第4話 美しいメイド…前編



 ロンドンのソーホーにある某劇場は、あいかわらず大勢の観客で賑わっていた。上流階級の社交場になる一流劇場とはちがい、憂さを晴らしたい庶民が楽しむ空間である。

 いくつか劇場がならび、そのうちのひとつにアレックスは入った。チケット売り場へ顔を出すと、なつかしい女将さんがいた。こちらを見るなり、歓声をあげる。

「まあ、アレックスじゃないの! 元気にしてた?」

「はい。支配人には電報を打っておいたんですが、時間は空いてます?」

「うちの旦那なら、舞台袖にいるはずだよ。幕の調子が悪くてね、点検中さ」

 貼りだされた演目を読むと、午後の開演まで二時間半もある。裏方用の通用口から楽屋がならぶ廊下を抜け、舞台袖へあがった。

 パイプをふかしながら、むずかしい顔をしてロープを引っ張っている支配人がいた。声をかけると、陽気に返事をしてくれる。

「ご無沙汰してます!」

「おお、元気そうじゃないか。奉公人生活はどうだ?」

「忙しいですが、いろいろ見られて楽しいですよ。本物の上流階級の生活って、想像以上に優雅です」

「そうか。ならいいんだ。使用人連中は陰険なのが多いからな。腕っ節の弱いおまえだ、いじめられてるんじゃないかって、女房と心配してたのさ」

「みなさん、お優しいですよ。心配ご無用です」

 と、言いつつ、執事マリガンの怖い顔が浮かんだ。

――紹介してくれた支配人の顔をつぶすわけにいかないしな。

「で、用事とは?」

「脚本を書きました。よかったら、上演してください」

「本気だったのか……」

 目を丸くする支配人。

「ええー、信じてなかったんですか?」

「だっておまえ、この世の中に劇作家になりたいやつ、何人いると思う? たしかに当たればでかいが、閑古鳥どころか上演すらされない連中のほうが多いんだぞ」

「しょっぱなからきついなあ」

「こっちは生活がかかってるんだ。しょうもない劇をやるわけにはいかん」

 しかしせっかく来てくれたのだからと、支配人が脚本に目を通してくれることになった。楽屋で待機する。

 開演までまだ時間があるので、楽屋にはだれもいなかった。そのほうがよかった。上演されるかどうか結果を知るまで、鼓動の高鳴りが止まらない。

 三十分もしないうちに、支配人に呼ばれる。小さな事務室に入り、固唾を飲んだ。

「えー、結果から言おう。筋は悪くないが、上演は無理だ」

 がっくりと肩を落とす。

「美しいメイドの恋物語なんぞ、いまどき観客を呼べると思うか? シンデレラばりにいじめられ、健気な彼女が屋敷の若さまに惚れられ、すったもんだの挙句のプロポーズ。アホらしい」

