会計管理の男を買収したろう? これから私も管理する、と宣言したら、すぐに辞めてしまったよ。ほかには庭園のバカげた修繕費に、ありもしない晩餐会、そして――」

「僕は知らん。親父が勝手にしたことだ!」

 ゴードンが真っ赤になってそう叫ぶ。静かにウィルフレッドは帳簿を閉じた。

「最低だな。叔父上に罪を被せるのか?」

「……」

「横領したぶんを返せ。悪徳親子のために、わが家の召使を減らすわけにはいかん」

「返せるものなら返したいが、手元にさっぱりないのでね。ギャンブルで全部すってしまった」

「それがどうした。なんなら弁護士を入れて、法廷に持ちこもうか? 証拠はたっぷりとあるんだ」

「それこそハートレー家の恥じゃないか」

「淫売の息子が准男爵というだけで、恥のはず。今さら取り繕ってどうする?」

 ゴードンは拳を握りしめ、悔しそうに歯を食いしばっていた。完敗である。

 ふう、っと息をつき、ウィルフレッドは会心の笑みを浮かべた。

 アレックスは心のなかで拍手喝采を贈った。ひと回りも年上の従兄をこてんぱんにやっつける姿が、かっこよすぎる。図体は大きいが、ゴードンはあまり頭が良くないようだ。ウィルフレッドのほうがずっと賢い。

 だが、すぐに音をあげるような従兄ではなかった。せっかくなのだからと、べつの話を一方的に切り出す。

「フォーブス家ともめたそうじゃないか。幼なじみの令嬢を泣かせて、縁談をぶっ壊したって聞いたぞ。あいかわらずきさまは病弱のままだな」

「それで?」

「跡継ぎを作れない気の毒な従弟どのだ、と言いたいのさ」

「ああ、そう。言いたいことはそれだけかい?」

「……」

 ゴードンは相手の急所を突いたつもりなのだろうが、まったくダメージを与えられなかった。さらに表情がゆがむ。

「成人祝いのときから思ってたんだが、きさま、くそ生意気な姉貴に似てきたな。昔はぴーぴー泣いて姉貴のスカートに隠れていたのに」

 ウィルフレッドの眉がぴくり、と動く。

「なのにあっさり死んでしまって、かわいそうに。風邪をこじらせたってあのときは聞いたが、本当はちがうんだろう?」

「何が?」

「資産家との結婚を嫌がって、自殺したんじゃないのか?」

「……」

「その顔、図星か?」

「その結婚を仕組んだのは、きさまらだろうがっ!」

 激高するウィルフレッド。立ちあがり、今にもステッキを叩きつけそうだ。

――ああ、本人が目の前にいるのに!

 アレックスはどうしていいのかわからない。はらはらとその場を見守るだけだ。

 しかし彼の正体を知らないゴードンは、下卑た笑みを浮かべる。

「きさまの姉貴がくそ生意気だったから、お仕置きをしたまでだ。女のくせにことあるごとにたてつきやがって。腹を殴っても、服を破いても、きさまの姉貴は涙ひとつ見せなかった。僕をものすごい目でにらんでつばを吐きかけた。胸糞悪いのがいなくなって、せいせいしたな。ああ、きさまはお姉ちゃんがいなくなって、屋敷でぴーぴー泣いてたんだっけか。あはは!」

 ウィルフレッドがステッキを振り上げた。アレックスはその腕を背後からつかむ。

「落ち着いてください、旦那さま!」

「ゴードン、きさま……」

「挑発に乗ってはいけません。おれたちは帳簿の確認に来ただけですよ」

「……」

 ステッキを下ろし、ウィルフレッドは力なくソファに座る。気分を落ち着かせるため、アレックスは煙草を取り出し、火をつけた。主人の口にくわえさせる。

「帰りましょう。もう用件は終わったはずです」

「ああ、ランバート。吸い終えたらそうしよう」

 その場を鎮めることができて、アレックスは安堵した。

 もしウィルフレッドがゴードンを殴れば、相手は好機とばかりに仕返しをするだろう。職業軍人をしている従兄とまともにケンカしても、勝ち目はないどころか、瀕死の大怪我を負ってしまう。男女差ではなおさらだった。

