第5話
『15―30……!』
天さんの声でより実感する。
得点した。俺は得点したのだ。
クソみたいな得点だ。
あっさりとこんなしょぼい球で、相手がグダグダしたおかげで得た点。
ワンプレーが始まれば、確実にどちらかが得点するテニスという競技では、命懸けの超必殺技で劇的な点を得ることもあれば、こんなクソみたいな点もある。そしてどちらも数字の上では同じ価値だ。
なにはともあれスリープレ―目にして初得点だ。
15―30。つまり1対2。なんでこんな数え方なのかは知らないが要するに1対2。
たぶんネットで検索すれば出てくるし、テニスを始めた頃から気になっていたが、面倒くさくて一度も検索していない。そんなこんなでいつの間にか優勝して、しかもテニスを辞めていた。
あと3回得点すれば勝ちだ。
俺は次二郎の様子を窺う。
「……まっマグレだ!」
髪を逆立て、血管を浮かせ、次二郎は唸る。
こいつに黒蹄の今後は任せられないな、と思いながら俺は次のサーブを打つために逆クロスの位置に立つ。
互いが自分のコートの左側に立つことで対角線上に並ぶ逆クロスの位置。
ならば必然的に最も警戒すべきは次二郎によるストレートコースのレシーブだ。
ストレートコースというのは長細いコート全体に対して平行に打つコースであり、ネットには垂直、つまり真っすぐ前に打つという事である。
そうなった場合、次二郎にとって最短距離でコートの奥に打ちこめることが出来る。
さらに俺にとってコートの右淵にボールが来る事になり、遠い位置で、しかも左手でラケットを持つ俺にとってかなり厳しい。
何故なら、よほどの事が無い限り、『バック』というフォームで打つ事になる。
さすがに体の後方に飛ばすようなフォームになるバックハンドストロークを左腕ではキレイに打つ自信がない。力が入れ辛い。
もちろんこれらを警戒して、始めから右側へ走るという戦法もある。
早めに走り出して、追いつき回りこんでフォアハンドストロークを打つという手だ。
だが、そんなのはバレたら最後、反対に俺の今いる位置であるコート左側に打たれるだけ。
俺は急な方向転換をするハメになるが、そうなればまず体勢は崩れるだろう。
まとめると、一方的に俺の行動選択権が向こうにあるジャンケンである。本来俺のサーブがもっと威力があれば、こちらも有利なジャンケンになるのだが……。
「なんてな」
俺は小さくつぶやいた。
俺は不必要なまでにクヨクヨしすぎているのだ。
俺は優しくされたくて、弱そうに振る舞ったり、悩んでみたりすることがある。無意味に。
でも本当は次二郎がどこに打ってくるのかなんてわかっているのだ。
俺はサーブを打つ。
「マグレだ! マグレだマグレだ!」
次二郎は俺のしょぼいサーブを打つためにコートの前面に詰める。伸びあがるようにしてレシーブを放った。
俺の方へ。
そりゃそうだ。次二郎のあのプライドが許さない。
そしてマグレの可能性が非常に高いあの状況。
次二郎は、俺が速球をロブで返して得点したことは単なるマグレで、触ることすら難しいド素人だと考えている。
マグレの可能性が高いものにビビって、自らの選択肢を狭めるほど愚かなことはない。
だから、さっきの得点が確実にマグレであることを検証して、安心したいんだ。
その検証をわざわざ行うことは、まあ、リード中なら決して完全に悪い選択と言えなくもない。
後で監督に問い詰められたら一応言い訳はできる。
短い点数で勝負の決まる試合においてはあんまり意味ないけど。
要するにバカなのだ。しかしこんな相手もまた中学時代には沢山いた。
でもな次二郎、
「マグレだマグレだマグレだ!」
そんなにしゃべりながらでは、打てるもんも打てまいて。
予想通り俺の左側にきたボールの威力はさっきより低い。
理由はしゃべりながらということもあるがそれだけではない。
