第7話 慟 哭(どうこく)

            

「すみませーん」

 冠木門の脇の『小山内勝手口』と書かれた、引き戸の左側のインターホンを押して隆一は声を張り上げた。応答はない。店のほうが鍵がかかっていたことから、もしかしたら――という思いはしたのだが……。

 隆一が、今日訪ねてくることを、主人はわかっているはずだが、なにか急用でもできたのだろうか。出直すべきか……と隆一は思い、地べたに置いていたアタッシュケースを手にした。マニュアルの他、分厚いエクセルの解説書やCDロムの類が入ったそれは、さらに重くなったように感じられた。

 電力の消費がピークに達する時間帯だけに、アスファルトに当たっている木洩れ日さえも強烈で、噎せるような熱気が澱んでいた。じっとしていても汗が噴き出してきて、この重い荷物を提げて引き返すことは、苦痛に思えてきた。

 もしかしたら、主人は昼寝でもしているのかもしれない、と思いながら隆一は引き戸を開けてなかに入り、再度「ごめんくださーい」と声を上げた。

 すると、玄関の左手の、葦戸が下りた辺りから、「どうぞ、お入りください……」という声がした。それは、主人と違う、通りのよい女性の声で、どこかで訊いたことがあるような声色(こわいろ)だった。

 へんだな……と隆一は思った。ここには、主人以外は誰もいないはずだった。新しく人を雇ったのだろうか。それにしては、随分客慣れした言葉だなと思いながら、主人が留守なら出直すしかないか……と、さらに隆一は考え込んだ。訊いたことがある声――というのもなんとなく引っ掛かったし、それはいいとしても、相手が初対面の女性では、頼まれたことをやるにも要領を得ないだろう、と思えたのだ。

 だが、ここまできてなにも後込(しりご)みすることもないし、帰るのは様子を窺ってからでも遅くはないと思い直した。いつもなら、このまま上がり込んでいいことになっていたが、さすがにそれは自重して、高麗芝のなかに埋め込まれた飛び石を踏みながら、左手の別棟に続く辺りの濡れ縁に向った。

 手入れされた庭が広がっていた。低い枝折戸(しおりど)に囲まれた花壇の数本の向日葵は、前に見た時よりも丈が伸びたようで、葉の色も深みを増していた。強い陽に照射されたその鮮黄色の舌状花は、対照的な周りの緑の色合いのなかで鮮やかに浮かび上がり、聞こえる蝉の鳴き声とともに風情を盛り上げていた。

 この家を象徴している、石垣沿いに等間隔に植えられた木は、九州では一つ葉と呼ばれている犬槙(いぬまき)のようで、綺麗に剪定された枝が芝生に短い影を落としていた。勝手口に近い位置には、陽に焼けた人の腕のような木肌の百日紅(さるすべり)があり、小ぶりの枝の先に付けた、可憐な薄赤の花の色が映えていた。

 これまで2度も招かれていながら、隆一はここの庭をじっくり眺めたことはなかった。改めて視線を走らせると、なかなか趣向を凝らした造りのようで、隆一はアタッシュケースを濡れ縁に置いて、花壇の右側にある四阿(あずまや)の前にいった。

 その上には、主人が手塩にかけたと思われる「ゴヨウマツ」「ヒナウチワカエデ」「サトザクラ」といった、それぞれの名を書いた札が挿された盆栽に加え、黄や白の夏菊の鉢植えが並んでいた。いずれも、素人目にもわかる絵に描いたような見事なもので、同好の士には垂涎の的だろうことが想像できた。

 大きな庭石のそばに生えた、這松(はいまつ)の向うの石垣の角地には、竹垣に左右を仕切られた筧(かけひ)があった。青味が残る竹の鹿威(ししおど)しが発てる軽快な響きが蝉の声を裂くように聞こえてきて、手水鉢(ちょうずばち)に落ちる水の音ととも涼味を感じさせた。

 隆一は、そこへ足を運び、柄杓(ひしゃく)で掬った水を交互に掌にかけた。沁みるような水の冷たさに、ぼやけていた頭が覚醒したような気がした。それは地下水だということが、そばにある小さな電動ポンプでわかった。

 先客でもあるのか、まだ声の主は現われなかった。隆一は、濡れ縁に戻り、腰を下ろした。その途端に「いたっ」と隆一は声を上げ、即座に飛び上がった。渋い光沢を放っているそこは、照りつける陽光で火を当てた鉄板のように熱くなっており、隆一の臀部を燻した。少し傾いた太陽の光は、植木の間を縫ってこの一帯に集中しており、さながらサウナのなかだった。

 額からは、汗が滴っていた。シルクのスタンドカラーのシャツは背中にへばり付き、むず痒さを覚えた。背筋を反らせ、左手を右の肩口から回して掻こうとした。だが、手はそこに届かず、首筋がポキッと鈍い音を発てた。さらに手を伸ばしたら、今度は左肩に痛みが走った。「いたっ」という無意識の声のあとに、ふーっと溜息が漏れた。好きな草野球もゴルフも、このところ麻雀と酒に削がれ、運動不足が影響していることは明白だった。

 ハンカチを取り出そうと、チノパンの後ろポケットを探ったが、入っていなかった。独り身の哀しさで、最近はこういうことが多かった。大事なものは忘れぬようにと、前の日に揃えてテーブルの上に置いておくのだが、置きっぱなしの荷物が占領した仕事部屋では、それもままならない。

 加えて、出がけに予期せぬことが起こるとつい見過ごしてしまう。そういえば、今日は出際に電話がかかってきた。それは、日頃無縁の証券会社を名乗る男からのもので、株の勧めだった。

「相手を間違えているよ、まったく……」

 受話器を置いてから、ひとり隆一は毒づいた。

 陽は容赦なく照りつけ、蝉の合唱も一段と高く耳に響き、とめどなく汗が噴き出していた。隆一は、今日は帰ったほうがよさそうだと腹を決め、『緑一荘』でも覗いてみるかとアタッシュケースに手をかけた。すると、玄関のほうから例の声がした。

「お待たせしました。どうぞこちらに……」

 声にしたがい玄関に立つや否や隆一は息を呑み、「うそーっ……」と、言葉にならない声を上げた。なんと、三和土に立っている女性は、隆一が恋焦がれていたあの人だった。『緑一荘』で幾度か麻雀をした、向島のスナックのママだというあの憧れの人――。隆一は、地べたに置いたアタッシュケースが倒れるのも構わず、呆然と突っ立っていた。

「あら、似てる人だと思ってたら、やっぱりそうだわ」

 隆一が口を開く前に、相手がいった。

 血管が破裂したみたいに、頬が熱くなった。まずいところで逢ったと思いながら、「どうしてここにいるんですか?」と、隆一は小さな声で訊いた。

「それは、わたしが訊きたいわよ。あなたこそどうして?」

 憧れの人は、目を丸くした。

 毛先に効かせた柔らかなウエーブが、小さな顔を引き立てていた。ナチュラルな色のラインがダブルに引かれた目許は凛として、淡いピンクに彩られた唇が艶(なまめ)かしかった。仄かに輝く、ゴールドの華奢な変形ループのネックレスも、白い首筋に映えていた。

 アッシュグレーの、平編みの縦ラインのニットに包まれた形よく隆起した胸が、白の小花をあしらったマーメイドラインの黒地のスカートが描く曲線のシルエットと相まって、隆一の劣情を揺らめかせた。

 持ち前の美しさは日ごと洗練され、若さを盛り返してきているといった感じで、隆一は目を瞠った。こんな女性には、2度と巡り逢えない――。まずいところで逢った――という思いは、その麗しさにすでに掻き消されていた。

「ここの主人に、頼まれてることがあるもので……」

 上気した顔を隠すように、隆一は左手で前髪を掻き上げながらいった。

「それは、奇遇だわね。あなたは立石に友達がいて、時々やってくるのだと『緑一荘』のママに訊いたけど、それはここのことなの」

「そうなんですよ……。遠い親戚みたいなものだから、たまにきては仕事を手伝ったり呑んだりしてるんですよ。友達というのは、麻雀屋向けの嘘も方便ってやつでね」

「そうなの。愉しそうでいいわね」

「まあ、そこそこね……。ところで、おたくはどうして? 麻雀の誘い……」

「そうだったらいいんだけど、違うのよ。ちょっと、留守番を頼まれちゃってね」

 彼女は、微笑みながらいった。

 ここの主人は、きっと彼女の店の常連に違いない、だから留守番でも気安く頼めるんだと隆一は思った。ただ、隆一の意中の人だけに、その親密さを想像すると疎(うと)ましかった。

 主人も、美人には弱いごく普通の男のようで、もしかしたら、隙を狙っているのではないだろうかなどと、あらぬことを考えながら、「留守じゃしょうがないから、帰りますよ」と、気落ちしたようにいった。

「駄目よ……。わざわざきてくれた、遠い親戚の人を帰したんじゃ、猫の留守番だって、怒られちゃうわ」

 面白いことをいう人だ、できればゆっくり話をしたい、と思いながらも、

「残念だけど、またくるといってたと伝えてください」

 意思に反することをいって、隆一は荷物に手をかけた。

「ちょっと待って……。わたし気が利かなくてごめんね。そんな暑いところに立たせたままで、無駄話ばかりして……。いま、冷たいものを淹れるから、ちょっと上がって……」

 彼女は、すまなさそうな表情でいった。

「留守中に上がって、こっそり美人と話し込んでいたら、主人が嫉妬するでしょう」

 冗談交じりに隆一はいった。

「まあ、美人だなんて……。でも大丈夫よ。あんなオヤジがや妬くわけないわよ」

「そんなこといっていいんですか。僕はいいつけちゃうかもよ」

「いいわよ、いいつけても……。だって、ほんとにそうだもの……」

 なに食わぬ顔で彼女はいい、可愛らしい八重歯を覗かせながら小さな笑い声を上げた。

 それは隆一の耳に、小気味よく響いた。一方で、こんな言葉が吐けるということは、主人はこの人のパトロンなのでは……という思いが過った。

「主人は面倒見はいいけど、なんでも他人に頼むんだよね。おたくも留守番を押しつけられちゃったんだ」

「…………」

 無言の、相手の反応を探るように、隆一はさらにいった。

「綺麗な人に、こんな退屈なこと頼むなんて、野暮ですよね」

「そうなのよ……他人の気持ちがわからない人なの……」

 微笑みながら相槌を打ってくれた彼女に、隆一も微笑を返した。

「それはともかく、あなた、手伝いにきたんだったら、ちょっと待ってればいいじゃない。それがすんだら『緑一荘』にいくつもりなんでしょう。だったら、わたしもいくから一緒に麻雀しましょう。久しぶりにあなたと打ちたいわ」