 ゴードンが執事に何やら耳打ちする。いったん退室し、数分もしないうちにバケツを持った執事が、再び姿を現した。

 そのバケツをゴードンが持つと、勢い良く水をウィルフレッドにぶっかけた。

「わが家の応接間は禁煙だ。マナーを守ってもらわないと困る」

 びしょ濡れのまま立ち上がったウィルフレッドは、意に介するようすを見せなかった。黒髪を雫で滴らせながら、鼻で笑う。

「ちんけなくそ狭い応接間を汚して悪かったな」

「泊まるか? 服が濡れたままだと帰れないだろう」

「遠慮しておく。毒入りの晩餐を食わされたくないんでね」

 つかつかと早歩きで応接間を出る。アレックスもあとをついていった。執事の見送りを無視し、馬車に乗る。



 帰りの車中、ゴードンへのあらゆる悪態をついていたウィルフレッドだったが、だんだんと口数が少なくなった。がたがたと身体を震わせ、しきりに腕をさする。

 二月の寒空では、無理もなかった。

 アレックスは自分のオーバーコートを着せた。馬車に置いてあるひざ掛けもかける。しかし濡れた身体では温まるはずもなく、唇が真っ青になる。

「申しわけありません。おれがいながらお守りできずに……」

「マヌケのランバートらしいな」

 それきり話そうとしなかった。

 抱きかかえるようにして温めるが、それでも震えが止まらない。屋敷に到着するころには、冷えきって動けなくなるほどだった。

 アレックスは御者に従僕を呼んでくるよう言った。かけつけた同僚たちと主人を寝室へ運び、ベッドへ寝かせた。

「従者のくせにおまえは何をしていた!」

 執事マリガンの怒りはもっともだった。「すみません」とだけしか言えなかった。

「俺が旦那さまをお召し替えする。役立たずは消えろ」

 それだけはまずい。阻止しなくては!

「だめです。おれしかお世話しないと、旦那さまとお約束したんです」

「緊急事態だ。悠長な主従の約束を守るときじゃない」

「だめなものはだめなんです!」

 マリガンの手をつかんだ。ウィルフレッドのフロックコートに触れようとしたからだ。

「上司に逆らうのか?」

「それでもだめです!」

 ウィルフレッドの力ない声が聞こえる。

「…………マリガン下がれ」

 悔しさを飲みこむような表情とともに、彼は頭を下げる。

「かしこまりました、旦那さま」

 マリガンがいなくなると寝室の鍵をかけ、寝間着に着替えさせた。湯たんぽを三つ用意し、それをベッドのなかへ入れる。やがて主人の顔に血色がもどった。

「危なかったな」

 ベッドの上でウィルフレッドが苦笑する。

「おれがしっかり謝りますから、旦那さまは気になさならないでください」

「マリガンのあの顔、傑作だったぞ」

 軽口を叩く姿にアレックスは安堵した。大したことにならなくてよかったと。

「何が欲しいものはありますか。温かいココアを用意しましょうか」

「うん、そうだな。あと熱いスープを」

「かしこまりました」

 階下の厨房に行って、ココアと晩餐用に作っていたコンソメスープを用意してもらう。銀盆に乗せ、主人の寝室にもどったら、彼は言った。

「少し頭が痛い。今日はもう休むから、おまえも休め。親族の醜い諍いを見せて悪かった」

「とんでもございません。今後、ゴードンさまには充分、注意いたします」

「たのんだぞ」

 ここでウィルフレッドは目を閉じた。



 階下にある従者用の小さな部屋が、アレックスの私室だった。今日は暇ができたから、さっそく脚本の続きに取りかかる。

 ベッドでほとんどいっぱいになる部屋だったが、小さな文机があった。オイルランプを灯し、筆を走らす。

――今度は陳腐じゃない物語を。

 とはいえ、自信がなかった。筆を止め、書きかけの原稿を二度三度読み直し、くしゃくしゃに丸める。

――だめだ。ありきたりすぎる。

 おのれの才能のなさがいやになってきた。ものを書くにはあまりにも世界を知らなさすぎるような気がして、図書室で借りた本を開いた。書物は高価なので、使用人は読んではならないのだが、主人から許可を得たアレックスだけはべつだった。それもまた、マリガンがいい顔をしない理由のひとつだ。

 深夜、階下に響く、使用人ホールの呼び出しベルで目が覚めた。先輩従僕ハンクがドアを開ける。

「旦那さまのお部屋だ」

 何事かと思いながらオーバーコートを羽織り、オイルランプ片手に裏階段を上がる。合鍵を使って主人の寝室へ入った。

「どうなさいました?」

 ベッドからうなり声が聞こえる。ウィルフレッドの顔を見ると、リンゴのように赤かった。息は荒く、ひどい汗をかいている。

 そっと額に触れると、熱かった。

「ひどい熱じゃないですか。すぐに医者を呼びます」

「だめだ。だめ……」

 アレックスははっとした。

――医者に診せたら、性別がばれる!

