2-2
「ただいまー」
日が落ちるかどうかという頃、遊びに行っていた彩絵が、疲れたような声でありきたりな挨拶とともに、玄関のドアをガチャリと開ける。そんな玄関で、俺は土下座をしたまま彩絵を迎え入れた。
「……なにしてるの?」
顔を上げなくとも彩絵が怪訝な目で俺を見つめているのが分かるほど、その声は俺のことを一瞬で気持ち悪い存在として認定していた。姿勢はそのままに、俺は顔だけをスッと上げ、まだ靴を履いたまま玄関に釘付けになった彩絵に話しかける。
「お帰りなさいませ、彩絵様」
「……いや、ちょー気持ち悪いんだけど」
さらに軽蔑の度合いを増したその声は、妹でなければこの行為もそれなりのセクハラとして成立するのではないかというくらい、彩絵がより一層引いているのをストレートに伝えた。
「我が崇高なる妹である彩絵さんにお願いがあります」
「……なんかムカつくのは何でだろ……ま、よく分かんないけど、とりあえず立ってよ。そこにいたら私、家の中に入れないから」
相変わらず軽蔑の眼差しは継続したまま、俺に向かって右手を差し出す。
「ああ、じゃあリビングに行こうか」
差し出された彩絵の手を支えにして、俺はスクッと立ち上がる。
「……」
彩絵は返事することも無く、靴を脱ぎ、ためらうことなく俺の横を通り過ぎてリビングへと先に入る。
真っ暗なリビングの明かりを灯し、彩絵は羽織っていたカーディガンを畳んで椅子にかけた。
「どれくらいあそこで正座してたの?」
彩絵はキャミソール姿で冷蔵庫を開け、麦茶をコップに注ぐ。
「30分くらいかな。彩絵が帰ってくるのを見計らって、玄関で待機してた」
「……で、何が目的?」
「いつもお世話になっている妹を、たまにはしっかりお迎えしようと思って」
「…………」
「…………」
「……本当は?」
「……水沢愛莉さんの件です」
「やっぱりか。……まあ、そんなことだろうと思ったけど」
彩絵はため息をつきながら、コップに残っていた麦茶を全て飲み切った。
「それで?何が聞きたいのよ?」
ドアの前で立ち尽くす俺に対面するように、彩絵はテーブルを挟み奥の椅子に座って足を組んだ。
「水沢愛莉さんとの馴れ初めを教えていただきたいなーと思いまして……」
「馴れ初め?そんなの簡単だよ。高校の先輩と後輩」
「うん、先輩後輩の関係っていうのは聞いた。俺が知りたいのはその前だよ。どんな経緯で仲良くなったんだ?」
「ああ、それね。ちょっと恥ずかしいんだけど、わたし高校に入ってすぐ、校内で迷子になったことがあって。入学式の翌日だったから、部活や委員会の勧誘があちこちで行われてて、あまりの人ごみに一緒にいた友達とはぐれちゃったんだよ。だけど、入学したばっかで、まだみんなほとんど初対面だったから、連絡先も知らないじゃない?だから、誰かに助けを求めることも出来なくて、一人で学校を彷徨ってたんだよね」
彩絵はその当時をどことなく懐かしむように、表情を和らげて話す。
「で、そしたらそんな時に、後ろからすごく優しくて透明感のある声で、私に話しかけてくれた人がいて。『新入生?何か校内を探してる?』って聞いてくれたんだ」
「……それが、水沢愛莉さんだったと」
「ご名答。そういう感じ。で、愛莉先輩に事情を説明したら、せっかくだしそのまま校内を案内してくれるってことになって。そこから仲良くなったわけ」
「学年や部活が違っても、そんな接点で仲良くなれるもんなんだな」
「きっかけなんて、みんな大体そんなもんじゃない?お兄ちゃんだって、透くんとか同じようなものでしょ?」
言われてみれば確かにそうだ。入学時のクラスが同じで、たまたま席が近かったから今も関係性が続いている。ある特定の誰かと関係性を持とうとすれば難しいのに、ふとしたきっかけでずっと一緒にいたりするんだから、不思議なものだ。
