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× × ×


そして、運命の木曜日。

授業を終えた俺は、全速力で駅へと向かい、息を切らしながら電車に飛び乗った。彩絵が通う高校は、駅から電車で30分ほど走った都内にある。事前に店の名前も聞いていたので、あとはいかに早く現地へと行くことができるか、というところだけだった。


彩絵に請願して以来、彩絵は念を押すように、顔を合わせる都度俺に何度も繰り返して言ってきた。

「いい?愛莉先輩は確かに大丈夫って言ってくれたけど、くれぐれも絶対に先輩に迷惑かけるようなことしないでよ?もし失礼なことしたら、本当に迷惑1回に付き1個ずつお兄ちゃんのフィギュアがゴミ箱に行くから」

その姿は、約束の内容を正確に詰めるかの如く、契約書を取り交わす営業マンのようだった。こういう部分からも、彩絵が今回の件に関してどれだけ俺のことを信じていないかと言うのが分かる。


「……この店だな」

カフェの外観と名前を確認して、俺は店内入口のドアを押す。

店の中はそれほど大きくなかったが、客が結構入っていてそれなりに賑わっていた。内装も非常にオシャレで女性客が多いのも頷ける。正直、こんなことでもなければ、俺のような人種は入る機会すら与えられないようなお店だ。

「いらっしゃいませ」

女性の店員さんが声をかけてくれる。黒縁眼鏡に細身でエプロンがよく似合う、いかにもカフェ店員という容姿だ。

「待ち合わせなんですが……」

「ああ、はい。伺っております。あちらですね」

店員さんは、入口から一番奥の窓際を手のひらで案内した。店員さんが案内する方を眺めると、テーブルに座っていた彩絵が俺に気付き、手を振った。

「ありがとうございます」

店員さんにお礼を言って、俺はテーブルに向かう。……やばい、緊張してきた。

前回会ったときは、あまりにも突然の出来事だったため、緊張する余裕もないまますぐに終わってしまったけれど、今日は違う。自分から会えるようにお願いしたわけで、向こうも俺が来ることを知っている。ドキドキしすぎて、歩き方もぎこちなくなる。俺は今、ちゃんと歩けているんだろうか。

軽くパニックになりながらも、なんとかテーブルに近づくと、先に彩絵が俺に声をかけた。

「お疲れ様。もっと遅くなるかと思ったよ」

「1秒でも早く着けるように、事前準備は完璧にこなしてきたからな」

最短ルートの検索や電車の発車時刻など、寸分違わず入念なチェックを行ってきた。こんな機会、滅多にないのだから当然だ。目的が明確になったときのオタクの推進力を甘く見てもらっては困る。ただ、正直今はそんなこと考えている気持ちの余裕はないが。

「彩絵さんのお兄さん、こんにちは」

見ないようにしていたそちらから呼びかけられる。今週一週間だけでも、どれだけその声を耳にしたか分からない。何度曲を聞いたかも分からない。

自分自身を焦らすように、ゆっくりとそちらを見る。


水沢愛莉。


やはり本物である。本物の水沢愛莉である。

ブレザーに身を包んでいるせいもあり、前回とはまた違った雰囲気ではあるが、間違いなく本物の水沢愛莉だ。その事実を確認しすぎて、頭の中で水沢愛莉という名前がゲシュタルト崩壊しそうになる。……さすがに緊張しすぎだ、一回落ち着こう。

咳払いをして、平静を装う。

「こ、こんにちは」

いつもより少し声が高めになってしまった。おそらくすでに彩絵には、緊張していることがバレているだろう。彩絵はニヤニヤしながら俺に話す。

「ほら、お兄ちゃん。とりあえず座りなよ」

「あ、ああ」

彩絵に対しても、どもってしまう。この緊張はまだしばらく治まりそうにない。

言われるがまま彩絵の隣に座って、水沢愛莉と対面する。向かい合って座る彼女のその顔は、雑誌で見るより一段と小さく見える。その辺りのモデルと比較しても引けを取らないほど、バランスの取れた容姿だった。やばい、本物だ。いや、そりゃそうなんだけど、そんな当たり前のことが思わず口に出そうになる。

とりあえず軽く鼻から息を吸って、俺は口を開く。

「きょ、今日は急に参加しちゃってすいません」

「いえ、大丈夫です。そんなに気になさらないで下さい」

「迷惑……じゃなかったですか?」

「そんなことないですよ。彩絵ちゃんのお兄さんなら、私も大歓迎です」

そう言って、水沢愛莉は俺に微笑みかける。

俺は今、水沢愛莉と会話をしている。これまで画面越しでずっと耳にしてきたあの透明感のある声が、紛れもなく自分に向かって届けられている。夢じゃない……よね?