「氷を用意しましょう。冷蔵室にまだあるかもしれません」

 階下へ駆け下り、食料貯蔵室へ入ろうとしたが、鍵がかかっていた。仕方ないので家政婦バードの部屋をノックする。

「旦那さまにお熱があるようなんです。氷をください」

 ガウンを羽織ったバード夫人が出てきて、待つように言われた。しばらくすると氷嚢を手にもどってくる。

「旦那さまのお加減は悪いのかしら」

 ひどい熱、と言いかけて、やめた。

「大したことないよ。微熱さ」

 本心は助けを求めたかったが、当主が女子だと発覚してしまうと、ウィルフレッド――サンドラはすべてを失ってしまう。准男爵の称号はもちろん、ハートレー家の屋敷、財産も。残るのは世間を欺いた不名誉だけだ。

 従者である自分だけの判断で、人生の一大事を決めるわけにはいかない。

 朝に熱が下がることを祈りながら、氷嚢を枕の上に置いた。

 突然、上体を起こしたかと思うと、ウィルフレッドは洗面器を所望した。身繕い用の手洗い台に置いてある琺瑯の洗面器を取るが、間に合わなかった。嘔吐物の大きな染みが布団に広がる。

 あまりにも吐くものだから、これはまずいと判断せざるを得なかった。

 覚悟を決め、レディ・ハートレーの部屋をノックし、そっとなかへ入る。初めて入る寝室はピンク色とレースで統一されていた。まるで少女のような女主人らしい装飾だ。

 ベッドから数歩距離を置き、呼びかける。目を覚ました女主人は小さな悲鳴をあげたが、事情を知ってすぐに黙る。ふたりでウィルフレッドの寝室へ入った。

「ああ、ウィルフレッド……!」

 胃の中をすべて吐き終えた彼は、ぐったりと横になっていた。

「大奥さま。このままでは旦那さま――いえ、お嬢さまは危ないかもしれません。医者を呼びましょう」

「だめよ――!」

 きん、と耳をつんざくような金切り声だった。われを失ったように女主人は嘆き悲しむ。

「あたくしはどうなるの! あいつらに身ぐるみ剥がされて、屋敷を追い出されるわ!」

「お嬢さまが死んでしまったら、どうもこうもないじゃないですか」

「アレクサンドラは死んだのよ。ウィルフレッドだけがあたくしの子供なの。息子じゃないと存在する意味がないわ。だからそのまま死なせてやってちょうだい」

「大奥さま!」

 あまりにも残酷な母親の言葉に、アレックスは怒りを覚えずにいられない。女主人であるのを忘れ、平手打ちをしてしまった。

「な、何をなさるの。召使のくせに!」

「それでもあなたさまは、母親ですか! おのれの保身のためにお嬢さまを見殺しにするなんて、おれは耐えられません!」

「口答えする気? あたくしは没落した郷士の父親に、姉といっしょに売られたのよ! ギャンブルの借金のために、娼婦にさせられた悔しさがわかって? 二度とあんな思いはしたくない。でもウィルフレッドのまま死なせたら、あたくしにはこの子の貯金が渡るの。そう遺言書を作ったから、あれだけが命綱なの」

「そのお金のために、お嬢さまは男装までされて、あなたさまをお守りしているのですよ。まったくたよりにならない、母親のせいで!」

 レディ・ハートレーは青い瞳を潤ませる。

「……あの子が自分で決めたのよ。息子が病死した日、あたくしに言ったの。『これからは私が守るから、母さまは安心して』って。長かった髪をハサミで切ったのもあの子自身なの。召使を全員、屋敷から追い出したのもあの子なの。あたくしは何もしてない。あの子が勝手に――」

「だから責任はないとおっしゃりたいのですか?」

「あの子、初めてズボンとフロックコートを着たとき、うれしそうだったわ。見たことがないほどの笑顔だった。あたくしが男装を強いたのではなくてよ」

「現実から逃げず、ご決断ください。医者を呼ぶと!」

「あたくしばかり責めないで。すべて悪いのは義兄なのよ!」

「ここでシドニー氏を出しても――ええ、もう、ちくしょう! ああ、ああ――!」

――どうしようもない母親だな!

 アレックスはそれ以上、説得する気力がなかった。狂ったように頭をかきむしる。

 だからといって、独断で医者を呼ぶ勇気もない。

――どうすればいいんだ、おれ……。

 女であることを隠しながら――いやまてよ。

 そうか。初めから女として医者にかかればいいんだ。

 アレックスはウィルフレッドを抱きかかえると、寝室を出た。

「ウィルフレッドを返して!」

 呼び止めるレディ・ハートレーを無視し、正面玄関から表へ出る。庭を通り、園丁が使っている作業小屋へ入った。そこへいったん、主人を下ろし、裏庭へ回る。物干し場を見ると、いつものようにメイドの制服が干してあった。

