第3話 その絵師は重度のシスコンでした。

3-1

「……それで?これからどうするの?」

 彩絵の部屋の真ん中で正座をした俺に向かって、椅子に座った彩絵が問い詰める。かれこれこの異質な光景も、もう5日目となった。

 先日のカフェでの事件以降、俺は毎日こうして彩絵に謝りに来ていた。始めはまともに会話もしてくれなかったが、何度も何度もこうやって反省の言葉を述べるうちに、彩絵とは少しずつ元通りの関係性に戻ることが出来てきた。

 元通りになったと感じる一番の理由が、彩絵がまた叱ってくれるようになったという事実であることも、兄として少し悲しい話ではあるが、今はそんなことを言っている場合ではない。

 そんな彩絵から叱られた内容を具体的にいくつか挙げると、「配慮が足りない」とか、「自分のことばっかで人として問題がある」だとか、「そもそも単純に言動が気持ち悪い」だとか、間にさりげなくそういった私情の言葉も挟まれてはいたが、今回ばかりは俺も全て受け入れた。うん、だって全部本当のことだからね。特に後半部分については、認めたくはないんだけど。しかし、今はそんなことで悩んでいる猶予はないのだ。

 そして今晩ようやく、今後俺がどうしたいのかという議題がやってきたのである。

「まず、正式に謝りたいです」

「ふーん……」

「彩絵との約束を守らなかったこともそうだけど、迷惑をかけたことをやっぱり一度ちゃんと謝りたいんだ」

「……そう。ま、ちゃんと反省したんだったら、普通はそうなるよね」

 足を組んで椅子に座る妹の前で、見上げるようにして俺は彩絵に話す。

 ちなみに、彩絵との約束の件にあった俺の大切なフィギュアは全て無事である。彩絵があまりに怒りすぎて、俺の部屋にある物なんて触れたくもないという何とも不憫な理由ではあったが、それでも幸いに捨てられなかったことには彩絵に感謝している。現に俺は彩絵との約束を破っているわけだから、もし仮にそれを咎められたとしても、何も言い返すことはできなかったはずだから。

 彩絵はそんな俺を疑うような眼差しで、何も言わずに見つめる。……いや、見下すといった方が正しいかもしれない。ダメな兄ちゃんで本当にごめんと、今は心から思える。

 「はあ……」

 そうやって俺がまた一段と落ち込んでいると、彩絵が心の内側から漏れたような深いため息を吐いた。諦めにも似たそのため息は、バスケで言うブザービートみたいなようでもあった。失敗続きの俺に「もう諦めたら?」と諭しているのだろう。

 ああ、この数日間楽しかったなあ……どうしてこうなっちゃったんだろ。自己抑制能力が足りない? いや、もちろんそれはそうなんだけど。

 そうこう色々と考えるうちに、もうネガティブな言葉さえ浮かばなくなってきて、俺も彩絵と同じように妹以上のそれは深い深いため息を吐こうとした。――と、その時である。

「……分かった、いいわ。お兄ちゃんに、本当に謝る気があるっていうんなら、私が取り持ってあげる」

 目をパチパチさせる。俺の瞼から本当にパチンという弾けるような音が聞こえてもおかしくないほど、全身の中で瞼だけがハッキリと動いていた。もしかしたらこの瞬間だけは本当に心臓も止まっていたかもしれない。

「……え?ホントに?!」

 神様なのか、この妹は。

「来週、実は私、愛莉先輩と鴨居のショッピングモールに出掛ける約束をしてるの。もちろんお兄ちゃんがこの間迷惑をかけたから、その謝罪の意味も込めてってね」

 さりげなくグサリと刺さる槍を突き付けてくる神様。

「う……それは、何というか、本当にごめんなさい……」

「それ、私に謝ってもしょうがないでしょ?」

「まあ、確かに……」

 仰る通りである。彩絵に謝ったって、神様に謝ったって何も解決はしない。

「そこにお兄ちゃんも一緒に来てもいいから。愛莉先輩には私から説明しておくからさ」

「ほんとに!?彩絵さんありがとう!本当に感謝してる!愛してる!!」

 あまりの嬉しさにテンションが上がり、勢いで抱き付こうとした俺に対して、彩絵はグーで寸止めをかます。

「最後のは気持ち悪いからマジでやめろ」

「……はい。調子乗りました本当すいませんでした」

 そう言って俺がゆっくりと後退して離れると、彩絵はまたもやれやれとため息を吐く。先ほどからこの部屋はため息だらけだ。だからきっと何かしら悪い空気が充満していると思う。後でちゃんと喚起しないと、ネガティブがこべり付きそうだ。きっとファブリーズ程度では除菌出来ないほど、悪玉菌がはびこっている。

