10(四)
部屋の灯りの下で改めて男の様子を観察すると、眼窩の落ち窪んだ青ざめた顔には擦り傷と痣ができていて、着ているスーツはボロ雑巾と化していた。
私は男にシャワーを浴びるように勧めた。
男は無言で私の言葉に従い、身体を引き摺るようにして浴室に入っていった。
やがて水の流れる音がしてきたのを確認して、私は財布を手に部屋を飛び出した。
一目散にローソンに駆け込む。
傷の手当てに必要そうなものと男物のTシャツ、トランクスを無造作に籠に放り込んでレジのカウンターに載せる。
余程私が怖い顔をしていたのか、いつもの店員が少し腰を引き加減で私に金額を告げる。
私は代金を支払うと、来た道を急いで駆け戻った。
部屋に戻ると浴室からまだ水が流れる音が聞こえていた。
ほっと息をつくと胃の中のアルコールが逆流してきそうになりぐっと堪える。
酔った身体に全力疾走はきつかった。
頭がぐらぐら揺れるような感覚を目を閉じてやり過ごし、そっと脱衣場の扉を開け買ってきたTシャツとトランクスを脱衣籠に入れると、再び静かに扉を閉めた。
私は冷蔵庫からビールを取り出すと、ソファに腰掛けた。
尾てい骨のあたりに鈍痛がある。
公園で尻餅をついたときに打ったのだろう。
瞼を閉じると先ほどの暗い公園での情景が脳裏に浮かんできた。
男に殴りかかる三人組。
男のうめき声。
走り去る靴音。
肩に寄りかかる男の重み。
酔っていたとは言え、これまで徹底的に事なかれ主義で生きてきた私によくあんなことができたものだ。
やはりこの三日間ベンチに座り続けていた彼の存在が相当気にかかっていたということだろうか。
私はプルタブを引きビールを咽喉の奥に流し込んだ。
飲んでみて初めて咽喉がカラカラに渇いていたことを知る。
飲み干した頃に丁度男が浴室から出てきた。
私が買ってきたTシャツを着てくれている。
腰にバスタオルを巻いているが、その下にはローソンのトランクスを履いているだろう。
三日間飲まず食わずだったと思うのだが、意外にも男の身体はがっしりとしていた。
濡れた髪の向こうから捨て猫のような臆病そうな目がこちらの様子を窺っている。
ビールの缶を見てどう思っただろうか。
名も知らぬ男を部屋に上がりこませ酒を呷る女。
しかし、酒の力でも借りなければ私はあなたのことを介抱することなんてできない。
「ここに座って」
私が立ち上がりソファに招くと男は無言のまま私に従った。
私は男の前に屈み、消毒液で傷口を拭った。
額、両目の縁、口の端、あご、肘、掌、手の甲、脇腹、太腿、膝、くるぶし。
一応の手当てが完了した頃には男の身体はガーゼと絆創膏で覆われていた。
「何か食べる?」
返事をしないので私は湯を沸かしインスタントスープに注いだ。
即席のコーンポタージュを差し出すと、男はやはり無言で受け取り、ゆっくりとカップに口をつけた。
熱さに少し顔を顰めながらスープを飲んでいく。
あっという間に男はスープをきれいに飲み干すと、部屋に上がって初めて言葉を発した。
「少し眠らせてもらってもいいかな」
私が頷くと男はそのままソファに丸まった。
私が毛布を持ってくると、男はすでに寝息を立てていた。
無防備な寝顔の男の身体を包むように毛布を掛けてやると、不意に胸の辺りに温かいものが広がった。
その温度の正体は良く分からなかったが、私はどこか満ち足りたような気持ちになっていた。
酔いはすっかり醒めてしまっていた。
私はキッチンで日本酒を銚子に注ぎ、燗にしてリビングに戻った。
ダイニングテーブルの椅子に腰掛け男の穏やかな寝顔を見ながらお猪口を傾ける。
胸の温かさはさらに心地よくなり、全身がとろけていくようだった。
ガーゼと絆創膏だらけのその顔は不思議とずっと見続けていても飽きなかった。
