第4話

「あのな、次二郎。今日は入学式だし、仮入部ですらない、見学なんだ。他の生徒も見学に来るだろう。

そんな中、一年生が野良試合してたらどう思う? ここの学生は特に衝突や刺激を避ける傾向にあるんだぞ?」


 そう言いながら、天さんはボールを二つ俺に渡してきた。そう思うと今度は次二郎へ振り返ってこの一言。


「だから、1ゲームだけだぞ」

「十分よ!」


 兄弟二人だけでこの野良試合に関する交渉は終わった。

 結局、天さんも俺のお手並みを拝見したいのだろう。こんなことならもう少し筋肉は落とすべきだったか。


「あの、制服のままでいいんですか? シューズも履いてないですよ」

「ああ、気にしないよ。ラケットは私のを貸そう」


 ……さてどうするか。

 蛭女は素人の無責任な発想で俺に左手を使うようアドバイスした。しかも俺を放り出した後は沈黙を守っている。

 恨めしそうに、そして少しだけ救済を期待して蛭女へと視線を向けた。そこにはあのチャラい先輩とそこそこのテンポで話している。

 楽しそうだ。なんだこの気持ち。腹が立つ。まさか蛭女に嫉妬するとは。

 ちなみにここでの嫉妬心は、意中の相手が他の男と楽しそうにしていることから来る、いわゆるヤキモチ的な嫉妬心ではない。


 どちらかと言うと、

「おい! 俺がこんな大変な目に合ってんのに、よくもぬけぬけと楽しそうにしてられんなあ!」

 という感情から来る嫉妬心だ。


 つまりこれは、「俺が浮気を我慢してんのに、お前だけ浮気しやがって、ズルイぞ!」という嫉妬だ。

 俺の予想では世の中の束縛過剰な男は全てこれに当てはまる。

 本人は自覚していない。無意識だ。


 人の行動の多くは無意識によって動かされている。


「ご、ごめん! 頑張って! 王ちゃん!」

「そうだよ! 頑張って! 王ちゃん!」


 俺の叫びにビクつきながら蛭女が応えた。

 その次にあのチャラい奴が、蛭女を真似て何か言っている。

 うっぜええ! もうこれあれだ。あの二人で完全に俺をおちょくっている。俺をネタに盛り上がっている。


「あのさー、もういいから、始めようぜ? 王ちゃん」


 次二郎が肩にラケットをトントンと当てて気だるそうに言った。

 時間稼ぎも限界らしい。


 その様子を見た天さんが今日一番の声を張り上げる。


「1ゲームマッチ――」


 いよいよ試合開始か。


 といっても1ゲームだ。1ゲームということはたった四ポイントを先取すれば勝ちということである。

 短くて、かつ実力を計るには丁度良い長さと言えるかもしれない。

 さらに1ゲームということはずっと俺がサーブを打てるということになる。これはゲストたる俺へのハンデと言えるだろう。


 だが、サーブ権を貰って嬉しいのは、サーブの上手い実力のある選手だけである。残念ながら、今の俺にそんなサーブは打てない

 もうコレは負けてもいいだろう。ひどいぐらいに負けて、三年間肩身の狭い思いをすればいい。それだけで済む話なのだ。


「――プレイ!」


 試合が始まってしまった。


 俺は次二郎の立ち位置を確認し、限りなくコートの中央にポジションを合わせ、制服の擦れる音を気にすることなく、右手に乗せたボールを高くトスした。


 ルールの話。テニスのサーブというのは打つ場所が決まっている。

 ポイント毎に変更されるポジションから相手コートの対角線側、それも前半分。

 名前としては『サービスコート』というが、その狭い部分に入れる、バウンドさせることによって初めてサーブと判定される。

 なお、サーブが入り、ラリーが始まれば、バックコートを含めたコート全体を使って打ち合うことが出来る。走れ走れ。


 ちなみにワンプレー目の現在は『クロス』という位置関係。サーバーとレシーバーのお互いが、自分のコートの右側に立っている。今後はお互いが自分のコートの左側に立つ『逆クロス』と『クロス』を交互に繰り返す。


 戦略の話。打つ場所が決まっているということは、つまり相手にコースが読まれ易い。だからその範囲内で限界ギリギリの鋭いコースを狙い、かつ捉えきれない速度を出さなければ良いサーブとは言えない。だからこそプロでも外すことがあるのだ。


 はたして左手の俺にそんなことができるのだろうか。


 そんな事を考えながら、ボールを目で追う。ふわりと俺の上へ放たれたボールが今度は徐々に俺の手へと戻ってこようとしている。良いトスだ。それを、俺のベストな高さで打つ!