 まさにそのとおりで、血が騒ぎ出した。隆一は、腹を決めた。もはや、彼女と主人の関係なんて、どうでもいいと思えてきた。

 彼女は、エアコンの効いた応接間に隆一を通すと、「暑いわね」といいながら、ビールとオシボリが載った丸い盆を持ってきた。それをテーブルの上に置くと、丸めたオシボリを広げながら隆一のそばに坐り、「これ、氷水で濯(すす)いだから、気持ちいいわよ」と、いきなり隆一の右頬に押し当ててきた。

 隆一は、その冷たさよりも、彼女の咄嗟の行為に驚き、そこへ左の手を伸ばした。それが柔らかい感触の、彼女の手の甲に重なった。隆一は、無意識のうちに彼女の左の前腕を摑んでいた。

 手首に填めた、黒いベルトにブルーの文字盤のクロノグラフが目に入った。渋く耀いているΩのマークで、流行りの高級品らしいことがわかった。

 彼女は、隆一と目線が合うと、さっと手を引いた。その拍子に、オシボリは隆一の膝に落ちた。彼女はそれを黙って拾い、向き合って坐った。

「暑いから、ビールがいいでしょう。わたしも呑むから、遠慮しないでね。さあ、どうぞ……」

 グラスを差し出すと、彼女は右手でラベルの下を摑み、オシボリを握った手はそっと瓶の底に添えた。陋巷(ろうこう)の呑み屋ではお目にかかれない、上品な雰囲気をその仕種のなかに漂わせながら、彼女はビールを注ぎはじめた。

 ルージュと同系色の、マニキュアに彩られた爪が淡い光を放っていた。しなやかな白い指は、牌さばきで見せるときとは違った、客に阿(おもね)る女の色香を発散しており、隆一は彼女の手を握り締めるように、グラスを持つ手に力を込めた。

 この人の店を早くに知っていたなら、夜な夜な通いつめたに違いない自分の姿を隆一は想像した。

 乾杯のあと瓶を持った隆一に、

「いいのよ。お客さんは気を遣わなくても……」と、笑みを作った。

「お客さんだなんて、そんな……。もしかしたら、招かれざる客だったりして……」

 隆一は、照れていった。

「なにをおっしゃる。あなた遠い親戚なんでしょ……。そうでなくても、ここへくる方はどなたも大切なお客様だ、というのが父の持論なのよ」

 彼女は、ニヤニヤしながらいって、隆一を見つめた。

「父って……。おたくの旦那さん?」

 怪訝に思い、隆一は訊き返した。

「面白いこというのね。父がわたしの旦那ってことないでしょう……。わたしに亭主はいないから、あなたと遠い親戚らしいここの旦那のことよ……」

 彼女は、悪戯っぽい目をして、笑い出した。

 隆一は、しばし考えた。父がここの旦那――とはどういうことか……。

「えっ、まさかそんな……」

 隆一は目から火が出る思いで、胸のなかで叫んだ。呑みかけたビールを、吐き出しそうになった。オシボリを手に、顔を蔽った。そういえば、目許の辺りは主人に似ている。「だったら、早くいってくださいよ……」と、いいかけた言葉を隆一は呑み込み、

「ということは、ここはあなたの実家? すみません……いままでのは、みんな取り消し。ジョークだから勘弁してください」

 俯き加減でいい、火照った頬に手を当てながら頭を下げた。

「いいのよ。みんな当たってることだから……」

 彼女はまた、隆一に八重歯を見せた。

 いわれてみれば、それはわかってしかるべきことだった。いくら常連とはいえ、主人が安直に他人に頼み事をするわけがないと、冷静になれたいまは思った。逢えた嬉しさで有頂天になり、「近くに娘がいる」と訊いていたことに、頭が回らなかった。

 俯き加減の隆一のグラスにビールを注ぎ足すと、彼女は口を開いた。

「あなた、ほんとうは父と同業者か、協同組合関係の人なんでしょう。それとも、事務機屋さんかな?」

「まあ、そんなようなものです……」

 こたえてから隆一は、どこがそんなようなものなんだ――と、自分に失笑した。

「あなた、確か、中園さんといったわよね。雀荘では呑んでばかりで、あまり喋らないから、お堅い性格なのかと思っていたけど、意外に愉快な人ね」

「いえいえ、ごく普通だと思いますけど、なぜか美人や知らない人の前では、借りてきた猫になっちゃうんですよ」

「まあー、冗談ばかりいって…。でも、嬉しいわ。もっと呑んで……」

 残り少ない瓶を自分のグラスに傾けると、彼女は新しいビールを出してきた。

 暑さで咽喉が渇いていたことに加え美人の酌とあっては、捗(はか)がいくに決まっている。隆一は、照れを隠す意味もあって、注がれるままに呑んだ。

 酔いが回ったところで、隆一は切り出した。

「お店やっていると訊いたんですが……」

「そうなの。小さなスナックだけどね。向島でやってるの」

「忙しいですか?」

「…………」

「ゴメン。この別嬪(べっぴん)のママさんして、暇なわけないか……」

 すぐに隆一は、いい直した。

「あなたって、麻雀だけじゃなく口もお上手ね。誰にでもそういうの?」 

 目許を染めながら、彼女はいった。

「とんでもない。そうでない方に別嬪だなんていったら、それは侮辱ですよ。僕は、女性に嫌われるようなことは、いいません。それに、麻雀は下手の横好きというやつ。メシより好きなんです」

 本音を交え、隆一はいった。

「本気でわたしのことそう思ってくれている? だったら、わたしも、本気になろうかな。麻雀という共通の趣味もあることだし……」

 彼女は嬉しそうに目を輝かせると、さらに、店の名が自分の名前の瑠璃子(るりこ)から取った『瑠璃』だということ、いまはひとりで会員制として切り盛りしている――ことを語った。

 あの夜、いきがかりに見つけた店がそれだと隆一は思いを新たにし、自分の推理が当たったことが、ことのほか嬉しかった。

「瑠璃子って名前、いいですね。瑠璃も玻璃(はり)も照らせば光る──というし、華やかさのなかに、どこか愁いを秘めている理知的なあなたにピッタリだ」

 そういうと、隆一は相手の目を見つめた。抱きしめたくなるような、妖しい光を放っていた。

「そう。そんなにいい名前かしらね……」

 少し俯いて、彼女はいった。

「いい名前ですよ……。それに美しいときてるから、ファンが多いでしょう。お店には、夜毎通ってくるんでしょうね、追っかけみたいな熱烈なファンが……」

 隆一は本音で探りを入れた。額に、汗が滲むのがわかった。

「ほんとに、嬉しくなっちゃうわ……。あなただけよ、そんなにいってくれるのは……」

 彼女――瑠璃子さんは、少女のような笑顔を見せると、隆一のグラスにビールを注いで、続けた。

「そこそこ通ってくれるお客さんはいるけど、特定のファンなんていないわよ。さっき話したように生意気にも会員制だし、一見(いちげん)はお断りだから……」

「それは、立派なことですよ。星の数ほど呑み屋があるこのご時世に、客をセグメントできるなんて……」

「そういう時代だから、逆に選ばないといけないのよ。この商売は、お客さんの数ではないから……。店のキャパシティや商店街というロケーションを考えて、それにマッチしたオリジナリティを打ち出さなければ駄目なのよ。といっても、わたしの店になにがあるかと訊かれると、こたえられないんだけど……」

「その美しさが、どこにもないオリジナリティですよ」といいたかったが隆一は自重し、「そういうものですかね」と、返した。

「そうなの。でも、会員制にすることで、ゆったりとした空間と時間を提供する、という開店当初からのポリシーは貫いてこれたと思っている。誰でも彼でも入れて、売上げだけ確保するというのは好きじゃないし、わたしには向かないもの」

「それができるということは、魅力があるんですよ。瑠璃子さんに……」

 隆一が、「瑠璃子さん……」と強調した言葉を彼女は意識したようで、合わせていた視線を逸らせた。その程度の褒め言葉は訊き飽きているだろうはずなのに、少女のように含羞(はにか)むところがまた可愛らしかった。

 やや沈黙のあと、顔を上げた瑠璃子さんは、「そんなことはないけど、どうにか20年近く保(も)ったわね」とこたえた。

「保ったわねっていうと、もう、やめるみたいに聞こえるじゃないですか」

「じつはね、もうやめたいと思ってるの。お店は保っても、家庭はその半分も保たずに崩壊したし……。ひとりの気安さから、もうどうでもいいや、と投げ遣りになるときがあるのね……。いまが潮時なのかもしれない」

 瑠璃子さんは、哀しい目を隆一に向け、グラスのビールを呑み干した。

「ファンが嘆きますよ」

「そうよね……。お店を盛り上げてくれている客さんがいるというのに、勝手に休んでは麻雀に興じるわたしは、ママとして失格よね。最近、躰の調子がよくないのも、そのせいかもしれない」

