#8
翌朝、あまり良いとはいえない目覚めを迎えた仙堂は、着替え、いつものように一人、食堂へと足を向けていた。
正直今は食欲などというものはほとんど皆無に等しい。が、この時間を逃すと支給されないことから、無理矢理にでも腹に納めておく必要があった。
────そうでなければ誰がこんな気分の時に飯など食いたいと思うだろうか。仙堂は昨晩の出来事を思い出し、ふと、大きな溜息を口にした。
別に、組織のトップである稜家にあのような強気な発言をしてしまったことを悔いたり気に病んでいる、という訳ではない。ただ、自分がああいったことで嶺月の立場がどうにかなってしまったら─────…それだけを仙堂は酷く危惧してならなかった。
とはいえ所詮、稜家にとって自分など取るに足りない存在だ。もしかしたらそれもただの杞憂に終わるかも知れない。
(どっちにしたってもうこの先は、俺なんかがどうこうできるもんでもないしねぇ……)
朝から大勢の人間が集まっている食堂の中に何とか空いている席を見付け、とりあえずトレーの上に乗せられたパンとスープをいただくことにする。けして贅沢な朝食の風景ではないが、世界的にはこれが『そう』呼ばれるものである。
どうせあまり空気がしないのなら、あの施設にいる子供たちに分け与えた方が余程良いと思うのに。そんなことを思いながら酷く億劫そうにパンをちぎり、いつまでも飲み込むことができぬまま口を動かしていた仙堂の目の前にふと、同じようなトレーが現れる。
─────他にも空いている席はあるだろうに。幾分不機嫌そうに眉根を寄せてしまうと仙堂は下を向き、完全に目を合わさない体勢を敷いた。
「─────おはよう、仙堂くん」
と、向かい側からそうかけられた挨拶に、途端、仙堂は顔を上げてしまっていた。何故ならそれが嶺月のものであると瞬時に理解することができたからである。
みれば昨晩よりも腫れは引き、昨日の今日だというのに心なしかその表情もやわらかい。それより何より彼の方から声をかけてきたということに、仙堂は正直驚きを隠すことができなかった。
その為か、いつもなら話を振る立場にあるというのに次の言葉が何も見当たらず、そんな仙堂に対しまた嶺月の方から声をかけていた。
「……昨日は色々とごめんね。それと、ありがとう」
「え?」
「いや、昨日だけじゃない。きみが傍にいてくれたおかげで僕は、どれだけ救われてきたか分からない。───今更こんなこといって調子の良いやつだと思われるかも知れないけどさ、ホント、きみにはすごく感謝してる……」
初めはただ鬱陶しいだけの存在だった筈なのに、気が付けば誰よりも、それこそ稜家よりも傍にいた。だからこそこんな状況下にあっても自分は、何とか持ちこたえることができているような気がする。
本当に今更過ぎる言葉なのかも知れないが、これだけはしかと仙堂に伝えておきたかった。嶺月はいうと静かに食事を始め、これまた予想もしなかった感謝の言葉を耳にすることとなった仙堂は、暫しただ呆然と彼の姿を見詰めているだけだった。
「…そんなこといっちゃうと、僕の方が調子に乗りますよ?」
「良いよ、別に。度が過ぎたらまた、放置するだけのことだから」
「あ、それってちょっと酷くありません??」
「何事も限度があるってことだよ」
そうはいっていても嶺月の口元にはうっすらと笑みが姿をみせており、仙堂もつられ安堵の笑みを浮かべていた。本当はつらくて仕方がないのかも知れないが、こうして他愛のない会話の中でも笑ってくれていると至極ほっとする。できることならやはり、昨晩のような涙はあまりみたくはない。
(……稜家さんの方は『あれ』として、もうひとつの方は僕一人で何とかなってくれれば良いんだけど────…)
とりあえず後で時間を見付けてまた、施設を訪れてみることにしよう。ある意味それは賭であるが、何もしないでいるよりは幾分ましなような気がした。
「今夜か明日中に戻ってくるってさ、リーダー」
茂野が両手を血で汚したまま帰宅してから二日程経過していた。だけども茂野は未だほとんど部屋から姿を見せることはなく、先の言葉通り施設を長期間空けていることの多いリーダーがようやく帰ってくる、という報が流れているにも関わらず、皆の様子はいまいち活気に欠けたものだった。