「! マジかよ……」


 最初に風を切る音が聞こえた。

 その次に次二郎が驚きの声を上げた。無理もない。

 俺は空ぶったのだ。自分であげたトスを。


 しらけた空気が気持ちいい。対峙する次二郎以外は誰も何も言わない。


 俺も顔色一つ変えずに構えを変える。下から打つタイプのサーブに切り替えるのだ。

 サーブは一回だけなら失敗してもフォルトと言って失点にはならない。

 フォルトを二回やった時にダブルフォルトとして失点になる。


 つまり次失敗すると失点だ。危ない。


 本当の事を言えば確かに顔色は変えていないが、頭は混乱している。

 自分の運動神経、特に体幹の安定性には自信がある。

 いくら左手に慣れていないとしても、空ぶることがあるのだろうか。いや、この自信は勘違いだったのか。

 俺は体幹が弱いのだろうか。

 そもそも俺は本当にテニスをやっていたのか。この優勝は妄想?


 混乱が混乱を呼び何も見えてこない。

 これが利き腕と反対の腕を使うということの現実だ。


 サーブを下から打つ。当然、さっき言ったみたいな威力も鋭さもない、入れる為のサーブだ。

 熟練の者であればたとえ下からのサーブであっても、回転を掛け弾み辛いボールにすることもできる。ボールは上から下へ叩きつけるようにした方が威力がでる。だから弾みの少ない打球にするのだ。しかし、今の俺にはそんな芸当もできない。


 ただただ正直な、いや生気の抜けた死んだサーブを打った。


「なっ!?」


 次二郎は俺のクソサーブに度肝抜かれた顔をして、汗水たらして猛ダッシュする。


 ダッシュの勢いをそのまま、ブレのないフォームで叩きつけた。

 そりゃそうだ。なんの回転もかかっていない、正直なバウンドをするボールが、殺してくれと言わんばかりに飛んできたのだ。

 消し炭になったかのように俺の視界から打球が消えたかと思うと、一度弾んで俺の顔スレスレを突き上げるように通り過ぎていった。

 怖いな。怒りがこみ上げてくる。にも関わらず、


「やい! なんだその球は!」


 即座に吼えたのは次二郎だ。ポイントを取ったというのに怒っている。


「てめえ! まさか本当はただのザコなのか!? いや、ド素人なのか!? なのにそんな態度でいられたのか!?」


 別にテニス上手いやつが偉いわけではあるまい。それに俺はただのザコではない。まして素人でもない。俺は元最強なのだ。この態度も至極当然。お前たちが何もかも悪い。

 俺はボールを拾い、次のサーブのポジションへと移動する。ゆっくりと。


 さて、舐めてはいたものの、中々威力のあるレシーブを次二郎は打つようだ。

 しかし、あんなのでは実力を量れない。

 クリボーを倒す挙動だけでその人がゲームの達人かどうかを判断せよと言うようなものだ。


 いや、バウンドした球は俺の顔にめがけて飛んできたな。あれが狙ったものなら結構なコントロールだ。

 ノーバウンドではなくバウンド後で狙えるのだから、コントロール以上に、自分の打球の挙動までも十分に理解していることになる。


「ってアレ?」


 なんか懐かしいなこの感覚。相手について一生懸命考えるなんて。

 しかもこんなゆっくり歩いて、考えを纏める時間を作っている。

 俺はテニスを、この状況を楽しみつつあるのか。

 誰にでも持っているであろう、自分を見つめるもう一人の自分の様なものがそう分析している。


 今の俺はこの状況を楽しみつつあると。そして試合の感覚を思い出しつつあり、着実に冷静になりつつあると。

 もう一人の自分がそうささやいている。


 そしてここでの冷静とは冷めた感情による冷静さではない。集中による、研ぎ澄まされた冷静さだ。


 俺は相手を見る。

 一方の次二郎は、さっさとこんな野良試合を消化したいらしく、まだかまだかと俺の事を待ち構えている。

 きっと強いレシーブが来るでろうことが予想できる。もちろん、あまり意味のない予想だ。関係がない。

 俺を倒そうとする人間のいい気迫を感じた。ただそれだけのことだ。

 だけど俺はニヤニヤと笑みを浮かべながら、サーブを打った。

 ただ残念ながら技術的には何の進歩もしていない。

 殺してくれ、と叫んだような俺のクソサーブが次二郎の下へと風に乗って運ばれる。


 来るぞ来るぞ来るぞ!

 全てを終わらせるように、次二郎がレシーブを打つ。さっきよりもずっと俺より遠くに打つ。

 もはや俺に対する怒りもない。ただ倒すことを目的としている。

 だから俺を挑発するようにわざわざ俺の直撃を狙う必要もない。


 より確実に点を取る為に俺から離れた所へ打った。


 それでも、俺には……見えた!

 目で捉えた!

 頭がそう理解するころには、とっくに俺は体が傾いている。

 俺は跳ねるようなスタートを繰り出し、ギリギリのところで追いついた!

 体を極限まで伸ばしてボールにラケットの面を当てる!


「いっけええええ!」


 叫んで、次二郎の位置を確認、すぐさまコート上のスキを探し、そこ目掛けて、……振り抜く!

 ガスん!

