#9

 枯れた大地と砕かれた鉄材でできた、小高い丘のような場所から見下ろす風景は夜ともなると光も乏しく、酷く冷たい印象を与えるものだった。

 そしてまた吹き付ける風も同じく、そこに立つ自分の身も心も知らずそうしたものに支配されて行くのを感じる。黒いコートの襟を立て、思わず悴んでしまいそうになる両手の指先に、嶺月は『はぁー…っ』と息を吹きかける。それは仄かに白く輪郭を残しては、闇夜にただ消えていた。

 ─────ここにくるのも今日で何日目になるだろう。

 それは即ち椎名たちと顔を合わさなくなった日数だ。いや、正確には合わさなくなった訳ではない。今更もう合わせる顔などなかった。どんな理由であれ、自分は友人である彼らを騙し続けていたのだ。その罪はそう簡単に償えるようなものではない。

 だからせめて、せめてこのくらいのことはしなければ。

 嶺月はふと腰裏に下げているデザートイーグルを手に取り、いつでも撃てるようトリガーに指をかける。どんなに深い闇に潜もうが、誰一人として彼らのいる施設には手を出させない。

 全神経を研ぎ澄ませ、目前に広がる景色を見詰める─────。

「…生憎だけど、きみの気配ならもう分かるようになったんだ」

 ふと、振り向くでもなしに嶺月がそういうと、背後から歩み寄ってきていた仙堂はぴたり、と足を止めていた。が、端から悟られまいとしていた訳ではない。そのまま振り返ろうともしない嶺月の背中を見詰め、仙堂は言葉を紡いだ。

「今夜もまたここで朝を迎えるつもりですか?…いい加減にしないと、組織の連中にもその内怪しまれ兼ねないですよ??」

「─────別に良いよ、それくらい。どうせ何発か殴らせてやれば満足するだろうしさ」

「だからってそこまでして貴方がするようなことじゃないですか。ぶっちゃけ椎名さんたちのことなんてもう、忘れた方が良いですよ」

 そこで暫しの沈黙が生まれてしまった理由は、僅かながらも仙堂の言葉に胸が痛んだせいだった。嶺月は一度、至極ゆっくりと瞼を閉じて行く。

「……確かにその通りかも知れないね。そうした方がきっと、祐ちゃんなんかの為にもすごく良いような気がするよ」

「……………」

「でもね、そう簡単に忘れることなんてとてもじゃないけどできそうにないんだよ。僕にとって彼らは本当に大切な『友達』だから────…。だから、二度ともう合わせる顔がなくなったとしても何らかの助けにはなっていたいんだ。…まぁ、これはただの自己満足にしか過ぎないものなんだろうけどね」

 たとえそうだとしても良いと思った。それだけで、十分だと思った。

 いうと嶺月は小さく自嘲の笑みを浮かべ、暫し自分の足元を見詰めたままでいた。─────と、背後からいきなり、仙堂のものではないと分かる足音がふたつ、自分の方へと何故か走り寄ってくるのに気が付いた。

 思わず気を抜いていたか、と慌てて後ろを振り返ると、そこには椎名と茂野の姿があって────…二人はその走り寄った勢いのままに嶺月の胸にと飛び込んだ。

 当然大の男二人にそんな真似をされてしまった嶺月は後ろへと派手に倒れ込み、それでも放そうとしない彼らの様子に何度もただ瞬きをしてしまう。

 みれば椎名も茂野もすっかり目の周りを赤くさせており、それがまた嶺月の驚きを大きくさせていた。

「…ったく!、なんでそういうことをちゃんとあの時いってくんなかったんだよ、ミネケンっ!!おまえばっか格好良いこといってんじゃねーよ、ここのバカ!」

「そうだぞ、バカ!忘れらんねーのはこっちも同じだってんだよ、バカ!『友達』なら当然分かっとけ!」

 口ではそんな暴言を吐いているが、どれだけ彼らが自分のことを思ってくれているのかは、嶺月にもしかと理解することができた。だからこそ次第に目頭が熱くなり、気が付くと自嘲の笑みではない、心からの笑みが口をついていた。

