第6話 哀 咽(あいえつ)

 主人のところには、先客がいた。白髪交じりの髪をオールバックにした紺のスーツの年配者と、あどけなさが残る学生らしい雰囲気の青年の2人連れだった。

 グレイのスーツで決めたその青年は彫りの深い精悍な顔を黒く焼いており、その長身と相まって、なにかスポーツ選手らしいことが窺えた。同じ会社の上司と部下といった感じで、一般客と違うのは、その居住まいから見て取れた。

 ベージュの無地のスーツに同系色のシャツ、紺地に赤いピンストライプのネクタイといった主人が、畏(かしこ)まった態(てい)で話しに聞き入っていたことも、それを裏付けていた。

「向こうで、待っててもらえないかね。あんたがくるということで、鍵は開けておいたから……」

 隆一を見るなり、主人はいった。

「わかりました」と隆一はこたえ、先客のふたりに会釈をすると、踵を返した。

 上がり込んだ応接室は、エアコンが入ったままだった。

 隆一は、買ってきた『久保田』の万寿が入った紙袋をテーブルの上に置くと、麻のジャケットを脱いで腰を下ろした。

 やけに頭が重く感じられ、額に汗が噴き出すのがわかった。これは、いつもの飛鳥山のメンツと、40時間も続けた麻雀が起因していることは明らかで、暑さとは無関係だった。

 それがはじまったのは月曜日の昼過ぎで、水曜日つまり今朝の5時までの長丁場だった。そのあと、シマゴローに、みゆきの部屋まで送ってもらった。そこに、着替えが置いてあるからだった。

 土曜日は、みゆきの部屋から1歩も出ず、、みゆきが塾にいった間に、手つかずだった定期物のリライト原稿の整理にかかった。日曜日は、昼前にみゆきと一緒に部屋を出て、銀座にいった。

 ウインズ銀座で馬券を買ったあと、みゆきのショッピングのお供で『プランタン銀座』『和光』『松屋』など、デパート巡りをした。3時頃になって、日比谷線、都営浅草線と乗り継いで、本所吾妻橋までみゆきについていった。

 3つのデパートの紙袋を提げて、みゆきの部屋に戻った隆一は、リライトを終えた原稿をみゆきのパソコンに入力、プリントアウトしてファクシミリで出版社に送った。そして、時間を見計らって、塾の最寄駅までみゆきを迎えにいった。それから、ふたりで千束(せんぞく)の鷲(おおとり)神社の近くにある普茶(ふちゃ)料理の店で食事して、再びみゆきの部屋へ。

 隆一は “障(さわ)り ”が終わったみゆきを、心置きなく堪能した。


 麻雀の誘いがなければいいなと、たまに思うときもあるがそれは建前で、本音はいつも心待ちにしていた。それは、誘われたら断るわけにいかない、という大義名分が立つし、1人勝ちしても、自分から誘ったときほど気兼ねは要らないからだった。

 また、飛鳥山グループでは、メンバーを集めて段取りした奴が負ける確立が高かったし、誘うよりは誘われろ――という思惑をみんなが抱いていた。もちろん、隆一とてそのひとり。

 月曜日になって、痺れを切らして自分から電話しようと思っていたところへ、シマゴローから誘いがかかった。新潟行きは諦め、2日間ともウインズ浅草で過ごしたらしく、その鬱憤を麻雀で晴らすといった、熱意を感じさせる声だった。

 金、土、日の3日間、みゆきと夜を過ごしたことで、十分義理は果たしたと隆一は思い、みゆきが出かけたあと部屋を抜け出した。

 月末締切りの、原稿に目鼻がついたこともあり、隆一の胸は麻雀でいっぱいだった。

 火曜日の朝方になって、隆一はみゆきに電話した。もちろん、麻雀だとはいわなかった。

「でも、今日の夜には帰ってきてね。お店には出ないで待っているから……」

 みゆきは、拗ねた声でいった。

 その麻雀は不調で、火曜日の夜になって挽回したものの、それでも1万円ほど元金より減っていた。ショバ代を考えればチャラということになるが、不調というより、集中力を欠いた大雑把な麻雀に終始してしまった。それは、日曜日の競馬のメインレースで、本命以外にみゆきと1,000円ずつ押さえた50数倍の配当の的中馬券を持っていたことが、微妙に影響したのかもしれない。

