20(二十一)

 おじやは期待通りおいしかった。

 熱くてフーフーしながらも食べ始めると止まらない。

 頬張る私を母は微笑を浮かべて黙って見つめている。

 いつか私もこんな風に優しく我が子を見守るようになるのだろうか。


 慈愛に満ちた表情の母に問いかけてみたくなる。

 あのときテツオが飼い猫だと言った私の言葉を本当に信じていたのかどうか。


 入院にあたって母は着替えや身の回りの品の用意のために何度か私の部屋に入っているはずだ。

 猫の毛一本落ちていないことに何の不審も抱かないはずがない。

 やはり男運のない入院中の娘を憐れんで信じたふりをしてくれたのだと考えるのが現実的だろう。

 そして退院してすぐに私が青木と結婚したので、「猫」のことを蒸し返す必要もなくなったというところか。


「ぼんやりしてどうしたの?」


 母が不思議そうに私の顔を見る。


「ううん。何でもない」


 私は慌てて取り繕う。「お母さんのおじやってなんでこんなにおいしいんだろ?同じ調味料でも私が作るのと違うみたい」


「愛情よ。由香里ももうすぐ同じ味が出せるようになるわよ」


 そう言って母は満足そうに目を細めた。


 それにしても、まさに一本の電話が人生の転機となり私は結婚することになった。

 そして当の本人である私はその電話を掛けたことを全く覚えていないのだから恐ろしい。

 私の携帯電話の発信履歴に確かに青木の名前が出ていたのだから、やはり私が掛けたのだろうが……。


 私はあのとき死んでも良いと思っていたはずだ。

 それなのに泥酔して意識朦朧のなか対人恐怖症の私が必死に他人に助けを求めるようなことをしたのだろうか。


 死にたくないのは生命体の本能と言われれば、それを否定することはできない。

 暴漢にリンチされたとき見ず知らずの私にすがりついてきたテツオの行動は無意識だったに違いない。

 私がとった行動もあれと同じことだという見方は至極もっともだ。

 やはり人はそう簡単には死ねないということなのだろう。

 もう生きているのがつらい、と思ったときにぼんやり考える「死」と、現実に生命の危機に瀕したときに見る「死」とが決定的に違うのは当然だ。

 具体的な形を持った死と直面して魂とも言うべき私の命の源に位置する思考はおそらく反射的に回避行動を探ったのだろう。


 それは良い。

 それは良いとしてもまた別の疑問が浮かんでくる。


 あのときすがるべき相手として私が青木を選択したのは何故だろう。

 母や兄でも良かったはずなのに、よりによってあの頼りない青木にすがろうとした自分の思考回路はどういうものだったのか。


 青木なら来るかもしれないと思ったのだろうか。

 青木なら私の我儘を聞くだろうと判断したのだろうか。

 ……きっとそうなのだろう。

 何故かは分らないが青木は私に惚れている。

 その惚れた弱みに付け込んで、彼を振り回してやろうと思ったのだ。

 酔っぱらうと何をするか分からない自分。

 テツオを介抱したのも青木を呼びつけたのもその無鉄砲な自分なのだが、その後先考えていない行動が悪いことばかりでもないのが人生の面白いところなのかもしれない。


 母は私が食べ終わるのを見届けると、時間を気にしていそいそと出て行った。

 かと思うと三分もしないうちに慌てた様子で戻ってきて、空のペットボトルを二本欲しいと言い出した。

 ダンベル代わりに水を入れて使うペットボトルを持ってくるのを忘れたらしい。

 ごみ箱からペットボトルを取り出し、水で軽くゆすいで渡すと、母はひったくるように受け取り、礼もそこそこにドアも閉めずに駈け出して行った。


 相変わらず活動的な人だ。

 私を生む時にどうしてそのエネルギーを私に少し譲ってくれなかったのか。

 跳ねるように歩き去っていく彼女の背中を見て私は思わず苦笑した。

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