5(八)

「資料できあがったものから持ってきて。そろそろピッチ上げていかないと間に合わないぞ」

 長谷川係長の声にはまだ優しさがあったが、顔を見れば彼が内心焦り始めているのが手に取るように分かる。

 それはそうだろう。

 スケジュールを考えれば誰だって平静ではいられない。

 市議会の予算委員会は来週から始まる。

 もちろん来年度の予算案はすで議会に提出されているが、委員会での答弁用に市側の幹部が持つ資料や想定問答の出来上がりが遅れているのだ。

 委員会ではこれらの資料どおりに幹部が議案を説明し、市議からの質問に返答する。

 委員会での答弁は議事録として残り来年度以降の施策運営に大きく影響を与える。

 一旦喋ってしまったことは取り返しがきかない。

 したがって資料は膨大な量となり、しかも誤りは許されない。

 これから係員が作り上げた資料は係長と課長に叩き上げられ、さらに幹部会議で諮らることになる。

 委員会で上層部が赤っ恥をかくことなく、ひいては自分たちが叱責を受けないために課長と係長は神経をすり減らして資料をチェックするのだ。


 しかし、スケジュールの遅れはこの財務課だけの責任ではない。

 各課からの資料の提出が遅れたからその分後ろ倒しになってきているのだ。

 長谷川係長もそれを知らないはずはないが、だからと言ってタイムリミットを先延ばしにできるわけでもない。

 部下を責めるわけにはいかないが、焦る気持ちは抑えられないのだろう。


 私はおずおずと席を立ち長谷川係長の横に歩を進めた。

 私に気付いた彼がすがるような視線を送ってくる。


「……私の分です」


 資料を差し出すと彼は恭しく受け取った。


「これで松山さんの担当分は全て?」

「……そうです」

「さすがだな。助かるよ。じゃあ、早速」


 彼は私の資料に組み合うような姿勢で目を通し始めた。

 私は小さくお辞儀をすると踵を返す。

 自分の席までのほんの数歩がやけに遠く感じた。

 早く席に戻って資料の山に顔を隠し誰にもばれないように大きく息を吐き出したい。


 最難関の仕事をやり終えた。

 寝不足による頭痛とドライアイに耐えながらする資料作成など私にとっては何てことはない。

 誰とも話すことなく黙々と作業をし続ければ良いのだから。

 それよりも何よりも出来上がった資料を長谷川係長に手渡す瞬間が最も緊張するのだ。

 私はじっとりと汗の滲んだ掌を何気ない仕草を装ってそっとスカートで拭った。


「あ、ちょっと」


 長谷川係長に呼び止められて私は心臓が口から飛び出しそうなくらいに驚いた。

 早速資料にミスが見つかったのだろうか。

 恐る恐る振り返ると彼は大河内さんの名前を呼んだ。


「大河内さんの分はどうなってる?」

「もうちょっとでーす」


 舌足らずな返事に課に張り詰めていた空気が一気に弛緩する。

 小悪魔的な彼女の声は女の私が聞いても耳の奥でメイプルシロップのように甘くとろける。


「そっか。もうちょっとね」


 課長や長谷川係長も彼女には厳しいことは言わない。

 彼女は雑然と資料が山積みされ古びた空気の澱む掃溜めのようなこの財務課に突然変異で咲いた可憐な一輪の花なのだ。

 そこにあるだけで誰もが目を細め心を和ませる。

 たとえ彼女が作る資料にミスがあっても誰も咎めるような真似はしないだろう。


 長谷川係長が私にさらに近くに寄るように手招きし声を潜めた。


「松山さん、悪いんだけど今から大河内さんのバックアップについてあげてよ。去年、彼女の資料ひどかったんだ」


 そう言って彼は肩を落として苦笑した。


 私は一年前の今の時期のことを思い出していた。

 あのとき大河内が作った資料に何か不備があったという話は誰からも聞いていない。

 隣に座っている小島のサポートがあったとは言え一年目なのにミスなく資料を作り上げるとは偉いものだと思っていた。

 しかし長谷川係長の言葉が本当なら大河内の仕事は欠陥だらけだったのだろう。

 直しを入れたのは誰だったのだろうか。

 私が呼び出されて修正を命じられていても不思議ではないが、そういうことはなかった。

 苦笑から察するに長谷川係長が自ら作り直したということか。

 彼の表情にはもうあんなことはごめんだと書いてあるように見える。


 頼むよ、と目配せしてくる長谷川係長に、分かりました、と答え、私は取りあえず逃げるように席に戻った。


