シーン19 音

「りの、先に上がりまーす。お疲れさまー」

「ああ、りのちゃん、お疲れー。ほれ」


 店長から、いつもより豪華な賄い飯が渡される。ごち!


「まあ、あんま気ぃ落とさんと、切り替えてな」

「あっざーす」


 やっぱ、バイトが入ると生活感が出る。いつものリズムに戻ってく感じがする。店長は、わたしが危うく襲われるところやったって聞いて、激怒して大変やったらしい。あいつをこますのはわしや言うて。


 ちょっと! なんやねん、それ! とほほ。


 いつもはまっすぐ帰るんやけど、今日は少しラフをいじりたかった。昨日、棚倉さんたちに突っ込まれたのはとことんイタかった。見えると見せるは違う。確かにその通りや。わたしが考えてる場所はまだ空っぽやもん。それがそのまんま見えてまう。見せるなら、中身をしっかり考えなあかん言うことやね。じゃあ、何を見せる? それが決まってたら、こんなテーマなんか立てへん。だから堂々巡りになってもうてる。


 このまま部屋に戻ったら、きっといつものように緩んでまう。シャワー浴びて、ビール飲んで、録画した韓ドラ見て、友達と電話でだべって。今まではそれで良かったんや。でも……少しの間でいいから、自分のこさえたいものをきっちり見つめたい。


 わたしは、専門の校舎に戻った。もう十時近かったけど、卒制にかかってる子は結構遅くまで残ってる。無人ていうことはないから安心できる。下から見上げた時に、野崎センセんとこに灯りが点いてたから、先生もまだ残ってるんやろ。棚倉さんとこ行った報告だけしとこ。


 わたしは、人気のないエントランスで一度立ち止まって、自分の靴音の残響を聞いた。響く自分、かあ。それって、どんなんやろなあ。どんな音すんのやろなあ。おっと。先に晩飯食べてまお。

 エントランスのベンチに座って、さかっとご飯食べてから、自販機でペットの麦茶買って一気飲みする。ふう……。さて、行こか。


 エレベーターで最上階まで上がって、野崎センセの部屋に向かう。ノックしよう思たら、戸が半開きになっとった。不用心やな。部屋をひょいと覗いた時。わたしは心臓が止まるかと思った。


 センセに覆いかぶさるようにして、アッコがキスをしていた。


 ひどい! しょせんセンセもそういうオトコか。奥さんいながら、アッコにたらし込まれて。アッコもアッコや! ほんの三日前まで不倫しとって、捨てられてやけ酒食らってたくせに、ほとぼり醒めたらこれか。汚らしい!


 訳分からん。でも、涙が出て来る。今まで信じてたものが、音立てて崩れてく。

 がらがらがらっ。ぐちゃぐちゃっ。そんな音は聞きたない! 聞きたないーっ!


◇ ◇ ◇


 わたしは、エントランスの隅っこにしゃがみこんでぐすぐす泣いた。


 こんな場所はイヤや。信じられるもんなーんもなくなって、隅っこに追いやられてそこで途方に暮れるなんて。そんなんイヤや! でも、どうしたらいいのか分からへん。わたしの周りのものが次々にがらがら崩れてく。それをどうしたらいいのか……ちっとも分からへん。


「でんでん」


 しゃがみ込んでたわたしのアタマに声が降ってきた。野崎センセやった。顔も見たくない。


「えらいとこ見られてもたな。浜本にも困ったもんや」


 つらっと。汚らわしいっ! わたしは立ち上がってセンセを突き飛ばして、帰ろうと思った。センセがその手を掴んで大声を出す。


「誤解や!」

「何が誤解ですかっ! 不倫やないですかっ!」


 センセの手を振り払って、外に飛び出た。センセが追って来る。イヤや。怖い! どないしょ。あ、隙間に行こう。あそこなら外から見えへん。わたしは必死に走ってリプリーズの横の隙間に飛び込んだ。でも、センセもそこに入って来たのは……誤算やった。


◇ ◇ ◇


 逃げ道はなかった。もう終わりや。わたしは腰が抜けて、その場にへたり込んだ。


「はあ、はあ、はあ」


 荒い息を吐いてた先生が、わたしの頭にゲンコを食らわす。


 ごん! いてっ。


「ちゃんと最後まで人の話を聞け! 誤解や言うとるやろ! 不倫? あほ! 俺は独身や」


 ちょっとっ!


「じゃあ、センセの薬指の結婚指輪は何なんですかっ!」


 センセはちょっと寂しそうな顔を見せた。


「これは形見や」


 えっ!?


「ちょうど十年前にな。結婚するはずやったカノジョが失踪しよってん」

「そ……」

「俺もあいつも学生やったからな。指輪だけでええやろ言うて、これだけ先に買うた。気分だけでん、新婚さんやな。そう言って、二人でアパート出てバイトに行って。あいつだけ戻らへんかった」

「手がかりは……ないんですか?」

「あらへん。まさに蒸発や。俺も血眼になって探したし、警察もあいつの親も必死に手を尽くして探しまわったけど、痕跡すら見つからへんかった」


 センセが、どすんとビルの壁面に体を預けた。


「俺はな。そん時から時間が止まっとんね。もしあいつが死んだとか、俺以外のやつと結婚したとか、もう二度と一緒に暮らせへんて分かったんなら、ケリが付くねん。でもな。俺は宙ぶらりんのままや。その状態やと、誰の好意も受けられへん」


 あっ!


 わたしは。それで初めてアッコの行動が理解できた。そっか。アッコは野崎センセが好きやったんや。でも、野崎センセはいなくなった奥さんのことが忘れられへんから、アッコの方には向いてくれへん。どんなにアプローチしても向いてくれへん。アッコは寂しくてかなん。それで……他の男で埋めようとした。妻子持ちのオトコ。どいつもこいつも簡単にオチよるのに、なんでセンセは落ちてくれへんの?


 荒れてたのは、あのオトコに捨てられたからやない。アッコがセンセにできるアプローチが……もうどこにもなかったからや。


「センセ。さっきのキスは?」

「ああ、もうそれで諦めろって言うた。浜本がどんな風に思ってくれてん、俺はそれを受けられへんのやからしゃあないやろ」


 切ない。どうして、気持ちって言うのはこんなに噛み合へんのやろ? 誰も悪くない。誰かがいけずしとるわけやない。どっちもきれいな音や。でも重なって響くことはない。ないんや……な。


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