14(一)
漂ってくる抹香の煙が息苦しい。
一本調子の読経が耳にまとわりついて私の身体を麻痺させる。
盆の窪辺りがじんわりと痛い。
全ては睡眠不足のせいなのだろう。
一昨日の晩から私は一睡も出来ていない。
あのとき私はラブホテルの一室でベッドにまどろんでいた。
気がつけば携帯電話が振動している。
誰のだろうか。
隣で鼾をかいて眠っている男の携帯電話は着信音がミッキーマウスマーチだから、やはり私のものだろう。
私は静かに寝返りを打ち、転寝から脱しきれず力の入らない腕を懸命に伸ばし、手探りでベッド脇のバッグの中から携帯電話を取り出した。
眩しく光る液晶画面に目を凝らすと「自宅」という文字が飛び込んでくる。
その瞬間、肌が粟立つような嫌な予感が全身を駆け巡り、気づけば私は立ち上がっていた。
ベッドの男が目を覚ましそうな気配は全くないが、私は震え続ける携帯電話を握り締め足早にトイレに向かった。
眠気は一気に吹き飛んでいる。
中に入り鍵を掛けると恐る恐る通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「由香里……やっと出たわね」
母の口調はかつてないほど冷ややかで落ち込んでいるのが分かる。
何度も何度も掛けてくれたのだろう。
しかしそのことについて今の母は娘を怒鳴りつける気力もないらしい。
明らかにいつもの母とは様子が違う。
「どうしたの?」
私は乾いた口の中から唾を集めて飲み込んだ。
何かが起きた。
私が惰性の情事に身を委ね、のほほんと眠っている間にとんでもない何かが。
「お父さんがね……」
「お父さんがどうかした?事故にでも遭ったの?」
「事故じゃないわ」
事故は起きていない。
しかし、事故ではない何らかの原因によって父に重大な異変が起きたことは間違いなさそうだ。
「じゃあ、病気?倒れたの?」
「そう」
「そう、って。それで?危ないの?今どこにいるの?」
「……もう、死んじゃったのよ」
そこは父親の死を聞くにふさわしい場所ではなかった。
安っぽい薔薇柄の壁紙に囲まれ、ベージュの便器に向かって立ちすくみ、全裸の私は父に不義理な自分を懺悔していた。
葬儀では岸壁にぶつかっては砕ける波のように訪れ去っていく弔問客に向かって私はひたすらお辞儀を繰り返した。
皆神妙な面持ちで焼香をし、父の写真に向かって手を合わせる。
しかし、この中の何人が本当に父の死を悼んでくれているだろうか。
ほとんどの人は私の家族との些細な縁を義務に感じて、この苦痛なだけの儀式に参列しているのだろう。
さっさと終わって欲しい。
昨日の通夜にも繰り広げたこの退屈な儀礼の波をビデオのように早送りにはできないものだろうか。
父と二人きりになりたい。
全て私の前から消え去って欲しい。
母も、兄も、押し寄せてくる弔問の列も。
私は直接父から聞きたいのだ。
身体のどこが痛くて苦しかったのか。
倒れたときに何が見えたのか。
意識を失う直前に何を思ったのか。
どうして私をおいて逝ってしまったのか。
ごめんね、お父さん。
最期のときにそばにいてあげられなくて。
散々泣いたのに、また私の目から涙が零れ落ちていく。
滲んだ景色の中で誰かが強い視線を私に送ってくるのを感じる。
ハンカチで目尻を押さえると視界がはっきりとした。
焼香しているのは一昨日の晩私を抱いた男だった。
隣の課の西川係長。
二日前に四十五歳になった彼は妻とうまくいっていないことの証拠に誕生日の夜を私と過ごした。
彼はしきりに妻との不仲を口にする。
それが前戯に移る合図のように意味ありげに熱っぽく。
それを聞けば私が喜んで彼の前に身体を開くとでも思っているのだろうか。
私は誰の不和も喜んではいない。
私のために誰かと誰かがいがみ合うなんて想像もしたくない。
今、彼は一度二度と抹香を摘み炭に掛けている。
あの毛むくじゃらの太い指で私は何度乳首を摘まれ恥部を掻かれただろうか。
父が苦しくて心臓をかきむしっていたときも彼の指が私の身体を這っていた。
そう思うと私は背中に強烈な悪寒を感じた。
吐き気がして何もないはずの胃から熱く酸っぱいものが逆流してくる。
肩と膝が震え、座り込みたくなるのを必死に堪えた。
もう二度とあの人に抱かれることはないだろう。
どうせ終わらせなくてはいけない関係だ。
