シーン45 振り返る 2

「十年前のあの日。わたしは新しく開校する専門学校の講師の採用面接を受けるために、穂村さんたちの通ってるとこに出向いてったの」


 どわあ!


「うち、受けはったんですか!?」

「そう。そんなチャンスは滅多にないからね。まあ、だめもとやし、他にもアタックするところがあったから、ちゃっちゃっと済まして、次行こかって感じ」


 そっか。センセがタフや言うとったもんなあ。


「その日は、のぶちゃんと一緒に婚姻届出しに行く約束やったから、わたしはちょっと浮かれてたの。面接終わったら、すぐに待ち合わせ場所に行きたいなー思って」

「うん……」


 センセが浮かない顔をしてる。昔のヘタレの頃を思い出しちゃったんかなー。


「面接が終わって理事長と話をしてたら、約束の時間が近くなっちゃった。慌てて学校を出て駅に行くのに、近道しよう思って」


 ずがーん……。


「あそこ、通っちゃったんすか?」

「そう」


 がっくり肩を落とすしげのさん。


「あの頃は、あそこには古い民家があるだけで、喫茶店なんかなかったわ」

「ええーっ!? あ、そうか。十年前やとこっちはまだリプリーズができる前やもんな」

「うん。軒の下くぐって突っ切れば、細い路地には信号ないし、早く着けるんやないかなーと思ったの。時間ないー時間ないー言いながら時計だけ見ながらそこ突っ切って。反対側に出た途端に……」


 アタマ痛ぁ。野崎せんせもがっくりって感じで、首を振った。


「別世界やったってことか」

「うん。でも、その時はすぐに気が付かなかったの。あのあたりは元々わたしのホームグラウンドやないし、あかーん、道に迷ってもうたーくらいの感じで」


 そっか。


「でも、どうもクウキが違うんよね。古くさいんよ。走ってるクルマ。歩いてる人のファッション。看板の雰囲気。おやあっ?って感じ。突っ切った先にでっかいお店やさんがあったから、そこで聞いてみよう思って、そこに入ったの」


 あっ!


「しげのさん、もしかしてそれが栄進堂!?」

「そう。わたしは穂村さんの調べてくれたようなことは知らへんかったから。そしたらね……」


 センセが、しげのさんの言葉を取り上げるように答えた。


「時間が合わへんかったんやろ?」

「そう。わたしが生まれてるかどうかも分からない頃やの。タイムスリップ言うんか」


 しげのさんが、悲しそうにわたしの方を見た。


「さっき穂村さんが言ってた男の子は、一日ちょっとで戻ってこれたんでしょ?」

「はい」

「羨ましいわ。わたしはね。戻れなかったの」


 あっ! 全員、立ち上がってしまった。絶句。ほんまに言葉が……出て来ぃひん。


「そ……か」


 どすん。腰が抜けたようにセンセが座り込んで、両手でばしんと顔を覆った。


「必死に探したわ。わたしはどこから出てきたんやろって。でもどんなにわたしが出て来たあたりを探し回っても、そこには延々と続く板塀があるだけ。まるで、もう出られないっていう牢獄の壁みたいに。わたしは過去に閉じ込められてしまったの」


 じっと、俯いて唇を噛むしげのさん。でも、わたしはどうも納得いかなかった。過去? さっきマギーも言った『過去』って言葉。引っかかった言葉。たぶん違う。でも、わたしはそこで口を挟まへんかった。


「もう……。どうにもならへん。戻れへん。それなら、そこで暮らすしかない。三日間あちこちうろつき回って、それで諦めたの」

「どうして……ですか?」

「わたしの持ってるもの。通帳とかキャッシュカードとか。向こうじゃ何も使えへんかったから」


 壮絶や。わたしなら……最初っからもう耐えられんわ。


「わたしは考えた。わたしがのぶちゃんのところに戻るためには、なんとしてもわたしがこっちで生き抜かないとなんない。だから、どんなことがあっても耐えようって」


 拳を握ったしげのさんが、ぶるぶると震えながら言葉を絞り出した。


「どんなことがあっても!」


 しばらく。しげのさんは口を閉ざしていた。しーんと静まり返る室内。


「わたしは記憶喪失のふりをしたの。いいえ、ふりじゃないわね。実際、こっちの記憶は向こうじゃ何一つ役に立たへんもん。本当に、わたしは全てのものを失ってしまったの」


 そっか……。


「最初に道を聞いた栄進堂のおやじさんが、わたしを気の毒がって住み込みで雇ってくれはったの。記憶が戻るまでうちで働いたらええゆうて。それで……十年。働いたわ」


 センセががたんと立ち上がる。


「そ、それっ、おかしくないか?」

「さっきの穂村さんの話を聞いてたでしょ?」


 どすん。崩れ落ちたセンセが、また頭を抱える。


「その時は、わたしはそんなことは知らないわ。生きることだけで必死やった。事務の仕事を覚えて、お客さんの応対を一気に任されて。ほんとに必死に働いた」


 そっか。しげのさんのあの優雅な雰囲気。あれは、問屋さんで働いてた間に身についたんかー。


「でもね、栄進堂は向こうでも時代の流れに取り残されてたみたいで、おやじさんが店閉めるいうことになったの」

「う……」

「身元の分からないわたしを雇って、ずっと使ってくれただけでもありがたいこと。まあ、なんとかなるやろ。そう思って、わたしの向こうで持ってた家財道具は全部処分して、店にお別れしたの。また身一つに戻ったの。おやじさんに挨拶して店を出て。リプリーズに行った」