私は一風変わった自分の部屋の景色を肴に時間を忘れて飲み続けた。
翌朝、私はダイニングテーブルに突っ伏した格好で目が覚めた。
私の顔前に私と同じように銚子が横たわっていた。
気持ち良さそうに眠っている男を見ながら酒を飲んでいたのが、いつの間にやら自分も寝てしまったらしい。
慌てて時計を見る。
時刻は既に九時を回っていた。
遅刻だと慌てて身体を起こした瞬間、今日は土曜日だと思い至った。
いきなり立ち上がったからか頭が割れそうに痛み、少し胸にもやもやとした悪心がある。
咽喉がカラカラに渇いている。
これがいわゆる二日酔いというやつなのだろう。
以前はどれだけ飲んでも翌日にこんなに激しい頭痛や吐き気で悩まされるようなことはなかったのだが、昨年三十路に突入した頃からこういう症状が現れるようになった。
要は少しずつ無理がきかなくなってきているということなのだろう。
私は壁に手を突きながらよたよたと台所に向かった。
顔にかかる髪から汗と埃の臭いがする。
シャワーも浴びずに寝てしまったのかと自己嫌悪に陥りながら、蛇口を捻りコップに水を汲む。
立て続けに二杯空にすると漸く咽喉の渇きが収まったが、逆に胃の辺りに広がるむかつきが強くなってきた。
私はもう一度コップに水を汲むとリビングに戻った。
通勤に使っている鞄をダイニングテーブルにひっくり返した。
化粧ポーチ、手鏡、携帯電話、定期入れ、デオドラントスプレー、煙草、アドゥマンのマッチ。
掻き分けて見つけたピルケースから鎮痛薬を二錠取り出して口に含み水で流し込んだ。
口の端から伝う水を手の甲で拭い、ソファに丸まっている男を見下ろす。
男は昨晩のままの姿勢で毛布に包まっている。
毛布で顔は良く見えないが、まだ眠りの中にいるらしい。
さて、どうしたものか。
私の部屋に他人がいる。
それだけで十分異常事態であるのに、その他人が異性で、しかも私は名前すら知らないときている。
この三日間の観察で得たイメージでは彼が私に危害を加えるような感じはしない。
そういう意味では彼から恐怖は覚えないが、その反対にあまりの覇気のなさにこの部屋で面倒なこと(たとえば自殺)を起こさないかという不安は残る。
だからと言って今すぐに叩き起こして部屋から追い出すというのは違っている気がする。
そもそも酔っ払っていたとは言え、部屋に担ぎ込んでしまった以上、その責任において私がしてあげられることはしてやらないといけないという思いはあった。
取りあえず、男が起きるまで待ってみよう。
起きたら彼も何か喋るだろう。
何か喋ればそこから私のできることが見えてくるかもしれない。
痛む頭で考えることができたのはそこまでだった。
私は男の顔を覗き込んでみた。
三日間朽ちるのを待っているかのように硬いベンチに座り、中空を眺めていた男は今どんな顔で他人の家のソファの上で眠っているのだろうか。
安らかな顔を想像していた私は完全に裏切られることになった。
毛布の端から見える男の顔は明らかに苦悶に満ちていた。
顔は青ざめ、息遣いも荒い。
良く見ると全身が小刻みに震えているようだった。
もしやと思い、恐る恐る額に手を伸ばす。
額に触れた瞬間、私は驚いて声をあげそうになった。
男の身体が恐ろしく熱い。
人間の身体はこんなに熱くなれるものなのかと思うほどだった。
「救急車、救急車」
私は子供のように慌てながら携帯電話を探した。
携帯はどこ?
どこにやった?
ダイニングテーブルに携帯電話を見つけ、焦る気持ちを抑えて操作する。
救急車って何番だっけ?
一一〇?
一一七?
一一九だ。
救急車を呼ぶのも生まれて初めての経験だった。
私は震える手で携帯電話を耳に当てた。
「やめてくれ」
振り返ると男が私に向かって手を伸ばしていた。
訴えるような目で首を横に振っていた。
どうしました?
