4-2
舞台は真夏日の新横浜、横浜アリーナ。
今回のライブはfineにとって、初めてのアリーナクラスでのライブとなる。愛莉にとっても地元横浜でのライブ開催は感慨深いものがあるだろう。
そんな愛莉とは対照的に、俺は物販の待機列にいた。7月の雲一つ無い快晴の中、35℃を超える気温はグッズのためとはいえ、さすがに堪える。事前に購入した凍らせたスポーツドリンクの氷も、完全に溶けてしまっている。見た目だけは涼しげな麦わら帽子を被った彩絵が、うな垂れながら額の汗を拭く。
「あっつい……」
「ああ、わざわざ言わなくても十分伝わってるよ……」
「声出すのもめんどい……」
「そうか、じゃあ喋るな……」
俺たち兄妹だけでなく、この待機列にいる全員のシンクロ率は90%を超えているだろう。
横浜アリーナの外周をぐるっと囲った物販の待機列は、傍から見ると圧巻である。毎週何かしらのイベントをやっていたりするが、並んでいるファン層を見ると、大体何となくその日どんなイベントが開催されるか想像が出来る。女性が並んでるものは大抵ジャニーズかK-POPだし、若い男女が半々くらいだとロック系のライブだったりと、非常に分かりやすい。今日の待機列からは、この気温にも関わらず黒基調の服が大半を占めることからも、アニメ系のイベントなんだと一瞬で想像が付くだろう。
「ねえ、お兄ちゃん。ここにいる人たち、全部オタクなんだよね?」
うな垂れながらも、素朴な表情で、俺に率直な疑問をぶつける素直な妹。周囲のオタクが俺の方をギロッと睨み付ける。絶賛並んでいる待機列で、そんなこと言わないでくれないか妹よ。とは言ってもみんなオタクなので、心の中で文句を言われるだけで、周囲の人々ともめたりするということはないが、単純に列に居づらくなる。
「……そうだけど、ここで言わなくていいよ」
「オタクって、こんなにいるものなんだね……」
確かに、彩絵のようにオタク趣味とはかけ離れた生活をしている限り、これだけのアニオタを目にする機会は少ない。そもそも家から出なくても楽しめるのがアニメやゲームの一つの利点でもあるのだから、そういった趣味を持ったアニオタと外で出会うことは必然的に少なくなる。
しかし、こういったイベントは別だ。コミケを始めとしたビッグイベントや、アニサマなどのライブイベントには、たくさんのオタクが集結する。そして、誰が教えたわけでもなく、ほとんどのオタクが会場のルールやマナーを愚直に守り、スタッフの指示を忠実に実行する。もちろん一部マナーの悪い輩もいるが、そんなのはアニオタに限らずどんな集団にも必ずいる。周囲に迷惑をかけることなく、みんなで楽しむことのできるイベントを作ることは、参加者の最低限のマナーであり、最高の誇りだ。
「ほら、もうレジ着くから、頑張れ」
「……ライブって、始まる前からこんなに疲れるものなの……?」
まあ物販さえ買わなければ、本当はここまで疲れることはないのだが。しかし彩絵にはそのまま、イベントとはそういうものだと認識してもらっておくことにする。
俺たちはようやくたどり着いたレジで、会場限定販売のタオル、LEDペンライト等のグッズを購入し、軽く武装して会場入りした。
会場の中に入ると、fineの大きな看板が吊り下がっており、関連アニメやアーティストの広告ポスターが壁のあちらこちらに貼ってあった。
「おおっ!お祝いの花もたくさん届いてる……さすがfineだな」
押し込まれるようにその敷地内にぎっしりと並べられた花の中には、アニオタなら全員知っているであろう某有名企業や音楽レーベル、雑誌やアニメの制作会社名がいくつもあった。加えて、メンバーのそれぞれが個人的に関係のある有名な声優からもいくつか届けられていた。
「こうやって見ると、やっぱfineってすごいんだな……」
fineの人気度合いを思い知らされる。よくよく考えてみれば、ライブチケットの抽選に何度も外れるってことは、当然それだけこのライブに参加したいという人たちがいるわけなのだ。今更という感じはしないでもない。
「…………」
「彩絵、どうした?」
彩絵は吊り下げられたfineの大看板を眺めがら、ぼーっと突っ立っている。
「……愛莉先輩って、こんなに人気あったんだね」
「前に説明しなかったか?」