「…………」

「訊いてるでしょう? あそこで……。店を休んでは麻雀三昧だって……」

 瑠璃子さんは、自棄(やけ)になったように、またビールを呷った。そして、「呑んで」と、隆一にも勧めた。

「そんなこという人、誰もいないですよ。もっとも、僕はしばらくいってないから、最近のことはわからないけど……」

 隆一はこたえ、いっぱいに注がれたグラスに、口のほうを近づけた。

「そのとおりのことをしているんだから、なにいわれたって構わないけどね」

「僕のほうこそ、いろいろいわれているんじゃないのかな。大の男が、真っ昼間から麻雀ばかりやってるんだから」

「あなたのことは、みんなが褒めてるわよ。芸術家タイプで、綺麗な麻雀を打つ人だって……。とくに、ママなんか、どんな仕事しているんだろうね、感じのいい人だよねって、いつもいってるわよ。あなた、惚れられちゃったんじゃない」

 瑠璃子さんは、少し笑みを見せた。

「まさか……それはないですよ」

 隆一は、照れながら否定した。

「あのママも別れたばかりらしいから、寂しいのよ、きっと」

 別れ……と訊いて、隆一は身につまされるものがあった。主人、みゆきを筆頭に、いま、目の前にいる瑠璃子さんや雀荘のママも、揃って別離を体験した当事者なのだ。それぞれの別離の時期と理由は各人各様だろうが、最近接点を持った人が、揃って哀しい過去を持っているということに、隆一は因縁めいたものを感じた。それは、隆一に直截な繋がりはないものの、なぜか、すべて自分が関与しているように思われてきて、哀しくなった。

「それじゃ、せっせと通ってあげなくっちゃね」

「あら、優しいのね。ママに伝えてあげなくちゃ」 

 瑠璃子さんに誘いを向けたつもりだったのに、瑠璃子さんの解釈は違ったようだ。

「瑠璃子さんと一緒にいきたい、という意味でいったんですよ」

「そうなの。だったら、いいわよ。毎日でも……」

 そういいながら瑠璃子さんは席を立ち、またビールを持ってきた。

「もう、たくさんですよ。昼間から酔っ払っちゃった」

 隆一は、遠慮がちにいった。

「いいじゃない。酔っ払ったついでに、もっと呑みましょうよ。わたしも酔っ払うから」

 そういいながら瑠璃子さんは、隆一のグラスを満たした。

 隆一は、その瓶を取り酌を返した。

 瑠璃子さんは、一気にグラスを空けると、すぐにまたビールを注ぎ、呑むピッチを上げはじめた。

 隆一は、言葉に窮し、「酔っ払い相手の商売だけに、なにかと気苦労も多いんじゃない?」と、さりげなく切り出した。

「そうね。最近、とくにそう感じるわ。どこかにいって、のんびりしたいなーって思う。あなた田舎あるんでしょう……」

 そういってビールを呑み干した瑠璃子さんは、「ねぇ、どこなの?」と、求めてきた。

「九州・鹿児島です」

 隆一はこたえ、この前主人と語り合った、風光明媚な田舎の名所についての自慢話しをしたあと、「いったことがありますか?」と言葉を向けた。そして、この盆休みに帰省し、数年ぶりの田舎の夏を満喫すべく、計画していることも話した。ただ、主人が一緒にいく予定だということは伏せておいた。

 なぜだか瑠璃子さんは、テーブルに置いた泡が残ったグラスを両手で握り締めたまま、俯いていた。

 綺麗に揃えた眉の間に翳を滲ませ、長い睫にも微かに光るものがあった。勝負のときは思い切りがよく、明眸皓歯が眩(まばゆ)い瑠璃子さんが、なにか思い詰めている――。隆一は、そんな気がした。

 黙って見ていると、瑠璃子さんはグラスを横にしたり、手のなかで回したり、かと思えば虚ろな視線を天井に向けたりといった、なにかに憑かれたような仕種を繰り返していた。

 なにか、瑠璃子さんを哀しくさせる話しをしただろうか。

 無意識に動いているような瑠璃子さんの細い指を眺めながら、隆一はこれまでの会話を振り返ってみた。しかし、咄嗟に思い当たることはなく、隆一は僅かに残っている瓶のビールを、ふたつのグラスに分けて注いだ。

 肩を落としてそれを見つめていた瑠璃子さんは、隆一がグラスを口に運びかけると、「あなた、鹿児島のどこ?」と濡れた目を向け、隆一の右手に触れてきた。

「鹿屋です」

 隆一は、こたえながらグラスを置くと、その手を握り返した。

 すると、瑠璃子さんは、テーブルの上に顔を伏せ、哭き声を洩らしはじめた。

 隆一はあたふたしながらグラスを移動させ、瑠璃子さんの肩に手をかけた。ふと、もしかしたら……という思いが脳裏を掠めた。

 隆一は、もう一方の手を瑠璃子さんの髪に遣りながら、なぜ、もっと早く、主人に訊いていたことに気が付かなかったのだろうかと、自分に問うた。

「最初の妻は鹿屋の人でね……」と主人はいい、やむなく別れたことを涙ながらに打ち明けた。そして、「5歳の娘だけを連れてきた」ことも……。もしかして……どころか、前者は瑠璃子さんの母であり、後者は瑠璃子さん自身なのだ。そうだ、そうなのだ──。

「九州・鹿児島です」との隆一の言葉で、瑠璃子さんは遠い記憶を甦らせたのだ。それにも気付かず続けた隆一の自慢話が、哀しさを堪えていた瑠璃子さんの心の琴線に触れ、さらに「鹿屋です」の言葉が追い討ちをかけ慟哭を促した。

 それ以外に、瑠璃子さんの涙の理由は考えられなかった。隆一は、詫びる思いで瑠璃子さんの髪を撫でた。

 美貌の裏に秘めている瑠璃子さんの哀しい過去を隆一は斟酌(しんしゃく)しながら、一瞬自分の幼年時代を振り返ってみた。決して恵まれたものとはいえないまでも、身を切るような艱難辛苦(かんなんしんく)を味わった、という思いはない。辛い経験といえば、母が他界した小学校5年のときに叔母のところに里子に出されたことぐらいだった。それも、恐い父の元から離れられて助かったというのが正直な気持ちで、辛いというより心のなかでは喜んでいた。海上保安庁に勤める夫を事故で亡くして、隆一よりひとつ上の娘とふたりで暮していた叔母も、それを歓迎した。

 それに比べると、瑠璃子さんが味わわされた幼少の頃の母娘の別離は、本人の与かり知らぬ戦争という外的な事由に起因しているもので、とりわけ不憫に思われた。

 哀しそうな表情の瑠璃子さんを見ているうちに、隆一自身も涙が零(こぼ)れそうになり、じっと手を見た。

 瑠璃子さんの、絹のような手に触れたときは熱を帯びたそれも、いまはなぜか指先が冷たく小刻みに震えていた。それは、効きすぎたエアコンのせいではないことだけは確かだった。

 そこはかとなく漂う瑠璃子さんの哀愁は、幼少の頃に負った心の瑕(きず)のせいかもしれないと隆一は思いながら、そっと瑠璃子さんの両手を取り、「綺麗な指をしてるのね」といった。

 瑠璃子さんは無言で首を振り、両手を腰の後ろに隠した。

「瑠璃子さんが生まれたのも鹿屋なんですね?」

 隆一は、瑠璃子さんが戻したテーブルの上の手に、再び自分の手を重ねながら訊いた。

 瑠璃子さんは、手を返して隆一のそれを強く握り締めると、こっくりと頷いた。

 この人も、幼少の頃の数年間は、隆一と同じように池の上公園辺りで遊んだのかもしれない。あの、浜田か高須の海で、水浴びしたのかもしれない――。そう思うと、急に近しくなったような気がして、隆一の鼓動は激しくなった。

 瑠璃子さんも、同じ思いに浸っているのか、胸の高鳴りがその両手を通して伝わってきた。

「一緒にいかれたらいいですね」

 隆一は、小声ながら、はっきりした声でいった。

「どこでもいいから連れていって……」と瑠璃子さんはこたえると、表情を強張らせて急に立ち上がり、「ごめんなさい。へんね、わたし……」とさらに次いだ。そして、含羞を湛えた目で隆一を一瞥すると、部屋を出ていった。

 隆一は、酔った頭で、瑠璃子さんが語った言葉のいくつかを反芻した。

「もうやめようかと思ってる……」「家庭はその半分も保たずに崩壊した……」

 瑠璃子さんは、なぜ数回だけ麻雀をしただけの隆一に、そんな深刻なことを打ち明けたのだろうか。父親の知り合いだという安心感からだろうか。それとも、勝負事が好きな者同士が抱く、連帯感からだろうか。それはどうでも、隆一は飛び上がりたいほどの嬉しさに囚われていた。

 いずれにしても、麻雀を抜きにした瑠璃子さんの素顔に触れられたことは事実で、急にふたりの間の距離が縮まったと思った。それは、博打という共通の趣味に対する思いを越えた、新たななにかが芽生えたということだ――隆一は勝手な解釈を廻らせ、胸を躍らせた。

 しばらくして、瑠璃子さんは、チーズとサラミのスライス、サニーレタスとマッシュルームのサラダを持ってきた。

「自分の家じゃないから、有り合わせばかり。ごめんなさいね」

 最初逢った時と同じ笑顔を見せた。

「とんでもない。僕のほうこそ、余計な気を遣わせてすみません」

 笑顔にいった。

 瑠璃子さんは、眉宇(びう)を曇らせた瑠璃子さんとは別人になり、大きな瞳を輝かせながら『瑠璃』の客のことや、麻雀に関する思い入れを話しはじめた。

 アイラインは少し滲んでいたが、持ち前の美しさは少しも損なわれておらず、隆一の気持ちは昂揚するばかりだった。話しを訊くだけで隆一も自然と笑みが零れ、瑠璃子さんと麻雀打つときのような明るさを取り戻していた。