「愛莉先輩とは、もう結構仲が良いのか?」
「うーん、どうなんだろ?でも、現に私は愛莉先輩のことが好きだし、今日みたいにこうやって何回も遊んだりしてるから、それなりに可愛がってもらっているとは思うよ」
聞き方によっては下心があると捉えられても決しておかしくはない俺の質問に、彩絵は意外にも素直に答えてくれた。それだけ愛莉先輩という存在のことを慕っていて、自ら話したくなるということなのだろうか。心なしか少し上機嫌になってきているような気もする。
そんな彩絵に、俺はもう一つ質問をしてみる。
「……なあ、彩絵。彩絵は『水沢愛莉』という女の子がどういう存在か知ってるか?」
「ん?高校の先輩で、きれいでかわいい女の子じゃないの?」
「……無知って恐ろしいな。でもそれは、とてつもなく損をしていると言っていいかもしれない」
「はあ?私が何を損してるっていうわけ?」
彩絵が少しだけ不機嫌になる。まあまあ、怒らず落ち着いて聞いてくれ妹よ。
「いいか、今から説明するから、よく聞いてくれ」
「短めでお願い。さっさとしてね」
俺は一つだけ咳払いをして、彩絵に語り掛けるよう話を始めた。
「まず前提として、俺がアニオタなのは、彩絵もよく知っていると思う」
「……なんの前提?うん、もちろん知ってるよ。その趣味が一般的にどうかっていうのはよく分かんないけど。ま、私は別に気にしてないし」
「ああ。彩絵が俺の趣味に対してそう思ってくれているのは、本当にありがたいと思っている。アニメ趣味が引き金で、家族や兄弟、はたまた同級生や同僚からもパワハラと呼んでも差支えないような迫害を受けているという話は珍しいことではないからな」
「ま、一応お兄ちゃんはお兄ちゃんだしね。そんなこと気にしてたとしても、結局は同じ家に住んでないといけないわけだし、怒っても仕方ないからね。で、それが愛莉先輩と何か関係あるの?」
彩絵の言葉を聞きながら、そうは言っても見ているアニメの種類によってはその態度も一変してしまうんだろうなあと、妹に対して少しだけ罪悪感が生まれる。もちろんそんなことで、「俺すか」の視聴をやめたりすることはしないが。
「ああ、続けるよ。それで、そんなお兄ちゃんである俺を含めた世界中のアニメファンにとって、絶対に切って離すことはできない対象がある。それが『声優』という存在だ」
まさか声優について、アニオタでもない妹に説明する機会がやってくるとは夢にも思わなかった。しかも、それが必要に迫られてなのだから、人生というのは不思議なものである。
「あ、声優って言葉は知ってるよ。アニメや映画の声を出す人だよね?」
「そうだ、彩絵のその認識は間違っていない。しかし、最近の声優はそれだけじゃない。ある程度人気の声優になると、CDを出したり、ライブを行ったり、挙句の果てにはテレビに出演することだってある。もちろん、全て顔出しだ」
「へー。なんかもうそこまでくると、普通のアイドルみたいだね」
「そう!そうなんだよ!アイドルなんだよ!」
理解の早い妹の発言に、少しテンションが上がってしまう。そのテンションにまたドン引きする妹。二極化した空間にめげず、俺は話を続ける。
「だから、そういう活動を行う声優のことを最近では『アイドル声優』と呼ぶんだ。容姿も、演技も、本業の声も美しい。それら3拍子が揃った声優がかなり多い」
「ふーん。なんだか忙しそうだね」
彩絵の興味のない返事が明後日の方向に向かって飛んでいく。……こいつ、大分飽きてきてるな。そろそろ話を本題に戻さないと。
「人気の声優になると、忙しいなんてものじゃないからな。毎日テレビで声を聞くことのある人気声優もいる。……いいか、心して聞いてくれ。そして、水沢愛莉。つまり彩絵の言う『愛莉先輩』は、声優なんだ」
「…………は?」
