第3話 傷心サバイバル…後編
「おい、起きろ」
揺さぶられて目を覚ますと、シルクハットを被ったウィルフレッドの顔があった。
「到着したようだ」
アレックスは飛び起きる。主人に起こされるなど、従者失格だ。
「すみません。つい」
「いいさ。それより、ここは終点らしいぞ。駅名がウィンダミアじゃない」
「どういうことです?」
「私がききたい」
急いでオーバーコートを着、旅行鞄をふたつ持った。さきにウィルフレッドが下車し、アレックスがあとに続く。
ホームは暗かった。駅を出るとさらに暗く、ガス灯だけが暖かそうな光を放つ。ごうっと冷たい風が吹いた。レンガと石造りの家々が並ぶ町並みは素朴だ。どこを見ても「風光明媚」と呼べそうな景色はない。
駅の近くにある食料雑貨店へアレックスが入った。中年の女店員へ湖水地方への行き方をきく。笑われた。
「あはは。お客さん、路線をまちがえたね。湖水地方はうんと南だよ。ここはエディンバラの北にある町さ」
「ヨークシャーまで来てしまったってこと?」
「そのようだね」
アレックスはあまりの失態に、魂が抜ける思いがした。
めまいを覚えながら、店の玄関で待機している主人へ告げる。
「おまえ、冗談か?」
「冗談だったら、どれだけよかったことでしょう」
「やけに寒いなと思ったら、北の果てへ着いたのか」
「引き返しましょう」
駅へもどるが、あいにく南へ向かう列車は最終便が出たばかりだと告げられる。風がさらに強まり、雪まで降ってきた。たちまち視界が白く染まる。
「仕方がない。今日はここで宿泊しよう」
ウィルフレッドは肩をすくめた。
アレックスが町にひとつある宿へ入るも、あいにく満室だった。
――ああ、最悪な展開だ。
自分が路線を乗りまちがえたせいで、旅行どころか寒空の野宿になりそうだ。
それでも粘って交渉する。無理だという答えが返ってくるだけ。
宿屋の支配人がある提案をする。
「そうだ、お客さん。近くの村にパブをしている宿屋があるんです。あそこならいつでも空いてますよ。満室でも酒場があるから野宿は避けられます」
「歩いていけます?」
「一時間ほど」
背後のウィルフレッドへ、「どうです?」と同意を求めた。
「仕方ないな」
無表情なのがかえって怖かった。
宿の外へ出る。さらに雪が激しさを増し、地面が白く積もる。先を歩く主人のあしあとが見えた。
町を外れ、雪明かりをたよりに道を歩く。ステッキを握りしめ、転倒しないよう進むウィルフレッドに対し、アレックスは両手が荷物でふさがって何度もひっくり返りそうになった。
ついにこけてしまう。びりっと、布が破れた音がした。
「あいてっ!」
ふり返るウィルフレッド。
「しっかりしろ。すべておまえのせいだぞ。ただの従者だったら、その場で解雇ものだ」
「はい……」
あまりの情けなさで涙がにじむが、ぐっとこらえて立ちあがる。
尻が冷たいから触ってみると、転んだ衝撃でズボンが破れていた。
――旅とかしたことないんだよな。たまの巡業だって、裏方や支配人がやってくれたし。
「だいたいあのガイドブックは不親切だ。初心者向けに、路線を細かく書いておくべきだ。なぜ、トマス・クック社にしなかった、ランバート」
「トマス・クック社?」
「有名な旅行会社だよ。世界中を網羅している」
「今度からそれにします」
「まあ、私も旅をしたことがないから、おまえばかり責められないが……」
ふたたび、アレックスたちは前へ進んだ。
宿屋の支配人は一時間ほど、と言っていたが、それ以上歩いたような気がする。
そのとき雪がやんだ。一気に視界が広くなる。
ウィルフレッドは立ち止まり、オーバーコートのボタンを外すと、懐中時計を取り出した。かちり、と蓋を開く。
「暗くてはっきり見えないが、短針が一時間以上、進んでいる」
「まさか迷ったとか?」
「さあ。それにしても――」
ぐるり、と周囲を見渡し、彼は天を包みこむように両手を挙げた。
「果てしない荒野だ。話には聞いていたが、寒く乾いた厳しい大地じゃないか」
アレックスも遠目で周囲を観察するが、村らしき建物は見えなかった。雲の切れ目から半月が顔を出し、青く冷々たる地を照らしだす。
ついに我慢できなくなり、荷物をその場に置いて岩陰へ走った。