「そこまで言うんですか……」

「たしかにこういうのがうける。だが、そういうのは三文芝居止まりだ。陳腐すぎてまるで個性がない」

「……」

 ぐうの音も出なかった。たしかに支配人の言うとおりだったからだ。

「だがおまえはいいものを持っているぞ」

「それは?」

「登場人物がどれも生き生きしている。セリフ回しも悪くない。まだまだ若いんだ。もっと経験を積んで、たくさん書いてみることだな。本も読めよ」

「はい!」

 アレックスの心に希望の光が差しこむ。

 自分は忙しいからと、支配人は事務室を出る。アレックスも続いた。

 楽屋の前を通ると懐かしい顔があった。

「やだ、マリーローズちゃんじゃない!」

 同僚だった女優リンダだ。

 するとほかの女優たちが楽屋から出てきて、四ヶ月ぶりの再会を喜んだ。彼女たちはみな口をそろえて「マリーローズちゃん」と呼ぶ。

「もうその名前はいいよ。おれ、とうに引退したんだし」

 こっ恥ずかし過去がよみがえり、赤面せずにいられない。

「あたしたちのなかでは、マリーローズちゃんよ。妹みたいにかわいがっていたんだから。でも――」

 人差し指を頬にあて、リンダは眉根を寄せた。

「あんたすっかり男らしくなったわねえ。いいとこのお屋敷で従僕やってんでしょ? そのスーツだって高そうだわ」

「ああこれね。旦那さまからいただいたんだ。先代のだよ」

「旦那さまって、准男爵の?」

「うん。サー・ウィルフレッド。従者やってるんだ」

 黄色い声があがる。アレックスは彼女たちに引っ張られるようにして、楽屋へ入った。たちまち囲まれる。

「准男爵さまと仲がいいのね。ねえ、独身の貴公子さんとも交流があるのかしら?」

「どうだろう。あまり人付き合いされないから」

「じゃあ、弟さんや従兄弟さんは?」

「従兄はいるけど仲は良くないようだよ」

「うーん、がっかりね。執事さんはまだ独身かしら」

「結婚しているって、このまえ聞いた」

「なーんだ」

 彼女たちは青いため息をもらした。どうやら従者である自分の縁で、紹介してほしいらしい。貪欲な女優たちに失笑せずにいられなかった。

「やめなよ、あんたたち。さかりのついたメス猫みたいだよ。だいたい、あたしらなんか相手にされないさ。令嬢でもなんでもないんだから」

 しゃがれた声のぬしは、楽屋のすみの椅子に座っていた。三十歳なかばぐらいの彼女は、化粧台に置いてあった葉巻を手にすると、マッチで火をつける。豪快に吸った。

 顔をしかめ、リンダが言った。

「アントニア、煙草はやめて、って言ったでしょ。下品な娼婦にまちがえられるわよ」

 彼女は涼しい顔を崩さない。

「あたしがどうしようが、あんたたちに迷惑をかけてないんだからいいでしょ」

「ここは三流劇場じゃあないんですからね」

「大して変わんないわよ。女優なんて娼婦と大差ないんだから。腰掛けのつもりでいるから、みんなバカな男につかまってしまうんだよ」

「あたしはそんなヘマしないわ」

 リンダの言葉に、若い女優たちは同意する。アントニアは冷たい視線を返すだけで、それ以上、話そうとしなかった。立ちあがり、つかつかと楽屋を出る。

 気まずい笑みを浮かべたリンダに、アレックスは背中を押された。

「じゃあね、ローズマリーちゃん。今度はおみやげよろしく」

――ちゃっかりしてるなあ。

 愛想笑いを返し、楽屋を出る。裏口まで来ると、煙草をくわえたアントニアがいた。彼女のことは知らない。自分が劇団を出たあとに入ってきたのだろう。

 そのまま無視して出ようか、と思ったが、煙草を吸う姿が気になり話しかけた。

「あの、いつから煙草を?」

 ぎろり、とにらまれる。

「あんたも言うんだろ。下品だ、みっともない、女のくせにって。それがどうしたっていうのさ。お花畑の連中といたらやってられないよ」

「いえ、そういうつもりじゃ。おれの知り合いのご婦人も煙草が好きで、その」

 アントニアの表情がやわらかくなる。

「へえ、あんた見かけによらず、色男なんだね。恋人がいるんだ」

「そういうのじゃないけど……」

 なんで話しかけたんだろう、と少し後悔した。だが、アントニアはわかってくれると思ったのだろう。かさついた声で一方的に話す。

「あたしは愛人だった男から教わったんだ。べつの劇団にいたときの常連客でね。だけどあっさり捨てられちまった。残されたのはしょうもない思い出と煙草だけさ。若いとき美貌にかまけて、何人か愛人を作ったけど、なんにも残らないね。だからといって結婚もだめだったけどね。だれもがうらやむ陶器工場の息子だったけど、暴力振るわれてさ。命からがら逃げ出したさきが、三流劇場だった。……だから結婚に夢見る乙女を見ていたら、いらいらしちまうのさ。もっと賢い選択をしなよって」

「どんな選択を?」

「ひとりでも生きていける強さだよ。男にすがろうとするから、あたしらは不幸になっちまうんだ。でも、そうしないと生きていけないのも現実だ。だからあんたは、恋人を大切にしてやりな。約束だよ」

 じゃあね、とアントニアは寂しい笑みを残し、楽屋へもどっていった。悪いひとではなさそうだったが、同僚たちとうまくやっていけるのか心配になった。



 ハートレー家の田舎屋敷にもどると、夜だった。主人たちが晩餐をとっているあいだ、ウィルフレッドの部屋を片付けた。あらかじめ約束していた場所――ナイトテーブルの引き出しや、タンスのなか以外を整理する。

 朝、メイドが掃除をするのだが、暖炉と床以外は触れさせなかった。だから従者の仕事としてこなす。

 ふと出窓のチェストの上を見ると、灰皿が吸い殻であふれていた。

――大奥さまともめたのかな……。

 仕えて四ヶ月もたつと、主人がどのような人間なのかがわかってくる。

――なんでもご自身で背負ってしまわれるんだよな。

 その反動が喫煙だった。気分が晴れているときはあまり吸い殻はなかったが、そうでない日は目の前の灰皿のようになる。

――あたしは愛人だった男から教わったんだ。

 ふと、アントニアが煙草を吸い始めたきっかけを言ったのを思い出す。

――旦那さまはだれから教わられたんだろう?