 牌勢がいいときは、シビアに勝ちを獲りにいかねばならないのに、そのチャンスを自ら摘んだ恰好だった。

 みゆきのところへ向うクルマの中で、シマゴローはいった。

「仕事は順調、競馬や麻雀も絶好調で、女にも不自由しない――。いいね、りゅうちゃん。だけど、そんないいことは長くは続かないよ、わかってる? そろそろ、どれかに絞らないと、また痛い目に遭うよ」

 それは、胸に楔(くさび)を打ち込まれたも同然の響きがあった。

「俺や額田王は、どうのこうのいったって、30数年間もの公務員稼業を勤め上げたんだからね。だからいまは好きなことをしているんだよ。誘っといて、こんなこというのはおかしいけど、りゅうちゃんは、まだこれから10年間は頑張らなくちゃいけないんだよ」

「頑張るったって、なにをどう頑張るんですか?」

「そんなに突っ張るなよ。それが、りゅうちゃんのいいところではあるんだけど……」

 シマゴローは宥めるようにいったあと、

「死ぬ気で働けとか、ギャンブルを止めろとか、そんなこといってるんじゃないんだよ。ただ、馬や麻雀牌は、人の話を訊いて慰めてくれるなんてことはないんだからね。要するに、彼女を大事にして、いろいろ協力してもらったほうが得だということを俺はいいたいのよ。そのためには、相手のいいところを認めてあげて、ないものねだりはしないということ。もう若くないのだから、プライドを振りかざすのは止めて、相手にしたがうということが大切だよ。りゅうちゃんは自分のことは棚に上げ、女には理想を求めたがるからね」

 と、続けた。 

 厳しい物言いのなかにも思いやりは感じられたが、なぜシマゴローが急にそんな話しを持ち出したのか、隆一はいまひとつ真意がわからなかった。

「わかりました……。ま、難しい話は措いて、ちょっと、お茶でも呑んでいきませんか……」

 隆一は、気持ちは曖昧なまま頷き、自分の部屋のように誘いの言葉をかけた。

 みゆきは起きていたのか、隆一が鍵穴にキーを挿し込む前に解錠してドアを開けた。

 ノースリーブの黒のカットソーに、オフホワイトのデニムといったモノトーンで決めていた。

「電車がなくて、送ってもらったの。あ、この人はいろいろお世話になっている島谷さん」

「それはどうもすみません。すぐ、お茶を淹れますからどうぞ……」

 みゆきの言葉に隆一は胸を撫で下ろし、シマゴローをカウチソファーに促した。

 シマゴローは、香ばしい落としたてのコーヒーを啜りながら一緒に麻雀していたことをみゆきに話し、遅くまで引き止めたのは僕だから……と釈明した。

「そんなことは気にしてませんから、いつでも誘ってあげてください。そして、また、遊びにいらしてください」と、笑顔で応じたみゆきに気をよくしたらしいシマゴローは、隆一の癖や雀風にまで話しを進めていった。

 正座して訊いていたみゆきは、それにことよせて、もっと隆一のことを探りたいとでも思ったのか、「りゅうさんはシャワーしてきて……」と席を外させた。

 彼を送り出してから、隆一はブランデーを呑みはじめた。

「りゅうさんの知り合いの人って、優しくて面白くていい人が多いわね」

 みゆきは、キッチンでなにかを拵えながらいった。

「それは、俺がいい人間だから、いい人が寄ってくるんだよ」という言葉を隆一は呑み込み、「そうかね」とこたえた。

 シマゴローがうまく取り繕ったことは、容易に想像できた。そういう面で如才ない彼は、女にモテるというのもなんとなく頷けるものがあった。彼をみゆきに逢わせてよかったと思いながら、隆一はブランデーを呷った。