…………尿意から解放された。
もどると、主人にぷうっとふくれっ面をされた。
「いいな、おまえは」
どうやらおしっこをしたいようだ。
「じゃあおれが見張ってますから、いっしょに岩陰へいきましょう」
「見るなよ」
「今さら乙女ぶらないでください……」
屋敷であれだけあられもない姿を披露したのに、妙なところで警戒されてしまう。
ふたりで岩陰のそばまで行き、自分は立ち止まる。白い地面を踏みしめながら、ウィルフレッドが距離を置いて背後にまわった。
やがて鼻歌が聞こえた。すっきりしたのだろう。
が、すぐに悲鳴がした。
「どうされました、旦那さまっ!」
ズボンを両手であげたかっこうのまま、彼は地面に視線をやる。
「し、し、死体――!」
「ええ?」
雪でこんもりと盛り上がった地面が溶け――さっきの尿だ――、野良着姿の背中が見える。老人だろうか。ぴくりとも動かず、倒れていた。
「まだ生きているかもしれません」
震えながらアレックスは揺さぶってみた。まるで石のようだった。
狼の遠吠えが聞こえた。
アレックスはウィルフレッドの手を取り、荷物のある場所まで駆けた。鞄を持つと、脇目もふらず視界に入った小屋へ逃げる。さいわいなことに鍵はかかっていなかった。
ドアを閉め、獣が入ってこないよう内側から錠をかけると、少し安堵した。
猟師が使っていた小屋らしく、弾のない錆びた猟銃が壁にかかっていた。床には罠の道具もある。朽ちた天井の隙間から雪がこぼれ、湿った藁の山に積もる。
持参したライターで藁に火をつけようと試みるが、湿りすぎて点火しなかった。暖炉はなく、空き缶がいくつか転がっていた。
カビ臭い毛布が一枚と、ろうそく二本が小さなタンスのなかにあった。ふたりは身を寄せあい、床に藁を敷いて毛布を被る。空き缶にろうそくを立て、明かりをとった。
震えながらウィルフレッドが言った。
「世の中には二種類の阿呆がいる。ひとりは愛すべきかわいい阿呆。もうひとりは許されざるド阿呆。さあ、おまえはどちらだ」
前者がよかったが、状況的に後者しか考えられなかった。
「記念すべき初旅行。ずいぶんと楽しませてもらっているよ、ランバート」
「謝罪の言葉が見つかりません…………」
「ウィスキーは持ってきたか?」
「それなら」
あってよかった。忘れていたら、顔面に拳が飛んでいたにちがいない。
主人の旅行鞄からブリキの水筒を取り出す。ウィルフレッドは蓋を開け、口元へ運んだ。
「おまえも飲め」
「おれはいいです」
「私だけ無事でも意味が無い。凍死するぞ」
「ありがとうございます」
口では辛辣なことを言っても、心根が優しい主人なりの気遣いだった。
「煙草を」
命じられると予想していたので、オーバーコートのポケットから紙煙草を取り出す。口にくわえさせ、ライターで火をつけた。
紫煙が立ち昇る。小屋が隙間だらけなせいで、いつもより匂いがしなかった。
「歌え、ランバート」
「は?」
「眠ったら凍え死にしそうだ」
「でも、おれはですね、その」
「舞台に立っていたのだろう?」
「後悔しても知りませんよ」
すうっと深呼吸し、『哀れな花売り娘』を歌った。人気劇の主題歌だ。
一番歌詞が終わり、がんばって二番を歌い出したら止められた。
ウィルフレッドは苦笑する。
「おまえ、よくそれで女優やっていたな」
「どうやら音痴らしいんです、おれ。引退したあと、みんなに指摘されて自覚しました。人気があったのは、見た目だけだったんですよ。自分で言うのもなんですが、ガキのときはフランス人形のようでしたからね。化粧したら美少女そのものでした」
「成長したらただのマヌケ野郎になったわけか」
「よくあるじゃないですか。人気子役は成長したらぱっとしないって」
「人生の幸運をさきに使い果たしたわけだな。気の毒に」
「本物の女優だったら、それなりの男をつかまえて引退ですけどね。おれの人生はまだまだ試練続きです」
「劇作家になりたいのだろう。あきらめるな」
「はい。今日の旅行もネタ帳に加えます」
また苦笑があった。
「それはいいが、私のことは書くなよ。おまえの劇で発覚したら、笑ってすませられない」
「もちろんです」
しばらく間があり、二度目の質問をされる。
「なあ、おまえはどうして劇作家になりたいんだ?」
