9(三)

 テツオの姿を初めて見たのは二年前の秋晴れの日だった。

 見ていると吸い込まれそうな感覚になる一点の曇りもない青空で、こんな日は何か良いことがありそうだと素面でも足取りが軽くなるぐらいに清々しい朝だ。

 私は普段なら一ミリも心を動かされることのない、元気一杯に飼主を引っ張って歩いていく柴犬や楽しげに笑いあいながら自転車で私を追い抜いていく高校生たちを微笑ましい気分で見やりながら職場への道を歩き出した。


 公園のベンチにポツンと四十がらみのサラリーマンが一人座っていた。

 保険か何かの営業マンだろうか。

 白いワイシャツが良く似合っていて、ズボンの折り目がパリッと美しい。

 得意先周りの前のリラックスタイムというところだろう。


 私も今日はあんな風にベンチに座ってぼーっとしていたいな。

 日差しは柔らかく、丁度暑くも寒くもない。

 心地よい風が私の横顔を滑らかに撫で、そのサラリーマンの髪を微かに揺らしていく。

 こんな陽気なのに古びたコンクリートの建物の中で黴臭い空気を吸いながらパソコン相手にあくせくと仕事をするなんて何か間違っているような気がする。

 今日は休暇を取ってあのベンチで彼と一緒に昼間からビールを飲めたら、どんなに気持ちが良いだろう。

 できもしないことを想像して私は小さく首を振り、後ろ髪を引かれる思いで仕事に向かった。


 おかしいと思ったのはその日の帰り道だった。

 公園に差し掛かると朝のサラリーマンが朝と同じ姿勢でベンチに座っているのだ。

 変わったのは青みがかった陽光が今は茜色の西日になっただけで、彼は今朝と全く同じ様子で公園の中央をぼんやりと眺めている。


 一日中あのベンチに座っていたのだろうか。

 私は不自然ではない程度に彼の様子に目を凝らし、早朝から夕暮れまで公園のベンチで時間を潰す中年サラリーマンの身の上に思いを馳せた。


 もしかしたら突然会社からリストラされて、それを家族に打ち明けられず、いつもどおり出勤するふりで家を出てみたものの、何もすることを思いつかずに通りすがったこの公園のベンチで一日を過ごしたのかもしれない。


 想像力に乏しい私の発想はその程度のもので、実際のところはきっとそんな単純で陳腐なストーリーではないのだろうが、少なくとも彼はこの公園に何か用があって座っているというようには見えなかった。

 自分という存在に嫌気がさしている私が言うのも何だが、彼の顔には覇気というものが全く感じられない。

 彼は移りゆく空の様子を仰ぎ見るでもなく地面に群がるアリの行進を見下ろすでもなく、ただ魂の抜けたような顔でぼんやりと公園の真ん中あたりを見つめている。

 きっと彼は公園の真ん中など見てはいない。

 心はどこか違う世界に行ってしまっている。

 実は彼はよく出来た彫像で誰かが私のような気の小さい人間をからかうために置いていったのだと言われた方が納得できるほど、彼という存在から動物らしい生命力を感じられなかった。


 きっと自殺する人はみんなこういう顔をしているのだろうな、と思い当たった瞬間私は背中に悪寒を感じて慌てて目を伏せた。

 見てはいけないこの世の陰の部分に触れてしまったような気がして、私はマンションに小走りで向かった。


 次の日も晴天は続いた。

 前日と比べると大分温度が高く風もなくて日中は汗ばむような天候になりそうだった。

 私は降り注ぐ日差しから顔をそむけるようにしてマンションを出た。


 彼は相変わらずそこに居た。

 やはり昨日と同様にベンチに座って公園の中央に目をやっていた。

 私は彼の姿を確認して気味の悪さの中に少しだけ安心感を覚えていた。

 それは今朝になったらベンチのそばにぶっ倒れるなり、脇に立ち並んでいる桜の木に首を括ってぶら下がっているなりして彼が死んでいるのを私が見つけてしまうことを怖れていたからだ。