 サイズが合いそうなのを探し――背の高いメイドがいてよかった――、黒いメイド服と白いフリルのついたエプロンとキャップを拝借した。駆け足で作業小屋へもどる。そしてウィルフレッドに寝間着の上から着せた。



 窓から差しこむ朝の光で目を覚ました。小鳥のさえずりが聞こえる。いつの間にか眠っていたようだ。肩に毛布が掛けられていた。

 白いベッドのそばにいたアレックスは、椅子から立ち上がるとメイドの格好をした主人の額に触れた。

――よかった。熱が下がっている。

 眠っている彼女の顔は穏やかだ。昨夜、荷馬車に乗せて村の診療所を訪れたときは、そのまま意識を失ってしまうのではないかと思うほどの高熱だった。

 就寝前ろうそくの火の不始末で、髪の毛を燃やした。というでまかせの理由を話し、キャップを外さない約束を守ってくれた医者に感謝する。男のように髪が短いと、世間話として暴露されかねない。

 病室に医者が入ってきた。大きなあくびをし、中年の彼は「よかったな」と言った。

「ありがとうございます」

「今、たちの悪い感冒が流行っているんだ。熱が下がらず死ぬ者が多いらしい。ここへ連れてこなかったら、男やもめになっていたかもな」

「ええ、まあ、はい…………」

 今さらのようにアレックスは、恥ずかしさでのたうちまわりそうになる。

――なんで妻って言ってしまったんだよ!

 気が動転していたあまり、ぱっと頭に浮かんだ嘘をついた。家族か義理の姉ぐらいにしておけばよかった、と後悔しても遅かった。

「うれしくないのかい?」

「とってもうれしいです、先生!」

 笑ってみせるが自嘲のそれだった。

「新婚さんだろう? 姉さん女房いいなあ。僕の妻も年上でね、しっかりものの看護婦だよ。もうすぐ下へ降りてくるだろう」

「ええ、いいです。あはは……」

 サンドラが目を覚ましていないことを祈るしかなかった。

 医者が出て行くなり、アレックスは小突かれた。彼女は起きていた。

「ランバートの超特大バカ。もっとマシな嘘をつけ」

「申しわけないです」

「私たちがそういう仲に見えるか? 新婚っていうにはあまりにも――」

 いきなりサンドラに抱きつかれる。そして口づけされた。

 あまりのことにアレックスは固まる。やわらかく温かい感触が甘い誘惑となって、アレックスの鼓動を高鳴らせる。

 やがて唇を離した彼女は苦々しく言った。

「……あの医者、私たちをのぞき見していた」

「ええ?」

「だから新婚さんらしくしてやったのさ。満足そうな顔をして消えた」

「とんだドスケベ先生ですね……」

 ここで疲れたように、サンドラは横になった。そして目を閉じるのだが、その寝顔は美しかった。

――美しいメイド。

 ふと、陳腐なおのれの脚本が浮かんだ。

 そうか。逆境に立ち向かう姿こそ、ひとびとの心に美しく映るのだ。姿形ではなく、彼女自身の強さが、ひとりの女として美しく見せたにちがいない。



 翌々日。病気から回復した主人と入れ替わるように、アレックスが熱を出した。

 あのスケベ医者が屋敷へ診療にやってきたのだが、やたらと新妻メイドはどこにいるのかときいてくる。だから考えておいた理由を話した。

「おれ、従者してるでしょう。妻帯者は敬遠されるんですよね。ないしょですよ」

「週末婚か……」

 医者は残念そうに言葉を吐いたが、熱でそのあとは覚えてなかった。

 三日後、熱が下がり、奉公務めに復帰したら、主人からプレゼントがあった。

「どうだ。レミントンの最新型タイプライターだ。次回作を楽しみにしているからな、友よ」

 貧しい庶民には高嶺の花である。うれしい反面、怖くなった。明らかにえこひいきされると、マリガンだけでなく同僚たちからの風当たりが強くなりそうだ。

 ぴかぴかに光る文明の利器を前に、ウィルフレッドは首をかしげる。

「おや、欲しくなかった?」

「うれしいです。でもあまり高価な物をいただけるような立場じゃ……」

 主人は破顔した。

「きみは私の命の恩人だ。これでも安いぐらいだ」

「従者として当然のことをしたまでです」

「じゃあこうしよう。タイプライターはきみが私から買った。出世払いをする約束で」

 そして、おのれを指さし、彼は言葉を続ける。

「あと、私が先に死んだら、脚本のネタにしていいぞ。こんな愉快な話はないだろう?」

 ドキッとした。たとえ冗談だとしても、主人が死ぬかもしれないという恐怖は、二度と味わいたくなかった。

 だからこう答えた。

「では、五十年先の話ですね。それまで覚えているかなあ?」


第4話:おわり

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