父が良いきっかけを与えてくれたのだ。
西川が去り際にまた何やら念を込めたような視線を私に絡ませてくるのを私はお辞儀をしてやり過ごした。
もう終わったのだ。
あの人はあの人の家に帰り、私は私で生きていく。
列の終わりが迫っている。
あと少しで弔問も終わる。
弔問が終われば喪主である兄の挨拶の後に出棺だ。
胸に溜まった不快感の塊は消えないが、葬式だけは何とかやり過ごせるだろう。
列の最後尾にいたのはどこか見覚えのある女性だった。
しかし、私の職場の同僚ではない。
父の知り合いだろうか。
兄の友人だろうか。
また機械仕掛けのようにお辞儀を繰り返しながら朦朧とした頭でぼんやりとそんなことを考えていると、起こした顔に痛みが走った。
雹でも降ってきたような感覚だった。
小さい粒状のものが次々と飛んできて目を開けられない。
「主人を返せっ!このコソドロがっ」
葬儀場に女の金切り声が響き渡り、この場全体が息を飲んだのが分かる。
僧侶の読経も止まった。
手で顔を覆いうっすらと目を開けた私の前に先ほどの女性が目を怒らせて立っていた。
抹香を握り締め、また私に投げつけてくる。
「何なさるんですか!」
言葉もなく怯み後ずさりする私を庇うようにして、母が間に割って入る。
兄は突然のことに呆然と立ちすくんでいるだけだ。
葬儀場の二人の係員がどこからともなく現れ、女を挟み込むようにして腕を抱え出口の方に引き摺っていく。
男二人に抱えられて彼女は抵抗こそしなかったが、会場から消え去るまで私に向かって罵声を浴びせ続けた。
その後ろをこっそりと一人の男が追っていくのが見えた。
西川係長だった。
そうだ。
彼女は西川係長の奥さんだ。
彼女と息子の写真が設定されている彼の携帯電話の待ち受け画面を見たことがある。
私は糸の切れた操り人形のようにその場にへたり込んだ。
だめだ。
今は父の葬儀中なのだ。
死に際に立ち会えなかった私が父のためにできることは今日の葬式をしめやかに執り行うことぐらいしか残されていないというのに。
しかし、どれだけ立ち上がろうとしても身体が言うことをきかない。
母と兄が私の顔を覗き込んで何か言っている。
大声で怒鳴っているようだが何も聞こえない。
二人の顔も霞んでいく。
その二人の肩越しに父の遺影が見える。
派手好きではない父は色とりどりの花々に囲まれて少し居心地悪そうに見えた。
温厚実直な父は普段から落ち着いた色合いを選ぶ。私が父のことを一番よく理解しているのだ。
私が父を弔ってやらねばならないのだ……。
そして私はその後のことを覚えていない。
当然、火葬場に行って骨を拾った記憶もない。
私はその日から十日間原因不明の体調不良で入院し、一ヶ月ほど仕事も休んだのだ。
その後何度墓参したかしれないが、どれだけ墓前に手を合わせ父の冥福を祈っても未だに私は父を弔ったという気になれないでいる。
弔いとは死者のためではなく遺された者が自分のために、死者と上手に決別するために行う最後の思い出づくりなのかもしれない。
西川と不倫するようになった頃、私は確かに世間知らずだった。
今の自分が社会の仕組みをどれだけ理解できているか分からないが、妻も子もいる自分よりも二十も上の口ばかり達者で風采が上がらない西川のような男の強引な口説きにまんまとのせられることは二度とないだろう。
しかし、西川と初めて二人で飲んだとき私は社会人三年目で、実はまだ処女で、男性からデートに誘われた経験もなかった。
今思えば偶然だったのかどうかも分からないが、私が飲んでいるショットバーに西川が現れ、半ば強引に隣の席に座られ二の腕が触れる距離で「何、飲んでるの?」と訊ねられて、既にすっかり酔っぱらっていた私は舞い上がってしまっていたのだ。
気がついたら私は視界がぐるぐる回るほど酩酊していて、ラブホテルの一室でベッドに押し倒され自分の口の中を西川の舌でかき回されていた。
事が終わっても一向に抜けないアルコールと何かを失った空虚感に私はしばらく身動きができなかった。
そんな私の耳元で西川は「また一週間後にあの店で」と呪文のように繰り返した。
そして私はどうにも断る術を思いつかずに西川の要求に応えるばかりで若さの浪費のような時間を過ごしたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます