6(九)

 シャカシャカと小気味良くマスターがシェイカーを振る。

 客の目を意識して派手に大きく弧を描くバーテンもいるが、彼は右耳のそばで、必要最小限といえるぐらいの小刻みな揺らし方をする。

 リズミカルに愛しそうに。

 それはまるで次第に混ざり合うカクテルの声に耳を澄ませているようだ。


 中からOKの返事が出たらしく、マスターはゆっくりとシェイカーを振る手を止めトップを開いた。


 私の眼前にはキャンドルの小さな炎がチークダンスを踊るように柔らかく揺れている。

 このバーでは客が座ったカウンターに小さなアロマキャンドルを置いてくれるのだ。

 その灯りの脇でマスターが置いた逆三角形のカクテルグラスがオレンジ色に照らされる。


 雪の結晶を思わせる白い砂糖でデコレーションされたその可愛らしいグラスを見ているだけで私はうっとりしてしまう。

 無駄のない動きでマスターが銀色に鈍く輝くシェイカーを傾けると、グラスはハッとするほど鮮やかなエメラルドグリーンに満たされた。

 まるで南国の海を連想させるこのカクテルは最後に真っ赤なマラスキーノ・チェリーを沈めて完成となる。

 このチェリーは珊瑚礁を擬しているということなのだが、ろうそくの灯りも手伝ってか私には海に没していく夕日をいつも連想させる。


「『青い珊瑚礁』です」


 低い声でマスターがコースターの上に差し出してくれる。


 まるで宝石のように輝くカクテルを前に私は心の中で手を叩き歓声を上げた。

 思わず見惚れてしまう美しさだ。

 瞬きも忘れて見つめ続けていると抗いようもなくカクテルグラスの中の世界に引き込まれてしまう。


 果てしなく続く遠浅の海に自分が漂っているような気分になってくる。

 ゆらゆらと波の赴くままにどこまでも運ばれていきたい。

 誰もいない海。

 遠い砂浜に寄せては返す波の音が微かに聞こえる。

 残照でグラデーションに色を染める空に浮かび上がった一番星。

 その優しい瞬きはまるで私に話しかけているようだ。


 何も心配ないよ。

 大丈夫。

 いつも見守っているからね。


 この一つの完成された芸術作品を壊してしまうのは本当に勇気のいることだ。

 もっとカクテルの似合う女に生まれてきたかった。


 カクテルの美しい世界に負けない長く繊細な指でしなやかに持ち上げ、しっとりと濡れた適度に厚い唇でまるでキスをするようにグラスに口を当てる。

 軽く一口味わったら別れを惜しむことなく冷淡な素振りでテーブルに戻す。

 まるでもう一度口づけをとせがむように波立つカクテルを支えるグラスの縁には淡い口紅が艶美に残っている。

 そんなカクテルの存在に花を添えるような女になりたい。


 バーでの飲み方は人それぞれだろうが、私の場合は他人と少し違っているのかもしれない。


 私の部屋にはビールだけでなく焼酎やウィスキー、ワインなど様々なアルコールを常備している。

 それは部屋で飲むのが何かと都合が良いからだ。

 飲みたいときに飲みたいだけ飲めるし、周囲の客に気を遣うことも、周囲の客から迷惑を蒙ることもない。

 何よりも店の中や帰り道でばったり知り合いに出くわすということがない。

 しかし、部屋で飲むメリットを捨て、誰かに遭遇してしまう危険を冒してでも私がバーに行くのはひとえにカクテルを注文したいがためだ。


 私にとってカクテルは他の酒類とは全くの別物だ。

 ビールであれワインであれ焼酎であれアルコールは飲んでおいしいこと、そして酔いがもたらすその独特な昂揚感が醍醐味なのだが、カクテルについては注文してから私がグラスに手を伸ばすまででその全てを堪能したと思っている。


 私のオーダーに畏まったバーテンが真剣な面持ちで銀色の容器に精密に材料を注ぎ込み、魔法をかけるようにして小刻みに揺らす。

 やがて確信を持った顔つきで彼がシェイカーの蓋を開けカクテルグラスの上に傾けると、期待通りに鮮やかに彩られた光り輝く液体が零れ落ちてくるのだ。

 この世のものとは思えないほど美しい楽園の雫の集まり。

 そして、そこに添えられる清らかなミントの葉や薄くスライスされたオレンジなどの心憎いアイテムによって作品は芸術の域にまで高まる。


 私は出来上がったカクテルそのものの世界に酔っており、厳密に言えば飲みたいと思って注文するのではない。

 だから目の前に出されたカクテルに口をつけることなく帰ってしまっても良いのだ。

 味もどうでも良い。

 バーテンには言えないことだし勿体無いから必ず飲んでしまうのだが、実際に口にしてみると「あーあ」とがっかりしてしまう不味さだったりすることも少なくはない。

 しかし、それで私にとってのカクテルの存在価値が薄らぐことは一切ない。

 どれだけ不味いカクテルでもその美しさが際立っていれば私は何度でも注文するだろう。


 私は小さく息をつき、ゆっくりとカクテルグラスに手を伸ばした。

 その指は残念ながら短くて太い。

 ささくれも目立つ。

 爪の形は悪くないのだから、せめて赤いマニキュアぐらい塗っておけば良かったと後悔する。

 意を決して持ち上げるとカクテルは最後の抵抗をするように水面を小さく揺らした。

 私は呷るように飲み一口でグラスを空にする。

 私のぼってりとした唇はカクテルには似合わない。

 一気に飲んであげるのがカクテルに対する私の礼儀というものだ。


「はぁー」


 飲んでしまうと必ずため息が出る。


 これで今日の私へのご褒美は終わった。

 明日もまた仕事だ。

 明日は大河内から何とかふんだくった仕事をゆっくりできるだけ時間を掛けてこなし、これ以上他人の仕事を肩代わりさせられるようなことのないようにしなければ。

 私の担当の分はきっちり終わらせたというのにどうして私から話しかけてまでして他人の仕事をもらってこなければならないのか。

 肩代わりするのが嫌なのではない。

 話しかけるのが苦痛なのだ。

 今日だって係長が大河内の机から遅れている分の仕事を奪って私の目の前にどさっと置いてさえくれれば、私は胃の痛むような緊張を強いられることなく喜んで黙々と処理したのに。


 疲れを感じているわけではないのだが、思わず少しだけカウンターにぐてっとしたくなる。


「どうかなさいましたか?」


 私の様子を心配してマスターが声を掛けてくれる。

 低くて渋い安定感のある声だ。

 いつもうっとりと聞き惚れてしまうのだが、今日はあまりぼんやりしていると酩酊しているように思われてしまう。


「あっ、いえ、何でも」


 このバー「アドゥマン」にいる客は私だけだ。

 そのたった一人の客の様子がおかしければ、マスターも気になるだろう。

 私は慌てて姿勢を正した。


 雑居ビルの二階にある店内にはカウンターに椅子が六脚並べてあるのと二人掛けのテーブルが隅に佇んでいるだけだ。

 満席になっても八人にしかならない。

 全くのおせっかいだがこの規模で商売が成り立っているのだろうか。

 たった八人しか入れないのにこのバーの椅子が全て埋まっているところを私は見たことがない。


 カクテルの余韻に浸りながら、アドゥマンのロゴが入ったブックマッチから一本ちぎり取り煙草に火を点ける。

 深く吸い込み一気に吐き出すと弛緩した身体がさらに緩んでいくような感覚を味わえる。

 自分がリラックスしているのが良く分かる。


 気に入っている銘柄はキャスター。

 この煙草のチョコレートのような甘ったるい香りが私は好きだ。

 一日の消費は二、三本程度のもので、吸わない日もあるぐらいだが、気持ち良く酔ったときの煙草は何とも言えない美味しさで、さらに私を幸福に誘ってくれる。

 特にマッチで点けた煙草は香ばしい。


 私は残りのブックマッチを鞄に忍ばせ、ゆっくりと煙草を一本吸い尽くすと、会計をお願いした。

 「ありがとうございます」の声とともに金額が書かれた名刺大の白い紙をマスターが私の前に差し出す。

 カウンターに置かれたろうそくの柔らかい暖色の灯りにマスターの顎鬚が浮かび上がった。

 そこには数本白いものが混じっていた。


 四十歳ぐらいだろうか。

 テツオも髭を伸ばせばマスターと同じようになるのかしら。

 マスターは髪を短く刈り込んでいるので分かりにくいが、テツオの髪には白髪が何本もある。

 二人の年齢は同じぐらいなのかもしれない。


 私は支払いを済ませるとマフラーを軽く首に巻きつけて椅子を降りた。

 ダッフルコートに袖を通し、回れ右をして一歩踏み出せば目の前にドアがあり、その向こうはもう階段だ。

 この店は本当に狭い。

 そしてこの階段はすれ違えないぐらいに狭く、しかも結構な急勾配で酔客にはあまりにも危険だ。


 酔いが覚める思いで手すりをしっかり握り、一歩ずつ降りていく。

 達成感に近いような晴れ晴れとした気分で階下のドアを開き、漸く道路に出ると、案の定寒さは厳しいものだった。

 キーンと頭が冷え、慌ててコートから手袋を取り出す。

 マフラーをしっかり巻き直して口元にまで引き上げた。

 歩き出すと凍てついたアスファルトを打つブーツのヒールの音が甲高く辺りに響き渡った。

 その音が妙に心地よく、私はわざと強めに踵を鳴らして歩を進めた。


 コートのポケットの中で何かが振動している。

 何がブーンブーンと音を出しているのかは酔っ払った頭でも理解できる。


 またかと思った。

 これで今夜は五回目だ。

 それはバーでカクテルを飲んでいるときも何度も唸っていた。


 私の貴重な愉悦の時間を誰が台無しにしようとしているのかは見なくても分かる。

 ふわふわと気分が浮き上がろうとする頃を見計らっているかのように掛けてくる電話の主は母しかいない。


 またいつもの発作が始まったのだ。

 見合い写真を片手に、いつまで経っても電話に出ない娘に怒り心頭で髪の毛を逆立てている彼女の様子が目に浮かぶ。


 三十一歳になった娘を何とかして結婚させたい彼女は病的と言えるぐらいに熱心に私に見合いを勧めてくる。

 口角から泡を吹き出し、眉間に深く皺を刻み込んで、テーブルを叩きながら私の首筋に見合い写真を突き立ててくる彼女の姿は、実の娘の目にも百年の酔いも覚めてしまうほどのおぞましい形相だ。

 悪魔に心を売ったのかと疑いたくなるような顔つきにさせてしまっているのは娘である私の不徳のいたすところだと心が痛まなくもないが、たとえ荒ぶる神の生贄に身体を捧げても、見合いだけはしたくないのが私の本音だ。

 どこの馬の骨とも知れない男と結婚を前提にいきなり面と向かって至近距離で言葉を交わすなど考えただけでも卒倒しそうだ。

 大体こんなに極度の内向的で人見知りの性格に育ってしまった私を最も近くで三十一年間見てきた人間がどうして私にこれ以上ない苦痛を押し付けるような真似ができるのか。

 母親なら母親らしく、こんな風に育ててしまったことに責任を感じて、黙って温かく見守る態度であってほしいものだ。


 お前が片付かないと死んでも死にきれない、などと言いながら、実は見合いの席のような晴れの場を母自身が楽しみたいだけなのではないかと私は思っている。

 母は私とは正反対の目立ちたがり屋の性格で、「あー、大変だ大変だ」とぼやきながらも、あれこれ周囲の世話を焼きたい人間なのだ。


 それを思うと、私の性格は明らかに父親譲りだ。


 私の父は人見知りで気が小さく、人前に立つことを極力避けて通りたい人だった。

 人だったと過去形で言うのは、父は五十三歳の若さで数年前に脳梗塞で死んでしまったからだ。

 父の死を境に、母はまるで重石が取れたように一層陽気で世話好きのおばさんになった。

 天国に行ったお父さんが浮かばれない、などと目尻を拭うような仕草を身につけて、母のおせっかいは年々ひどくなっている気がする。

 父が他界してすぐに兄が結婚して実家に落ち着いたので、それを口実に私は一人暮らしを始めることができたのだが、離れている私でさえ辟易としているのだから、同居している兄嫁の苦労は推して知るべしだ。

 彼女に今度会ったら三つ指をついて感謝の気持ちを伝えなくては。


 携帯電話はコートのポケットの中で彼女の怨念が憑依したかのように絶え間なく振動し続ける。

 取り出して液晶の表示を見るとやはり母だった。

 放っておけばこのまま数日間ははやり病の発作のように電話攻撃が続くだろう。

 最終的には私の職場に掛けるという暴挙もやってのける可能性がある。

 夜な夜な発作を起こされては、おちおち気持ちよく酔っ払っていられないので、明日あたり従順な娘のふりをして適当な言い訳をつかって持病を鎮めてやらねばなるまい。

 ビールでも飲んで少し酔った勢いで最後に「でもね、母さん。私みたいな性格の人間は誰かと一緒に暮らしたら、その気苦労で、ただでさえ短そうな人生が一層はかないものになりそうじゃない?それでもいいの?」と鼻声で言ってやれば、少しは娘の本当の幸せとは何か考え直してくれないだろうか。


 しかし、とりあえず今日のところはご勘弁を。

 もう少し素面に近い状態なら降参して電話に出ただろうが、今日はすっかり酔っ払ってしまっている。

 今から母親のヒステリーに延々と付き合う根気は、この夜の闇のどこに目を凝らしても見つからない。


 私は瞼を閉じハッと気合一閃、携帯の電源を落とした。


 私の手の中ですっと静けさを取り戻した四角い無機物の塊。


 さあ、これでどうだ。

 さすがの母もどうすることもできないだろう。

 彼女もまさか娘が電源を切るとは思わなかったに違いない。

 今頃受話器を耳に当てたまま呆然と突っ立って手をこまねいている様子が目に浮かぶ。


 私はくっくっと湧き上がる笑いをかみ殺しながら携帯電話をポケットに戻し軽やかに歩き出した。

 ヒールの音がさらに甲高く響き渡り、私は妙に愉快な気分になってくる。

 喉が渇き身体がさらにアルコールを欲している。


 私に酒の味を教えてくれたのも父だった。


 実は私は成人式を終えて数年たってもアルコールと名のつくものを口にすることなく日々を過ごしていた。

 人と話す機会を忌避していたので飲み会という場に参加することはなかったし、酒を酌み交わして語り合いたい友達もいなかった。


 家の中では晩酌をやる父を毎日のように見ていたが、黙って表情一つ変えずからくり人形のようにお猪口を動かす様子が全然美味しそうに見えなかった。

 母が下戸なのでそちらに気を遣って父の相手ができなかったということもある。


 ある日たまたま町内会の旅行で母が家にいなかったときに、いつもと同じように寡黙に晩酌をちびりちびりやっていた父が、風呂上りの私に「お前もどうだ」とお猪口を用意してくれた。

 私の返事も聞かずに「酒は熱燗に限る」と注ぐ父の表情がいつもよりほんの少し楽しそうで誇らしげに見えて、私は蜜に誘われた蜂のようにふらふらと父の向かいに腰をおろした。


 お猪口の中の透明の液体は白い湯気を立てている。

 私は熱燗というものがいかなる代物か知らず取りあえず匂いから体験しようと不用意にも犬のように鼻をお猪口に近づけた。


 クンクン……ゲッホゲホッゲホッ。


 湯気とともに気化したアルコールが鼻の奥に突き刺さり私は激しくむせ返った。


 涙を浮かべて咳き込む私を見て父は笑っていた。

 普段表情を変えない父が「大丈夫か」と穏やかに微笑む姿が涙でぼやけて、いつもよりも優しく見えた。

 やがて涙は出なくなったが鼻の粘膜がヒリヒリと痛み、なかなか治まらない。

 日本酒とはまことに恐ろしい飲み物だ。

 私の心はすっかり折れてしまい、大人しく部屋に帰って寝ようかと思ったが「少し冷ましてみろ。美味いぞ」と言われ、この一杯だけとフーフー息を吹きかけた。

 すぐに湯気が立たなくなり、私は恐る恐るお猪口を口に近づけた。

 息を止めつつちびりと口に含み舌の上で転がしてみた。

 きっと辛くて吐き出してしまうだろうという予想に反し、父の酒は驚くほど口当たりが良く、ほんのり甘くて苦もなくさらりと咽喉を過ぎて行った。

 胃に沈んだ液体はじんわりと身体全体を温め、私はまるでふわふわと浮遊しているような感覚を味わった。


 全身にたくさんの風船を結びつけて身体を宙に浮かせてみたい。

 酔うという状態は幼い時期に誰しもが憧れたあの想像上の感覚に近いような気がした。

 心も一緒にふわふわと浮き上がるようで、狭い鬱屈とした場所から突如抜け出したような今まで感じたことのない伸び伸びとした気分がそこにはあった。

 それは私を病み付きにさせる幸福な体験だった。


 うるさい母もいないしほんの一口だけ、と思って飲んだあの熱燗が私を楽園に誘ってくれたのだ。

 あの日、父と私は何を語るでもなく、黙々と夜更けまで飲み続けた。


 あの日から半年後に父は倒れ呆気なく死んでしまった。

 自分の死期を悟っていたわけではないだろうが、父は最期に私に酒の味を教えてくれたことになる。

 それはまるで酒を飲んで俺を思い出せという遺言のようだった。

 そして、私はそれを忠実に実行している。

 私は寡黙な父が好きだった。


 あつらえ向きにローソンとセブンイレブンの明かりが見えてくる。

 迷わずローソンの自動ドアの前に立つ。開くや否や脇目も振らずにビールの陳列棚に直行。

 ロング缶二本を取り出し、鷲掴みのままレジに向かう。

 ドンとカウンターに置いて仁王立ちすると、店員が深夜に迷わずビールだけを買っていく三十路過ぎの女性客の様子を盗み見てくるが、そんなことは全く気にならない。

 このローソンには酔っ払っているときにしか入ったことがなく、通りを挟んだ反対側のセブンイレブンには素面の時にしか使わないことにしている。


 私の部屋があるマンションは隣が小さな公園になっている。

 街灯だけの薄暗がりのなか公園のベンチに座って早速プシュッとやる。

 歩いている途中に大分揺れていたのだろう。

 ビールの泡がプルタブの周りにブクブクと溢れ出てきて、私は慌てて口をつけた。

 少し濡れてしまった左手をピッピッと振りながら、ゴクリゴクリと咽喉の奥へ流し込む。

 何ともいえない幸福感が炭酸ガスとともに咽喉までせり上がってきて、私は満足の象徴としてのゲップを躊躇うことなく冬の夜空に向かって響かせた。


 何気なくマンションの方角に目をやると、ベンチから私の部屋が見えることに気付いた。

 私の部屋のロフトには四角い窓がついていて、丁度その窓からブラインド越しに電気スタンドの淡い灯りが漏れている。

 きっとブラインドの向こう側には小さく蹲って雑誌を読んでいる男の姿があるはずだ。

 あそこがテツオの指定席だ。


 自分の部屋を、テツオがいる場所を外から眺めながらビールを飲むのは乙なものだと私は思った。

 彼は今何をしているのだろうか。


 朝刊は折りこみチラシも含めて午前中に読み終わっているだろう。

 きっと今頃彼は私がパジャマ代わりに買ってやったジャージを着て、私が退屈しのぎにと先日(ローソンで)買ってきた雑誌を読んでいるに違いない。

 車、競馬、パチスロ、懸賞クロスワードパズル、女性セブン、週刊現代……。

 手当たり次第に脈絡も傾向も関係なく買っているのは私の意地の悪さによるものではない。

 テツオは私が買い与える雑誌を興味のあるようでないような無表情で受け取り全て隈なく読み込む。

 こういうものが読みたいと自発的に希望を述べるところまでいかなくても、この雑誌は何度も読み返しているとか、この雑誌は最初の数ページを見ただけで終わっている、だとかいう傾向が垣間見られれば私もそれなりに知恵を働かすつもりなのだが、テツオはどの雑誌も一様に、まるで宇宙人が地球上の森羅万象を知るための研究資料として目を通しているかのように同じペースでページを繰っていくのだ。

