19(十二)
テツオがいなくなった日、私はそのことをなかなか理解できなかった。
何度も何度もロフトの上によじ登り昨日貪ったテツオの身体を探した。
トイレ、浴室、ベランダとテツオの欠片が落ちていないか執拗に目を配った。
玄関を飛び出し公園やコンビニも隈なく歩き回った。
テツオが消えた。
私の前から姿を消したのだ。
おそらくは彼の意志で。
日が暮れかけてきた頃ようやくぼんやりと現実を自覚し始めた私はひたすら逃避に走った。
アルコールが抜け思考回路が正常な動きを取り戻しつつある自分の身体を忌避した。
私は浴びるように飲んだ。
いや、浴びた。
ワインの瓶底を天井に向ける。
運動後のスポーツドリンクのようにラッパ飲みで渇いた心を潤そうとした。
口の端から零れ落ちる液体が頬を、首筋を、胸を、太ももを赤紫色に染めていく。
フローリングの床から葡萄酒の豊潤な甘酸っぱい香りが立ち込める。
頭の中のもやもやを洗い流したくてプロ野球のビールかけのように私はワインを頭から被った。
床一面の「水たまり」ではなく「ワインたまり」に寝転がりさらに次から次へと瓶を開けていく。
私の部屋には貯えがある。
きっと今日のために私はせっせといろんな酒を揃えていたのだ。
スポンジのようにカスカスの脳でそう思い至ると、私は悪いことをしていたつもりが正しいことをしているように思えてきて声を出して笑った。
笑いながらも飲むペースは落とさなかった。
私は死ぬまで飲み続けるつもりだった。
私を発見したのは青木だったようだ。
そのことは後で母から聞かされた。
私が意識を取り戻したのは病室のベッドの上だった。
母、兄、義理の姉、そして私を挟んだ向かい側に……青木?
私はどうしてこの面子に自分の顔を覗きこまれているのか。
「みんな……何?」
思うように声は出なかったが口の動きで伝わったらしい。
「何、じゃないわよっ!由香里!いい加減にしなさいっ!」
母の怒鳴り声がこれほど響いたことはなかった。
頭は割れんばかりに痛み、心はしゅんと萎縮した。
私はきっと言い訳できないほどひどいことをしたに違いない。
「母さん、落ち着けよ」
兄が母の肩を叩いて宥めようとするが、母は怒りがおさまらない様子で歯茎むき出しだ。
こんなに怒っている母を見るのは父の葬式で不倫がばれたとき以来だ。
「落ち着いてられないわよ。まさかアル中で倒れるなんて、この子はどれだけ親を心配させるつもりなの。お見合いのお相手に何て言い訳すればいいのよっ、由香里!」
そうか私はワインを続けざまに一気飲みして潰れたんだ。
さすがの私もあんな飲み方は経験がない。
倒れて当たり前だ。
そう言えばお見合いする予定だったっけ。
「まあまあ、お母さんここは病室ですので。由香里さんも目を覚まされたばかりですし」
青木に言われると母は何故か神妙な顔つきになる。
見栄っ張りだから身内よりも他人に言われた方が素直に聞き入れられるのだろうか。
「青木さんには本当に何とお礼を申し上げたらよいのやら」
母が私の顔の真上で青木に頭を下げる。
いえいえそんなことは、と青木もお辞儀する。
二人の顔が私の顔に向かって近づいたり離れたりを繰り返すのを私はいたたまれない思いで見上げているしかなかった。
何だか余計に目が回りそうだ。
「青木さんが救急車を呼んでくださらなかったら由香里は今頃死んでたかもしれません」
青木が救急車を呼んだ?