そんなことが頭の中を駆け巡り、俺が軽く有頂天になっているところへ、水沢愛莉が続けて口を開く。

「暎さん、その制服、高校ってこのあたりじゃないですよね?」

「あ、はい……横浜北、です」

ぼそりと呟くような俺の返事を聞いた彼女は、その言葉を反芻するべく3回ほど静かに瞬きをすると、少し間を置いてようやく俺の発した単語と彼女の脳内マップデータが一致したようで、眉を寄せて驚愕の表情を浮かべた。

「横浜北?!ここからかなり距離あるじゃないですか!」

「そ、そう言われればそうですね……」

彼女のその表情に、俺は圧倒されてしまう。色々と雑誌やネットで水沢愛莉という声優の顔は見てきたつもりではあるけれど、この表情は記憶に存在しなかった。

「それをこの短時間で移動してきたってことですか?!」

「は、はい……」

その事実をあえて言葉にして出されると、非常に恥ずかしくなる。一つも間違っていないんだが、この必死感がとてつもなく痛い奴に見える。まあ、実際すごく痛いんだろうけど。知ってた。

「愛莉先輩に会うために、全速力で走って来たんだよねー?」

彩絵はさらにニヤニヤしながら、会話をぶっこんでくる。

「えっ?そうなんですか?」

軽く驚いたように、紗絵の言うところの愛莉先輩は手を口元に当てた。

「あっ、うん、まあそんなとこ……そうです」

彩絵が上手く取り次いでくれる。彩絵がいなかったら、この場はどうなっていたのだろうと考えるとゾッとする。

「っていうかさ、二人は同い年なんだから、敬語やめない?先輩がお兄ちゃんの名前を“さん”付けで呼ぶ度に、なんだか背中がゾッとしちゃうんだよね」

……こいつは俺のことをどういう風に思ってるんだ。帰ったら問い詰めなきゃいかん。

「あーうん、確かにそう言われればそうだね。こんな喋り方だとなんだか堅苦しくなっちゃうし、私もできればそうしたいかも」

水沢愛莉は胸の前で両手を合わせ、パッと明るい表情を見せる。

「じゃあ……私は暎くんって呼んでもいいかな?」

ドキッとする。大好きな声優さんに、自分の名前を親しげに呼んでもらえるなんて、こんな嬉しいことが今後の人生で起きるのだろうか。人生全体での運気を調整するために、しばらくは悪いことばかり起きてもおかしくないとさえ思う。つまりアニオタにとって、これほど嬉しいことはないということである。

「ありがとうございます」

無意識反射的に、俺は思わず会釈をしてしまった。名前を覚えてもらえて嬉しいというその心持ちと仕草だけ見れば、それはちょっとした任侠映画のようだ。

「……ん?どうしてお礼?」

水沢愛莉は目を丸くして、不思議そうな面持ちで首を傾げた。

「あ、いえ。こちらの話です。あははは……」

俺は笑ってごまかそうとするが、隣から尋常じゃない目つきで睨まれているのが、視界の端に写っていた。地獄の門番の表情には気付いていない素振りで、一度コーヒーを口にする。いかんいかん、平常心平常心、セルフコントロール。

コーヒーを置くタイミングで、水沢愛莉がまた口を開く。

「私のことももうちょっと軽く呼んでもらいたいな」

「…………えっ?」

水沢愛莉、突然の提案。そのあまりの衝撃に、座っていながらも軽くめまいがしそうになった。

内側から脳しんとうを起こしているような感覚を抑え込みながら、バレないようにグーで自分の内ももを殴ってなんとか正気を保つことに成功した。ちょっとした物理ダメージが自分を最も冷静にしてくれることは、先日紗絵から蹴られたときに学んでいる。

「……いいんですか?」

呆けたような俺の問いに、彼女が静かに頷く。

「うん。正直に言っちゃうと、私も何となく違和感があったから」

彼女はそう言って微笑んだ後、ミルクティーを口に運ぶ。

まあ確かに、片方だけが親しげに呼んでいるのも一般的には変な話だ。言わんとすることは理解できる。

とはいえ、いきなり呼び捨てするのも失礼だし、かといって名字で呼ぶと今よりもっと硬くなってしまう。それでは本末転倒である。……とすると、残っているのはこれしかない。

「それじゃ…………愛莉ちゃん?」

そう俺が告げた瞬間、隣でレモンティーを口に含んでいた彩絵が、ものすごい勢いでむせた。突然のことに驚き、慌てて俺は彩絵の背中をさする。

「おっ、おい!大丈夫か?」

「ごほっ、こほ……大丈夫、だけど……なんて破壊力のある発言すんのよ……」

彩絵は涙目になりながら、苦しそうに言葉を絞り出す。俺はとりあえずテーブルの上にあったおしぼりを渡して、彩絵を落ち着かせる。彩絵は受け取ったおしぼりで、口の周りを抑えた。