俺の話にだいぶ飽きていた彩絵が、かなりのスピードで俺の方を向いた。睨んでいるつもりはないのだろうが、突拍子もない話だったため、目をしかめて俺を見る。
「しかも人気声優なんてレベルじゃない。超が付くほどの人気声優で、今一番勢いのある声優と言っても過言ではないほどの売れっ子だ」
「え、そうなの?」
彩絵が戸惑う気持ちもよく分かる。今日遊びに行ったばかりの、いつも仲良くしてもらっている身近な知人が実は超有名人だったと言われても、すぐにその事実を理解することは難しいだろう。それこそが俺をはじめとした声オタにとっては、最も羨ましい部分だったりするのだが。
「ちょ、ちょっと待って!!じゃあ、愛莉先輩って、テレビや雑誌に出てるの?!」
「ああ、もちろんだ。テレビはまだそれほど出ていないと思うけどな。CDも出してる」
「CDも……」
「それどころか、ライブにも出てるぞ。先月はZepp Tokyoで2000人くらいを前にライブやってた」
「……あっ!もしかして!!」
「どうした?」
「前、愛莉先輩に、『週末は何してました?』って聞いたことがあって。愛莉先輩はZepp Tokyoに行ってたって答えたのを思い出して……私は音楽のこととかよく分かんないから『楽しかったですか?』とだけ聞いたんだ。そしたら愛莉先輩、いつもより高めのテンションで、『すっごく楽しかった!』って言ってたんだけど……それがまさか出演側だったとはね」
ほー、と自分の中で納得したように、彩絵が少し苦笑いをしながら何度も深く頷いた。
「うん。おそらくそのライブ会場には、俺も行ってたと思う。彩絵はアニメに興味がないから、彩絵にはこれまでそんな話しなかったけど」
「確かにそういえば、愛莉先輩、最近ちょっと忙しいとは言ってた……愛莉先輩が仕事してるってのは知ってたけど、それを細かく聞くのも悪いかなと思って、聞かないようにしてたんだよね。てっきりバイトとかそんなのだと思ってた」
「ま、普通はそう思うよな」
彩絵は少し神妙そうな面持ちになる。
「……愛莉先輩、そんなに忙しいのに、それでも私に会ってくれてたんだ。今日だって、きっとお仕事もお休みのはずだよね?それなのに、私のために時間を作ってくれたんだ……なんだかちょっと悪いことした気持ちになっちゃうなあ……」
「それだけ彩絵のことを大切に思ってくれているってことだよ、きっと」
「……なんでだろ。なんかお兄ちゃんに言われるとちょっとムカつく」
いや、こっちこそなんでだよ。自分がしみじみと感じていることを言い当てられたから、とかそんなところだろうけど。
「まあ、そんなことはいいんだ。そんな彩絵に折り入ってお願いがあるんだ」
「お願い?愛莉先輩を紹介してとかだったらイヤだよ?」
「愛莉先輩を私に紹介してください」
「死ね」
そのあまりにストレートなワードに俺は絶句する。即答どころか、言う前に牽制されていた。
「……あ、ごめん。つい、本音が」
それを言わなければ、まだその言葉が冗談だという可能性も残しておくことが出来たのに。まあでも、彩絵の立場からすると、そう思うのも、当然と言えば当然なんだろうけど。
とは言え俺も、ここで引くわけにはいかない。アニオタとして、一人の男として、喉から手が出るほど欲しかった千載一遇のチャンスが今、目の前にあるのだ。俺は改めて攻めの姿勢に入る。
「お願いします!!!」
「え?まさかのゴリ押し?」
俺は神様に祈るように、両手を合わせて彩絵に拝む。
「頼れるのは彩絵さんしかいないんです!!」
「そんな何回もお願いされたって無理なものは無理。私だけのことじゃないもん。愛莉先輩に迷惑かかっちゃうし」
「絶対に迷惑はかけませんので!」
「いや、それ自体がすでに大迷惑だから。私にとっても」
彩絵は本当に迷惑そうな顔で、俺の方を面倒くさそうに見る。
