15(十九)
私はのどの渇きを覚えて冷めたミルクを口にする。
しかし、粘性の高い牛乳が舌に絡まって余計に不快感を助長するだけだった。
私は顔をしかめてすっかり氷がとけた水を飲んだ。
少し店内が混み始めた。
ブラインド越しの日差しは来た時よりも少し傾き、翳ってきたような気がする。
もうすぐ三時か。
テーブル上の封筒に改めて手を伸ばす。
不意にある疑問が脳裏に浮かぶ。
彼女はこのメモの存在をどう思ったのだろう。
彼女はこのメモを読んだと言っていた。
手がけようとしている作品の資料だ。
おそらく隅から隅まで暗唱できるほどに何度も目を通しただろう。
もちろんコピーは自分の書斎に取ってあって、これを私が持ち去ったまま今夜現れなかったとしても彼女は何の痛痒も感じないに違いない。
しかし、その内容は別れたとは言え夫だった人間がよその女との生活を綴ったものだ。
これを読みながら彼女は何を思い、どういう心境になって私に連絡してきたのか。
小説の肉付けをしたいという作家としての職業意識だけだっただろうか。
モノを書くような人は嫉妬や劣等感といった世俗的感傷を超越した存在なのだろうか。
私は静かに首を横に振った。
そんなことはない。
少なくとも彼女もそれなりの痛み苦しみを覚えただろう。
私のそれとは違う彼女なりの室谷への深い想いが存在しているのだから。
私は封筒の中から紙片を取り出した。
ゆっくり開くと私は自分の部屋のソファのように背もたれにどっぷりと身体を預けた。
私は疲れていた。
しかし、頭だけは冴え切っている。
富永から聞いたことがすべて正しいとするならば、テツオが私の前から消えた理由を想像することは難しくない。
私が彼と出会ったとき、彼は警察から横領事件の犯人として無実の罪で追われる身であり、末期癌に冒されて余命幾ばくもない身体だった。
あのとき本当に彼はあの公園で死んでも良いと思っていたのかもしれない。
それが幸か不幸か私に助けられ介抱され、さらにはその私と肉体的な関係を持ったことで同棲生活を送ることになってしまった。
きっと彼はいつ私の前から消え去るべきかと毎日悩んでいたのだろう。
それでも半年近くも私と暮らしたのは私と離れることにつらさを感じていたから、と考えるのは身勝手すぎるだろうか。
隠れ蓑として利用するのに丁度良いからという理由だけだったらつらすぎる。
私に対して愛とまでは言えなくても、せめて愛着ぐらいはあったと思いたい。
どちらにせよ彼は私に迷惑をかけるような事態になる前に部屋を出ていかなくてはいけないと考えていたのだろう。
自らの屍を見せまいとするなんて本当に猫のようだ。
私は慎重にメモを開き、頭の中で時計の針を逆回転させていった。
私が知りたいのは私の今の想像を裏付けるような事柄が書かれていないかということ。
そして私が知っているテツオの最後の姿はどんな様子だったかをなんとか思い出したい。
私は彼が部屋からいなくなる直前の姿をあまり覚えていない。
当時の記憶は蜃気楼のように朧気で私の胸の中で輪郭なく揺らいでいるのだ。
あの後、私の身体もぼろぼろになった。
脳がふやけて記憶が順序立てて整理できないほど衰弱してしまったのだ。
何とかテツオとの別れを鮮明に思い出したい。
それがあやふやな形のままではいつまで経っても彼との関係が終われない気がする。
今日、このメモでそれがはっきりする。
根拠はないが私はそれを確信していた。
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