「いや、そんな破壊力を持って言ったつもりは全くなかったんだけど……」

「お兄ちゃんになくても私にはあるの!」

キッと俺のことを睨み付ける。……なんか、ごめんなさい。

彩絵は呼吸を整えるため、自分の喉元をさする。

「もー、考えて喋ってよね……お兄ちゃん、約束忘れてないよね?」

「……忘れてないです」

フィギュアを捨てられるのだけは本当に勘弁してほしい。特に「俺すか」関係のフィギュアがなくなることを想像するだけで、絶望的な気分になる。しっかりしないと。俺は一度、襟を正す。

「愛莉でいいよ。暎くん」

俺と彩絵の説教のような会話へ、唐突に加わったその声に、俺と彩絵は2人揃って、対面に座るその女の子を見る。

「え……?」

そんな突然の発言にポカンとした加藤兄妹の前で、当の人気声優はにこやかに笑っていた。

「愛莉先輩……それ本当に言ってるんですか?」

俺が目をパチクリさせていると、彩絵が先にそう口を開いた。

彩絵は疑うような眼差しで、愛莉先輩を凝視していた。いや、びっくりするその気持ちはよく分かるが、先輩にその目はさすがに失礼だろ……

そんな彩絵の問いに対し、愛莉先輩は首を傾げる。

「もちろん本当だよ? だって、『さん』も『ちゃん』もダメなら、もうこれしかないでしょ? それとも他のあだ名にする?」

目の前に座る人気声優は、どことなく少しウキウキしているように見えた。

上機嫌そうな彼女を横目に、そーっと妹の方を見ると、彩絵は静かにため息を吐いて、やれやれと言わんような仕草をしていた。この2人の様子から、彩絵と愛莉先輩の普段の関係性がどことなく垣間見えたような気がする。

そんな彩絵が、ふと思いついたような表情をした。

「そういえば愛莉先輩って、クラスの中であだ名とかあるんですか?」

「んー……水沢さん、くらいかな?」

「いや、それ全然あだ名じゃないから……」

彩絵が大きなため息を吐く。

「……まあ、先輩が良いって言うんなら私はいいんですけど。正直少し違和感はありますが、『愛莉ちゃん』じゃなかったら、もう何でもいいです」

彩絵はそう言いながら、一度牽制するように俺の方を睨み付ける。調子に乗るなよ、ということであろう。その視線を受けて、恐怖に思わず何度か頷いてしまう。

とまあ、しぶしぶではあったが彩絵からの許しを得たところで、お互いの呼称に関しての議論は区切りがついた。

「じゃあ、これからは愛莉と呼ぶことにするよ」

「うん、よろしくね。暎くん」

白熱した(?)議論に一区切りがついたところで、3人とも各自それぞれの飲み物を口にする。

最初は緊張でよく分からなかったが、コーヒーがなかなか美味しいことに気が付いた。この外観で、これだけの美味しいコーヒーが提供されるのであれば、確かにお客さんがこんなに入っているのも納得がいく。こういうことを考えられるようになったのは、少し気持ちに余裕が出てきた表れだろうか。


と、それぞれが芳醇な味わいを静かに堪能していると、突然テーブルの上に置いてあった携帯が音を立てる。家でもよく鳴っている、彩絵の着信メロディだった。残念ながらアニソンではない。

「あ、ごめん。友達から電話かかってきた。ちょっと出てくるね」

そう言って携帯を手に取り、おもむろに立ち上がる彩絵。

「え?!あ、うん。はい……」

「いってらっしゃーい」

突然の事態に戸惑う俺とは対照的に、愛莉は彩絵に軽く手を振る。彩絵は電話に向かって話をしながら、愛莉にすいませんとジェスチャーをして席を外していった。見送った彩絵は入口のドアを開けて、店の外へと出て行ってしまった。

こうして、テーブルには俺と水沢愛莉の二人だけが残された。この店がどうこうなんて余裕を感じた直後、また新たな緊張タイムがやってくる。

……どうしよう。再度コーヒーを口に含んでみるが、またその味は行方不明になってしまった。

「彩絵ちゃんと暎くんは、兄妹の仲が良いんだね」

どぎまぎしている俺を見透かして言ったかのように、愛莉が先に口を開いた。

「えっ?あ、うん。そうです……そう、だね。なんだかんだ言って毎日何かしら喋るし、ケンカするってこともそんなにないかな。だから、仲が良いかどうかは分かんないけど、悪くはないはずだと俺は思う。……彩絵の方はどう思ってるか知らないけど」

彩絵は本当にどう思っているんだろう。さっき睨まれたのもそうだけど、本気でうざいと思われていそうな言動もあったりして、正直俺にはよく分からない。そんなのしっかりと分かっている兄妹の方が少ないのかもしれないけど。