「…そんなに『バカバカ』いうなよ、バカやろう─────…っ…」

 まさか、まさかこうして皆でまた笑い合えるだなんて思ってもみなかった。見るからに嬉しそうに、まるで何事もなかったかのように笑顔を浮かべている三人の姿を目に映し、自然と仙堂もその口元にうっすらと笑みを乗せていた。

(……やっぱり『友達』っていうのは良いもんだよね、ホント)

 それが少し、いや、かなり羨ましいと思ってしまった。

「────そうそう、今夜か明日の朝にさぁ、うちのリーダーが帰ってくるんだよ」

 いつまでも表にいるのは寒いということで、一先ず施設へ戻ろうと歩き始めた道すがら、椎名はふと思い出したように嶺月へと声をかけていた。────そういえばあの施設を作り、無条件で皆を受け入れてくれたという『リーダー』の話を以前、同じように彼の口から聞いたことがある。

 何でも一人でこの荒れ地と化した日本を旅して歩き、貧困に飢え苦しんでいる人々の救済活動を行っているらしい。

「せっかくだから二人ともあの人に逢ってってくれよ。色んな意味でちょっとダイナミックな人だからびっくりするかも知んないけど…」

「いやもうホント声でけーから!」

「…………」

「違う違う!そこだけじゃねーから、そこだけじゃ!」

「……って、ことは本当にでかいんですね、声は…」

 そうこう話していると次第に施設の入口が見え始め、とはいえ、一見するとただの瓦礫の山にしか見えないが、その反対方向からゆっくりと歩いてくる男の姿がひとつ。

 その様子に気付いた途端、椎名と茂野は勢い良くその場から走り出していた。

「リーダー!」

「お疲れさんっ、リーダー!!」

 大声でそう呼ばれた男はそんな二人の姿を目にし、満面の笑みを浮かべながら大きく手を振り返していた。遅れ、嶺月と仙堂も彼らの元へとたどり着き、改めて『リーダー』と呼ばれた人物の容姿を目に映す。

 今までの人生経験によるものなのだろうか、見るからに懐が広そうな、何とも頼もしい印象を受ける顔立ちをしている。傍にいるだけで何だか明るい気持ちになってきそうだ。

「リーダー、紹介するよ。こっちが俺とシゲの友達で『嶺月建』。で、こっちが嶺月の後輩で『仙堂巧真』くん。二人とも俺らの為にさぁ、色んなことしてくれてんだわ」

 ぽんぽんっと肩を叩かれながら椎名に紹介された嶺月は至極困った風に眉尻を下げ、それでもとりあえず会釈をし、まっすぐに彼を見詰めいう。

「どうも初めまして、嶺月です」

「あ、同じく仙堂です」

「───────…」

「…あれ?どうしちゃったの?、リーダー」

 二人から改めて自己紹介をされたというのにまるで聞こえていないかのように嶺月の顔をただじっと凝視したままでいる彼の目の前で、茂野は軽く手を振ってみせた。すると、はっと我に返り、再び満面の笑みを浮かばせる。

「いやぁ、悪い悪い!俺の名前は森野幸広。皆が世話になったみたいでありがとうっ!!」

 いって嶺月と仙堂の手を取り、感謝の意を示すべく厚い握手を交わしてくる。先に聞いていた通りの大声と豪快な動作に、二人はただ『はぁ…、』と答えることしかできなかった。

 そうして一通りの自己紹介が終わった皆が、そのまま施設に向かおうと思った矢先のことだった。元きた道の先から、酷く無機質な声が発せられる。


「─────まさか『こんな』ところで再会できるとは思ってもみなかったねぇ?、『森野』」


その言葉に途端、振り向いたのは、名前を呼ばれた当の本人と嶺月、仙堂の三人だけだった。それは、声の主が誰であるか、瞬時に理解できてしまったからである。

 闇夜を思わせるような黒い衣服を身に纏い、静かな、だけども酷く冷血な眼差しでこちらを見遣る男が一人───────…。

「……『稜家、道隆』……っ……!!」

 森野がそう呟くと、椎名も茂野も酷く驚いた風に声のする方を見詰めた。話にだけは嫌という程聞いていた人物が、まさか今自分たちの目の前に立つ『この男』であるだとは。

 なのに何故、沸き起こる憎悪そのままに殴りかかることもできずにいるのだろう。─────いや、それ程までに稜家が発していると思われる威圧感というものが強大過ぎたのだ。ただそこに立っているだけなのに、普通に息が紡げない。嫌な汗が次から次へと溢れ出し、気が付くと椎名と茂野の額や掌は尋常でない程濡れていた。