 リスター氏の顔が浮かぶが、否定した。彼らがいっしょにいたのは、十三歳のころだけだ。あとは交流をしていないし、紳士らしく振るまうため、見よう見まねで始めたのかもしれない。

 寝室のドアが開いた。晩餐用の黒いジャケットを着たウィルフレッドが入ってくる。上着を脱ぐと、乱暴に投げた。

 床に落ちた上着を拾う自分に、彼は苦々しく言った。

「領地の管理会計をしている秘書がいるだろう。毎月の依頼で来る。氏が言うには、わが家の収入は一年前から赤字らしい。その話を聞いた母上が、使用人を減らそうと言い出した」

「そんなに前からです?」

「ああ。来月、村で復活祭――イースターがあるんだが、菓子と軽食を毎年わが家が出す慣習になってる。その金が足りないと、バード夫人が言ってきて発覚した。そういえば最近、やたらと請求書がくるなと思っていたら、これだ」

「よりによって、晩餐の席でですか。あらら……」

「マリガンの顔が恐ろしかったよ。だからその話は保留にしておいた。だがな、その赤字はそもそも私が成人するまえに作ったやつだ。だとすると、だれの管理が悪い? あいつらしかいないだろう」

 後見人をしていた叔父のシドニー氏と息子のゴードン氏だ。

「くそったっれの悪徳野郎が。近いうちに直談判に行く。無駄遣いしたぶんを返せとな」

 こめかみを両の手で抑え、彼は寝室のすみにある衝立へ行った。着替えの合図だ。

 アレックスはいつものように寝巻きとガウンを衝立の上にかけた。そのあいだもいらいらした調子で愚痴をこぼした。ぽん、ぽんと脱ぎ捨てた服が、宙に舞う。

 着替え終わり、寝間着とガウン姿になったウィルフレッドは煙草を所望した。しかし、アレックスはやんわりと止めた。

「旦那さま。今日はかなり吸われたでしょう。お身体をお休めになられたほうがいいのでは?」

「吸っていないとやってられない」

「あまり吸われると、声がしわがれてしまいますよ」

「いいさ。それでなくても高い声だから、好都合だ」

「いけません。娼婦みたいになってしまいます」

 明らかに気分を害したらしく、にらまれた。

「おまえまで母上が売女だと言いたいのか?」

「おれ、今日、休暇をとりましたでしょう。昔いた劇団へ行ったんです。書いた脚本を売りこみに。結果はさんざんでしたが、帰りぎわに愛人をしていたっていう、年増の女優と話しましてね。煙草を吸わないとやってられない、と言ってました。彼女の声はまるで朽ちた老女でした」

「……」

「あれでは端役しかもらえないでしょう。仕方ないですね」

 大きなため息が聞こえた。

「おまえがそう言うのなら、やめておこう。それより――」

 ウィルフレッドはいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「おまえ、脚本を書いたのだな。私に読ませろ。でき次第ではパトロンになってやってもいいぞ」

 アレックスは躊躇する。支配人からだめ出しを食らった作品なのだ。主人に読ませられる代物ではない。

「すごくつまらないですよ。陳腐すぎるって、批評されました」

 さらにウィルフレッドの表情が明るくなる。

「ますます読みたい。批評するの大好きなんだ」

――ああ、ますます読ませたくない!