「きっと彩絵ちゃんも、お兄ちゃんのことが大好きだと思うよ?だって、いつも暎くんの話ばっかりしてるから」

「え、そうなの?」

俺の知らない事実を、嬉しそうに愛莉が話す。

「うん。だからなのかもしれないけど、実はこの間暎くんに会った時も、初めて会ったっていう感じがしなかったんだよね」

「そ、そうなんだ……」

実は俺も初めて会ったって感じはしてなかったよ。確実にその理由は違うけど。

「……彩絵がする俺の話って、悪口とか入ってない?」

「あー、それはちょくちょくあるかも……」

愛莉が苦笑いするのを見て、俺はため息を吐く。あるのかよ……ものすごく興味はあるけど、怖いから詳細は聞かないでおこう。

「でも、悪い話ばかりじゃないよ?」

「そうなの? どんな話?」

「うーん……一番多いのは、『お兄ちゃんが心配だ』っていう話かな」

「俺のことが心配?」

「うん。お兄ちゃんは昔からすごく不器用で、それが原因でいつも周りに迷惑をかけちゃうんです、って。もうちょっと上手くやればいいのに、って言ってるよ」

それは色々と心あたりがありすぎて、なんだか少し情けなくなる。

「……それ、悪い話じゃないの?」

「えっ?そう……なのかな?」

「俺はそう思うけど。まあ、自分でも自覚があるからかもしれないけど」

自分の不器用さは、わりと幼い時から薄らと認識していた。みんなが簡単にクリアできるような問題も、自分だけがずっと1人考え込んでいるなんてことは日常茶飯事だった。流行に弱く、周りが飽きても自分の好きなことをひたすら続けていたり。それは彩絵の言う通り、今もさほど変わっていない。

色々な過去の失敗を頭の中で思い出して俺が苦笑していると、愛莉は続けて口を開いた。

「……でも私は、やっぱり悪い話じゃないと思うよ。彩絵ちゃんは暎くんのことが好きだから、きっとそうやって心配になるんだよ。兄妹ってそういうものなんじゃない?近いからこそ、正直に言えない関係って言うのかな」

自分のことだからなのかもしれないけど、いまいちピンとこないな……そもそも彩絵が俺のことを心配してくれている、ということ自体、あまり想像ができない。

「あはは……って、こんなこと言ってるのがバレたら、彩絵ちゃんに怒られちゃうかな」

愛莉は頬を緩ませて笑う。

「この話、内緒にしておいてね?」

「もちろん……っていうか、俺から彩絵にそんなこと聞けない……」

そんなこと訪ねるのを想像しただけで彩絵にまた蹴られそうだ。

「うん、そうだね。じゃあ2人だけの秘密」

愛莉は片目を閉じ唇に指を立てて、内緒だという仕草を見せる。その姿に俺はまたドキッとさせられる。写真で見るより、肉眼で見る方が間違いなく何倍もかわいい。

会話に区切りがついたところで、俺は店内をぐるっと見渡す。どうやら彩絵はまだ戻って来る気配がない。つまり、チャンスは今しかない。深く息を吸って心の準備をしてから、俺は愛莉に問いかける。

「あのさ、答えにくかったら答えなくていいんだけど……」

「うん、何でも聞いて。私に答えられることなら」

満を持して、少し声を小さくして俺はあの質問をぶつける。

「愛莉って、声優……だよな?」

そう訪ねた瞬間、ミルクティーを口元へ運ぼうとしていた愛莉の動作が停止した。


愛莉は右手に握ったティーカップの水面を眺めたまま、ピタリと固まっている。瞬きさえしていない。店内はそれなりに会話でにぎわう中、このテーブルだけが異世界にいて時間が止まったようだった。