火事ですか?
救急ですか?
電話の向こうから若い男性の落ち着いた声が聞こえてくる。
「あ、いえ。すみません。間違えました。何でもありません」
私は逃げるように電話を切って放り投げるようにダイニングテーブルに置いた。
一一九に間違い電話を掛ける人もそうそういないだろうが、男は私の行動に満足そうに小さく頷くと、再び毛布に丸まって震え出した。
私はロフトの上に駆け上がった。
病院に連れていくことができないのなら私がここで看病するしかない。
物置と化しているこのスペースから布団を一組リビングに向かって放り投げる。
母が一度泊まりに来たときに使った布団だ。
ろくに干していないから黴臭いかもしれないが、そんなことは言っていられない。
ダイニングテーブルを壁際にずらしソファの前のカーペットの上に布団を延べる。
男を転がすようにしてソファから布団の上に落とした。
その上から羽毛布団を掛けても男の震えは止まらない。
私は再びロフトに上がり湯たんぽを探り出した。
今度はキッチンに向かいヤカンを火に掛ける。
さらにダイニングテーブルに戻りピルケースから再び鎮痛薬を取り出す。
水の入ったコップを持って男の枕傍に腰を下ろした。
「バファリンしかないけど、飲まないよりはましよね」
私は男を抱え起こし錠剤を飲ませると再び横にした。
男はまるで胃の中で薬の成分が少しずつ溶け出し自分の身体に吸収されていく様子を感じ取ろうとしているかのように険しく眉間に皺を寄せて静かに目を閉じている。
「あなた、名前は?」
「……」
私の声が聞こえていないはずはない。
しかし男は私の問いかけがうるさいとばかりに沈痛な面持ちをさらに深めた。
私は少し苛立ちを覚えた。
私だって名前も教えてくれない赤の他人を看病するほどお人好しではない。
「私は一応あなたの恩人よ。名前ぐらい教えてくれてもいいんじゃないの?」
職場ではこんなに強い口調で周囲に接したことはない。
自分の部屋の中だからか、心にゆとりがある気がする。
私が彼の危機を救ってあげているという自負も彼への態度を強くさせているのかもしれない。
「……」
「警察に電話してもいいんだからね」
公園で彼が警察という言葉にやけに敏感だったことを思い出してかまをかけてみた。
どういう理由かは分からないが彼は警察を避けている。
警察と関わりあいたい人などあまりいないだろうが、彼の場合はその度合いが強すぎるように私には感じられた。
男は右の眉尻をぴくりと動かしたかと思うと観念したように薄く目を開いた。
「……テツオ」
足元で横になっている男よりも公園で騒いでいる小学生たちの声の方が余程大きい。
「苗字は?何テツオなの?」
男は私の質問には答えず黙って目を閉じた。
それが男の意思表示のようだった。
答えたくないのなら答えなくても良い。
今は体調を治すことが先決だ。
やがて湯が沸くと湯たんぽに注ぎ、寝ているテツオの足元に差し込んだ。
ああぁっ。
微かだが温泉につかったような嘆息が聞こえてくる。
キッチンに戻り冷蔵庫から保冷剤をいくつも取り出し、タオルに包んで氷枕を作る。
男のそばに戻ると既に柔らかい寝息が聞こえてきた。
震えはおさまっている。
頭を持ち上げられ氷枕を差し込まれてもテツオは眠りから覚めることはなかった。
私はそこまでやりおおせてどっと全身に疲れを感じ、テツオの枕元に座り込んで動けなくなった。
カーテンの隙間から休日の朝の日差しが入り込んできている。
一日は始まったばかりのようだが私の身体は既にくたくたになっていた。
ポタポタと何かが私の手の甲に落ちてきた。
何故かは分からないが涙が次から次へと溢れてきているのだ。
しかし、その涙を拭うことさえ億劫なぐらいに、疲労感が私の身体を支配していた。
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