「どうしても無理ですか……?」
「うん。ごめんね」
「……そっか。分かった……」
「いや、どんだけ本気なのよ……」
「はあ…………」
俺の大きなため息がリビングに充満し、一気に部屋中が負の空気に満ち溢れる。室内のネガティブレベルが格段に上昇したせいで、照明も心なしか暗くなったんじゃないかと思う。放心して重くなった体は、ため息だけを放つ機械のようだ。
「……ねえ、そんなに好きなの?」
彩絵が呟くような声で、俺を見て問いかける。
「え……?ああ、うん……大好きなんだよ……」
さっきまでその説明は散々しただろう。俺が声優に対してどれだけの情熱を持っているか、しっかり伝わっているはずだ。
彩絵は胸の前で腕を組んで、一度何かを考え込む仕草を見せる。唸るように眉間に縦線を入れて、思考を巡らせている。
「……っていうかよく考えたらさー、今朝お兄ちゃん愛莉先輩と喋ってたんじゃないの?」
「へ……?」
「ほら、なんかお互いに自己紹介的なことしてなかった?」
「ああ、まあ軽く挨拶程度はしたけど……」
「じゃあ私が関与しなくても、もう面識は持っちゃってるじゃない」
「まあ……顔見知りにはなったと思うけど……」
簡単ではあったが、確かに面識はあるのかもしれない。向こうがしっかり覚えてくれていれば、の話だが。
「……絶対に愛莉先輩に迷惑かけないって約束できる?」
疑うような眼差しで、彩絵は俺をじっと見つめた。
「え……?は、はい!約束します!」
「約束守んなかったらお兄ちゃんの部屋にあるフィギュア捨てるから」
「う……わ、分かった!分かりました!フィギュアも守るために、約束も守ります!だからお願いします!!」
「あーはいはい!分かった!分かったから、ちょっと落ち着いて!!」
彩絵は間合いを取るようにため息を吐いて、興奮した俺を静止させる。その姿はさながら、なだめられた馬のように、俺は落ち着きを取り戻す。
「今週木曜日の放課後、学校近くのカフェに行く約束をしたの」
「カフェ……」
「学校から駅まで通学路沿いにあるオシャレな外観のお店でね、前から愛莉先輩といつか行こうって話してたんだ……お兄ちゃんの高校からだとちょっと遠いけど、一緒に来たかったら来ていいよ。もちろん、愛莉先輩に聞いて、OKがもらえればの話だけど」
「ぜひ!ぜひよろしくお願いします!!!」
「……お兄ちゃんって、本当現金だよね」
「ごめんなさい!自覚しているのでお許しください!!」
「自覚してる分、質が悪いわ……」
自分の浮き沈みの激しさは重々承知している。かといって、これが改善できるとも思えないけど。
「はー、っていうか、なんで二人ともこんな感じかなー……」
そう言って、彩絵は左手の人差し指を額に当て、深く息を吐く。
「ん?二人とも?」
「……?あー、何でもないよ。気にしないで」
彩絵は首を横に振る。いやいや、聞こえちゃったら、そんなものどうしたって気になる。
「いや、教えてくれよ。気になるじゃないか」
「……はははー」
乾いた笑いで、彩絵は俺の言葉を流そうとする。
「……お前、教える気ないだろ?」
「ありゃ、バレちゃった?」
彩絵はてへへとはにかむ。……こいつ、もう完全にごまかすつもりだな。
「あーじゃあもういいよ。とりあえず、確認よろしくな」
「うん。聞いとくよ。じゃあ、私歩き疲れちゃったから自分の部屋行くね」
そう言って、彩絵はテーブルから立ち上がり、リビングを出ていった。
「木曜日、か……」
こうして俺は偶然(本当に偶然以外の何物でもないが)、『アプローチ.9確率論』により水沢愛莉との接点を持つことに成功した。決戦は木曜日。俺は再度、心の準備に取り掛かることにした。
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