「まだ親父が生きていたころ、ディケンズの劇を観て、虜になりました。つらい現実を笑いに変えるのだから、魔法のようでした。だから、将来はおれは役者か劇作家になりたいと思うようになったんです」
「なるほど。役者の夢破れて、劇作家へなりたいのだな」
「はい」
「自分で素質があると踏んだのかい?」
「うーん、どうだろう。昔から小説を読むのが好きだったんです。おれ、弱っちいでしょう? ガキのときはしょっちゅう近所のやつに泣かされました。でも本のなかはちがいます。いつでも強い英雄になって冒険できますからね。ひまさえあれば親父の本を読んでました。女優やってたときも、給金が入ったらまっさきに書店へ駆けこんだものです」
「つまり現実逃避か。おまえらしい」
「旦那さまはあいかわらず、率直ですね……」
アレックスが苦笑する番だった。
「今度は才能があるといいな」
「ええ。劇作家になれなかったら、ただの貧しい労働者で終わりですから。そんなつまらない人生はいやなんです」
「そうか。みかけによらず野心家だな。ほかに家族は?」
「結婚した姉家族だけです。母は五歳のとき死にました。中等学校へ進学する予定でしたけど、税理士をしていた親父が死んでしまったから、金がなくなりました。知り合いの紹介で二流劇団に入ったのが、十一歳のときです」
「よくある話だな」
「ええ」
一本目のろうそくが消えた。アレックスがもう一本に火をつける。
しばらく無言で小さな炎を見つめる。ゆらゆら揺れる火を見ていると、睡魔が襲ってきた。
眠ってはだめだ。
だから勇気を出して、アレックスから話を切り出した。以前から気になっていたことを。
「あの、旦那さまはどうして、令嬢として生きることを拒まれるのですか? 旦那さまのようなご婦人に今までお会いしたことがなくて、その……」
ウィルフレッドは答えなかった。やはり知られたくないのだろう。
「すみません。失礼なご質問をしてしまいました」
「いや、おまえがそう言うのも無理はない。だれだって私の本当の性別を知れば、そう思うだろう。リスターのやつもそうだった。……答えは私自身にもわからない。物心ついたころから、私はどこか変わっていた」
意外だった。深い事情があって、女であることを捨てざるを得なかったのだと、アレックスは想像していたのだ。
「夜会でドレスを着たとき、身につけた宝石があったろう。あんな誕生日プレゼント、私は欲しくなかった。だけど父上と母上は、私のお願いをききいれてくださらなかった」
「何をお願いされたんです?」
「人体解剖図鑑と毒薬図鑑」
「ええっ!」
十歳のかわいい令嬢が、そんなグロテスクなものを要求するとは、だれだって驚くはず。
「医者になりたかったんだ。女は医学の道を進めないと知って、ならば独学で身につけてやろう、と考えた。しかし両親は快く思っていなかった」
「なぜ医者になろうと?」
「弟の身体が弱くて、私が救ってやりたかったのさ。シドニー叔父上が、『いつ次期当主が死ぬか』を親戚連中と賭けていたのを知ったとき、許せなかった」
過去のいやな感情がよみがえったのか、ウィルフレッドの表情が険しくなる。昂ぶった感情を抑えるように、また煙草を所望された。
一服しながら、彼は話を続けた。
「その前はコルトの拳銃。弟の命を狙うゴードンの野郎から守りたかった。でも贈られたのは、刺繍セットと神の祝福が書かれたお花だらけの詩集。さらに前は世界地図。プレゼントの箱を開けたら、着せ替え人形。そんな調子だったから、十歳の私は諦めた。どうやっても医者や弁護士になって弟を守れないのだから、微笑んで言ったさ。『父さまありがとうございます』。それから十三年間、あの宝石は箱に収めたままだった、というわけだ」
「そうでしたか。旦那さまは昔から旦那さまだったんですね」
「ああ。だけど周りはそれを許してくれない。弟が死んで、身代わりになるまでの私が偽りだったというわけだ。もしウィルフレッドが生きていたら、私は今ごろ、老資産家の後妻になっていただろう。父上が亡くなったすぐあと、叔父上が勝手に婚約を決めたんだ。それも許せなかった。てめえらの浪費癖を私の肉体で、尻拭いさせようとしたのだからな」