「うん、説明は聞いたけど、正直あんまり実感がなかったんだよね。結局私が知ってるのは、身近な愛莉先輩でしかなかったから。でも、実際にこういうのを目の当たりにすると、本当に先輩が声優という仕事をしてて、しかもこれだけの人気があったんだなって肌で感じるっていうか……」
「そういうことか。なるほどな」
感慨にふける彩絵の横で、俺は頷きながら相槌を打つ。
「お兄ちゃんの言うことを信じてなかったわけじゃないよ?でも、やっぱり私が知ってる愛莉先輩は、いつも私のことを可愛がってくれて、学校案内をしてくれた優しい先輩だったからさ」
彩絵がそう考えるのも、無理はないのかもしれない。彩絵にとっては、そちらの愛莉の方が現実なのだから。そういう意味では、今回このライブに一番複雑な思いを持っているのは、彩絵なのかもしれない。
「……愛莉が彩絵に声優のことを言わなかったことに対して、怒ってたりするか?」
彩絵は首を横に振る。
「んーん、全然。先輩がお仕事のことを言わなかったことについては、私別に怒ってたりしないよ?むしろ、先輩は私の知らないところでこれだけ頑張ってたんだなって、誇らしいくらい。ただ、私の知ってる先輩と、お兄ちゃん達の知ってる愛莉先輩が離れすぎてて、そのギャップにちょっと戸惑っちゃっただけ」
彩絵が笑顔を見せる。どことなくその笑顔は作り物で、少しだけ無理をしているような雰囲気がした。
「ねーお兄ちゃん、早く席に座ろうよ。私もう疲れちゃった」
オタクでもない彩絵にも物販に付き合ってもらったせいで、彩絵はすでに疲労困憊といった感じである。
甲子園の地区予選が始まったばかりのこのくそ暑い時期に、俺たちオタクは数時間にも及ぶ待機列を経て、グッズを購入する。いくら運動するわけではないといえ、よくよく考えたら異常である。その熱意は何とも説明しがたい。彩絵のことは気になるが、とりあえず席まで移動することにしよう。
「ああ、そうだな。えっと、関係者入口は……あ、あっちだ」
そうなのである。今回俺たちは、『関係者』なのだ。もちろん水沢愛莉の、だ。そう考えると、妹様には本当に感謝しなければならない。あれだけチケットを入手することができなかった俺が、今は関係者用チケットを手にしているのだ。やはりこれは運命力という他ないだろう。自然と笑みがこぼれる。
入場で混雑する一般入口を横目に、さしずめ某テーマパークのファストパスを手に入れたかのような涼しい顔で、俺たちは関係者入口を通過した。
「いや、お兄ちゃんの力じゃないから」
「……調子乗りました、ごめんなさい」
妹に叱られながら、俺たちはチケットに指定された座席へと移動する。
場内はすでに、かなり席が埋まっており、あとはライブのスタートを待つばかりといった状況だった。
上から見るアリーナは圧巻だった。とにかく人で埋め尽くされており、まさに人がゴミのようだと言いたくなるような、それくらい圧倒される景色だった。
「すごい……これ、全部愛莉先輩たちのファンなんだよね?」
「ああ、もちろん。正直俺も、これだけファンがいたことを肌で感じて、改めてびっくりしてるよ」
紗月茜(さつきあかね)、那風彩花(なちさいか)、日向葵衣(ひなたあおい)、そして水沢愛莉。この4人の女の子を見るために、これだけのファンが集まっている。今ではそれぞれがかなり人気のある声優ということもあり、fineがこれだけの人を集めるというのも納得が出来る。
「なんだか本当に不思議な気分だよ。これからこのステージに愛莉先輩が立つことになるなんて、未だにまだ信じられない」
彩絵はこれから始まる不思議な光景を目前に、夢でも見るかのような表情でつぶやく。
「うん、俺もまだ信じられないよ。あのステージに立つfineのメンバーと顔見知りになっただなんて」
「……それ、私の感じてることとちょっと違うんだけど。さりげなく一緒にしないでくんない?」
彩絵がムッとした表情で俺を睨んだ瞬間、会場が暗転した。同時に、アリーナから大音量の歓声が上がる。真っ暗となった会場ステージのスクリーンに、真っ白な映像が浮かび上がる。
『始まった私たち、終わった私たち。』
『いつだって、今が私たちの最終到達点。』
『we are …fine!』
その字幕が終わるのと同時に、キラキラしたシンセのイントロがステージから流れ出る。このイントロは……新曲!