今回は事情が事情なだけに椎名も下手に動くことができず、茂野の苦悩が嫌という程分かってしまうが為に無力すぎる己に対したまらない苛立ちを憶えずにはいられなかった。が、そこで自分まで荒れてしまっては、皆にただ迷惑や心配をかけるだけである。
だからなるべくそう考え込んだりしないよう、椎名は努めるようにしていた。─────それでもやはり当然、気は滅入るというものだ。
今日も椎名はコーヒーとパンを手に、茂野の部屋を訪れる。
「…………シゲ、いい加減腹も減っただろ?食いもん持ってきてやったから開けてくんねーかなぁ?、このドア」
そういって両手がふさがっているので、ゴンゴンッと爪先で軽くドアを蹴ってみせる。ちなみに昨日はこれを三回やって、見事に全部無反応のままだった。
(…今日もやっぱりシカト、ですかねぇ……)
思わず吐いてしまう溜息とともに、しつこく何度も蹴り続けていた時だった。ふいに目の前のドアが勢い良く開かれ、何とか椎名はその直撃から免れることができた。
そして崩れかけた体勢を持ち直し、二日振りに見る親友の姿を目を細めた。
「…ひっでー顔だなぁ?、おい。折角のハンサムが台無しじゃねーかよ」
「………………」
「とりあえず飯、食えや。それからでも話は出来んだろ…?」
あまり顔色は良くないが、自分からドアを開けたということは、少なからず気持ちの整理がついた証拠なのだろう。ベッドの上に腰かけ、椎名がパンとコーヒーを差し出すと、茂野はそれをただ黙々と口に運んだ。
どんなに大きな悩みを抱えていようとも当然腹は減るものだ。椎名は茂野の横顔を目に止め、やんわりと笑みを浮かばせた。
と、その表情に気付いてかどうか、ぽつり、と言葉が洩らされる。
「……なぁ、椎名」
「ん?」
「俺さぁ、危ないところを助けてもらったっていうのに、ミネケンのやつにまだ…『ありがとう』っていってねーんだわ」
「あ~…そりゃあ酷い話だねぇ?」
「……だよな」
「そういうのはちゃんといっとかなきゃ駄目なんじゃねーの?、『友達』としてはやっぱり」
「……だよな、あいつは俺らの『友達』だもんな」
「あぁ、そうだ。『稜家の狗』なんかな前に嶺月は、俺らの大事な『友達』だ─────…」
たとえ大勢の人が忌み嫌う殺人集団の中にいようとも、本当の嶺月がけして『そういう』人間でないことはここ最近────いや、昔と変わらずともに過ごしてきた自分たちが一番良く知っている。
きっと彼にも彼なりに譲れない『理由』があってのことに違いない。茂野はようやくそこまで思うことができていた。
「……でもさ、ミネケンのやつ赦してくれっかなぁ…。俺、結構ボコボコにやっちまったんだけど」
「なーに、大丈夫なんじゃねーの?あいつのことだからきっと、笑って赦してくれるって」
「でも相当なもんだぜ?、ホント」
「だったら一発くらいお詫びに殴らせてやったらどーよ?」
二人は暫しそんな会話を続け、久々に穏やかな時間というものを味わった。普通に笑顔を浮かべ、普通に嶺月のことを話して。────本当に、少し前までは信じられないような光景だった。
そうしてどれくらい話していたことだろう。ふと、ドアを叩く音が耳に付き、そこで二人はようやく時間というものに気が付いた。
「祐さん、あの─────…ちょっと良いですか?」
それはここが茂野の部屋だということで、少なからず気を遣っての言葉なのだろう。椎名は茂野を一瞥し、それからドアの方へと歩み寄る。
声の感じからして何か事件が起きた、という訳ではなさそうにも思えるが。
「何?、どうしたよ?」
ドアを開け、目の前に立っていた青年にそう訊ねると、彼は至極困った顔でこういった。それは椎名と茂野にとってはまさに『渡りに船』といった内容だった。
「いや、あの、仙堂さんが訪ねてこられたんですけど…入口から一歩も中に入ってきてくれないんですよぉ…」
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