「僕も会員にして下さい、せっせと通うから……。だから、お店はずっと続けて……」

 頃合を見て、隆一はいった。この人のためになるならば、なんでもしてあげたい――。自分の境遇より、瑠璃子さんのほうが大切だ、と思ったうえでの言葉だった。それが、自分の心をも癒す、唯一の手立てであるような気がしたのだ。

「ありがとう。あなたがきてくれるなら、やめないわ」


 ほろ酔い気分で話し込んでいるうちに時間は過ぎて、時計の針は4時を回っていた。さらに、3本のビール瓶が空(から)になっていた。隆一は、出されたお茶を啜りながら、そろそろ帰宅するだろう主人のことを頭に浮かべていた。もし、主人が帰ってきたらこの状況をどう説明しようか。主人に、瑠璃子さんのことを「雀荘で知り合いました」とはいえないし、一方の瑠璃子さんにも、質入れにきて主人と縁ができた――ことを悟られたくはない。

 隆一は、瑠璃子さんが思っている、「同業者か、協同組合関係の人」でもなければ、「事務機屋さん」でもない。その素性を瑠璃子さんに知られたなら、「調子のいい男」といった烙印を押されるだろう。そうなったら、この数時間の間に築いた瑠璃子さんとの絆が水泡に帰す。襤褸(ぼろ)が出ないうちに退散すべきだ――と隆一は思った。

 次第に、覚めかけていた酔いがぶり返してきて、額にはまた大粒の汗が噴き出しているのがわかった。隆一は、オシボリで顔を拭くと、立ち上がった。

 すると、玄関のガラス戸を開ける音がした。隆一が口を開く前に、瑠璃子さんは席を立っていった。時すでに遅かった。隆一は、腹を据えた。

 三和土の辺りから聞こえてくる話し声の一方は、思ったとおりの人のものだった。

「だいぶ待っていただいたから、ビールを差し上げたわ……」

 近づいてくる声の後ろから、主人がやってきた。

「おお、やはりあんただったか……」

 立ち上がって、挨拶をしかけた隆一を制し、主人はいった。

「留守中にご馳走になりました」

 正面に坐った主人に、坐ったままで隆一は頭を下げた。

「いやいや、待たせて悪かったね。ちょっと風邪ひいたみたいで、病院にいってきたんだよ」

 主人は、笑みを浮かべてそういうと、角2の薄緑色の封筒をテーブルの上に置いた。そして、酔いで火照っている隆一の顔をまじまじと見つめてから、テーブルの脇に置いてある3本の空瓶に目を遣った。

 その視線は、遠慮もせずに長っ尻でビールを呑んでいたこと咎めているようにも感じられ、隆一は切り出す言葉もなく、膝の上に手を置き俯いていた。

 なにげなく目に入った封筒の文字は、御茶ノ水駅よりほど近いJ医科大学附属病院のものだった。風邪ぐらいで、そんな大病院にいくものだろうかと隆一は思った。

 もしかしたら、数日前に青戸に一緒に呑みにいったのが災いしているのでは……と気になってきた。これ以上の長居は、病院帰りの主人とまた呑む羽目になるだろうし、悪影響を及ぼす。隆一は辞去のタイミングを探りはじめた。

「お父さんもビール呑みますか」

 聞こえてきた声に重ねるように、「わたしは、そろそろおいとまします」と隆一はいった。

「ええっ……まだいいじゃないですか、ゆっくりして……」

 ビールを持ってきた瑠璃子さんが、声を上げた。

 主人は、怪訝な顔をして、「なんだよ……。お前たちは前からの知り合いか?」といった。 

 それも当然で、隆一は言い訳しようとした。

 すると瑠璃子さんは、主人にわからぬように隆一に目配せして、

「えっ、わたし、おかしなこといいました。お父さんが帰ってきたばかりなのに、帰らなくても……と思っただけです」と、恍けた。

 隆一は、はたと困った。

「そうか……。だけど腑に落ちんな。初対面のお客さんに、昼の日中にビールを勧め、一緒に酒盛りするとはね。自分の店の客のように、安っぽいサービスで籠絡しようとでも思ったのか。だが、この人は、そこら辺の男とは物が違う。お前みたいな女を、本気で相手にするような人じゃないんだよ」

 主人は、眉を顰めていった。

「なによ……。お客さんの前でそんな言い方はないでしょう。暑いから、冷たいものを出そうと思ったら、ビールしかなかったのよ。それがいけないの。それに、わたしのお店には、安っぽいサービスで籠絡されるようなお客さんは、ひとりもいません。なにより、この人に失礼でしょう。自分がいくこの辺の低俗な店と一緒にしないで……」

 瑠璃子さんは目を剥いていうと、隆一の隣に坐った。

 隆一は、それが共同戦線を張ったように取られるのではと危惧しながらも、自分が父娘の確執の原因を作ったという思いでいっぱいだった。ここで、瑠璃子さんと呑むに至った経緯を説明しなければ、彼女が可哀相だと思い、「じつは……」と口を開いた。

 それは、瑠璃子さんの言葉に遮られた。

「ほんとうはね、湯島のわたしの友達のお店で逢ったことがある人だったの。お互いにどこかで見たことがあるという感じて話しをしているうちに、それがわかったの。それで、打ち解けちゃって、ビールを呑んだんですけどね。いけなかったかしら……」

 そういうと瑠璃子さんは隆一に顔を向け、そっと片目を瞑ってみせた。

「そうかい……。そんなことべつにどうでもいいんだが、お前がやけにわたしに突っかかるから、わたしも向きになったんだよ」

 苦笑いしながら主人はいった。

「突っかかったのはどっちよ」と、瑠璃子さんが異を唱えた。

 主人も引かず、自分が呑みたいから無理に勧めただとかエスカレートして、「長く水商売をしていると、女も下品になるからな。この人は、そんな誘惑に乗る人じゃないよ」といい放った。

「いうに事欠いて、下品とはなんですか。自分の娘に、お客さんの前でそんなこという父親のほうがよっぽど下品だし、デリカシーに欠けるわよ。そう思っているんだったら、これからわたしに用事を頼まないで……」

 瑠璃子さんも、負けてはいなかった。

「よし、わかった。だったら、これからお前も寄りつくな……」

 売り言葉に買い言葉――ではあったが、血を分けた父娘(おやこ)だけに、それだけ仲がいいんだ、と取れなくもなかった。それにしても、主人の言い種は度を越していた。ならば、少し瑠璃子さんを援護すべきだと隆一は思い、「あのぅ……」と切り出した。

 すると、「なんだね」と鋭い声が響いた。

「悪いのはわたしですから、娘さんを責めないでください」と出かかった言葉は、隆一の咽喉元で萎(しぼ)んでしまった。

 しばらく沈黙が続いた。隆一は、いたたまれない思いで、所在なげに壁や天井に視線を這わせていた。

 瑠璃子さんは、そんな隆一を慮るように、テーブルの上のビール瓶に手を伸ばし、「それでは、呑み直しましょうね」と栓を抜いた。そして、「はい、どうぞ」と、主人に渡したグラスを満たしたあと、隆一にも勧めた。

 主人は、バツが悪そうな顔をしながら、それを一気に空けた。

 隆一は、それを見てホッとして、手にしたグラスを口に近づけた。

「じゃ、わたしは帰りますからね」と瑠璃子さんはいい、横を向いて笑みを作った。そして、「どうぞ、ごゆっくり」と、隆一にウインクすると、応接間を出ていった。


 京成線が跨ぐ平和橋通りは、両方向とも客待ちのタクシーが連なっていた。

 隆一は、改札を出た線路の下の橋脚に身を凭せかけながら、なぜ堀切菖蒲園で下車したのかを考えていた。とくにいく当てがあったわけでもないのに、気が付いたら改札を抜けていた。

 立石駅では、『緑一荘』にも『紫苑』にもいかないと決めて、電車に乗ったのだった。現に、切符だって、久しくいっていない湯島辺りのクラブに顔を出し、あわよくばそこの誰か誘ってどこかで呑み明かそうかという不埒な思いを抱き、終点の上野までの料金のものを買っていたのにだ。

 さて、どうしたものかと思案していると、轟音とともに頭の上を電車が通過していき、鋳物が焦げるような匂いを含んだ熱風が降りてきた。咳が出て、胃が痛み出して、小腹が空いてきたことを実感した。それもそのはず隆一は、出前を取ろうかという主人の好意を断りビールを少し付き合うと、懸案の帳簿の入力に取りかかったのだった。

 取りかかれば、ひと月分ぐらい簡単に終わるだろうと隆一は高を括っていた。なぜなら、隆一がこれまで主人の店を訪ねた限りでは、それほど客が多いようには見えなかったからだった。だが、それは、客足が少なそうな時間帯を狙って訪ねていった隆一の、認識の甘さ以外のなにものでもなかった。

 帳簿には、少ない日でも2、3人の客が名を連ねていたし、多い日には5、6人にも及んでおり、月にすれば、凄い数だった。

 よくもまあ、懲りずにこんなところを頼りにする人間がいるものだ、と隆一は自分のことは棚に上げてつぶやき、キーを叩きはじめた。

 それは、当初から予測していたことではあったが、文章を入力するようなわけにはいかなかった。ひとりの顧客の項目を入力したら、帳簿と突き合わせて校正をすべきだということに気が付き、むしろそのほうに時間を取られてしまったのだ。ものが数字だけに、誤植ではすまされないのだ。

 さらに、主人に相談を持ちかけられた数日後から、エクセルに関する専門書に目を通していたにも拘わらず実戦では躓(つまず)いて、引っ切りなしにヘルプを開くという有様だった。どうにか要領を得たのは、取りかかってから1時間余りが過ぎており、ひと月分を終えた時は9時を回っていた。