 そんな二人の様子を察し、庇うかのように嶺月は一歩、彼らの前に出る。

「どうして────…どうして貴方が『ここ』に…?」

 少なからず動揺はあるものの、皆に比べればそう大したことではない。嶺月がそう問うと、稜家はにこり、といつものように笑みを浮かばせた。

「『どうして』ってもちろん、建ちゃんのことが心配だったからに決まってるじゃないの。最近元気もなかったし、だからこっそりきみの後をつけてきた訳なんだけど────…まさか、こんな収穫があるとはね、『森野』」

「……………………」

「おまえに逢えて本当に嬉しいよ、俺は」

 その会話だけでも稜家と森野の間に何かしらの関係があったことなど、皆が皆察するのは当然だった。だからこそ至極訝しそうに見てしまう椎名と茂野の視線に気が付いて、森野はひとつ、大きな溜息を吐き出した。今更もう、隠し通せるものでもない。

「────俺は昔、あの人の組織にいたんだよ」

「!!」

「世界がこんな風になる前から彼とは知人でね。だからそのままの流れで俺は何年か世話になったんだ。────でも、『あの日』から開発を進めていたプログラムの内容が『全人類の抹消』だと知った時、俺はそのデータのすべてを破壊して組織から逃げたんだ。…あの人は変わってしまったよ。昔はこんな、平気で人を殺せるような人間なんかじゃなかったっていうのに────…」

 昔はそう、科学者であった『彼女』とともに世界平和を願う、心の優しい人だった。だけどもその世界が壊れてしまった時、彼もまた同じように壊れてしまった。それはもう、誰にも修復することなどできないくらいに。

 森野は押し寄せる悲痛な思いに眉を顰め、ふいに嶺月の方を見遣る。先程顔に見覚えがあったのはやはり、間違いなどではなかった。

「…きみも駒のひとつとして拾われただけに過ぎない子供なんだよ、嶺月くん。自分にとって従順な駒を作るには幼い頃から教え込むのが一番だ。その上、きみにはあの人の他に誰も頼れる者がいなかっただろう?…それも最高の条件といえる訳だよ」

「……な…っ…」

「初めからきみはただ良いように利用されていただけなんだ。だからもう、あの人の為にその手を汚す必要なんか何もない」

 改めて森野の口から語られた己の真実に、当の嶺月だけでなく皆もただ愕然とその目を大きく見開いてしまう。

 特に仙堂は、以前稜家から返された『嶺月も組織の人間の一人』という答えの訳にたどり着き、たまらず両の手を握り込む。

「……それって本当なのかよ?、あんた…っ…」

 ふと、訪れた沈黙の中に椎名の声が響く。

 みれば彼の両手もまた強く握り込まれ、怒りを露わにさせながら稜家へと向かって言葉を吐き付ける。

「嶺月はなぁ、俺らから見れば最低なあんたを『自分の命よりも大切な人』だっていってたんだ!ホントはあいつだって最低だって分かってる筈なのに、それでもそうだっていってんだ!なのにただの駒扱いか?!あんた、人のこと何だと思ってやがんだよ…っ!!」