 昨日の夕方に見た彼はそれぐらい生気が失せているように私の目には映っていたのだ。


 とにかく彼は生きていた。

 それだけを確認すると彼の方を、怖ろしい現世の暗部を見ないように私は極度の猫背になって足元を睨みつけながら足早に職場へ向かった。


 いるなよ、いるなよ、と念じながら帰り道に公園に差し掛かると、何と、と言うべきなのか、やっぱり、と言うべきなのか、彼はまだそこに座っていた。

 この二日間彼は何か口にしているのだろうか。

 このままでは本当に死んでしまう。

 心持ちやつれたような横顔に私は思わず駆け寄って話しかけたくなった。

 誰かに話しかけたくなるなんて生まれて初めての感覚だった。


 でも、どうやって言葉を投げかければ良いのか。

 そして何を語れば良いのか。


 無理だ。

 私は彼に話しかける術を知らない。

 それに……。

 それに彼も私なんかに話しかけて欲しいとは思っていないだろう。

 無力な私が彼にしてあげられることなんて何もない。

 結局私は猫背になって彼の背後を通り過ぎることしかできなかった。


 さらに次の日は朝から雨だった。

 夜明けごろから振り出した雨は大粒だったらしく地面を叩くその音に常日頃から眠りの浅い私は目が覚めてしまい、目覚ましがなるまで何度となく寝返りを打った。

 寝不足でぼやけた目で適当に化粧を済ませ、ぼやけた頭で部屋を出た。

 傘を差してマンションの外へ足を踏み出す。

 途端に傘を揺さぶるほど激しい雨が降り注いできて、私は柄を抱え込むようにして両手で支えた。


 地面を打つ雨の飛沫で足元がすぐに濡れそぼつ。


 代えのソックスを持っていない。

 取りに帰ろうか。

 いや、それも面倒だ。

 私はため息をついて歩き出した。

 風邪をひいたらひいたときだ。

 病気になれば大手を振って休暇を取れる。

 私には平日の昼間に惰眠をともに貪る彼氏もいなければ、仕事に優先してでも没頭したい趣味があるわけでもなく、有給休暇が売りたいほど残っているのだ。

 半ば自棄になりながら、いつもより大股で歩を進める。

 何気なく傘の外の様子に目をやる。

 誰もが同じように身を屈めながら、傘に隠れるようにして早足で歩いている。

 公園には……。


 私は驚いて声をあげそうになった。

 あのサラリーマンがベンチに座っていた。

 もちろん傘など差していない。

 全身濡れ鼠になって、それでもやはり公園の中央をぼんやりと眺めていた。


 彼には何が見えているのだろう。

 土砂降りの雨の中で彼が待っているものは何だろう。

 そう考えたときに私には一つの考えが浮かんだ。


 彼は自分が朽ちることを待っているのかもしれない。

 公園の桜の木が落とした葉は微生物によって分解されゆっくりと時間をかけて土に還っていく。

 それと同じ自然界の摂理に自分の身を委ねようとしているのではないだろうか。

 死ぬという能動的な動作ではなく、朽ちるという受動的な作用。

 私にそう思わせるほど彼はこの公園に静かにひっそりと同化し、落ち葉のように無防備に全身を雨に叩かれ、流れ過ぎていく時間に微量だが確実に命を溶かし込んでいる。


 きっと彼も自分というものを扱いあぐねている。

 自分の力ではどうしようもない状態に陥ってしまった自分に囚われ自分から逃げ出せず、最終手段としてこのまま自分を害するつもりなのだろう。


 それは非常に潔い姿に見えた。

 尊敬に値する美しさだった。


 私が存在するこの世界はいくつものルールで成り立っている。


 過ぎた時間はさかのぼれない。

 一度死んだ生物は生き返らない。

 一度生を享けた人間は他者にはなれない。


 誰が決めたのかは知らないが真理と呼ばれるこれらのどうにも動かしようのない事実に気づくたびに自分のことが嫌で嫌でたまらない私は深く深く失望してきた。

 それでもいつまで経っても絶望までできない私は自分という存在から何とかして脱却できないかといつまで経っても心のどこかで考えることをやめられないでいる。

 それは結局神の救いとか奇跡というような万に一つ、億に一つも起こりえない超常現象の発現が自分の身に降りかかることを期待し、そして失望することの繰り返しであって、その期待とそれに対する失望がもたらす苦しみの連なりが人生というものなのだと悟ったような顔で私は自分と付き合い今日も自分の口を糊してやるために出勤している。