 アレックスは心のなかでそう抗議した。



 翌朝、新聞と茶を用意して主人の寝室に入ると、すでにウィルフレッドは起きていた。指と指を合わせ、アレックスと目が合うなりにっこりと微笑む。

「読んだぞ。なかなかよかった」

「ほんとですか?」

 酷評がまっていると信じきっていたから、好評価にうれしくなる。

「大変、笑わせてもらった。コメディなのだろう?」

「ええ? あれ、シリアス路線なんですが」

 ウィルフレッドは目をぱちぱちさせる。

「陳腐を逆手にとったコメディかと思ったが。いじわるな同僚メイドに、吝嗇な執事。顔は良いがどこか抜けてる天然系若さま。あとはやたらと説教しつつ、メイドの涙に誘惑される俗物牧師。どうシリアスになるんだ?」

 予想の斜め上をいく主人の感想に、アレックスは唖然とする。褒められているのかそうでないのか。

「不幸なメイドが主人公です。美しいがゆえに、いじわるされてしまうのです。かわいそうだと思いませんか?」

「ではぎゃくにきくが、メイドがブスだったらコメディになるのか?」

「それはなるでしょう。ロマンスになりませんから」

「おまえは女心をわかっていない。美しいからいじわるをされるのでは、ご婦人からの支持を得られないぞ」

「はあ……」

 紅茶を飲み、ウィルフレッドは苦笑した。

「あはは。おまえはまだ人生経験が足りないな。劇団のなかでちやほやされたのが、かえってあだになっているようだ」

「そうでしょうか」

「あくまでも私の感想だ。次回作を楽しみにしてるよ」

 「楽しみ」と言われれば、期待に応えなくては。

 アレックスは元気よく言った。

「ええ、がんばります。つぎはメイド以外の、だれかをモデルにして書きますから」

 がちゃん、とカップをソーサーに置く音がした。

「美しいメイドは実在するのか?」

「うちの屋敷で下働きをしているソーニャですけど」

「嫉妬されるぐらい美しいメイドが……。まさかのリアリズム!」

 物語の感想はどうあれ、主人がとても楽しんでくれたのだから、今回はそれで満足することにした。

 階下の使用人ホールで朝食をとったあと、アレックスは老メイドソーニャに呼ばれた。いっしょに洗い場に入ると、彼女は周囲を怪訝な顔で見、小声で言った。

「……なんか視線を感じるんだよ。さっきもね、皿を洗っていたら、黒い影がちらつくんだ。ねえ、このお屋敷は幽霊が出るって噂とかないよねえ」

「幽霊はないなあ。旦那さまもそんなお話をされたことがないし」

「じゃあだれだろね?」

 アレックスは流し台に近づく。ソーニャが皿洗いをする位置に立ち、目を凝らして観察した。

 湯気が充満している室内ではなさそうだ。ならば、窓向こうの裏庭か。

 自分が顔を出せば警戒されるかもと思い、ソーニャに皿洗いを再開させる。アレックスは食器置き場の陰に立ち、何者かの気配を捉えようとする。

 と、庭に黒い人影が見えた。立ったかと思うと、すぐに引っこむ。

 間髪入れずに勝手口から表へ飛び出した。裏庭の植えこみに突進し、背後から何者かの首根っこをつかんでやった。

「おまえ、何をしているっ!」

「やだな。私だよ、ランバート」

 黒い袖なしコートを羽織ったウィルフレッドだった。シルクハットを被った彼は、引きつった笑みを浮かべながら、軽く両手でアレックスを制する。

 まさかの闖入者に脱力せずにいられない。

「…………旦那さま。いたずらがすぎますよ。ここはあなたさまがいらっしゃるような場所ではないでしょうに」

「だから隠れていた。私が直接顔を出したら、ソーニャがひどく恐縮するだろうから」

「ソーニャが怯えてましたよ。幽霊が出たって」

「いるのか?」

「窓ガラスの向こうです。あそこでいつも皿洗いしてます」

「どこに?」

「だから、今、おれたちを見ているメイドです」

「あれが美しいメイド……?」

 ウィルフレッドが何をしに来たのか理解した。脚本の主人公となったモデルを見てみたかったのだ。

「すみません。肝心なことを言い忘れていました。かつて美しかったメイドです」

「過去形だったのか」

「はい……」

「美形若さまと結婚したのに、なぜここで皿洗いを?」

「ですからあくまでもモデルです。リアリズムに徹したら、一庶民の苦労話で終わりますからね」

「なんだ。期待したのに……」

 自分も人のことは言えないが、わが主人はなかなかの世間知らずだった。

 ソーニャはそんな主人を驚きのまなざしで見つめていた。

 十年も屋敷で奉公しているのに、ウィルフレッドはまったくソーニャのことを知らなかった。それが、奉公人歴が短いアレックスには衝撃的であった。主人と下働きの距離は果てしなく遠いのだと。

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