逆クロスという互いが左側に立つ位置関係上、右利きの次二郎は、野球で言うところの流し打ちになるからだ。
そして俺はマグレでないことの証明、ロブを再び打ちあげる。
俺はお前の球なんて打ち返せるんだよ! という感じで。
方向としては長細いコート全体に対して平行へ。
張られたネットに対して垂直の方向だ。
俺にとっては最短で最奥の方向。
俺から見て、右手前に立つ次二郎にとっては、もっとも離れた位置。
ストレートコースのロブだ。
そして次二郎は追いつけない。
はい、俺の点。
『30―30』
並んだ。2対2。互いにあと2点連続で取ってしまえば勝利だ。
互いが3点以上取ってしまうと、今度は2点以上引き離すまでそのゲームは続いてしまう。
長期戦を避ける為には、ここでちゃっちゃと2点連続で獲得しておきたい。それは誰しも思うことだろう。
次二郎が震えている。三白眼をより強いものにして。
それも仕方がない。勢いが違う。
先に2点を取られながらも、その中でわずかなチャンスを見つけ出し、ついに追いついた者と、圧倒的有利でいながらよくわからない内に追いつかれた者。
同じ得点でありながら、その心境は全く違うと言っていい。
これだから逆転は楽しい。
「だってよ……仕方ねえだろ……!」
次二郎が何か言っている。
「だってよ……、あんなしょぼサーブしか打てねえんなら、前に、ネット際に行くしかねえだろ……。強力なレシーブを打つ立派なチャンスじゃねえか……。それなのにあんなキレイなロブを上げられたら届かねえだろ……! どう『攻略』すりゃあいいんだよ……! アニキ……!」
天さんは何も答えない。
天さんは立派だ。それに引き換え、なんだこのアホな弟は。黒蹄家から追放でいいだろ。
いくつか間違えている。
コートでは誰でも一人一人きりだ。たとえどんなに頼れる兄であっても頼ってはいけない。
一人一人きり、とは対戦相手も含めてだ。相手は別の人間、として考えるよりも先ず、自分、正確には自分を映す鏡なのである。
相手の事は自分を映す鏡として考えなければならない、ということはつまり『攻略』ではない。
俺はあからさまに、3球目からのサーブはさらに弱く打った。
せっかく自分が、コートの前まで、ネット際まで走ら『されている』、と気づいたのなら相応の戦い方があるというのに。
にも関わらずこのザマだ。
本当にダメな弟のようだ。
まあ、自分としては相手が混乱してくれているのは都合がいい。
気が変わらない内にとっととプレーを始めてしまおう。
俺はサーブの構えに入る。次二郎は口を閉めずにポジションに着く。
気合い入れろ。
今度はクロスの位置について俺はサーブを打った。
次二郎が構える。
その構えを見て、ああ、本当に次二郎は混乱してるんだなあ、と俺は思った。
次二郎は、体を丸めるようにし、小さくラケットを振りかぶっている。
カットの構え。この場合はドロップを打とうとしているのだ。一目でわかった。
ドロップというのは、相手のネット際にストン、と威力を殺した短い球を打つ技。
強く打ってロブが返されるなら、弱い球を打とう、という発想なのだろう。
そりゃね、キレイなドロップですよ。クオリティの高いドロップだよ。
俺の打つような弱いサーブというのは、それを打つレシーブ側にとっては制御がし易い。
だから、さっきまでのような強力なレシーブを打つ事も簡単だし、ドロップのような威力を殺した球も簡単に打てる。
で、そのドロップがどうした?
だいたいドロップってのは選手同士が強力なラリー、乱打になってる時に有効なんだよ。
互いがコートの外側に立ってまで強力な球をぶつけあってる時に、ポン! とそんなクオリティのドロップがくれば、確かに誰も追いつけないよ。
だって、弱いってことは、遅いけど短いってことだから。遅い割に滞空時間は同じぐらいだしね。
きちんとした状況でやれば、人間の足で追いつくことは無理だよ。
でも、今俺ベースラインにいるよ?