 もちろん、どんな雑誌が読みたいか、どの雑誌が面白かったか、訊いたことがないわけではないが、いつも返事は「別に」で終わり。

 それでも全てを読むのだから要らないわけではないのだろう。

 だからこっちも何も考えずに手当たり次第に買っている。


 今は何を読んでいるのだろうか。

 物は試しと買っておいたエロ漫画に意外にも興奮してオナってたりして。

 テツオもオスなのだからありえない話ではない。

 少なくとも今までの傾向からして、あのようなものでも隅から隅まで読むことは間違いない。

 後でどうだったか訊いてみよう。

 きっといつもの無表情で「別に」と答えるに違いない。


 私は貧弱な街灯の下で一人にたにたと笑った。

 我ながら下品な笑い方をするものだと思えば、なおさら笑えてくる。


 数か月前、まさにこのベンチで拾ったテツオが私の部屋で雑誌を読んでいて、部屋の主である私が野良猫のように夜の闇に紛れながら寒さを堪えてベンチに蹲っている。

 そう思うとまた新たな笑いがこみ上げてきて私は二缶目のプルタブを引いた。

 ブシュッといつもの聞きなれた音が人気のない夜の公園に響くと何やら悪いことをしているようで楽しくなる。


 グゥオウガウガウッ。


 いきなり背後から獰猛な犬に吼えかけられた。


 私は柄にもなく「キャッ」と声をあげ飛び上がった。

 その拍子にビール缶が手から滑り落ち、足元に飛沫を上げて転がった。


 ゴボゴボシュワシュワ。


 ビールが地面に流れていく。


 闇の中でいきなりのプルタブの音に驚いたのだろうか。

 振り向くとシェパードのような大型の犬が私に向かって飛び掛かろうとするのを飼主の男性が体重をかけて「コラッ!シッ!」とリードを引っ張って止めていた。

 犬の前足が私を捉えようと宙を掻く。

 咽喉の奥を鳴らして獲物を狙う獣の目が夜の帳の中で異様なほど爛々と輝いている。


 飼主の手からリードが離れたら私は噛み殺される。

 私は犬のあまりの凶暴さに竦みあがって動けなかった。


 やがて飼主がリードではなく首輪そのものに手を掛けて力任せに犬を私から遠ざけると、ようやく犬も落ち着きを取り戻したようで、何事もなかったかのように尻尾を振って夜の道をすたすたと消えていった。


 私は犬が消えていった方角を呆然と眺めながら、しばらく動くことができなかった。

 肝っ玉が縮みあがるとはこのことだ。

 手足に感覚がなく、あまりの恐怖に言葉も出ない。

 さっきまで私の心を占めていた浮き足立つような楽しい気分はまさに一変し、足元にどんどん広がっていくビールの染みのように闇よりも黒い惨め色に私の全身は塗り込められていった。


 ふと部屋を見上げるとブラインドに僅かに隙間が作られ、誰かがこちらを見ているようだった。

 サスペンスドラマでよく見るあれだ。

 私の視線に気付いたのか、すぐに隙間がなくなる。


 テツオに見られていたのだ。

 犬に吠え付かれて震え上がっていたのを見られてしまった。

 こちらが見ていたつもりが、いつの間にか立場は逆転している。

 私はすぐには部屋に戻る気がせず再び椅子に腰を下ろし肩をすぼめ、すっかり中身の流れ出てしまったビール缶を闇の向こうへ蹴飛ばした。

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