 という、快音とはほど遠い音がなった。打つ最中も不快だったが、振り抜いた後も脳にまとわり付いている。


 そしてボールは明後日の方向へと飛んでいった。コートの柵を超えどこかへ消えた。

 もう見つかる事はないだろう。運がよければ掃除中の男子に見つかり竹箒をバットに見立てたミニ野球のボールとして重宝されるかもしれない。


 アウトだ。再び、失点だ。


「……そんないきなり上手くいくわけないわな」


 叫んだことが恥ずかしいのとボールをなくしたのが申し訳ないのが重なって心情を吐露した。誤魔化す為に。


 いや、これも嘘だ。本当はくやしいのだ。

 やはり中学の時のような打球は打てない。

 回転が掛けられない。

 回転が掛けられないから、ドライブという、落ちる球が打てない。距離の制御が出来ない。絶望的だ。


 そんな俺の、沈んだ気を晴らす一言が次二郎の口から洩れた。

 いや、正確にはただの気晴らしというようなチンケな一言ではない。


 俺の今後を、行く末を大きく変える重要な一言だ。



「バカな……。追いついた、だと……?」



 ――!!


 この言葉を受け俺の脳は何かに殴られたかのように衝撃が走った。


 なぜ俺はこの一言に衝撃を受けたのか。整理しよう。


 そう、俺は追いついたのだ。試合の感覚を思い出して。

 それに対して次二郎は『バカな』という感想を抱いている。

 つまり想定外の、経験上ではあり得ない事態が起きているということだ。


 追いつくはずがない。

 次二郎の頭にはそれしかなかった。

 何故なら次二郎は俺が素人だと思い込んでいるからだ。


 素人に追いつけるハズがない。

 もちろん俺はある程度は足が速い。

 だが、俺レベルの俊足も結構いる。当然素人にも。


 それでも素人は追いつけない。

 なぜなら、追いつく追いつかないは運動神経の問題ではないからだ。


 俺はどうして追いついた?

 それは当然、慣れだ。慣れが俺を追いつかせたのだ。


 ボールの軌道と速度の推測。それが出来たのは慣れがあるからだ。

 慣れとは何だ?

 感覚のマヒか?


 そんなんで追いつけるわけがない。

 洗練された分析・学習能力が必要とされるものだ。

 つまり経験! そしてその汎用化!


 そうだ。俺にはコレがある!


 再びサーブのポジションへと俺は着く。


 現在、点数は0―30。つまり0対2。サーブ側から数えるので俺が0。コチラはあと4回得点をしなければならず、向こうはあと2回の得点で勝利となる。

 だが、そんな状況にも関わらず、次二郎の腑に落ちない表情が見える。

 当然だろう。気に食わないだろう。


 俺は生気のないサーブを打った。

 腑に落ちない表情をしつつも、やはり生気のない球というのは絶好球であり、次二郎は再度強烈なインパクトそのサーブに与えようとしている。


 来た。


 俺は最強の右腕を失った。


 俺は心のどこかで、というか全部で、それを言い訳にしてきた。

 でも違う。

 失ったのは右腕だけ。


 全国優勝した、強いこの足も、スイングを支えるこの腰も、迫力あるこの背中も、球を見極めるこの目も、そして何物にも代えられないこの魂も、何一つ失ってはいない。


 勝つための資本は、十分ある!

 次二郎はワンプレー目に俺が反応できると知ると、次のプレーでは打つ場所を変えて、走らせにきた。

 こいつだって考えているのだ。

 あの時のライバルも考えていたのだ。

 俺だって、最強の技術があっても、考えていたのだ。


 考えろ! 考えろ考えろ!


 次二郎の左足の向き、ラケットの角度、重心、振り抜きの速度。

 読める!

 来た球のバウンドの高さも、その回転と威力で、読める!


 あまりのインパクトに押しつぶされたレシーブが攻撃的に迫ってきた。

 俺は自らのテリトリーにその軌道を入れる。

 自分の体の少し前でラケットの面を当てる。


 思い出せ。

 速球を打つ必要はない。

 俺は今までどんな相手と闘ってきた?

 多くが俺よりも遅い球しか打てない奴らばかりだった。

 その全てが楽な試合と言えただろうか?

 そんなことはない。

 彼らはどうやって、この格上たる最強の俺と闘ってきた?


 思い出せ。

 アイツは、次二郎は今この空間の最速にいる。

 かつての俺と同じだ。

 俺はどんな相手に苦労をしてきた?


 見えてきた。


 自分の出来ることと、すべきことが。


 俺はぐっと体勢を低くした。自分の体重を後ろに乗せる。

 コートをのたうつボールの勢いを上に逃がすようにスイングをする。

 ラケットの面は出来るだけタテにして。後は勝手にドライブがかかってくれる。

 ロブだ。

 俺は山なりの軌道をゆっくりと描くロビングストロークを打った。

 壊れた右腕を一切使わず、残った体、特に不慣れな左手であってもなんとかロブならば打てる。

 高い球は次二郎の背を越えた。それも真後ろではない。次二郎は今レシーブを打つためにコート左手前にいる。だから右の奥に打った。


「なにィ!?」


 球は確かに、誰の目から見てもゆっくりと飛んだ。

 でも、そのゆっくりとは、あくまで打球の速度としてはゆっくりな部類、というだけであり、実際は人間の走る速さよりずっと速い。


 だから次二郎は遠くで跳ねた俺のロブに追いつけない。


「くっそおおおお!!」




続く

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