 自分の席からさりげなく大河内の姿を覗き見る。

 資料に囲まれながらパソコンに向かう彼女は女優のように華やかで美しく、まるでドラマのワンシーンを見ているようだ。


 長い髪を鬱陶しそうに束ね首の後ろでバレッタでまとめる。

 重いファイルを抱え上げて自分の胸の前で広げ、しどけなく口を半開きにしてパソコンと資料に交互に目をやる。

 そんな仕草の一つひとつが周囲を魅了している。


 隣に座っている小島が大河内を意識していることは明らかだった。

 彼の仕事が遅れ気味なのは大河内の存在が大きく影響しているに違いない。

 今も彼女の露わになったうなじの白さに我慢できないようにちらっちらっと視線を飛ばしている。


 どう声を掛けようか。

 私の頭はそればかりを考えている。

 「できてる資料見せてみて」では高飛車過ぎるのだろうか。

 後輩相手にこれぐらいのことを言ってもおかしくはないだろうが、相手は大河内だ。

 彼女が何とも思わなくても、隣の小島が私をどう思うか。

 「何か手伝えることない?」では少し弱いだろう。

 あの媚薬のような甘い声で「だいじょうぶでーす」と言われてしまえば、それ以上私は手も足も出すことができない。

 何とか彼女の抱えている仕事を少しでもこちらに奪わなくてはならない。

 形だけでもそれができれば長谷川係長への顔が立つというものなのだが。


「頼むよ」


 いつの間にか私の背後に立っていた長谷川係長に囁かれる。

 早く行け、という催促か。

 私は身体を硬直させて生唾を飲み込んだ。


 仕方ない。

 行くしかない。

 少し強引でも進捗状況を覗き込んで仕事をもらってこよう。

 一応私が先輩なのだからなんとかなるだろう。

 私は自分のパソコンを閉じ、まなじりを決して立ち上がった。

 あー、緊張する。

 膝が笑っていて力が入らない。

 くそ、何で後輩に声を掛けることぐらいで、こんなに私は苦しい思いをするのか。

 全く損な性格だ。

 ほとんど病気なのだという自覚ももちろん持っている。

 係長も私の性格を知っているだろうに、こんな押し付け方をするなんて。


「あっ、それと」


 何かを言い忘れたのか、部屋から出て行こうとしていた長谷川係長が私のところへ戻ってきた。「打ち上げの幹事、今年は松山さんにお願いするね」


 よろしく、と軽く手を挙げて彼は去っていった。


 外堀を埋められた、と私は暗澹たる気分で上司の背中を目で追った。


 委員会終了後の打ち上げを私は去年ドタキャンしている。

 私を幹事にしたということは、今年は絶対に出席させるぞ、ということだろう。

 打ち上げに出ていないのは実は去年だけではない。

 一昨年も、その前の年も。

 出たのは財務課一年目のときだけだ。

 もちろん打ち上げ以外でも職場の飲み会は全て欠席している。


 私は職場の人間と勤務時間外に顔を合わせることを極力避けているのだ。

 当然お酒が嫌いなわけではない。

 苦手なのは飲み会という場だ。


 私はアルコールが入ると自分が変わってしまうことを知っている。

 陽気になり気持ちが大きくなって、普段ではありえないことだが、頭に浮かんだことが反射的に口から出てしまう。

 行動にもコントロールがきかなくなって平常では思いもよらないことを気が付いたらやってしまっている。

 その場はそれで良いかも知れない。

 しかし、次の日からどういう顔をして出勤すれば良いのか。

 職場の人間がどういう目で私を見るのか。

 普段の押し黙っている私をどう思うのだろうか。

 そう考えると全身に悪寒が走って、その場に蹲りたくなる。


 財務課一年目のときはドタキャンする勇気も持てず、ただひたすらウーロン茶を飲んでいた。

 上司に一杯だけと勧められても頑なに固辞していた。

 飲みたくて仕方ないのに飲めない苦しさはもう二度と味わいたくなかった。


 大河内は相変わらず美しく咲いている。

 あの秘境の地に咲いた花の下へ辿り着くための気力が、もう私にはどうしても湧いてこない。

 私は金縛りにあったようにコチコチに固まっていた身体を必死に揺り動かし、大河内の席とは反対方向の更衣室に向かった。


 ロッカーの中に私は魔法の小瓶を隠し持っている。

 今日はもうあれに頼るしかない。

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