「ハッピーデコレーションだあああああああ!!!!!」
彩絵が横にいるのも忘れ、俺は1ファンとして関係者席で曲名を叫ぶ。関係者席とは言え、このテンションの上昇は止められない。
正面が照明で照らされた瞬間、ステージ上にfineの4人が現れる。茜、彩花、葵衣、もちろんそこには愛莉もいた。メンバーは白を基調にしたステージ衣装で、スカートだったりショートパンツだったりと、上下少しずつそれぞれの個性に合わせたアレンジが加わっている。愛莉は上はフリルが付いたベストに、下はティアード加工がされたスカートを履いていた。
「みんなー!いっくよー!ハイ!ハイ!ハイ!ハイ!」
彩花の掛け声に合わせて、会場内がコールとサイリウムで湧き上がる。もちろん俺もそのうちの一人だ。まるで爆発したかのような会場の盛り上がり方に、一段と俺のテンションも高まる。
「フィーネが横浜アリーナに!やってきたよー!!!」
ガムシロップのような葵衣の甘ったるい声をきっかけに、歓声とともにアリーナが一斉にオレンジ色へと変わる。この間ワラワラ生面談でも見たはずの日向葵衣は、別人のようにカッコ良い。ステージに立つということは、完全にアーティストとしての表情へと変化するスイッチみたいなものなんだろう。
「みんなでハッピーにデコレーションしようねーー!!!」
愛莉がマイクを通して会場に呼びかけると、割れんばかりの歓声が客席から返ってくる。その歓声を聞いて、踊りながら水沢愛莉は笑顔で頷き、手を上下に掲げて客席を煽った。それは、間違いなくショッピングモールでダラックマに抱きつくあの水沢愛莉であったけれど、本当に同じとは思えないほど純粋にかっこいいステージ上の愛莉の姿がそこにあった。ダンスも、以前見たときより動きがさらに増しているように思う。愛莉のその表情は、彩絵や俺の前では決して見せることのない、fineとしての水沢愛莉のものだった。
『触れるチャンスその右手 あと一歩!今日も届かない
見てる視線もう遠すぎ! また失敗!こんな近くにいるのに』
軽快に流れるバンドサウンドの甘酸っぱいAメロは、彩花と葵衣、次に茜と愛莉の組み合わせで交互に歌われる。夏空のように爽やかに透き通るような4人の歌声が、彼女たちを見に来た横浜アリーナの観客へと吸い込まれていく。
『ピンヒール履くのは もっと近づくため
鈍感!ダメダメ! もう我慢できない!』
Bメロに突入すると、いつも以上にテンションの高い那風彩花の煽りに負けないように、fineの歌声を俺達はPPPHで後押しする。スピーカーから流れる彼女たちの声に負けないほどの音量がアリーナ全体から響き渡る。その様子を見た彩花がウィンクをして観客にオッケーサインを出すと、また会場全体が1曲目とは思えないほどの一際白熱した盛り上がりを見せた。
『気付かないあなた 変えたパフューム ギュッと袖を引いてみた 違うの気が付いてよ!