 そのせいでどれだけ嶺月が陰で疵付いているかも知らないくせに。そう思うととにかく頭にきて仕方がなかった。

 稜家はそんな椎名の言葉に眉ひとつ動かすことはなく、が、ふいに小さく笑うと言葉を口にした。

「─────仕方ないだろう?、俺には『やるべきこと』があるんだからさ」

 まるで悪びれる風もなく言い放つその姿が憎らしい。

「…あんたの勝手で『そんなこと』やられてたまっかよ…っ!」

 尚も挑んでくる椎名の姿勢に稜家はまた、今度は声を出して笑ってしまう。

 一体何が可笑しいというのか、皆の間に妙な緊張感が広まる。

「『あんたの勝手』?────何も勝手なことじゃない。どうせもとより政府の人間は『それ』を望んでいたんだ。遅かれ早かれこの世はそうなる運命なんだよ」

「…『政府の人間が、望んでいた』…?」

「あぁ、おまえは知らなかったのかい?、森野。俺の彼女は政府の連中に脅されて、人工的に巨大な衝撃波を生み出す兵器を開発させられていたんだよ。それを使って全世界を絶望へと導き、自分たちがその主導権を握ろうと企てた。────でも、彼女は完成間近になってやはり抵抗を試みた。その結果、無残にも彼女は殺され、開発を引き継いだ無能な連中たちの手によって齎されたのが例の『あの日』だ。誰よりも平和を願っていた彼女が死に、どうしてまだその世界が生きている…?どう考えてもそれは可笑しなことだ。本来ならば政府の人間以外は皆、死に絶える運命だったんだからな。だから、俺がその運命を『必然』に変えてやるだけだ─────…!」

 それだけが残された自分にできる、最後の餞だ。その為ならばどんな汚名も罵声も、手段も何も厭わない。

まさか『あの日』の背景にそのような出来事があったなどまるで知る由もなかった森野は、だからこそ稜家は変わらざるを得なかったのかということを今更ながら痛烈に納得させられたような気がした。本当に、言葉などではとても言い表せはしない程、稜家にとって彼女はかけがえのない存在だったのだ。

でも、だからといってその行為を許してしまう訳にはいかない。そんな激しい葛藤が森野の言葉を封じ込め、再び訪れた沈黙に稜家はふと、椎名の方へと目を向ける。

「きみはさぁ、建ちゃんの『友達』なんだよねぇ?」

「…あぁ?!、それがどうしたよ!」

 問われ、思わず噛み付くと、稜家は笑顔でこういった。


「─────悪いけど目障りだから、『死んで』?」


瞬間、懐から抜き取られた拳銃に、嶺月もまた自身の拳銃を素早く手に掲げる。それはほど同時、といったところか。

 まさか嶺月にそのような真似をされるとは思ってもみなかった稜家は、引けなかったトリガーへと指をかけたまま少し困った風に笑った。

「駄目じゃないの建ちゃん。俺の邪魔、しないでくれるかなぁ?」

「─────嫌です、僕は退きません…っ」

「もしかしてアレ?、自分が『駒のひとつ』程度にしか思われてなかったって知っていうこと聞く気もなくなった??ま、それも仕方ないよねぇ。きみが腹を立てるのももっともだ」

 誰であろうと身近な者に裏切られた、となれば、そうなってしまうのも無理はない。然してそう気にも留めてない風な言い方をみせる稜家に対し、嶺月もまた銃を掲げたままでいう。それは、周りで聞いていた皆の胸にもせつに迫るものだった。

「…別に僕は『そんなこと』で腹を立てたりなんかしませんよ。だって、そうだとしても貴方の傍にいることを望んでいたのは他でもない、僕自身だったんですから。────でも、どうしていってくれなかったんですか?どうして、どうしてそんな風に苦しんでいることを僕にいってくれなかったんですか?!たとえ『駒のひとつ』でも、僕はずっと…っ…ずっと稜家さんの傍にいたじゃないですか────それとも傍にいるだけじゃやっぱり、何の役にも立てていませんでしたか?僕じゃ……僕なんかじゃやっぱり駄目でしたか?、稜家さん─────…っ…」

 感情のままにそう言葉を吐き出しながら嶺月は、気が付くと頬に涙を伝わせ泣いていた。それはどうしても止めることができなくて、後から後から零れ落ちて行く。

 大きく肩を震わせ、だけども稜家へと向けた銃口を一向に下ろそうとはしない彼の後る姿は、見ている椎名の心まで強く締め付ける。それでも何もできずにいるのは、自分などが今出ていく幕ではないと本能的に気付いていたからだと思う。