 こんな失望しかない現世にしがみついて自分であり続けることを放棄できないでいる臆病で醜い私。


 私は彼の声が聞いてみたかった。

 彼はきっと自分の人生というものへの執着を捨て切った透明で清々しい声をしているに違いない。


 私がこの傘を彼に差し出せば彼は何と言うだろうか。

 ありがとう、と微笑を返してくれるだろうか。

 それとも余計な真似はするなと怒り出すだろうか。

 いや、きっと彼は何も言わないだろう。

 彼はあのベンチで自分に降りかかるもの全てを甘んじて受け入れ、そのまま少しずつ風化されていくことを願っているように見えた。


 私は傘を持つ手にさらに力を込めた。

 とにかく私にできることはない。

 私が彼に話しかけることは静かに眠っている猫に調子はどうかと肩を叩いて無理やり揺り起こすようなものなのだ。


 その日は帰り道を変えることにした。

 きっと公園にいるであろう彼の後ろを通るのが何となく億劫で私は遠回りをしてバーに寄った。

 金曜日だから翌日のことを考えずに深酒ができる。

 私は髭のマスターが作るカクテルをうっとりと眺め次々にグラスを空にした。


 降り続いている雨が原因なのか、週末だというのにやはりバーは空いていた。

 酔った目で薄暗い店内をぐるりと見渡すと、いつから居たのか隅のテーブルにいかにも訳ありそうな親子ほどの年の差カップルを見つける。

 過ぎ去る時間を惜しむように熱っぽい視線を絡ませあっている彼らの様子がろうそくの灯りに浮かび上がっていて、私は慌てて視線を戻した。

 他に客はいない。

 マスターは百戦錬磨の落ち着きでいつもどおり静かにグラスを磨いているが、ザ・不倫とも言うべき二人と同じ空間に居るのかと思うと私はお尻がむずむずしてくる。

 見てはいけないような気がして思わずもう一度盗み見てしまう。


 若い女の手が男の手をテーブルの上で捉えている。

 男がキャンドルグラスに手を伸ばし銜えた煙草に慣れた手つきで火を点す。

 彼が吐き出した煙が危険な香りとなって小さな店内に漂った。

 私も道ならぬ身を焦がすような恋というものに憧れがないわけではない。

 酔いなのか照れなのか顔が逆上せてくるようだった。


 私は鞄から煙草を取り出しながらマスターに話しかけていた。


「マスターはどんな恋をしてみたいですか?」


 どうしてこんなことを聞いてしまったのだろうか。

 酔いとは本当に恐ろしい。

 恋愛経験なんてまるでないくせに恋なんて口走っている自分が恥かしかった。

 しかし俯いてしまったら二度と顔を上げられなくなりそうで、私は根性で飼主に餌を求める犬のようにマスターの顔をひたすら凝視し続けた。


「恋、ですか」


 マスターは相変わらずの低く渋い声で呟いた。

 軽く眉間に皺を寄せ物思いに耽るような表情になったが、グラスを磨く手は変わりなく動き続けた。


 目が乾き、息が苦しくなる。

 永遠かと思うような沈黙が続くほどに私はどんどん後悔の淵に沈んでいく。

 それでも何とか私はマスターの顔を正面に見ていた。


「できれば二度としたくないですね」


 マスターは一度も私に視線をくれることなく、小さいがはっきりとした声でそう答えた。

 答えた後も眉間の皺は消えなかった。


 私はようやく永遠の沈黙からは解放されたが、触れてはいけないものに触れてしまった後味の悪さが心に苦かった。

 どんな恋を、と訊ねれば誰でもはにかみつつも華やいだ表情で明るく答えてくれると安直に考えていた。

 マスターの何かを踏みにじった感触が足の裏に痛い。


 私はこれ以上バーの中に居場所を見つけられず、取り出した煙草をそのまま鞄に戻して、そそくさと勘定を済ませ逃げるように店を出た。


 いつの間にか雨は止んでいて、私は傘の先で雨に濡れたアスファルトをコンコンと突きながら歩き出した。

 頭の中では初恋のことを思い出していた。


 私が初めて人を好きになったのは幼稚園のときだった。

 同じクラスのたっくんに恋をしたのだ。

 私は幼稚園児の頃から人見知りだった。

 今ほどではないが、他の子と比べてやはり友達も少なかったと思う。


 たっくんはいたずらっ子だった。

 先生の言うことに逆らうことでみんなから笑いを取る目立ちたがり屋だった。


 ある日私はたっくんにスカートを捲られた。

 たっくんのスカート捲りは有名で同じ幼稚園に通う女の子は大抵一度は被害にあっていて私もその洗礼を受けたに過ぎないのだが、私は何故か人前でパンツを露わにされたことでたっくんを好きになってしまった。

