シーン49 過去の意味

 めまいがだんだん治まって。お腹が落ち着いて。すこーし余裕が出来た。それにしてん、ほんまにしんどかった。あんなんはもうこりごりや。体中汗でべたべたやし、吐いた臭いも体に付いてる。シャワー使いたかったけど、マギーがいるからそういうわけにもいかへん。更衣室なんてものはあらへんからなー。


「マギー、わたしちょっと顔洗ってくる」

「ああ」


 ゆっくりマギーが立ち上がった。まだふらふらしてる感じはするねんけど。


「俺は帰るよ。世話んなった。ありがと」


 おいおい。


「いや、それはええねんけど、どやって帰るん?」

「え?」

「もう夜中の二時回っとるで? タクシー以外の手段ないけど、大丈夫かや?」


 確かマギーは電車で通ってたはず。タクシー使えば数千円はふっ飛ぶ距離や。歩いて帰るんかあ?


「あかん……か」


 マギーは、腰が砕けたようにへたり込んでしまった。


「無理すんなって。始発動くまで休んでったらいいやん。わたしもまた横になるしぃ」

「済まん……」

「いいって」


 わたしが顔を洗ってリビングに戻ってきた時には、マギーは窓際に座って風に当たっていた。


「ふう。やっと夜風が涼しなってきたなー」

「ああ」

「マギーも顔洗って来たらええやん。すっきりするで」

「いや、いい」


 窓の外をぼんやり見ていたマギーが、振り返っていきなり質問をぶん投げてきた。


「なあ、でんでん」

「なんや?」

「おまえさっき隙間で、あっちは過去やない言うとったやろ?」

「ああ、過去ちゃうし」

「向こう行ったことないおまえに、なんで分かるんだ?」

「つじつま合わへんもん。しげのさんの勤めてた栄進堂が実在してたのは二十五年以上も前や。その頃にはリプリーズのリの字もないねん。しかも、建ってた場所が違うし」

「そうか」

「でも、しげのさんがわたしのブログの画像を見てリプリーズだって当てたんやから、向こうのとこっちのは少なくとも見かけはほとんど変わらんてこと。それって、なんかおかしないか?」

「確かにな」


 また考え込む態勢に入ったマギーに、逆に突っ込んでみる。


「なあ、マギー。あんたなんでそんなに過去にこだわるん?」


 いつものマギーなら、そんなん俺の勝手やって突き放したやろな。でも。ぼそぼそと、聞き取れへんくらいの小さな声でマギーが何か言った。


「俺には、復讐したいやつがおんねや」


 なんやて? 復讐!? ぞわあっ。背筋が寒くなる。


「誰……や?」


 それには答えずに。顔を上げたマギーが、今度はしっかりした口調で話し始めた。


「俺は、私生児や」

「は?」

「曲木言うんはお袋の姓や。俺には親父がおらん」

「ふうん……」

「俺が出来た時に、お袋は親父に認知せえ言ったらしい。せやけど、親父はお袋と俺を捨てて逃げた。稼いで親父を支えてたのはお袋や。そのお袋の信頼も愛情もなにもかも全部裏切って、ぼろっきれみたいに俺とお袋を捨てよった。俺は……それがどうしても許せへん!」


 顔を真っ赤にして、床を睨み付ける。


「マギー、そのオトコが誰か知っとんの?」

「知っとるもなにも。有名人やからな。久野や」


 げえっ!? そ、そう言えば。あのおっさんもすっごい男前やったな。なるほど、マギーの面がいいのがよう分かるわ。


「ちょ、マギー。もしかして久野さんとこに就活かけてる言うんも……」

「せや。復讐のためや。会社にさえ潜り込めば、あいつの信用や仕事を汚すのなんか簡単やろ」


 気持ちはわかるけどさー。なんだかなあ。


 物騒なことをぶちかましたマギーやったけど、そのあとくたくたに萎えた。


「せやけど俺は無力や。久野んとこに潜り込む実力が……ない」

「マギー。それ以前に、履歴書に曲木って書いた時点でおかしいって覚られるやろ?」

「そんなヘマするか。ちゃんと偽名使ってる」


 おいおいおい。


「久野んとこには、ほんまにぎらぎらした連中ばっか集まってる。作るってことに妥協せえへんやつばっかや。俺の半端なセンスじゃ、逆立ちしたって潜り込めへん」

「……そか」

「ああ。まだチャンスがなくなったわけやないけど、厳しい」


 厳しいって言ったのは、そういう背景もあったってことかー。


「ええと。それが過去に行くことと、どう関係するん?」


 しばらく黙り込んでたマギーが、ぼそっと吐き出した。


「お袋と久野が出会うチャンスを。消そう思ったんや」


 あっ! そういうことかあ! でも……。


「せやけど、そんならあんた生まれんようになるで?」

「そんなのかまん。俺なんておらへん方がいい」


 あだだだだ。なるほどなー。父親に対する強烈な敵意。自分の存在に対する罪悪感。運命を変えられへんことに対する苛立ち。人を好きになれへんだけやない。自分自身も嫌いなんや。なんで俺なんか生まれて来たんやろ、言うて。