 そうして再び生まれた沈黙の中、稜家は一歩、また一歩と足を進ませる。その顔に感情などというものはまるで存在しないかのようだった。

 静かに銃口を掲げ、目の前に見える嶺月の額へとそれを突き付ける。

「────そろそろ本当に退いてくれないと、代わりに俺はきみを殺すことになるよ…?」

 それは即ち、自分の言葉など何ひとつ届きはしなかった、ということか。いや、初めからそんな期待など嶺月はしていない。自分にとって『彼が何を思うか』ではなく、『彼の為に何を思うか』がすべてだったから。

 だけどもそんな稜家の本気としか思えない言葉に、今まで黙って見ていることしかできなかった仙堂がすかさず銃を構える。

「……嶺月さんを殺したら、俺が貴方を殺します…っ…!」

 まるで睨み殺すかのように凄まれ、それでも稜家は特に何の抑揚もみせることはなかった。ただ、目の前に立つ嶺月を見詰め、次の返答を待っている。

 ────が、答えなどとうに分かりきっていた。嶺月は何があろうとも後ろに立つ友人を見殺しになどできる訳がない。つまりは彼もその引き金を引く以外に選択肢はないのだ。

 稜家はそう、思っていた。きっと、そうするだろうと思っていた。しかし、嶺月から返ってきた言葉は、まったくといって良い程予想外なものだった。

「……代わりに僕が死ねば、『彼は殺さない』と誓ってくれますか?」

「!」

「稜家さんがそう誓ってくれるなら、僕はそれで良いです。『あの日』、失いかけた僕の命を救ってくれたのは貴方だから。だから、その貴方が撃つなら僕はそれで良いです─────…」

 その言葉はけして、何かを思い留まらせようと考えて紡がれたものなどではなかった。それを証拠に覗いた嶺月の目には何の迷いも見当たらず、ふいに彼は拳銃を下ろしゆっくりとその瞼を閉じると、口元にうっすらと笑みすら乗せていた。

 嶺月はきっと、答えずとも稜家がその約束を守ると信じて疑わずにいるのだろう。そしてその穏やかな笑みは、そうすることで彼が満足してくれればいいと心の底から思っているからこそのものなのだろう。

 何故、真実を知った今でもそうして信じることができてしまうのか。

「────っとに。こういう時にでもならないと気が付けないものかねぇ?、人間っていうやつは…」

 皆が皆固唾を飲んで見守る中、稜家はぽつり、と独り言のように零すと、目の前に立つ嶺月の体をただ強く抱き締めていた。

「…………稜家、…さん…?」

 まさかそんなことをされるだなどとは思わずに、嶺月はそう驚きに満ちた声を上げてしまう。それでも稜家は腕の力を弛めることはなく、彼にと向かってこういった。

「……今までずっと、何もいわないでいてごめんね」

 そうだ、嶺月だけはずっと自分のことを裏切らず、常に傍にいてくれた。もちろん、何の役にも立ってないことなどある訳がない。少なからず彼が傍にいてくれたおかげで救われていた部分もあったのだ。

 そんな、分かって当然のことを何故、今の今まで見落としてしまっていたのだろう。そんな稜家の言葉に嶺月は再び目尻にと涙を滲ませ、酷く子供じみているとは思ったが、稜家の胸にただしがみ付いて泣いていた。先程のように頬に伝わせるだけではなく、小さく嗚咽まで洩らしてしまいながら。

 稜家はその嶺月の髪を暫し優しい面持ちで撫で続けていたが────ふいに射殺すかのような眼差しを皆の方へと向かわせる。その脅威は途端、その場にいた全員の足を竦ませ、まるで金縛りにでもあってしまったかのような感覚にまた、嫌な汗が浮かんでくるのが分かった。