表情は変わらないが、無言の沈黙。……やっぱり聞かない方が良かったのか? なんだかとてつもない後悔に襲われ、俺はいてもたってもいられなくなる。

「……ごめん、変なこと聞いて。今の、気にしないで」

いたたまれなくなって、俺が先にそう告げたときだった。

「…………うん。そうだよ」

「え?」

呟くようなその返事に驚いて、思わず俺は聞き返してしまう。

「私は暎くんも知っての通り、声優の水沢愛莉だよ」

愛莉はまたさっきまでの笑顔に戻る。

「……暎くん、知ってたんだね」

少し目を細め、愛莉がまた呟くように口を開いた。

「うん。実は、こんなこと自分から言うのもなんだけど、俺アニオタでさ」

「……そっか。じゃあ、それは隠せないな」

あははと愛莉は笑ってみせる。

「じゃあ、今日暎くんがここに来たのは、それが理由?」

「あー……うん。実はそうなんだ。ごめん」

「なるほど……そういうことだったんだね。ううん、それはいいの。このまま隠してても、きっといつかは分かることだと思うから」

空気が少し重くなる。

愛莉は握っていたティーカップを置いて、右手で髪を耳にかけた。

さすがの俺でも、愛莉の頭の中には今たくさんの言葉が浮かんでいるのが分かった。それが具体的にどういった言葉や思いかということまでは分からないけど。

愛莉がテーブル越しに、改めて俺の目を真っ直ぐに見つめる。不意を突かれた俺はそんな愛莉の視線から、無言で目を逸らしてしまう。

「彩絵ちゃんにも隠すつもりじゃなかったんだけどね。……なかなか言うタイミングがなくて。……んーいや、違う。タイミングの問題じゃないね。それはやっぱり言い訳でしかない。単に私に勇気がなかったってだけ」

「勇気?」

想定外のワードだった。その言葉の詳細を求めるように、俺は相槌をして問う。

「……うん。やっぱり、人によってはアニメや漫画といった文化に抵抗を持つ人もいるでしょ? だから……ね」

「……なるほど。そういうことか……」

愛莉のその言葉は、俺の中には腐るほど心当たりがあった。

例えば教室の中一つを取ってみても、極力自分がアニメ好きだということを隠さなくてはいけない場面は多々あった。俺たちのような人種からすれば、『キモイ』という言葉は俺たちオタクを侮辱するために用意された専用の言葉のようにも思えたりするのである。

透や茉希のようにある程度仲が良くなって、きっとそんな程度のことで離れていったりすることはないと頭では分かっていてもやはり、いざ初めてオタク趣味をカミングアウトするタイミングというものは、とてつもない緊張に包まれるのである。

新学期や新生活に伴い、新しい友人ができ、仲が良くなっていくにつれ、この葛藤は大きくなっていく。友人間で、何となくキャラみたいなものが出来上がってしまっているからだ。チャラ男だったり、いじられキャラだったり、そういった何かしらの立ち位置が誰にでもいつの間にか生まれている。

そのせいで、今更その関係性をぶっ壊す恐れのある『爆弾』を投げることは、時間が経つにつれて難しくなっていくのだ。実は周りに意外とオタクはいるはずなのだが、常識的な大抵のオタクは一律にみんな同じように隠しているから、オタクという迫害されるべきを自分だけが所有して、集団に属しているとさえ感じるのだ。これはいわゆるアニオタあるあるなのだろうと俺は思う。

さらに加えて、声優はどちらかと言えば、制作側というかコンテンツを供給する立場にある。言うまでもないが、供給者がいなければ、コンテンツは存在することができない。つまり、人気声優はそのオタクを率いる中心的な立場として捉えられる。簡単に言うと、オタク界のキリストみたいなものだ。

これらの長々とした想いを、俺はまとめて愛莉にこう言う。

「……つまり、彩絵に嫌われるのが怖かったってこと?」

「……うん。そうだね。そういうことなんだと思う」

愛莉は俯きながらも、深く頷いた。

「声優としての仕事が嫌いなわけじゃないの。むしろ、仕事させてもらうことができて、本当に嬉しいと思ってるくらい!もちろんアニメも大好き。……ただ彩絵ちゃんは、私と会っても一切そういう話をしてこなかったから」

「……あいつ、アニメのこととか一切興味ないからな。本当に知らなかったんだと思う」

「うん。だからこそ言えなかったっていうのはあるけどね」

愛莉は照れながら恥ずかしそうに笑う。

「でも、それが私はとっても心地よくて。……今になってみれば、きっとそんな彩絵ちゃんに甘えてたんだろうね。声優としての水沢愛莉じゃない私を見てくれて、本当のことを言わなくても仲良くしてくれる彩絵ちゃんに」

愛莉はしんみりとした表情で呟く。

愛莉のそんな表情を見てしまったせいで、言おうかどうか一瞬ためらったが……俺は正直に伝えることにした。

「ごめん……俺、言っちゃったんだ」

「え?」

愛莉がきょとんとした顔で俺の方を見る。

「水沢愛莉が声優だってこと」

「あー…………そうなんだ」

愛莉は少し戸惑ったような顔をしたが、すぐに笑顔に戻る。

「うん……でもそりゃ言うよね!私だって、知り合いがそんなお仕事してるって知ったら言いたくなっちゃうよ、きっと!」

笑いながら愛莉は俺を擁護する。その笑顔が作りものだということは、鈍感ランキングトップランカーの俺でも理解ができた。

「でも、安心してくれ。彩絵はそんなことで、愛莉を嫌いになったりしない」

「…………」

愛莉が無言のまま、俺から目を逸らす。

「だって、お兄ちゃんが重度のアニオタなんだよ?彩絵はそんな俺の趣味を知りながらも、さっき話したように、俺たちはそれなりに上手くやってる。だから、あいつにとってアニオタは身近な存在なんだ。確かにあいつはアニメに全く興味を持ってはいないけど、だからといって別に忌み嫌うような存在でもない。現に今だって、こうやって一緒に遊んでる。嫌だと思ってたら、会ったりしないよ」