「えと、しげのさん。それ、いつ出来たんですか?」

「わたしが向こうにいって二年目くらいに出来たかな? あのあたり喫茶店とか飲食店があまりなかったから、ほんとに便利でね。マスターもええ人やったし。ずいぶん通い詰めたわー」


 二年? 五分の一やとこっちの数ヶ月や。やっぱ、計算が全然合わへん。


「それに、牢屋の壁みたいな板塀ぶち破って出来た店やったから、わたしに夢を見させてくれたいうのもあったし」


 ええっ!?


「ちょ、それはおかしいです! リプリーズが栄進堂の道路挟んで向かいにあったってことですやん!」

「そう。わたしは、こっちのリプリーズって店がどこにあるのかは知らへんの」


 うがああああああああっ! なんたるこっちゃ。むっちゃくちゃや!


「マスターに、仕事辞めたけどこれからどないしよーって愚痴言って。それからトイレに行ったの。でも昼時でトイレがすごく込んでてねー。マスターに、奥にうちの住居のトイレがあるからそれつこてーって言われて、初めてそっちの方に行って。普段行かないところやから出口間違えたの。勝手口から外に出ちゃった。そしたら……」


 センセがぽつんと言葉を拾った。


「戻ってきた、いうわけか」

「そう。しかもね……」


 しげのさんが、ぽろりと涙をこぼした。


「こ、こっちはね。に、二年しか、経って……へんかったの」


 顔を歪ませて、むせび泣きながらしげのさんが話す。


「のぶちゃんとこに……すぐ行きたかった。わたし帰ってこれたよって……行きたかった。せやけど、わたしこんなに年取ってしまった。気味……悪いよね。いきなり……おばはんになってしまってて。怖くて。怖くて怖くて。帰れへんかったの……」


 両手で顔を覆うしげのさん。その指の間から、どんどん涙が伝って落ちていく。センセがその肩をそっと抱き寄せた。


「もう。のぶちゃんとは一緒になれへん。そう思って。諦めよう思って。中村さんとこで今までお世話になってきたの」


 あまりに壮絶や。しげのさんだから耐えられたことなんやろうと思う。


「ねえ、しげのさん。向こうから戻ってきた時に、よくめまいせえへんかったですね」


 しげのさんは、顔を覆ったまま首を横に振った。


「わたしね。二か月近く意識がなかったの」


 げげえーっ! めっちゃめちゃ副作用がきつかったってことかー。そりゃあ十年分じゃなあ……。


「中村さんは、意識失って倒れてたわたしを介抱してくれて。そのまま仕事までさしてくれた。大恩人なの」


 しげのさんはすすり上げながら続けた。


「もうのぶちゃんのところには戻れへん。わたしはわたしの道を探そ。そう思って。もう一度美術をこつこつ勉強して、お金を貯めて。中村さんからプロポーズされた時も、ぐらついたけど断った。わたしの中にのぶちゃんが住んでる限り、わたしは他の誰ともうまくいかへんやろ。そう思って」


 そっか。中村さんのあの寂しそうな表情。あれは……。


「一人で生きてくんや。そう決意して出発した最初の日が。これやもん……」


 両手を顔から離したしげのさんが、寂しそうな顔を見せる。センセがしげのさんの左手を取ってかざした。


「なあ、シゲ。せやけど、これはずっと付けとってくれたんやろ?」


 その薬指には、傷だらけで光沢が鈍くなった結婚指輪がしっかりはまっていた。センセがその隣に自分の左手をかざす。


「俺もや」

「あっ……」


 しげのさんが、小さな驚きの声をあげた。センセがふっと笑ってしげのさんを見つめる。


「あのな、シゲ。昨日、こいつらと話しとったんや。十年前の俺は、とんでもないヘタレのぼんぼんやった。あのまま結婚しとったら、必ずおまえを潰しとった」


 しげのさんが、じっとセンセの顔を見上げる。


「十年。お互いにいろいろあったんは事実や。せやけど、俺にその十年は必要やったと思う。やっと。やっとな。シゲに胸張って言えるようになったで。俺と一緒になろうぜって。なあ、シゲ」


 センセがしげのさんに顔を寄せる。


「長いこと。待たせて済まんかったな。お帰り」


 うわ……。周りに誰がいてん関係ない。わたしたちの前で濃厚なキスシーンが繰り広げられた。でもそれはロマンチックとか、純愛とか、そんなチープな言葉で言えるようなもんやなかった。とても神聖なもんやった。


 時が二人を隔てて、切り裂こうとした。でも、それを乗り越えて二人は再び結ばれようとしてる。お互いの中に、絶対にゆるがない自分の場所があること。わたしは。その想いの強さに。確かさに……打ちのめされる。


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