「このままきみら全員を殺してしまいたい気分だが────…嶺月に感謝するんだな。今日は見逃してやることにするよ」

 いって稜家は次に仙堂へと目を向ける。

「…分かってるとは思うけど、戻ってきたら命はないからな?どこでも、好きに行くと良い」

「!」

「あぁ、でも勘違いはするなよ?俺は別に『善い人』になった訳じゃない。いずれまたきみらの命を奪いにくるかも知れないよ?───特に森野、きみはこの先も十分注意して生きた方が良い」

 とりあえず、とりあえず今は大人しく退散してやるだけのことだ。

 最後ににこり、と笑みを浮かばせ、稜家は未だしがみ付きながら泣いている嶺月の肩にと手をかける。何もいわずとも嶺月には稜家のいいたいことが分かったような気がした。

 だから手の甲で涙を拭い取り、大きくただ頷いてみせる。そして背を向け歩き出す稜家の後を行くように、その場から一歩、足を進ませた。

「────嶺月ぃ…っ!!」

 途端、大声を張り上げていたのは椎名だった。

 だけども振り向いた先に見えたのは彼だけではない、酷く心配そうな面持ちをした皆の姿だった。

 嶺月はそんな彼らの様子に目を細め、至極困った風に笑う。自分にとってどちらも大切であることに相違はなかったが、やはり、『そちら側』には行けない。

「……皆、ごめんね。それと、今までありがとう─────…」

 それは、紛うことなく別れの挨拶だった。

 嶺月はそれだけいうと先を行く稜家の背を追いかけるように走り出し、その場に残された四人はただ黙って見送ることしかできなかった。何の迷いもなく彼は稜家に着いて行くことを決めたのだ。だとしたら椎名たちにはもういえることなど何もない。

 だけどもどうしようもない、様々な想いが椎名と茂野、そして仙堂の胸をたまらなく痛くさせて行く。ただ救いなのは最後に嶺月が、困った風であろうとも笑ってくれていたことか。

「…なにが『ごめん』だよ、バカ。おまえが謝ることなんて、何もねーじゃねーかよ…っ…」






 どこまでも続く闇夜の中を、どれくらいもう歩き続けてきただろう。とうに施設の入口も見えず、ザクッザクッ、と渇いた大地を踏み歩くふたつの足音だけが耳につく。

 こうして、稜家と二人だけで道を行くのはいつの頃振りになるのか。その頃は追いかけても中々追い付けぬ彼の背中にただ、必死になって着いて行こうとしていたような気がする。

 でも今はもう、そんなに遠く感じることもない。歩幅もそう、大して変わらない。嶺月は時折重なり合う足音に思わず笑みを浮かべ、稜家の後を着いて行く。


「─────本当に『これ』で良かったの?、建ちゃんは」


 ふと、長いこと沈黙を続けていた稜家が、その歩みを止めることもなく唐突にそう問うてきた。

「今ならまだ、彼らのもとに戻ることだってできるよ?…そんなわざわざ俺に気を遣う必要なんて何もないんだからね」

 無理をしてまでいつまでも自分の傍にいることはない。嶺月自身が望むならもう、どこへ行こうと自由なのだから。

 だけども嶺月の意志は変わらない。

「先程もいったじゃないですか、稜家さんの傍にいることを望んでいたのは僕自身なんですと。だから、貴方が僕を必要としなくなる『その日』までずっと、そのことを赦してくれれば幸いです」

 笑みまで含んでいるのが分かる、至極穏やかな声色。稜家はふと、その足を止めると、ゆっくりと後ろを振り返る。

「俺はきっとこの先もきみに嫌な思いをたくさんさせてしまうと思う。それでも、それでも『赦された』とかじゃなくて、建ちゃんだけはずっと変わらず俺の傍にいてくれるかい……?」

 いってまっすぐに差し出されたその手はもう、けして頼るだけの手などではない。ようやく聞くことができた稜家の願いに嶺月は改めて笑みを浮かべ、ただ大きく頷いた。

 この世のすべての人間がどれだけ稜家を非難しようとも、自分だけはけして『そういう』者にはならないと誓う。


 繋ぎ合った手のぬくもりはいつまでも消えることはなく、そうして二人はまた静かに歩き始めるのだった───────…。


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