 自分が数字に弱いことは、かねてから認識していた隆一だったが、それを実証して余りある結果だった。それがゆえに、さして能力のない世界にしがみ付いているのだと、終えたときには叫びたい心境だった。

 主人を半ば強引に説き伏せて、取りかかったのではあるが、ひと月分に要する時間の目安が摑めたことは収穫ではあった。おかげで、「1年前のものからでいい」ということもわかったし、8月中にはすべて終わるだろうと隆一は計算をした。

 その間に、エクセルを習熟しておけば、ここの店に合った独自のフォーマット化ができるだろうと思い、ひと月分を終えたところでディスプレイを閉じたのだった。

 作業を終えた隆一に、また、あの店にいって呑もうか、と主人は犒(ねぎら)いの言葉を向けてきた。みゆきがいる、青戸の『紫苑』のことだとわかったが、さすがに隆一は辞退した。

「それではまたにしよう。今日は、取り乱したところを見せてすまなかったね」  と、主人は詫びた。その後、吟醸酒で呑み直しとなった。主人の話題は、それからは瑠璃子さんのことに終始した。

「なにも、スナックなんかやらなくても、テナント料で食えるのに……」

「旦那は悪い男ではなかったのに、離婚して……」

「子供がいないからって、簡単に別れる娘の気が知れない……」

 すべて、瑠璃子さんに非があるような口ぶりだったが、その相手の悪口をいわないところが主人らしかった。それは、もちろん、愛娘に対する愛情だということが、隆一にはわかった。

「ひとりしかいない娘だから、わたしが甘やかしたのがよくなかったんだね。これを機に、あんたの物書きとしてのシビアな目で、娘にもいろいろ忠告してやってよ」と、主人はいった。

 どういう意味か、隆一は理解できなかったが急に嬉しくなり、「わかりました」と、笑顔でこたえてそこを出た。


 自販機でウーロン茶を買った隆一は、数㍍離れたバス停までいって、誰かが親切の押し売りで置いたような、古ぼけた椅子に腰掛けた。

 主人は、ほんとうに仕事を手伝って欲しいのだろうか――。門を出た時にふと湧いた疑問が、また擡げてきた。もしかしたら、寂しさしのぎに、話し相手を求めているのではないだろうか――。咽喉を潤しながら考えても、その疑問に対する答えは浮かんでこず、隆一は立ち上がって大きく伸びをした。

 高架が、また轟音を発てはじめた。隆一は、ここで降りた理由に再び思いを馳せながら、携帯電話を取り出すと、アドレス帳をスクロールした。『紫苑』の文字が目に入った。迷わず発信キーを押した。数回のコール音のあと、この手の店ならどこでも使う、決まり文句が返ってきた。

「マキさんをお願いします」といった途端、「ただいまの時間、取り込んでおりますので後ほどおかけ直しいただけませんでしょうか。とりあえず、お客様のお名前だけ承っておきます……」という、慇懃無礼な女性の声が受話器に響いた。「じゃ、結構」と、隆一は素っ気ない言葉を返して電話を切ると、ウーロン茶を一気に呑んだ。そして、その缶を椅子の上に抛り投げた。もう、2度とかけるものかと思いながら、平和橋通りに沿った歩道を菖蒲園のほうへ急いだ。

 四つ角で信号待ちしていると、綾瀬行きの京成バスがきた。これに乗って綾瀬に出て、千代田線で帰るという手もあるんだなと思いつつ、隆一は対角線に通りを渡った。

 風のない蒸し暑い歩道に、バスが吐き出した排気ガスの臭いが澱んでいた。

 隆一は、重いアタッシュケースを路上に置いて立ち止まり、一体俺はどこへいこうとしているのだと自問しながら、煙草に火を点けた。

 堀切橋へ続く坂道に並行している側道に、数軒の明かりが見えた。その奥の、土手の上の首都高には光りの帯が見え、路面の継ぎ目を拾うタイヤが発する鈍い音が、断続的に夜空に響いていた。

 煙草を足下に落とし靴で踏み潰すと、すぐそこの『侘助』が頭に浮かんできた。いままで俺はなにを考えていたんだ、ここで降りたのは、初めから『侘助』にいくつもりだったのではないかと思い、隆一は歩を進めた。

 だが、『侘助』の明かりは消えていた。怪訝に思って目を凝らすと、ガラスの引き戸に小さな張り紙があった。隆一は、それをメモした手帳を仕舞うと、足を引き摺るように引き返した。平和橋通りの交差点まで戻ると、優柔不断な男を嘲笑するかのように雨が落ちてきた。


「お疲れのようですね」

 客のいないカウンターに陣取った隆一に、向き合うとママはいった。

「べつに……」

 隆一はこたえ、ここはいいから、向こうのお客さんの相手をして……と、ボックス席へ顎をしゃくりながら、自分で注いだロックグラスのレミーレミー・マルタンを呷った。

 滅多に食べない、突き出しのキヌカツギも、いまは美味しかった。空腹にまずいものなし――と苦笑しながらふたつ目のその皮を剥くとドアが開いた。入ってきたのは、さつきという名のバイトの女子大生だった。

 客の遣いにいってきたようで、マールボーロのグリーンボックスとキャスターを手にしていた。雨が強まってきたことを、さつきの濡れたジーンズの裾が示していた。

「いらっしゃいませ……。お作りしましょうか」

 さつきは、空のグラスに気付いたようで、隆一の横に立つといった。

 隆一は、「今日も可愛いね」と受け流し、あとはママにいった同じ言葉を向けて、自分でグラスに琥珀色の液体を注いだ。

 ここにくる前に、主人のところで呑んだ3杯のコップ酒に、ここにきてから呷ったブランデーが火を点けたといった感じで、急に酔いが回ってきた。隆一は、ミネラルのボトルに口を付けながら、煙草を取り出した。

 さつきが駆け寄ってきて、ライターを向けた。

 紫煙をくゆらせながら、隆一はあの夜のことを思い返していた。

「小山内社長は、話すことも論理的で説得力があるし、好々爺という感じね」

 あの夜、初めて連れていった主人を、みゆきはベッドの上でそう評した。さらに、困ったことがあったらいつでも力になってやる、といわれたことやチップを貰ったこと、隆一を褒めていたことなど、主人の名刺を手にみゆきは付け加えた。

「彼は、あんたに気があって通っているのかね……と、りゅうさんのことを訊くの。もし、そうだったら、わたしが取り持ってやってもいいんだけど、あんたはどうなんだ……なんていうの。わたしドキッとしちゃった」

「それには及びません。もう何度も寝た仲ですから……と、正直にこたえればよかったのに……」

「いやーん、ばかっ」

 その流れでみゆきは、それぞれ1度しか逢っていない、田上やシマゴローのことにも触れた。

「お三方とも頭がよくて優しいですよね。それにユーモアもあるし頼もしい。そんなブレーンを持っているりゅうさんが、わたしは羨ましい。小山内さんや島谷さんのように年配の方も多いみたいだし、年齢的に多岐にわたっているというのが素晴らしいじゃない。これは、なんにも変え難い宝だと思うわ」

「宝なんていっても、相手が男じゃありがた迷惑だよ。玉石混淆(ぎょくせきこんこう)でも、女性のほうがいい」

「そんなこといっていいんですか……」と、みゆきは隆一に覆い被さり、「それでは参考までに、わたしはどっち?」

 と、頬を寄せてきた。

「しとどに濡れる淫らな玉(ぎょく)だね、みゆきは……」

「その理由は?」

「卯月すなわち4月の長雨を、卯の花腐(くた)し――というだろう。これは、卯の花を腐らせるほどジメジメしているという意味なんだ。卯の花を腐す霖雨(ながめ)の始水(はなみづ)に………と、はじまる和歌も万葉集にある。ゆえに、みゆきは濡れる玉」

 いささか牽強付会(けんきょうふかい)と思いつつ、隆一はいった。

「いやだー……」 

 というと、みゆきは舌の先で舐め回した唇を、隆一の唇に重ねてきた。

「いっそ、うずくみゆきと名前を変えたら……」

「なによ、スケベ」

「健康のため、濡れ過ぎに注意してねっ……」

「ほんとにエッチなんだから、このりゅうは……」

 みゆきは、顔を真っ赤にして、隆一の胸を叩いた。その後みゆきは、火が点いたように燃えた。

 次の日、ふたりで銀座に出て、『ウインズ銀座』で的中馬券を換金した。51・8倍のものでそれぞれ千円ずつ買っていた。隆一は、それを手に『和光』に誘った。

「俺のコーディネートで、キミの服を買おうよ。インナーからストッキングに至るまで、すべて俺のいうとおりにして欲しい……」

「わたしより、りゅうさんのものを買いましょう」とみゆきはいったが、隆一は譲らなかった。最後は、みゆきはしたがった。

 まず、濃紺のフロントホックのブラと、股布の部分がシースルーのショーツがセットになったインナーを買わせた。

 ストッキングは、ジョルジオ・アルマーニの、立体感のある大胆な菱形の白いネットがセクシーな、黒地のものにした。

 さらにスーツ売場にいって、モスグリーンのフリルトップスとパッチワーク風デザインのブルー系のアシンメトリーのスカートを選び、ジャケットはベージュのアルマーニ・コレッツィオーニに決めた。¥76,000―というその正札を見た時は、ブランド物にしては意外に安いのではないかと思い、再度金額を確認してみゆきを見ると、みゆきは小さく首を振った。