クソ弱いサーブしか打たないから、ラケットは振り抜いてない分、もう次に対応できる構えに入ってるよ?
お前がどんなレシーブ打つかじっくり見てるよ?
はい、絶対に追いつける。
しかも、ドロップの利点には走りながら、走った時の勢いが生きている状態ではドロップを繰り出す事が出来ない、というところにある。
つまり通常、ドロップを打った側は、相手が走ってそれに追いついたとしても自分がドロップを打たれる心配はない。相手は走っているから、それなりの勢いが生まれてしまう。
だから強力なラリー中においてこそ有効なのだ。追いつかれても、そのポジションの近くにまたボールがくる。次に繋がる。
でもお前、今、前にいるよな?
俺がドロップ打てない利点、ゼロだよな?
しかも前に詰めるって言ってもサービスコートっていう中途半端な位置だよな?
ボレーも出来ないよな?
どうすんの?
俺は次二郎の繰り出したドロップに追いつき打つ構えをする。
次二郎の驚いた顔が一瞬視野に入った。バカが。
どうせ俺が追いつけないとでも思ったんだろ。
予想は容易だし、見てからでも十分追いつけるわ。
俺はその、弱いドロップを小突いた。次二郎のいない右側へ。
威力は要らない。
次二郎は足を素早く動かし、それ以上の力で体を伸ばす……、が届かない。
はい、俺の得点。40―30。
「だああああああああああああああ! でえあああああああ!」
次二郎がどこにぶつけていいかわからない感情を爆発させている。
自分にぶつけていいんだぞ。
……どうしよもねえな、コイツは。
「いいですか? 次二郎さん」
気づいたら俺は口を開いていた。
「アンタの本当の敗因は一撃で決めようとしたところにある」
次二郎は黙って聞く。
黙って聞くが、その表情はみるみる力が入っていく。
そりゃそうか。まだ負けてないのに敗因なんて言葉使っちゃダメか。
「次二郎さんは自分の敗因がどこにあるか、どう考えていた?
まず俺の防御力が意外と高かったという事実が発覚した。
それに対してアンタはどう考えた?
意外と防御力の高い俺にボールが捉えられたのはまだまだ球の速さが足りないから、とか、まだまだコースが甘いから、とかか?
そして、自分はこれ以上速くて鋭い球なんか打てない。
つまり相手である俺の防御力を超える攻撃は出来ない、と考え始め絶望しかけていたな?
特に俺の打つヘロヘロサーブは練習でも見たことないような『絶好球』、つまりチャンスボールだ。
そのチャンスボールを全力で打ち返しても、俺を打ち崩せないという状況は、まあ確かに絶望的かもしれない。
でもな、ホントの原因はそんなところにはない。
球の威力が弱いから負けたんじゃない。チャンスボールとあらばすぐさま決めにかかるその、なんていうか『性格』が問題だ」
性格て……。自分で言ってなんだが、他にいい表現方法はなかったものかね。
あああ、次二郎がどんどんイライラしていく。ギリギリ音が鳴っている。
「チャンスボールを打つ『決め球』であっても、細心の注意が必要だ。
『決め球』を打つにはその状況も考慮に入れなければならない。
その点、サービス側の俺は割とどこに球が来てもいいようなポジションについている。
対してレシーブ側はコートの隅に着いている。弱いサーブを打ち返すためにな。
これは、あまり『決め球』の打っていい状況じゃあない。
たとえどんなチャンスボールであっても。ホラ、野球で打順とかあるだろ? 今の次二郎さん、一番バッターから全員がホームラン狙う感じ? になってるわけよ。
まあ特にテニスは防御の事も考え必要があるからね。ああ、だからピッチャーの九番バッターが盗塁しまくる感じにも似てるのか? とにかく段取りに注意しないとダメなんだよ。