……やばい。なんだか説教みたいになってしまった。なんで俺、こんなに熱くなってるんだろ。愛莉は俯いて、何かを考えている様子を見せる。

「うん、そうだね。ありがとう。……私も、きっと分かってたんだと思う。そんなことで彩絵ちゃんが離れていくわけないのにね。本当は自分の口で言えれば良かったんだけど……もうバレちゃったのなら仕方ないね」

愛理が顔を上げて、俺にそう話す。

「それは……本当にごめん」

俺の謝罪に、愛莉は首を横に振った。

「ううん、大丈夫。でも、一度自分の中で整理をしてから、改めて自分の口から言うことにするよ。大好きな彩絵ちゃんに隠し事をしてるのは、やっぱりなんだか心苦しいし」

「それだけ彩絵のことを大切に思ってくれる先輩がいて、俺は羨ましいよ」

俺は自分を納得させるように、腕を組んで大きく頷いてみせた。

「私はそんなお兄ちゃんがいる彩絵ちゃんが羨ましいと思うけどなー?」

愛莉は俺に微笑みかける。なんだかさっきよりも、少し表情が明るくなったような気がする。

「暎くん」

「は、はい?!」

突然名前を呼ばれて、俺は思わず出欠確認のときのような返事をする。

「……背中を押してくれてありがとう」

「お礼を言われるようなことじゃないって。これからも彩絵と仲良くしてあげてもらえれば、それでいいよ」

「うん!それは大丈夫!」

往年の悩みが晴れたようなそんな笑顔で、愛莉は返事をする。ものすごく身近なことではあったが、少しでも水沢愛莉の役に立つことが出来たのなら俺も本望である。

愛莉がその笑顔のまま、一度大きく頷く。

「じゃあ次は、暎くんの番!」

「……え?」

「だって、今は私がたくさん話しちゃったでしょ?だから、次は暎くんが話す番!それでおあいこにしないと」

理解の遅れた俺を置いてきぼりに、愛莉はまくし立てるように言葉を続けていく。

「ああ、そういうことね。でも別に、おあいこにする必要もない気はしないでもないけど……」

「それはダメ!私の悩みを解決してくれたんだから、私も暎くんの役に立たないと!」

「そういうものなのかな……?」

「そういうものなの!ほら、なんでも聞いて!」

ニコニコしながら、愛莉は俺が話し始めるのを待つ。この様子だと、どうやら俺が話すまで許してもらえそうにない。

そりゃ、色々聞きたいことはたくさんあるよ? 大好きな声優を目の前にして、質問する権利を当の本人から与えられて、本人が俺の意見を心待ちにしている状況。そんな据え膳とも呼べるような最高の状況で、何も聞かなくていいなんて思うわけがない。

……本当に聞いていいのか?

そんな渦巻く疑念を抱きながら、俺は恐る恐る訪ねるようにゆっくりと口を開く。

「……じゃあ、ここからは俺の趣味についての話をしていいかな?質問になっちゃうかもしれないけど」

「うん?」

愛莉は聞き返すような顔をして、目をパチクリさせる。

「『俺すか』の現場って、どんな感じ?」

「……へ?」

「一番仲の良い声優は?!オーディションってどうやって決まるの?!」

「あ、その……」

「愛莉がfineに入ることになった経緯は?!」

ここがチャンスだと言わんばかりに、俺の口からはマシンガンのように多数の質問が溢れ出る。今まで我慢していた分、その勢いは留まることを知らない。

「わ、分かったから!一回落ち着いて!……1つずつ答えるから、ゆっくりでいい……かな?」

愛莉が俺を静止するべく、両の掌を見せて落ち着くように指示する。

「うん!うん!!それで、どうなの?!」

「だから、落ち着いてって!ちゃんと話すから……!」

さっきまでとお互いのテンションが逆転する。こうして、俺は水沢愛莉に思いつくまでの数多くの質問をぶつけていった。


「……うん。今思いつく質問はこんなところかな!」

「……ようやく終わった……?」

愛莉は背にもたれて、軽く放心状態になっている。

「また思い出すことがあったら、その時に聞くよ!」

「そう……満足して貰えて私もよかったよ……」

愛莉はそんな蚊の鳴くような小さな声で、僅かに空気を振動させた。

「なんだか、おあいこどころじゃなくなっちゃったなあ……」

満足感でいっぱいになった俺とは真逆の愛莉が、うつろな目をして嘆くように呟く。

そんな愛莉を前に、俺は腕を組み、噛みしめるようにこれまで愛莉が回答してきた答えを頭の中で反芻し頷いていた。

なんて清々しいんだ。この世界は、こんなにも美しい……!ありがとう神様。地球に生まれて良かったーーーっ!!!