 だからといって、ここで引っ込めるわけにもいかず、躊躇っている素振りのみゆきの手を引いてレジへ急いだ。そして、試着室で、すべて新しいモノに着替えさせた。

「みゆきはスレンダーで色白だから、なんでもよく似合う。つい抱き締めたくなっちゃうよ……」

 照れたように笑みを見せたみゆきは、「すべてりゅうさんのセンスでしょう。でも、わたしも凄く気に入ってる」と、嬉しそうに鏡の前でいろんなポーズを取った。

 隆一は、着替えた衣類が入った紙袋を持つと、思い出したようにいった。

「あ、そうだ。靴も替えなければアンバランスだね」

 そのあと『三越』で、フェラガモのパンプスを買わせた。靴を履き替えさせ、銀座通りへ出たところで隆一はいった。

「サガンの小説に出てくるヒロインのように華やかだよ、みゆきは……。いま、この銀座通りを歩いている誰よりも素敵だ」

「そう……ありがとう」

 みゆきは含羞んだようにいうと、隆一に腕を絡ませてきた。

 初めていったときの『紫苑』の呑み代と、その数日後のホテル代のお返しのつもりだったが、馬券を換金した予算ではすでに『和光』の買い物で足が出てしまい、みゆきはそれを補うと同時に、『三越』では全額を自分のクレジットカードで決済した。

 みゆきを振り返る人の多さが、隆一の自尊心を充たした。隆一は、これ見よがしにみゆきの腰に腕を回すと強く引き寄せ、銀座通りを闊歩した。さらに、街を歩いているすべての人に、華麗なみゆきを見せびらかしたいという思いが湧いてきて、「キミの名がついた通りを歩こうか」と、みゆき通りから外堀通りへと歩いていった。

 隆一は胸を躍らせながらさらに花椿通りへと歩を進め、『資生堂パーラー』でティータイムを決め込んだ。そこには、さほど有名ではない、たまにテレビで目にするバラドルが、テレビ局の関係者らしき数人の人物と、なにやら打ち合わせをしていたが、みゆきの前では普通の女の子にしか見えなかった。

 そこを出たふたりは、さらに『博品館劇場』まで歩いた。ミュージカルショーを観たあとの夕食は、青山の骨董通りにあるフレンチレストランに赴いた。そこの支払いは、みゆきがまたカードですませた。

 食事のあと、ふたりは、表参道から銀座線に乗った。その夜隆一は、四ツ谷の編集プロダクションの急ぎのバイトが入っていたこともあり、赤坂見附に着いたところで、ひとりでホームに降りた。

「その服は俺の手で脱がしてやりたいけど、仕事が入ってるからまたの日に……」

 隆一は、ドアが閉まる前にそういった。

  

 それ以来……といっても一昨日のことだが、隆一はみゆきに連絡していなかった。さきほど、久しぶりに『紫苑』に電話したものの、空振りに終わった。電話も取り次げないほど忙しいのだろうかと隆一は恨めしく思いながら、グラスを口につけた。 

 ボックス席の、2人組の客が帰ったところで、ママとさつきはカウンターに入ってきた。

「いいことを思い出しているんでしょう。目が笑っていますよ……」

 ママが揶揄した。

「自分こそ、いいことして……。タガさんとふたりで消えていったじゃない」

 隆一は反撃した。

「そのほうが都合がよかったんじゃなくて……」

「べつに……」

「あら、そうかしら。風の便りが届いていますわよ」

「風の便りか……。風といえば、川風に当って暑気払いでもしたいね。それも、情緒のない綾瀬川や荒川ではなく、隅田川で……ね」

 隆一は、恍けてみせた。

 ママは、悪戯っぽい目で、「そうですよね。素敵な方が住んでいる近くの隅田川でなくてはね」と笑った。

 そこで、隆一の携帯電話が鳴った。

「もしもし、『緑一荘』です。ちょっと待ってください」と聞こえたママの声は、こたえる間もなく別の人の声に変わっていた。

「こなかったのね、待ってたのに……。これからでもいいからこない」

 瑠璃子さんだと、すぐにわかった。

 隆一は嬉しかったが、呑んでいるところで、雨も降っているからいかれないとこたえた。

「それでは、わたしがいくわ……。いま、どこにいるの……」

 瑠璃子さんは、やや強引だった。

 そこまでいわれて断っては、男の沽券に関わる。まして、相手が瑠璃子さんで先方からくるとあっては、千載一遇のチャンスだ。どこか場所を変えようと思い、隆一はドアの外を眺めたが、雨は降り続いていた。この辺りで唯一知っていた『侘助』は閉まっていたし、ほかに当てはなかった。隆一は、場所などどこでもいいかと決断し、『菖蒲』の場所と電話番号を伝えた。

「素敵な方がお見えになるのね」

 みゆきを想像していったようなママの言葉を受け流しながら、隆一はレミーを呑み続けた。

 ほどなくして、瑠璃子さんが現れた。ビニール傘を手にしていたが、カットソーの上に纏ったエクリュのジャケットや白いタイトスカートにも、横雨にたたられた痕が残っていた。

 ママは、瑠璃子さんを驚きの目で見つめていたが、隆一が立ち上がると訪ねてきた相手を察したらしく、営業トークを向けながらボックス席へ促した。

 乾杯をすると、隆一は麻雀の戦果について訊いた。

 瑠璃子さんは、そこそこ勝ったわよと微笑み、「12時過ぎに卓が割れたから、あなたに電話したのよ」といった。

 隆一は、主人のところで帳簿整理を手伝っていたこと、そのあと、主人と酒盛りをして、10時過ぎになったことを伝えた。

「随分、父はあなたを気に入っているみたいね。あまり、他人には気を許さない人なのに……」

 瑠璃子さんは、不思議そうな表情でいった。

 そこでドアが開き、どかどかと客が入ってきた。

「いらっしゃ……」と聞こえたママの声は、あとが続かなかった。怪訝に思って見ると、ママは困惑したような表情で隆一を見つめていた。

 すぐに隆一は、その理由がわかった。

 男がふたり、女がふたりのその4人組のなかに、千草色のパンツスーツのみゆきの姿があったから。

「ここ出ましょう」と、瑠璃子さんに声をかけて立ち上がった矢先、みゆきと目が合った。隆一は、呆然と見つめているみゆきから目を逸らせ、ママを手招きした。そして、「事情はあとで……」といい、アタッシュケースを手にドアに急いだ。「りゅうさん……」というみゆきの声に続いて、「待って……」という瑠璃子さんの声が背中に聞こえた。

 横殴りの雨に打たれて歩く隆一に、駈け寄った瑠璃子さんが傘を差しかけた。運よく、平和橋通りに出たところで空車のタクシーがきた。

「ねえ、どういうことなの?」

 隆一は、訊問する瑠璃子さんの肩を押しながらタクシーに乗り込むと、「堀切橋を渡ってよ」と告げた。

「逢いたくない人がきたからさ……」

 クルマが走り出してから隆一はいうと、瑠璃子さんの手を握った。

 瑠璃子さんは、しばらく無言だったが、「りゅうさん……なんて、随分親しげにあなたの名前を呼んでいたじゃない、あの人……」と、堀切橋を渡り終える頃に思い出したようにいい、隆一の手を振り解いた。

 隆一は、咄嗟の返答に窮し、「雨、止みそうにないね」と、誰ともなしにいった。

 クルマは、赤に変わった信号が雨に霞む、墨堤通りと交わるT字路の手前に差しかかっていた。「どちらへいきますか……」と、ルームミラーを見遣りながらドライバーが訊いた。

 その言葉に隆一は救われた気がして、「日光街道へ出て湯島へいって」とこたえた。すかさず、「違います。向島の地蔵坂通りへいってください」と瑠璃子さんは訂正し、隆一を覗き込んだ。

 隆一は黙って頷くと、また瑠璃子さんの手を握った。それを、瑠璃子さんは、強く握り返してきた。

 タクシーを降りたところは、この前隆一が偶然探し当てた『瑠璃』があるビルの前だった。瑠璃子さんは、「ちょっと待っててね」といって、階段を駈け上がっていった。

 隆一は、階段を4、5段上ったところで立ち止まり、テントを叩く雨の音を聴いていた。

 ほどなく携帯にかかってきた瑠璃子さんの招きの言葉で隆一は階段を上り、全面スモークのガラスの開き戸をくぐった。

 赤いカーペットの、エントランスを進むと、突き当たりの左側にさらに店名の入った黒い扉があった。隆一は、緊張しながらノブを回した。

 奥のほうへ細長いフロアが広がっていた。真っ白に塗られた天井の数箇所には間接照明が施され、ほぼ真中に当る位置にシェル・シェードのペンダントライトが吊るされていた。

 その下に置かれた丈の低い馬蹄型の白いテーブルと、その内側の曲線に沿って並べられた背凭れの低い6脚の黒い椅子が、柔らかい光を受けていた。

 テーブルの上を飾っているのは、主人のところで見たものと同じ種類の黄色の夏菊の鉢植えだった。

 テーブルと壁の間は、左右ともに広く、それぞれひとつのボックス席が設けられていた。

 白と黒の、市松模様のフロアより伸びる左右の黒い腰壁の上はコンクリートの打ちっぱなしで、右の壁の2箇所にステンドグラスのブラケットが取りつけられていた。

 きらびやかな光りを受けたその周りの凹凸の壁面は不規則な色の紋様を作り、立体感を演出していた。

 一方の、左の壁には、あのモディリアーニの代表作の50号ぐらいの横位置の複製画が掛かっており、流麗な線描の横たわった裸婦を、左右のスポットライトが強調していた。全体にロー・ポジションを意識したモノトーンのインテリアで、ゆったりとしたレイアウトが、実際より広く見せているようだった。

 6つの椅子が並んだカウンターは、突き当たりの壁際の左側3分の2ほどを占めており、その右側のスペースはアコーディオン・カーテンに遮られていた。

「どうぞ、こちらに……」

 突っ立っている隆一を、カウンターのなかの瑠璃子さんが招いた。

 隆一は、アタッシュケースをテーブルの上に置いて、言葉にしたがった。

 黒いボトル棚の上の両端にあるスポットライトの光線が、カウンターの前のフロアに、ふたつの楕円の輪を作っていた。

 流れはじめた音楽は、ショパンのピアノ協奏曲のソナタだった。これを聴くのは高校の時以来だったが、静まり返った店内に響くピアノの旋律は、心地よく隆一の鼓膜を震わせた。