 私はその日からたっくんのことを常に目で追うようになってしまっていた。

 今思えば人前で羞恥心を煽られた心臓の高鳴りを恋の始まりと勘違いしていたのかもしれない。

 スカートを捲られないようにたっくんを見張っていただけなのかもしれない。

 しかし、私がたっくんを常に意識していたのは間違いない。

 しかも好意を持って。

 正直に言えば多分もっとスカートを捲って欲しかったのだ。

 私のことをもっとかまってほしかった。

 でもそれからすぐにたっくんは親の仕事の都合でどこか遠くへ引っ越してしまった。


 道の向こうから秋の虫の音に混ざってうめき声のようなものが聞こえたのはその時だった。

 方角はあの公園を指している。

 私は嫌な予感に胸を揺すられて公園に向かって走り出した。


 薄暗い公園で何かが蠢いている。

 何かは人だった。

 三人いる。

 いや、その三人の足元にうずくまるようにしてもう一人。

 四人のシルエットはもみ合うように絡まりあっているが、構図は明らかに三対一だった。

 そのうずくまっている一人があのベンチと同化していたサラリーマンであることは直感的に理解できた。

 私は咄嗟に鞄から携帯電話を抜いていた。


「もしもし、警察ですか?」


 私は電話にと言うより公園に向かって声を張り上げた。

 自分でも驚くほど大きな声だ。


 リンチをしていた三人が一斉に私を振り向く。

 一人がこちらに向かおうとするのを残りの二人が止めるような動きをしている。


「傷害事件です。公園で三人の男が一人によってたかって殴る蹴るの暴行を加えています。場所はA駅から北東に三百メートルほど行ったところにある公園で、あ、男たちが逃げ出しました。西の方に走っていきます」


 暴漢たちは公園を突っ切って私がいる方とは反対の方へ去って行った。


 我ながらよくも咄嗟にあんな芝居が打てたものだ。

 今までの人生で一度も警察に電話を掛けたことがないというのに。

 私は胸を撫で下ろすと、どこにもつながっていない携帯電話を鞄に仕舞い、ベンチの横に這いつくばっている男のそばに駆け寄った。


「大丈夫ですか」


 私が抱きかかえるようにして起こそうとすると、男は唸りながら私の膝にすがり付いてきた。


 ウッ、ウワァ、ウゥ。


 私はタックルされたような格好になってバランスを崩し、ぬかるんでいる公園の地面に尻餅をついた。

 すぐにお尻が冷たく濡れてくる。

 男はそんなことにはお構い無しに私の膝の裏に隠れるように潜り込んでくる。


 その仕草に私は驚くよりも安心していた。

 きっと彼は暴漢が逃げたことに気付かず、何でも良いから身を隠そうとしているのだ。

 それは彼が生きることをまだ諦めきってはいない証拠だ。

 彼の動物的本能が生きることへの最後の執着を見せているのだ。


「大丈夫よ。もう大丈夫」


 私は男の前に膝をついて座りなおし、彼の頭を胸に抱き何度も、「大丈夫、大丈夫」と囁きながらその小刻みに震える背中をさすり続けた。


 男は饐えたにおいを放っている。

 そのにおいも生きている事の証だった。


 胸の辺りから男の声がした。

 警察は、警察はどうした、と掠れた声で私に訊ねている。


「あれはお芝居よ。警察には掛けてないわ。今からでも掛けた方がいい?」


 私の問いに男は懸命に首を横に振ると大きく息を漏らして私の胸の中にもたれてきた。


 私は彼をこれ以上この公園に放っておくことはできなかった。

 このままにしておけばようやく生への執着を見せた彼も遠からず死んでしまうだろうし、先ほどのように暴漢に再び襲われないとも限らない。

 私は彼に肩を貸して自分の部屋に招き入れた。

 男の伸びた髭が首筋に痛かった。

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