シーン32 予約

 幸福の後は、地獄の釜の中やった。ビールの二日酔いがこんなにしんどいって言うんは……。聞いてはいたけど、体験して見ないと分からへんな。ほんま地獄や。トイレに通い詰めて、最後は胃液しか出ぇへんところまで吐き尽くした。うー、勢いに任して飲むもんやないなー。

 ポカリとプリンでなんとかしのいで、あとはひたすら寝た。さすがに昨日よりマシになった。今日はバイトのシフトから外れてる。だからバイトはないねんけど、昨日休んでるから店長から出て来い言われるかもしれへんなー。まあ、その時はその時や。


 それより、ガッコに行って野崎センセに就職の報告をしとこう。週末やけど、センセは来とるやろ。ほんで、帰りに画材店に寄って紙を見とこうかな。素材として考えるんなら、工業用の樹脂加工紙やカードボードなんかもホームセンターとかで見とかなあかんなー。野崎センセの言うように、やることいっぱいあるわ。ぐずぐずしてられへん。


 そうだ。紙もそうなんやけど、色をどうすっかやなあ。クッキーに相談しながらはいいんやけど、あのセンセも忙しい人やからなかなか掴まらへん。もうちょい、相談しやすいプロはおらへんかなあ。んんー。クッキー並みのセンスの色使いできるセンセは、ガッコにはもうおらへんよなあ。それ以外、かあ……。


 あ! そやっ! しげのさんがおるやないか。ペイントアートゆうとったやん。すっごいきれいな名刺やった。色のことは、きっとごっつ詳しく知ってはるやろ。よっしゃ! 連絡取ってみよ。だめもとや。


 早速電話する。今日は中村さんのとこへ出てるか、自宅におるか、それともパートに出てるか。どっちにしても迷惑かけへんようにしないとなー。とりあえず、アポ取れるかどうかや。んー、出るやろかー。


「はい。杉谷です」


 あ、おったー。よかったー。


「あの、杉谷さんですか? わたし、先日お会いさせていただいた穂村と言います」

「ああ、穂村さんね。どうなさいました? また、何かありました?」

「いえ、ちょっとお願いがあってお電話差し上げたんですが、お時間は大丈夫ですか?」

「今は自宅なので構いませんよ」

「ありがとうございます。実はですね、わたしは学校の卒制でペーパークラフトの作品を出そう思ってるんです。最初はブロンズかプラスター使って塑像で行く予定やったんで、素材が紙やと色のことしっかり考えなあかん言うのをど忘れしてまして」

「ふむ。なるほど」

「杉谷さんはそちらの方面のプロやから、ぜひアドバイスいただけたらなあ思ったんですが……」

「ほほほほほ。私の授業料は高いわよー」

「げぇー」

「冗談よ。私がお手伝いできるんなら協力しますよ」


 わあい! 思わず小躍りしてもた。


「ありがとうございますっ!」

「ええとね、まだ中村さんとこの残務整理が残ってるんで、来週いっぱいは平日ちょっと動けへんの。来週末に、私のアトリエまで来てくれはる?」

「はい! 土日のどちらがご都合よろしいですか?」

「そうねえ。土曜の方がありがたいかな。日曜日は画材の買い出しに行きたいので」

「分かりました。土曜は午後の方がいいですか?」

「うーん、そうねえ。私の家はちょっとへんぴなところにあるので、早い時間の方がいいかも。帰りの足のこともあるしね。電車で来はるんやろ?」

「あ、はい」


 そういや、田舎に引っ込んだって書いてはったもんね。住所確認してへんかった。アクセス方法調べなきゃ。


「では、午前十時でいかがですか? 早いですか?」

「構わないわよ。お昼はうちで食べてったらいいわ」


 わあお! ほんま、気さくやなあ。嬉しいわあ。


「いいんですか? お世話になる上にご飯まで……」

「一人でご飯食べたってつまらんもん。一緒に食べましょ」

「すいません。突然ご迷惑おかけして。お世話になりますぅ」

「ほほほ。気楽にいらしてください。あ、そうだ」


 ん?


「なんでしょう?」

「うちの事務所の面接は行かれたんでしょ?」

「はい。伺いました」

「どうやった?」

「そうですね。とてもいいお話で、正直ぐらつきました。ただ杉谷さんの後釜は、わたしにはちょっと務まらへんかなあと」

「なあに言ってんのよ。私に出来るくらいやから大丈夫よ」


 これだよー。あんなん、わたしには出来ひんて。


「でも、わたしはやっぱ創ることしたいなあ思って。それで、小さい会社なんですけど就職決めてきました」

「あら! それはおめでとう!」

「ありがとうございますぅ。社長、ごっつ厳しい人なんで、ついてけるかどうか不安ですけど」

「穂村さんなら、ガッツあるから大丈夫でしょ」

「ははは。がんばりますぅ。じゃあ、来週土曜日の午前十時に伺いますので、よろしくお願いします」

「はい。お待ちしてますねー」


 ほっ。しげのさんて、ほんまに感じのいい人やなあ。わたしもあんな風になりたいけど、無理やろなあ。性格がっさがさやし。


 おっし。ごっつええ感じや。まだ上げ潮が続いてる。アッコのことや、隙間のことや、それなりにごちゃごちゃあるねんけど、それはそれ。行ける時は、一気に行かなあかんよね。あ。こっちも忘れずに連絡をしとかんと。


 わたしは中村さんの事務所に電話をして、棚倉さんのところに就職が決まったことを伝えた。


「大変いいお話を下さったのに申し訳ありません」

「ははは。残念やけどしょうがないね。あなたに厳しいところでやろうって覚悟が出来たんやから、それ大事にしないとな」

「はい! 石にかじり付いてでもがんばります!」

「その意気や。ああそうや、穂村さん。お友達に、あなたが推薦できそうな子がいたらぜひ紹介してください。条件は、あなたに言ったのと同じや。それを事前に説明してくださると嬉しいです」

「まだ決まってへんのですか?」

「ああ、なかなかねえ……」


 うん。確かにあれは、誰でもええいうわけにはいかんやろなあ。心のタフさが要るもんなあ。


「分かりました。うちらも就職みんな苦戦してるんで、ええ子がいたら話振ってみます。よろしくお願いします」

「頼んますわ」


 ふう。中村さんにはああ言ったけど、あれをこなせる子はそうそうおらへんと思う。わたしかて自信ないもん。さあ、出かけよ……と思ったら。スカホが鳴った。お、店長やな。やっぱ今日出て来いいうんやろ。


「はい、りのどぇっす」

「ああ、りのちゃん? 悪いけど、昨日の分、シフトずらして出てもらえる?」

「はい。昨日はすんませんでした。今日出まーす」

「おおきに。助かるわ……」


 あでー?


「てんちょ。元気ないっすね?」

「ああ……。ちょっとな」

「なんや、あったんですか?」


 いつもきびきびしゃべる店長の歯切れが悪い。


「シンヤな」


 あ、出て来たんか。


「仕事に戻ったんすか?」

「それどこじゃなかったんや」


 え? えー?


「警察から、事情聞きたいから来い言われてな」


 ぐえー!?


「ちょ、シンヤなんかやったんですか?」

「いや、そうやないんやけどな。あいつ、完全に錯乱しとってん」


 さくらーん!?


「ど、どういうことっすか?」


 店長はそのまま黙り込んでしまった。それから、やっとのことでぼそっと言うた。


「後で、りのちゃんが来た時に話すわ。仕事あるから」

「あ、はい。じゃあ、いつもの時間に出ますので」

「頼むな」


 うー。いったい何があったんやろ?


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