ウィルフレッドがひどくシドニー叔父と従兄ゴードンを嫌っていた理由がわかった。しかしそれを言ってしまうと自分が身代わりの存在だと知られてしまうため、だれにも話せなかったのだ。
吐き捨てるように彼は言葉を続ける。
「……その老資産家、少女が好きなんだ。三人妻がいたが、成熟したらあれこれ理由をつけて、無一文で離婚させていた。そんな噂が耳に入ったとき、おぞましくて家出しようと考えた。でも後見人に歯向かえば弟の立場が悪くなる。母上はたよりにならない。私しか守ってやれる者がいなかったんだ。だからウィルフレッドが病死したとき――」
ウィルフレッドは煙草の吸い殻を指で弾き飛ばす。
「私が弟の爵位と領地を守ろうと決めたのさ。絶対、あいつらに渡すものか」
犬の鳴き声で目が覚めた。いつの間にか眠ってしまったようだ。
寒さをしのぐようにウィルフレッドが、アレックスにしがみついていた。彼はすでに起きていたようで、不安そうに言った。
「あれは犬なのか?」
「狼でしょうか?」
「さらっと怖いことを言うな……」
唸り声が近づき、遠くなり、また近づいた。ぐるぐると小屋の周りをうろついているようだ。ろうそくの火はすでに消え、わずかな月明かりだけがたよりだった。
「なあ、あの死体、なぜあそこにあると思う?」
「ご老体のようでしたし、急な寒さで心臓が止まったとか」
「おまえ、劇作家になりたいのだろう。そんな平凡な発想でどうする」
「狼に襲われた、っておれに言わせたいんですか? 最悪の展開を想像しないよう配慮したんですが」
「獲物を仕留め損ねて、逆襲されたんじゃないのか」
「小屋にいれば襲ってきませんよ」
「犬が苦手なんだ……」
「旦那さま?」
「子供のとき、猟犬に襲われて」
冗談ではないようで、さらにアレックスに抱きついた。震えが伝わる。
「まだ何者かに殺害されたほうがいい。狼だけは見たくない」
「殺人犯のほうが恐ろしいですよ、おれ」
「狼よりましだ!」
あまりにも怯えるものだから、強く抱き返した。
――かわいい。
いつも強気な主人が犬を怖がる姿に、アレックスはときめきを覚えた。
同時に思った。今後、もし何かわがままを言われたら、子犬でも抱いて近づけばいい。それ以上無理な要求をされるのなら、こいつを放しますよ、と。
「何がおかしい?」
……無意識に笑いが出てしまったようだ。
また唸り声が近づいた。一頭ではなく、二頭、三頭と増える。
――まさか、本当に狼に襲われた?
狼の群れだとしたら、こんなぼろ小屋、体当たりで壊れてしまいそうだ。
「ごめんなさい、旦那さま。おれが鉄道の路線をまちがえたばかりに……」
「バカ、阿呆、マヌケのランバート!」
つぎは足音がやってきた。小屋の前で止まり、がんがんと斧をドアへ叩きつける。
――さ、殺人犯だっ!
ウィルフレッドも同感だったらしく、わっと泣き出し――いや、何かを思い出したように立ちあがり、鞄を開け、乱暴にまさぐる。
ついにドアが割れ、大きな男が突入してきた。
「動くな!」
ウィルフレッドの声だった。
ようやく昇りだした朝日の光が、小屋のなかをバラ色に照らす。
「一歩でも私らに近づいてみろ。弾をお見舞いしてやるからな」
拳銃を両手で構えるウィルフレッド。斧を持ったまま男は固まっている。
「お、おらのじいさんを知らねえか?」
吃りながら、男はそう言った。
「知らないな」
「帰って来ねえから、探しにきた。犬っころたちが、この小屋にいるっつうから来てみたら」
あの死体のことだと思ったアレックスは、男に言った。
「息をしてないおじいさんなら、近くの岩陰で見たよ」
男は青ざめ、小屋を飛び出した。三頭の犬たちも飼い主を追いかけ、姿を消した。
拳銃を下ろしながら、ウィルフレッドは肩をすくめた。
「やはり阿呆だな、おまえは。もし本当の殺人犯だったらどうする」
「おじいさんのことを知っていたから、教えたのがいけませんか?」
「だめだめ。相手の本心を探るのが駆け引きの鉄則だ」
「悪い人には見えませんでしたけど」
「今回はな」
散らかった主人の荷物を鞄に収め、アレックスは小屋を出た。
ふたりは村を目指す。昨夜は暗くて見えなかったが、丘をひとつ越えた先に目的地はあった。
パブに入ったとたん、アレックスは強烈な喉の渇きと空腹を覚えた。まだ朝が早かったが、宿も兼ねている店だったので朝食にありつけた。