つまり、あのヘロヘロサーブを打たれた時、次二郎さんがすべき最も有効な手段はちょっと走らせる位置にゆったりとしたレシーブを打つ事だったんだよ。
そうしたゆったりとしたレシーブを打つことでまず、その『前面片側』という自分の最悪のポジションから調整していくことだったんだ。自分自分自分。
まず自分の状況を考えないと勝てる者も勝てない。
相手より自分、自分が全体の中で、どういう立ち位置にいるのか。
全体がどうあると自分がよりよい行動ができるのか。
自分がどう行動すればよりよい全体になるのか。
それを考えないと。『相手を攻略』なんてのはずっと先の話だよ。わかった?」
言いまくった。気持ちいい。
良い事をした後というのは大変気持ちがいいものだ。
俺のこの行為は良い事だ。だって試合中の相手にヒントを与えまくったのだ。
それもこの場しのぎの助言ではない。
今後もテニスをやっていく上で重要な助言だ。
いや、そもそも段取りが必要、なんてのは人生の多くの部分であてはまるだろう。俺は次二郎の人生に関わる助言をしたのである
「うっせえ! 早く打て!」
次二郎が俺にサーブを打つよう促す。
きっと俺の助言を受け、新たな可能性を見出し、それを試してみたくなったのかもしれない。
現在40―30。後一点とれば俺の勝ちか。
俺は例の通り、ゆっくりとしたヘロヘロのサーブを打った。ポスンというこの音にも愛着が湧きつつある。
「っおおおおおッラア!」
次二郎は俺の助言などどこ吹く風で、今までにない程強烈なレシーブをお見舞いしてきた。
「コイツ! まだこんな力を残してやがったのか!」
なんてことは言わず、必死でその強烈なレシーブを捉える。
今までで一番簡単に捉える。
俺が打った球が浮かび上がった。ゆっくりとゆっくりと。
それを確認し、次二郎は言った。
「俺は認めねえ! 認めねえぞ! こんなのはテニスじゃねえ!
こんなクソつまんねえのはテニスじゃねえ! テニスってのは、いやスポーツってのは今の時代、見世物なんだ!
見世物じゃなきゃなんねえんだ! それを、何の技もない、迫力もない、真っ向からの勝負でもない、そんな戦い方で俺から勝利を奪っていくんじゃねえ!
実力は完全に俺のが上なんだ! それで勝っても喜ぶのはお前だけだ! そんなんが認められていいわけねえ!」
次二郎のコートでボールが一度跳ねる。
一度跳ねた球は、再び空を彷徨う。
「いいぜ……。その思想。かつての俺、最強だった頃の俺にそっくりだ……。アンタはもっと強くなる」
実は知っていた。
このプレーで、次二郎がどう打つかなんてのは。
正確には狙ったと言った方が正しいのかもしれない。
次二郎は最初と同じように、助言を無視して俺に向かって打ってきた。
だってそうだろ。
自分が敵に喧嘩吹っ掛けて、
その敵が予想以上に弱くて、
でもなんか知らない内に追い詰められてて、
めちゃくちゃ焦って、
そんな中、その敵から発せられた、
嘘か本当かわからない助言、 挑発混じりの腹の立つ助言、
それを素直に信じて、素直に従う。
……なんて真似、恥ずかしくて屈辱的な真似ができるわけない。
それに耐えられるヘタレが、この学校で新しい部活に挑戦できるわけない。
恐らく、あのままプレーしていたら、混乱した次二郎はテキトーなしょぼい球を繰り出していただろう。
それではマズイ。
俺が次二郎に言った事は事実だ。
だからもし、しょぼい球を打たれていたら、確実に乱打戦に持ち込まれ、左手の俺は為す術がなかっただろう。
いやー、助かった。
再びボールが跳ねる。
2バウンド目。
40―30の3対2で迎えたシックスプレー。そこで、俺の放った打球が2バウンドした。
俺の、勝ちだ。
続く
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