いるかいないかも分からない神様に突如感謝してしまう程度の、アバウトな有神論制度を採用してしまうほどにテンションが最高潮の俺の頭は、きっと脳内麻薬でドバドバに溢れていた。もうなんか、今なら何でもできそうな気がする。いや、きっとできる。いける。やれる。このビッグウェーブに乗るしかない。

そう心の中で自分自身に後押しされた俺の自信は、堂々たるものだ。

決意した俺は、目を瞑って、一度小さく頷く。

「……さて、ここからが本題だ」

「……もしかして、まだ続くの……?」

取材と言い換えられるほどの俺からの質問攻めを終え、少し疲れているような表情にも見える愛莉。とはいえ、これほど疲れている姿は、各種メディアでも余り見たことはなかったけれど。まあ、それは置いておくとして。

そんな愛莉に伝えるものと言えば、1つしかない。いけ、俺。

高鳴る鼓動の音が俺の頭を支配する。


「初めて見た時から、ずっと好きでした!!」


告白した。


「…………」

「…………」

単刀直入に発した言葉のあとに、無言の時間が流れる。相変わらずハートビートは大きな音を刻んでいて、いつもよりだいぶ速いテンポで内側から俺に警笛を鳴らす。

沈黙の時間が長くなるにつれ、緊張感は次第に大きくなっていく。

暴走、無謀、爆発、バカ、無神経、KY。色んな言葉が頭の中を駆け巡る。表れる言葉のどれもが悪口だったけれど、それは何となく透が俺の頭の中で何度も呟いているような感じだった。

やっぱり言わなきゃ良かったかな……さっきまでの自信はどこへやら、もうすでに後悔が始まる。

……っていうか今、無言になってからどれくらい経ったんだろう。ああ、もう今すぐに逃げ出したくなってきた。このまま席離れていいかな?

……ダメですよね、分かる。それは俺でも分かる。どっちにせよ彩絵が出口で電話してるし、逃げ道なんてなかった。うん、そうだよね。ガーディアンがいるもんね。

俺たち以外は相変わらずそれなりにざわついている店内で、めまぐるしく頭の中は言葉が行き交った。うん、これはあれだね、俺って自分のことバカだとばっか思ってたけど、意外と頭の回転早いんだね。見直したよ、俺。絶体絶命真っ最中だけど。人間って追い込まれると、ちゃんと潜在能力が発揮されるんだなあ。

と、1人連想会話ゲームを始めた当初からは大分離れてきた内容に辿りつき、俺の思考が一周回ってついには自分を肯定し始めた辺りで、愛莉が小さく口を開いた。

「暎くん。1つ、質問していい?」

「は、はい!……なんでしょう?」

「……それは、『』への告白?」

「え……?」

愛莉は回答することなく、俺に対して質問を投げかけてきた。

疲れていたはずの愛莉は真剣な表情で、真っ直ぐに俺を見る。その大きな瞳は、俺の中の何かを確認するかのように、ひたすらにじっと、じーっと見つめる。その視線に俺は戸惑い、また目を逸らす。

「……答えてくれないの?」

目を逸らした俺を逃がすまいと、俺に催促をする愛莉。

「あ……うん。そう、かな……」

「……そっか。分かった」

愛莉のその表情は、少しだけ憂いを帯びたように見えた。しかし、俺にはその質問の意図が全く分からなかった。


2人の間に、今日一番の重い空気が漂う。自分で蒔いた種だけど、もう今すぐにでもこの場所から逃げ出したい、というのが本音だった。

俺の煮え切らないような返事を聞いた愛莉は、ほとんど空になったティーカップをじっと眺めながら、しばらく黙っていた。

やっぱり賑やかな店内で、俺は膝の上で拳をグッと握りながら、ただひたすら彼女が口を開くのを待った。

「……」

「…………」

沈黙が2分ほど続いた頃だろうか。

愛莉が突然自分のカバンを取り出し、がさごそと中を覗き込んで、何かを探し始める。

「……?」

愛莉はカバンからピンク色のポーチを取り出し、テーブルの上に置く。

不意に動き始めた愛莉の様子を、俺はただ呆然と見ていることしかできなかった。

「あ、あの……愛莉?」

「…………」

さすがに不安になってきて声をかけてみたものの、愛莉はやっぱり返事をすることなく、無言のままポーチから赤いを取り出した。

「急にごめんね? ちょっと前髪が気になっちゃって」

「へっ?……ああ、うん。俺は別に大丈夫だけど……」

数分ぶりに聞いたその澄んだ声に、少し戸惑う。

愛莉はそんな俺の様子など特に気にすることもなく、取り出したその赤い髪留めを、白く細い指先で上手に前髪へとセットする。

黒髪に映えるその紅一点は、どこか懐かしささえ覚えるほどによく似合っていた。そういえば、ブログの写真ではよく赤い髪留めを付けてたっけ。前回は不意のエンカウントだったから仕方ないにせよ、今まで全然気付かなかった。

自分の鈍感さにまた落ち込む。きっと、こういうとこなんだろうな……俺は愛莉の何を見て水沢愛莉だと判断しているのだろう?