テーブルに運ばれてきたベーコンエッグと豆、焼き玉ねぎ、トーストを勢いよく食べる。ビールを飲み、ひと息ついてようやく言葉が出た。
「うまい! 生き返る!」
ウィルフレッドもジョッキ片手に、満面の笑顔を見せた。
「生涯、最高の朝食だ。生きててよかった!」
食べ足りなかったふたりは、さらに注文したが、あいにくトーストも玉子も切らしているという。だから茹でたジャガイモと缶詰の豆が出てきた。ふだんなら味気なさすぎてげんなりするメニューだが、今朝は特別だ。
「ジャガイモがこんなにうまいなんて、知らなかったよ。寄宿学校で食べたのとは大ちがいだ」
「寄宿学校って坊ちゃまたちの学校ですよね? いいもの食ってそうですが」
「あそこは贅沢禁止なんだ。飯はまずいし、部屋は寒いし。紳士になるために精神と肉体を鍛えるところだからね」
と、ウィルフレッドの手が止まった。
「……いいよな。あいつらみんな紳士になれて」
「旦那さまも立派な紳士ですよ」
「見え透いたお世辞はよせ」
「いいえ、お世辞じゃありません。だって、おれを守ってくださったじゃないですか。とっさに拳銃を構えて、相手を威嚇するなんてかっこよすぎです」
「……」
ビールのせいかどうかわからないが、頬が赤くなった――ような気がした。
にわかにパブが騒がしくなった。村の男たちがどっと詰めかけてきたのだ。アレックスたちに目をくれることなく、男たちは興奮気味にしゃべった。
…………話から察するに、隣村のジョニーじいさんが死んだ、と。なんでも昨日の夕刻、兎がしかけた罠にかかったかどうかを見に行ったまま、帰ってこなかったらしい。深夜、心配になって孫が探しに行ったが、じいさんは冷たくなっていた。以前から心臓が悪かったから、急な雪で行き倒れになってしまったのだろう。背中に小便がかかっていたことから、獣が食べようとしたのかもしれない。しかし遺体が無傷だったのが、不幸中のさいわいだ。神に感謝しないと。
小声でウィルフレッドが言った。
「そうか。私の臭いを犬たちが追いかけたのか」
「犬に襲われなくてよかったですね」
「だから殺人犯のほうがましだと言ったのさ」
ふたりは顔を見合わせ、どっと笑った。あまりにも愉快そうにしていたからか、労働者の男たちにじろじろ見られた。
「紳士さまは気楽でいいよな」
だれかが嫌味ったらしくそう言った。
一階にいても落ち着かない。二階の宿泊部屋で休むことにした。湖水地方への旅は疲れで断念したので、昼前の列車に乗って帰路につく予定を立てる。
「ならばあと二時間後だな」
ウィルフレッドが懐中時計を確認する。
「それまで旦那さまはお休みください。おれは旅の支度をしておきますから」
「今さら用意するものがあるのか?」
「じつはですね」
アレックスは上着をまくりあげ、ズボンの尻を見せた。見事に破れたそれを。
「女将さんに裁縫道具を借りてきました」
ウィルフレッドは吹き出す。
「あはは。ずっと我慢してたのか」
「ズボンが破れた従者なんて、恥ずかしいでしょう、旦那さま」
アレックスは一抹の不安を感じながら、部屋の椅子に腰かけ、ズボンを縫う。
……やはり下手くそだ。あまりにも縫い目が不揃いで不格好すぎる。屋敷に帰ってメイドにチップをやってたのむしかない。
どれどれ、とベッドから立ち上がった主人にのぞかれ、反射的に隠した。
「見せてみろ」
「いいですよ」
「いいから、さあ」
なかば強引にズボンを奪われ、持ち上げられた。
「おまえ女優をしていたのだろう。裁縫のひとつもできないとは呆れる」
「そういうのは免除されてましたし」
「女のいいとこ取りしか享受していない証拠だな」
つぎは裁縫道具を奪われる。
「まさか旦那さまが」
糸切りバサミを使ってつたない縫い目をほどきながら、彼は言った。
「ウィルフレッドになる前は、毎日裁縫か刺繍をやらされていた。それぐらい造作ないさ」
針に糸を通すと、真剣な面差しで器用に指を動かす。彼――いや、彼女のその家庭的な姿に、アレックスは今日、二度目のときめきを覚えた。
第3話:おわり
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