 かわいそうやなあ……。アッコとは逆や。アッコは自分のことしか見てへんかった。マギーは自分を見ようとしてへん。そんなん要らん思ってる。でも、それじゃあ生きてけへんから、父親への復讐だけを目標にしてもうてる。きっとそうなんやろ。あーあ。


 隙間はなくなったから、どっちにしてんもう向こうには行けへんし。物騒な考えも一緒に向こうにぶん投げてしまえって。そう思ったわたしは、ガチ入れた。


「なあ、マギー。あそこは過去やない。過去やないから、あそこであんたが何をしても、こっちには影響せえへん」

「ああ」

「もし、あんたが向こうで久野さんを殺したところで、こっちの久野さんには全く影響なしや」

「どうしてそんなことが分かる?」

「しげのさん、考えてみ? 向こうにも杉谷しげのって人はおったと思うよ。たぶん赤ちゃんやろうけど。本人が同じところに二人おるって、そんなんありえへんもん。それに過去に戻るんやったら、本人も赤ちゃんになってまうはずや」

「あ……」


 わたしのざる頭でもわかることが、マギーには見えてへん。それだけ、ネガがごっつ強かったんやろ。


「リプリーズの矛盾と同じや。向こうにはわたしらと同じような名前と顔を持った別人がいる。それは別人やから、わたしらが何かしたところでわたしらの今には跳ね返らへん。危険冒して向こう行くだけ、無駄骨折りやったってことやね」

「じゃあ、俺はどうしたら」


 俯いて、歯をくいしばってマギーが泣いた。悔しさと無力感と、底なしの寂しさ。ああ、マギー。あんたのは、どす黒い水しか出えへん蛇口やな。それをなんとかしぃひんと。


「ふう。せやなー。まず、その復讐なんちゃらゆうのを止めなあかんて」


 マギーには納得できひんやろ。せやけど、そんなん何にも使えへん。ばからし。


「なあ。マギーのおかんは、元気なんやろ?」

「ああ」

「苦労して育てた息子がつまらん逆恨みで人傷付けて、後ろ指さされるようになってみ? おかんがそれで喜ぶか? あほくさ。誰のための復讐や」

「ん」

「もしわたしが久野さんやったら、一番悔しいやられたー思うのは、あんたが久野さんよりずっと幸せになることや。自分がええとこだけ掠め取った思っててん、それはカスやったんかーって。あんた自身が久野さんより光りゃいいだけやないか。それが一番堪えることや。ちんけな、人の気持ちを何も考えへん、くずみたいな男のきったないケツぅ舐めても、腐るだけやで」

「おまえも……言うなあ」


 ははは。受け売りやけどね。


「わたしは、棚倉さんとこでそれゆわれたんよ。あんた、クソ塗れの汚いケツ舐められるかゆうて」

「げえー」

「あの人はごっつ厳しい人や。ケツは元々汚いもんやから、それにむしゃぶりつきたい思わせるようにするには、徹底的にケツ汚す要素は排除せんとならんて。わたしは……ショックでね」

「すごいな」

「ああ、すごいで。本当にもの創り出すってことに真剣に向き合ってる人や。でもその出口は自分やない。人や。売れてなんぼのものなんやもん。人に売れる夢を創る。ほんま、ごっついでぇ」

「ああ」

「そういうごっついのやろう思ったら、人にダメ出す前に自分にダメ出さなあかんねん。自分にダメ出して何も残らへんかったら」

「……きっつい」

「せやろ? だからもっともっと鍛えなあかんねん。後ろ向きのこと考えてる暇なんかないんや。どやったら自分をもっとごつくできるか。捨てるとこ少なくできるか。ぐちぐち後ろ向いてる場合やないねん」


 わたしは、表紙が真っ黒に汚れたスケッチブックを指差す。


「なあ、マギー。わたしのテーマは、まい_すぺーす、や。わたしがどんな場所を作るにしてん、それは過去には置けへん。せやろ? 過去に戻って手直しするゆうことは出来ひんのやから」

「ん」

「今どうするか考えるしかあらへんし、それがどんなんでもわたしの場所や」

「じゃあ……過去は要らんのか? 無意味か?」


 うーん。


「今は、過去の積み重ねやと思う。せやから大事やけど、でも……」

「過去のものは直せへん、いうことやな」

「分かっとるやん」

「ああ」

「野崎センセとしげのさんだってそうや。あの十年、二人の過ごしてきた道のりは違う。センセは十年やけど、しげのさんは十八年や。そのズレは、もう戻って直すことは出来ひん」

「……そっか」

「うん。それぇ受け入れて、先に進まなしゃあないやろ」


 マギーは大きくうなずいた。


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