「有線ですか……」と訊いた隆一に瑠璃子さんは首を振って、「CDよ」と、微笑んだ。そして、「ところでお客様、なにを差し上げましょうか」と、おどけてみせた。

 スコッチやバーボン、ブランデーや焼酎のボトルが並ぶ棚を隆一は見回した。少し迷いながら、さらに瑠璃子さんの頭より高い位置にある棚の左端に目を遣ると、数本のリキュールのボトルがあった。そのなかの1本に目がいき隆一はいった。

「チンロックをください」

「えっ、なーに、それ?」

『チンザノ・ベルモット』を指していったことで、隆一は説明した。

 瑠璃子さんが、カウンターを滑らせた真赤なチンロックのグラスを、隆一は口に運んだ。

 ブドウの香りを含んだ甘い味が、これを初めて呑んだときのことを脳裏に甦らせた。

 それは、隆一が高校2年の夏休みに、鹿屋の北田通りの酒屋でアルバイトしたときだった。もちろん、生まれて初めて口にしたアルコール類で、呑ませてくれたのは、配達にいったバーのホステスだった。 

 その酒屋は鹿屋では音に聞こえた老舗で、主だった旅館や本町、朝日町あたりの飲食店などに贔屓にされていた。スーパー・カブでビールや焼酎をはじめ、厨房雑貨の類を配達するのが隆一の仕事だったが、夕方になると開店前のバーに酒類を届けるというのが常だった。

 2ケースのキリンの中瓶を届け、「伝票にサインしてください」といった隆一に、仄暗い店の隅でひとり着替えていた彼女は、「あんた高校生ね? アルバイトとは感心やね。卒業したら遊びにきやんせね」と、胸をはだけて見せた。

 目を逸らせた隆一に、「純情やね。見ちょってもよかとよ」と、さらに彼女は白い裸体を向けた。

 隆一は、股間の変化で立っていられなくなりボックスに腰を下ろすと、素肌に衣を重ねていく彼女を横目で盗み見ていた。

「これ、なにかわかるね?」と、涼しげな藍色の紋絽の着物で身なりを調(ととの)えた彼女は、真赤な液体が入ったグラスを掲げてみせた。そして、「これはチンロックというのよ。綺麗かでしょう。呑んでみんね」と淫らなポーズで、赤面している隆一を挑発した。

 昂奮した隆一が、「お姐さんがごつ綺麗か……」と抱きつくと、彼女はそれを口に含み隆一の唇に重ねてきた。それを呑み込んだ隆一は、ここぞとばかりにそのグラスを奪うように手にすると、一気に呷った。いつの間にか隆一の左手は、彼女の膨らんだ胸元に滑り込んでいた。

 チンロックの甘い味と、脂粉の香りに魅せられた隆一は、早速その日の夜遅くそこへ遊びにいった。困ったのは、校則で決められていた丸刈りの頭だったが、「うちの甥っ子やけん、よかとよ」といった彼女の言葉で難なく入店、歓迎された。

 退学になった先輩のところで拝借した、スーツにネクタイ姿でいったことが、結果的に功を奏したようだった。

「これはあまり強くないぶどう酒だから……」

 そういって、彼女はチンロックばかりを勧めた。それは、アルバイトをはじめて、1週間ぐらい経った頃のことだった。

 以来、面白くないことがあると授業をサボり、彼女を映画に誘ったり、姉にねだったホンダのCB250に乗せて走り回ったりした。当然、その日は店に同伴と相成った。

 やがて、彼女は、小遣いがないときと誘う相手がいないときの隆一の、欲求不満解消の代役となった。それでも彼女は断ることはなかった。そんな、我儘な付き合いを卒業まで続けた。

 

 思えば、アルバイト自体も学校の許可証が必要だった。筋を通してそれを申請した隆一に、「赤点ばっかい取っちょって、なんがアルバイトか。勉強せんか」と、担任は邪険にした。

 叔母のところに里子に出されている手前、隆一にはバイトは勉強より大切なことだった。そこで、鹿屋で暮している祖母に相談した。真偽のほどは定かでないが、遠い親戚筋に当り、またそこの主人が叔父と同級生だということを訊いて、隆一はその酒屋に飛び込んだのだった。

 祖母が裏で口添えしたのか、許可証のない隆一をふたつ返事でそこは雇ってくれた。

 以後の冬、春、夏の休みも、そこでバイトしたことはいうまでもない。バイトしながら、たまの夜にはバーにいったり、友達との麻雀にも付き合わねばならなかった。好意を寄せていた数人の女子高生とのデートの時間も確保しなければならず、さらに友達のラブレターの代筆も抱えていた。

 このように、休み中の隆一の夜は、毎日が分刻みだった。それでも、恙(つつがな)なく過ごせたわけだから、遊ぶことに関する段取りの上手さは、群を抜いていたのだろう。いわば、いまのアイドル並の忙しさだったわけで、そのツケは当然学業成績に表われた。


「なに、物思いに耽ってるの?」と、瑠璃子さんが覗き込んだ。

 隆一は我に返り、お替わりを頼んだ。曲は、隆一の好きな、ポロネーズに変わっていた。

 ふと、目を遣った右手のアコーディオン・カーテンの裏側には、弾き語り用のマイクスタンドとフォークギターが載った椅子があった。その向うの壁際には、通信カラオケやアンプなどの音響機器が詰まった、黒いラックが並んでいた。

 また、カウンターの左端には、カラジウムやカラテアの観葉植物が置かれ、瑠璃子さんの手入れのよさが窺えるひとつひとつの葉が、独特の色の妙を見せていた。

「それ、わたしも呑んでみる」

 そういって、瑠璃子さんはふたつの赤い液体が入ったグラスを持って、カウンターから出てきた。そして、そのひとつを隆一に渡すと横に並んで坐り、グラスを掲げた。

 隆一は、それにグラスを合わせて目礼すると、瑠璃子さんと同時に呑み干した。

「凄く甘いのね、これって……」

 瑠璃子さんは、唇を舐め回した。

 ロゼだから当然のことだが、濡れた唇から覗いた瑠璃子さんの舌には、そそられるものがあった。

 隆一は、固唾を呑んだ。

「呑むの初めて? これは、ぶどう酒だから甘いの……」

「初めてよ……。たまにこれを呑むお客さんはいるけど、勧めてくれる人はいなかったもの」

 瑠璃子さんはいうと、そのボトルを手に取って、微笑んだ。目尻に、小さな皺が浮かんだ。

 そうだろうなと思いながら隆一は、「ジンで割ると、美味しいですよ」と、濡れて光る瑠璃子さんの唇に視線を注ぎながらいった。

 頷きながら瑠璃子さんは、カウンターに入った。

 側面を白木の柾目に縁取られたカウンターは、黒地に白い霜降りが走ったような石が張り巡らされていた。そして、それぞれの椅子の前の部分は、20㌢四方のチークの無垢板が等間隔に6枚埋め込まれているという凝った造りだった。

 隆一は、石の部分に両の掌を当ててみた。重厚でひんやりとした感覚があった。

「これは、正真正銘の大理石ですね」

 隆一は、さりげなくいった。

「わかる……。これはスペイン産で、ネグロマルキーナというんだって……。厚さ5㌢の長方形の一枚板を、この幅に切断してもらったの」

 カウンターに手を滑らせながら、瑠璃子さんはいった。

「インテリアは、その人の知性と人柄を偲ばせる、というでしょう。瑠璃子さんはすべて本物志向で、センスがいいですね」

 瑠璃子さんの目を見て、隆一はいった。

「そういうわけでもないけど、自分の仕事場だから自分の好みにしたのよ。ゴルファーでもミュージシャンでも、一流のプロはみんな最高の道具を選ぶでしょう。それと同じよ」

 そう思う人は少なくないだろう。だが、それができる人は少ない。しかしながら、隆一もそれには同感だった。例えば、クルマは走ればいい──といった考えではなくて、高級車には高級車なりのコンセプトがあるわけで、それを選んだ人の感性が表われる。そういったモノの付加価値がわかるようでなければいけないと、隆一は常日頃思っていた。同じ考えを持つ瑠璃子さんに、隆一はさらに惹かれるものがあった。

「スナックなんかやらなくても、テナント料で食えるのに……」

 主人の言葉が、ふと脳裏を過った。確かにそのとおりで、ここはいろいろな業態の店が繁盛しそうなロケーションだと思った。瑠璃子さんは、それを見越してスナックにしたのだろうか。 

 ふたつのグラスを、瑠璃子さんが並べたときだった。いきなり、男が入ってきた。

 瑠璃子さんは慌てて男の前に駈けていき、「今日は休みです」といった。それを擦り抜けてきた男は、椅子ふたつを空けて隆一の左に腰掛けた。上着の肩口には、無数の雨の痕があった。

「休みだといってるでしょう」

 瑠璃子さんは、男の後ろで叫んだ。

「ビール1本だけ頂戴よ。そちらのお客さんだって呑んでることだし……」

 男はいって、隆一を一瞥した。

 頬は蒼白かったが、顎から首筋にかけては赤くなっており、酔っているのが一目瞭然だった。身形(みなり)は、ノーネクタイながら紺のビジネススーツで、サラリーマンといった感じに見えた。水滴を載せた頭髪には、少し白いものが交じっていた。

 隆一は、半ば安心しながら、チンザノのジン割りを呑み干した。

「ほんとに1本だけで帰ってね」

 瑠璃子さんは、カウンターに入ると、ビールとグラスを男の前に出した。男は、手酌で自分のグラスを満たすと、「おにいさん、邪魔して悪いね」と、中腰で腕を伸ばして隆一のグラスにもビールを注いだ。