 定位置に戻った俺を確認して、彩絵は一呼吸ついてから再び口を開く。

「……ただし。その時に、ショッピングモールの中にある私の大好きなシュークリームをおごってもらうから。もちろん愛莉先輩の分もね」

「……え?そんなのでいいの?」

 想像以上に簡単な彩絵の要求に、俺は逆にポカンとしてしまう。

 俺にとっては、一度終わってしまった人生をもう一度リセットしてやり直すというレベルの話だ。にも関わらず、そんな「命」の代価がシュークリームでいいのだろうか。というかその理論でいくと、俺の命はシュークリームと等価だということにもなるんだけど、とりあえず今は置いておこう。

「もっと高額な物の方が良かった?」

「いや、大丈夫!おごる!シュークリーム全然奢るから!エクレアもつける!」

 それくらいでもう一度チャンスがもらえるというのであれば、俺じゃなくとも喜んで献上するであろう。なんだかここ数日恐ろしく見えていた妹が、急に天使に見えてくる。これが飴とムチというやつなのかもしれない。世の中の上下関係は、こうやって形成されていくんだろう。しばらくは彩絵の方に足を向けて寝ることができそうにない。

「……私だって、お兄ちゃんと愛莉先輩が今みたいに気まずいままだと、どうしたって先輩に気を使っちゃうからさ。お兄ちゃんのためだけ、ってわけじゃないよ」

 そう言ってツンデレを見せる妹に、俺は最大の敬意を払う。

「彩絵、ありがとう!俺、ちゃんと謝るから!」

 そう言って、俺は再度彩絵に抱き付く。彩絵もデレていて油断したせいか、今度は抱き付きに成功する。

「だから気持ち悪いっつーの!分かったから離れろ!」

 俺は彩絵に胸を蹴り飛ばされる。

「いたたた……お前、結構強めにいったな……」

 いくら足の裏とはいえ、蹴りは蹴りだ。今日一日は残りそうな物理的な痛みを胸に負う。ま、こんな程度、水沢愛莉にフラれて患った胸の痛みに比べれば全然大したことはないけど。いや、まあそりゃでも、ちょっとは痛いけどね。……いや本当にちょっとだよ?

「……たまには恰好いいところ見せてよ」

 蹴り終えて俺を睨み付けていた彩絵が、少しだけ寂しそうな表情をする。

「…………え?今、何か言った?」

 胸の痛さに気を取られて、上手く聞き取れなかった彩絵の言葉を俺はもう一度聞き返す。

「……べつに!たまにはしっかりしろって言ったの!」

 彩絵はムキになって俺に言い放った。

「あ、ああ。うん、頑張るよ」

 俺は彩絵に笑って頷く。何をそんなにムキになることがあるんだ、とはやっぱり聞くことはできず、俺は何度も首を縦に振る。それは俺自身、何か言い聞かせているようでもあった。

 そんな俺の姿を見て、相槌を打つように彩絵も一度だけ静かに頷く。

「うん、じゃあ楽しみにしてる。……お兄ちゃん、頑張ってね」

 彩絵がニッコリと微笑む。

 そう言えばここ数日、ずっと険悪だったせいで、彩絵が笑った姿を見るのは、なんだか久しぶりな気がする。そんな彩絵のためにも、ちゃんと謝らなきゃな。こうして俺は、気持ちを一段と改める運びとなったのだった。


 ちなみに、このときの胸の痛みは結局数日残った。後日彩絵に聞いたところによると、その蹴りは本当にただ気持ち悪かったせいで、咄嗟に出てしまったものだったという。兄としては、知らないうちに妹がしっかりと護身術を身に着けていて、一安心である。

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