青木が私の部屋に来て泥酔している私を見つけ一一九番通報したということだろうか。
「お母さん、それはちょっと大げさですよ」
青木が苦笑して頭を搔く。
少しも大げさではない。
私はテツオが姿を消したことを悟って漠然とだが確かに死も辞さずという気持ちで酒を呷っていた。
不意に目頭が熱くなって視界が滲む。
テツオは今頃どこで何をしているのだろうか。
もしかするとまたどこかの公園でベンチに座ってぼんやりと虚空を眺めているのかもしれない。
みんな早く私を一人にしてくれないだろうか。
この喧騒は耳触りでしかない。
頭は痛いし、みぞおちの辺りから食道にかけて、何かがもぞもぞとせり上がってくるような不快な感覚がある。
口の奥に血のような鉄の味がするように思う。
「僕はこの辺で帰ります。職場への報告はどうしましょうか。僕からしておいてもいいですけど」
赤の他人がそれはおかしいだろ。
私は思わず目を剥いた。
しかし思うように声が出ない。
「そうですねぇ。こういう場合はどうしたら……」
「それはこちらでやります。どうもありがとうございました。下まで送ります」
兄が迷っている様子の母を制し青木を促して病室から出て行った。
義理の姉も二人についていく。
私はほっとして他人の消えていったドアを見遣った。
「由香里、あなたいい加減にしなさいよ」
青木が去っていったドアに向かって頭を下げていた母は私に向き直ると目を怒らせた。
また叱られる。
母と二人きりでは誰も助けてはくれない。
私は布団を額まで引き上げて顔を隠した。
「あなたアルコール中毒なのよ。しかも慢性の。自覚ある?いったい毎日どれだけお酒飲んだらそんな身体になっちゃうの?肝臓から胃から腸からぼろぼろなんだから、このまましばらく入院することになるわ。当然お酒が抜けてきたら禁断症状が出るから相当苦しいらしいわよ。覚悟しなさい」
私が慢性のアルコール中毒?
禁断症状に苦しむ?
「それから、青木さんに一生感謝するのよ。あなた、泥酔して深夜に電話で青木さんを叩き起こすわ、呼びつけて介抱させるわ、結局血を吐いて意識を失って救急車を呼ばせるわの我儘三昧。それでも嫌な顔一つせず今日だって仕事終わってからお見舞いに来てくださったのよ。きっと昨日から一睡もされてないわ」
私が青木を呼び出した?
どうして青木なんかを?
「それから、テツオって誰なの?」
胸を強烈な痛みが貫いた。
どうして母がテツオの名前を知っているのか?
固く閉じていた目を思わず開いてしまう。
誰って言われても……。
同棲していた相手とは言いにくい。
しかもそのテツオがいなくなって自棄酒を飲んだなどと聞いたら母はさらに頭から湯気を出して怒り出すだろう。
「あなたこの病院に担ぎ込まれたとき『テツオ、テツオ』ってうなされてたのよ。青木さんに訊いても、そんな名前の人は知らないって言うし、職場の人じゃないのね。どういう関係の人なの?お付き合いしてるの?」
私は再び目を閉じた。
もう、何もかもが面倒臭い。
どうしてこんなことになってしまったのか。
いっそこのまま死んでしまいたい。
「由香里。どうなの?はっきり言いなさい」
「……猫よ」
私は思いついたとおりに口走っていた。
しかしあながち間違いでもない気がする。
「え?何?」
「飼ってた猫の名前よ」
「猫?……そう。猫。昨日あなたの部屋に行ったけど見なかったわね。どこか逃げちゃったの?」
「知らない」
結局私は三カ月近くも退院できなかった。
その間、青木は私のところへ飽きもせず毎日毎日見舞いにやってきた。
その姿は誰が見ても私に気があるとしか思えない。
私は彼のことを好きではなかった。
悪い人ではないことは分っていたが、使えない同僚として辟易する気持ちで彼を見ていた。
しかし、精力的に外堀を埋め、根気良く内堀を崩しにかかる青木に対してそのときの私は完全に無抵抗だった。
拒否反応を示すことすらできないぐらい私は精神的にも肉体的にも力を失っていた。
来ないで、と言う気力もなく、私は青木がそばにいることを黙認した。
彼は私にあれこれと話しかけてきた。
職場のことや、自分の生い立ち、明日の天気予報。私はほとんど黙って聞き流していたが、さすがに罪悪感に駆られて時折相槌程度の返事をすることはあった。
そういう瞬間を捉えた看護師に冷やかされ、母にゴリゴリと勧められ、優しい目で兄に促されて、やがて私は「どちらかと言えば好ましい」人と思えるようになった青木と付き合いだした。
しかし、その関係は私にとって決して華やいだ未来に胸が弾むといった類のものではなく、はかない夢のひと時に後ろ手でそっと幕を引くような意味合いが強かった。
私がそのときに終わりを迎えたのは世間的には青春と言うものだったのだろう。
その胸苦しさを味わうことができただけでも私はテツオに感謝したいと素直に思えた。
私は退院して間もなく青木と結婚した。
私がアル中であることを知った同僚たちはますます腫物を触るような態度で私に接してきて私は完全に職場から浮いてしまっていた。
これ以上ここにはいられない。
青木のプロポーズに、仕事を辞めても良いのなら、という条件付きで私は了承したのだった。
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