「余計なことをしないで、早く呑んで出ていって……」

 瑠璃子さんはいって、有線のスイッチを入れた。流れてきたのはポピュラーミュージックで、懐かしいマッシュマッカーンの『霧の中の二人』だった。瑠璃子さんは、ボリュームを上げると隆一に目配せした。

 アップテンポの曲を聴きながら、意味ありげな瑠璃子さんの行動を、隆一は振り返った。だが、どういう意味かいまひとつ理解できず、注がれたビールを呑むしかなかった。

「なくなっちゃったから、もう1本だけ頂戴」

 男は、グラスを空けるといった。

「ほんとにこれが最後よ。これを飲んだら帰ってよ」

 カウンターを叩くように、瑠璃子さんは中瓶を置いた。

 男は憮然とした表情で、手に持ったグラスにビールを注いだ。そして、背を仰け反らせて呑み干すと、急に瓶を持って立ち上がり、隆一に近寄ってきた。

 反射的に隆一は、グラスを摑んだ左手を挙げた。それが、男が手にしたビール瓶に中(あた)り鈍い音とともに、ガラスの欠片が飛び散った。

 隆一の手から、鮮血が滴った。無意識に当てたオシボリが真赤に染まった。

 瑠璃子さんが、オシボリ抱えて駈けてきた。

「ケガしちゃったじゃないよ。どうするの」

 BGMより大きな声を上げた。

「ゴメン。ビールを注ごうとしただけなんだけど……」と、男は項垂れた。

「出ていってよ……」

 瑠璃子さんが絶叫した。

 隆一は、男を睨みつけた。男は目を伏せ、砕け散ったガラスを拾いはじめた。

「いいから、帰ってよ」 

 瑠璃子さんは怒りの声を上げると、カウンターの隅へいって顔を伏せた。啜り泣きが洩れていた。

「瑠璃子……」

 気安く呼んだその言葉に隆一の怒りが爆発した。隆一は、オシボリを抛り投げた左手にビール瓶を摑むと、力任せにカウンターを叩いた。砕けた瓶の欠片とともに、液体が飛び散った。隆一は、「表へ出ろっ」と大声を上げ、砕けたその瓶の先を男の鼻頭に翳した。隆一の手から、また血が滴った。シャツの袖口は、その血でどす黒く染まっていた。

 男はそれを見て顔色を失くし、「ちょって待ってよ」といった。

「待てないね。話があるなら外で訊く……」

 隆一は、男の肩を小突いた。男は、渋々歩き出した。

「待って……。中園さんはいっちゃ駄目……」

 瑠璃子さんが涙声でいった。

 男は振り返り、瑠璃子さんを睨み付けた。

 隆一は、また、男に割れた瓶を突き付けた。

 男は後退りしながら、「そうか。あんたら、そういう関係か……」と捨て台詞を吐くと背を向けた。

 急に傷が疼き出した。隆一は、人事不省となりそうでボックス席にへたり込んだ。

 鍵を閉める音に続いて、フロアを駈ける靴音が朦朧とした隆一の耳に聞こえた。

「どうしよう……。手……痛いでしょう。ごめんね、わたしのために……」

 眉を曇らせて囁く瑠璃子さんを、隆一は薄目で見上げ、首を振った。

 アイラインが滲んだ瑠璃子さんの目は、昼間に見せたものと同じ哀しい色を宿していた。

 それを見ているうちに、隆一はまた怒りが込み上げてきた。瑠璃子さんを哀しくさせる奴は俺が許さない――。いまからでも男を追いかけていって、ガラスの欠片を突き刺してやりたいという衝動に駆られた。

 瑠璃子さんは、隆一を抱き起こすようにして椅子に坐ると、そっと自分の膝に頭を乗せた。そして、おもむろに傷を負った手を取り、オシボリで拭きはじめた。

 隆一は、痛みを堪えながらそれを眺めていた。

 親指と人差指の間の水掻きから掌の中央にかけて、ぱっくりと開いた長い傷があり、その左右に血の滲んだいくつかの裂傷があった。また、手背(しゅはい)の真中にも長い擦過傷が見られ、5本の指の甘皮から半月には、拭いても落ちない血の塊が残っていた。

 拭いた傷口からまた血が溢れ出し、滴りはじめた。隆一は、手首に伝ったそれを見て、気が遠くなりかけた。

 スピーカーから流れてくるレッド・ツェッペリンの『胸いっぱいの愛を』も、次第に遠ざかっていくように感じられた。

「血が止まらないわね」

 瑠璃子さんはいうと、傷口に唇を押し当てて、傷に沿って舌を動かしはじめた。冷たいような熱いような粘膜が這った部分からは、痛みが遠のいていくような気がした。

 徐々に、意識は甦ってきた。隆一は、目を閉じながら、空いた手で瑠璃子さんの右の 踝(くるぶし) を摩(さす)った。

 それには構わず瑠璃子さんは、隆一を見下ろしていった。

「まだ痛い?」

 隆一は頷いて、踝に当てていた右手を、瑠璃子さんの両足の間に滑り込ませた。

 瑠璃子さんは躰を捩らせながら、「ちょっと待って……」といって立ち上がり、テーブルを移動させた。そして、「こっちの椅子をくっつけようね」と、隆一が寝そべっている椅子に、ふたつの椅子を密着させた。

「椅子に寄りかかって、足を伸ばせば楽よ」

瑠璃子さんはいうと、靴を脱いで隆一の右側に坐り自らその体勢を取った。

 白っぽいストッキングを透けた纏足(てんそく)したような小さな足が、目を引いた。

 その両足の、それぞれの指先にも男の劣情を掻き立てずにおかない色香が浸透していると隆一は思いながら同じ恰好で坐り、瑠璃子さんの肩に首を凭せ掛けた。

 なにげなく見た左手は、血は止まっているようだったが、掌にはどす黒い血痕がこびり付いていた。

 瑠璃子さんは、再び隆一の左手を取るとじっと眺め、その人差指を口に含んだ。そして、血を舐め取るといった感じて丹念に舌を絡めたあと、丁寧にハンカチで拭いていった。

 黒地に真赤なバラが刺繍された、絹のような感触のハンカチだった。

「少しは血が落ちたみたいね」

 瑠璃子さんはいうと、さらにほかの指にも順にその行為を移していった。

 間近で見る瑠璃子さんは、目許ばかりかファンデーションも斑(むら)になり、さらに、口の周りにも隆一の血が付着していた。だが、それも、隈取を施したような妖しさとなって、嬋娟(せんけん)な瑠璃子さんを引き立てているように感じられた。

 そんな瑠璃子さんの、粘膜に包まれた5本の指には、蕩けるような余韻が残っていた。

 隆一は傷の痛みも忘れ、瑠璃子さんの肩に右手を回し頬を寄せた。

 瑠璃子さんは、一瞬怯(ひる)んだように頬を遠ざけたが、ほどなく自らの腕を隆一の肩に回してきた。

 その拍子に隆一は、瑠璃子さんの唇に自分のそれを重ね合わせた。 

 瑠璃子さんは、隆一の舌に自分のそれを絡ませながら倒れ込んだ。

 隆一は、無意識に左の手をスカートの奥に忍ばせた。その途端に痛みが奔り、思わず呻きを洩らしてしまった。隆一は、上体を起こすと正座して、右手で左の手首を握り締めた。

「まだ手が痛むんでしょう?」

 そういって、瑠璃子さんも正座した。

 隆一は、首を振って、右手で瑠璃子さんの臀部を撫でながらいった。

「あなたとしたいの……」

 瑠璃子さんは無言で顔を伏せると、隆一の右手に自分の手を重ねてきた。

 それを固く握り返すと隆一は、ゆっくりと自分の下腹部へ運びながら、「あなたとしたいの」と、繰り返した。

「でも、ここじゃ……。シャワーもないし……わたし、汚れているかも……。それに、その傷では……」

 目を潤ませながら、瑠璃子さんはつぶやいた。

「シャワーなんかいい。ありのままのあなたでいい……。それに、左手以外は大丈夫だよ……」

 隆一はそういいながら、摑んでいる瑠璃子さんの手を、自分の膨らんだ部分に擦り付けた。

「…………」

「ねっ、いいよね……」

 汗ばんだ瑠璃子さんに頬擦りしながら、さらに隆一は小さくいった。そして、瑠璃子さんの耳朶に舌先を当てた。

 瑠璃子さんはそっと頷くと立ちあがり、ゆっくりとカウンターのほうへいき、ボトル棚の上のスポットライト以外の照明をすべて消した。そして、有線をムードミュージックに切り替えるとカウンターの上に立ち、スポットライトの光源を天井に向けた。

 サクソフォンの音色が、月明かりの夜のような仄かな照明に支配された店内に流れはじめた。

 瑠璃子さんは、ブランデーの入ったふたつのシェリー・グラスを持ってきた。

「では、もう1度乾杯しましょう……」

 瑠璃子さんは、椅子に正座して甘えたような声でいった。

 グラスを合わせたふたりは、乾杯の声を合図に一気にブランデーを空けた。そのとき、隆一の携帯電話が鳴った。隆一は、確かめもせずにマナーモードにした。

「あなた、待ってる人がいるんじゃないの?」

 瑠璃子さんは、大きな声でいった。

 隆一は首を振って、「大地震がきて火の海となっても、今日は瑠璃子さんから離れない」と返し、瑠璃子さんを抱き締めた。

「わかったわ……。では、ここに横になって……」

 仰臥した隆一のベルトに、瑠璃子さんはぎこちなく手をかけた。

 隆一は腰を浮かせ、瑠璃子さんに任せた。

 屹立に覚えた快感が、傷の痛みを遠ざけていった。

 曲は『夜のストレンジャー』に変わっていた。




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