近付く背中 伝わるかな? 見せるデコルテ 大好きのサイン! ハッピーデコレーション!』
乙女心を4人全員で歌うサビのフレーズに合わせて、乙女心とはまるで対照的なオタクたちが一斉に様々な色のサイリウムを突き上げる。もちろん『デコレーション!』の部分は観客全員がみんなで声を上げた。光の海となったアリーナが、一体となってfineをこの横浜アリーナに迎え入れる。その中の一員として、俺も一緒に水色のサイリウムを突き上げる。誰一人として同じ人はいない。そんな俺たちが各々の色でそれぞれが彩る、それこそが俺たちのハッピーデコレーションだ!(fineのオフィシャルサイトより引用)
ライブは順調に盛り上がりを見せ、MCに突入した。リーダーの紗月茜がステージのセンターにやってきて、会場に呼びかける。
「フィーネ、サードライブへようこそー!みなさん、今日は来てくれてありがとうございまーす!」
会場が野太い声と拍手で包まれる。声優ライブの特徴とも言っていいこの地響きのような歓声は、何度経験しても少し笑いそうになる。
「じゃあ、さっそくだけどいつものやつ、いくよー?」
茜は目をつぶって、大きく深呼吸をする。
「せーのっ!ウィーアー……」
会場全体がタイミングを合わせる。もちろん俺も、呼吸を合わせて次の一言への準備をする。
「フィーネー!!!」
マイクを通してスピーカーから響く4人の美しい声と、アリーナやスタンドを含む周囲からの野太い声が会場内で交わる。
「よくできましたー!ありがとー!」
茜が話す後ろで、残りの3人が手を振る。
そうやって茜、彩花、葵衣が続けてMCをしたあと、いよいよ愛莉が話し始める。愛莉の番がやってくると、一段とステージに呼びかける歓声が大きくなる。愛莉に対するこの声援の大きさが、愛莉の人気が急上昇していることを実感させる。俺が話すわけでもないのに、どうしてか少し緊張してしまっている自分がいる。ドキドキしたまま、祈るような気持ちで俺は愛莉を見守る。
「はい。私の苦手なトークタイムがやってきてしまいましたー!」
愛莉の発言に会場がドッと笑いに包まれる。掴みとしては完璧だ。会場全体の空気を味方にして、愛莉はこのライブに向けた思いを話し始める。
「水沢愛莉です。横浜出身の私にとって、この横浜アリーナはやっぱり特別なものがあります。これまで自分が何度も見に来ていたこの会場で、まさか私自身がステージに立つことができるなんて、夢にも思いませんでした。横浜アリーナでライブを開催することが決定してから、まだ声優として半人前にもなっていないような私が、こんなにも大きなステージに立っていいのかという思いと葛藤がずっとありました。まだまだまだまだ実力が足りないんじゃないかって」
まだ声優として活躍し始めてから、1年と経っていない水沢愛莉が抱える戸惑い。ここ1年で急上昇した愛莉だからこそ感じる不安を、愛莉はハッキリと言葉にする。
「それでも私がここに立っていられるのは、紛れもなく、今日来てくださっているみなさんを始め、応援してくださる私達のファンでいてくれるみなさんのおかげです。不安だけど、私はこの声で今の私を届けたい。そう思わせてくれた人のために歌を歌いたい。やっぱり、声を出すことが私のお仕事だから。いつもいつも支えてくださってありがとうございます。私は本当にメンバーやファンのみんなに助けてもらってばかりで……」
感極まった水沢愛莉が、涙腺に歯止めをかけるように瞼を抑えた。それを見た観客席からは、愛莉を応援する声があちこちから飛び交う。
「ありがとうございます……ほらね?こうやっていつもみんなが助けてくれるの」
涙を指の甲で拭いながら、えへへと愛莉は精一杯の笑みを見せる。
「だから、私もそれに応えるために、今の等身大の私を一生懸命歌います!みなさん!まだまだ元気残ってますか!?」
ウォー!!という野太い声の返事が会場を包む。
「ふふ、それでオッケーです。じゃあ、この後もライブを全力で楽しんでいってくださいね!もちろん私も全力で楽しみます!水沢愛莉でした!」
歓声と拍手で包まれる中、愛莉は一歩下がって他のメンバーと並ぶ。fineの4人が会場に向かって再度手を振って、次の曲への準備に入る。
見慣れた顔、透明感のある声。それは紛れもなく人気声優、水沢愛莉だった。最近何度も会っているせいで、その距離が近くなった気がしていたが、そんなのは全くもって俺の勘違いだった。この大舞台をしっかりと受け止めて、向き合って、観客と必死にコミュニケーションを取ろうとするその女の子は、間違いなくこの会場にいる誰もの憧れの存在だった。
ふと修さんが言っていたことを思い出す。声優は人気商売だという言葉。今日この会場に来ている人は、星の数ほどいるfineのファンのほんの一部でしかない。それだけのファンがいるということは、彼女がそれだけのファンの信頼を失う危険性も孕んでいるということでもある。俺は、そんな事実を改めて実感する。その事実を俺は受け止められるだろうか。
そんな思いを持ちながら、愛莉が埋め合わせとして俺と彩絵にプレゼントしてくれた横浜アリーナでのライブは幕を閉じた。
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