「ねえ、暎くん。暎くんは、誰かに自分のことを、ずっと覚えていてもらうためには、どうしたらいいと思う?」

「覚えててもらう……?」

またも唐突な問いかけに、俺は再度困惑する。

「ごめん、分かんない……」

歯切れの悪い俺の情けない返事を聞いて、愛莉はまた少し寂しそうな顔をする。

「答えはね、思い出を上書きしないことだよ」

「上書きしない……?」

会話が重なれば重なるほど、俺の混乱は大きくなる一方だ。

「人って、新しい記憶が増えると、段々と昔を思い出すのも難しくなっていくでしょ? だから、覚えていてもらいたいことは、出来るだけシンプルに記憶しておくことが大事だと思うの」

「……?」

「それが偶然だろうと運命だろうと、それは関係ない。だって、事実は変わらないんだから」

理解のできない話が先へ進んでいく。愛莉の口から紡がれていくその言葉たちが何を意味するのか、俺にはさっぱり分からなかった。

「暎くん、ありがとう。でも、その告白は受けられない」

愛莉は透き通るような笑顔でそう言った。それは雑誌でよく見る、写真に映った水沢愛莉の笑顔だった。

「ごめんね。今はお仕事が忙しくて、そういうことは考えられないんだ」

「あ、いや……こっちこそ……ごめん……」

「んーん。急だったから、びっくりしちゃっただけ」

「あ……うん。そうだよね、びっくりするよね!あ、はは……」

「う、うん!びっくりしちゃったの……!」

そう言って、テーブル越しに互いの乾いた笑いを交わす。

……気まずい。もちろん自分のせいだと言うのは百も千も万も承知だが、それにしても気まずい。……想像以上に。

ふうと一つため息を吐いて、目を閉じる。

さっきまで緊張していたせいか、なんだか体の力が抜けてしまった。気まずいけど、彩絵が戻ってくるまで何とか場を持たせるしかないよなあ……今回はイベントじゃないから、剥がしのような強制退去させてくれるスタッフもいないし、かと言って逃げ出すわけにもいかない。とりあえず、俺は背にもたれかかるように座りなおした。

すると、さっきまでなかったはずの陰影が、いつのまにかテーブルを覆っていることに気が付く。

「…………ん?」

「……お兄ちゃん?」

「はい……?」

呟くような疑問符。ゆっくりと、それはもうゆっくりと、声のする方にそっと振り返ると。

そこには、鬼の形相をした彩絵が立っていた。ですよねー。やっぱそうですよねー……

その視線は1ミリも微動だにすることなく、突き刺すように俺の顔を睨みつけている。その免震性、俺にも分けてもらいたいくらいだ。

「さ、彩絵さん……電話、結構長かったねえ、あははは……」

彩絵はそんな俺の言葉に頷くことも返事をすることもなく、テーブルの横で仁王立ちしている。

「フィギュア、覚悟しておいてね?」

「……はい」

ただでさえフラれたことにより落ち込んでいた俺の心を、彩絵はダメ押しするようにその言葉で更に落とす。家に帰るのが怖い。

「……ねえ、彩絵ちゃん? 戻ってきたばっかのところ悪いけど、今日はこのくらいで帰ろっか?」

俺と彩絵の様子を見て、空気を読んだ愛莉が口を開く。

「先輩……本当にすいません!また改めて時間作りますので!……ほら、お兄ちゃんも言うことあるでしょ?」

彩絵は今日一番の恐ろしい表情で、俺を再度睨み付ける。ちゃんと言うから、そんな顔しないでください。また落ち込んじゃいます。ちゃんと言うから……!

「……迷惑かけてすいません。でも、楽しかったです……」

「迷惑だなんてそんなことないって!私も楽しかったから……また、ね?」

愛莉は気を使いながら、励ますよう俺に手を振る。今更だけど、やっぱり良い子だよなあ……


こうして、俺の連続フラれ記録は、初めてのゾロ目に突入した。

莫大な後悔と、とてつもない恐怖に襲われながら、俺は彩絵と無言で電車に揺られて家に向かうのだった。

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