 間もなく、『オクラとささみのサラダ』『イカとエビの湯葉巻き蒸し』が出てきた。隆一の帰りを待ちながら、昨夜に下拵えしておいたものだとみゆきはいった。

 あまり食欲はなかったのだが、手作り料理の鮮やかな盛り付けを見た途端、それは一掃された。

 みゆきは、単に料理がうまいというだけでなく、視覚をも満足させる創意工夫に長けていて、なにを作っても手際がよかった。それらを口にしたら、さらにブランデーが進んだ。

「遅くなってごめんね。相手が島谷さんだけに、付き合わないわけにいかなかったんだ。次は、もっと早く切り上げるようにするから……」

 酔いにかこつけ、隆一は改めて詫びた。

「遅くなって――という次元は、とっくに通り越しているでしょう……」と、みゆきは笑みを送り、「自分が愉しければいいんじゃないの。でも、愉しいからって、何10時間もよくできるわね。躰を毀(こわ)さなければいいけど……」と、次いだ。

「もう、20年も前に毀れているよ……」

 みゆきは、呆れた……といった表情で隆一を見た。

 いつしか、ソファーの上で眠ってしまったらしく、目が覚めたのは正午だった。

 みゆきも、花茣蓙の上でタオルケットをかけて横になっていた。今日は、アウトソーシングの仕事のはずだったが、休んで隆一に付き合ったことをあとで知った。

 かけた蔽いを臍(へそ)の辺りまで捲り上げ、隆一は添い寝した。カットソーをたくし上げると、みゆきの白い乳房が現われた。カーテンに遮られた夏の真昼の陽光は、柔らかな間接光となってみゆきを包み、透けた静脈までくっきりと見せていた。

 可憐な蕾を思わせる乳首は、咲き誇った緋寒桜(ひがんざくら)のような、清楚な桃色に染まっていた。

 隆一は、ブランデーを含んだ口を、乳首に当てた。唾液が交じった琥珀色の雫が、肌理(きめ)の細かい稜線を流れた。それを丹念に掬った舌を、その頂に移していった。

 目を覚ましたみゆきは、隆一の耳朶に熱い吐息を吹きかけてきた。

 隆一は、荒々しくみゆきに伸しかかった。 

 そのあと、主人に電話を入れ、みゆきと酒屋にいった。そのままみゆきに送られて、京成曳舟駅に向った。電車に乗ったのは、3時過ぎだった。


「やあ、待たせて悪かったね。会計事務所の人がきてたもので……」

 主人は、上着を脱ぎながら軽く頭を下げた。

 もしかして……と隆一は閃き、探るように口を開いた。

「大きな会計事務所に頼んでいるんですか」

「いやいや……。うちなんか大した売り上げはないし、近場の小回りの利くところさ」

 主人は、笑みを浮かべていった。

「そうですか……。やはり、近いっていうのは魅力ですよね」

「そうだね。どんなに優秀なスタッフがいても、足繁くきてくれないことには用を成さないからね。近ければ、なにかのときはこっちから出向くこともできる」

「それがいちばんですね」

「そこの、アーケード街の向こうで、ほんと目と鼻の先だよ。父子(おやこ)と事務員の3人でやっているんだ……。といっても、息子のほうは、まだ学生で修行中ということだがね」

「それは、なにかと便利ですね」

「そうだね。あそこが事務所を開いてすぐに付き合いが始まったから、もう、かれこれ15年ぐらいになるかな。何かとお世話になっている」

 主人はいって、煙草に火を点けた。

「ところでね……あんただったら話してもいいと思うから話すけど、あそこの娘……つまり嫁さんだが、未婚で子を産んだ人でね」

 主人はいうと、隆一を凝視した。

 隆一は、『まさか、あのときの……』という思いが過り、胸が早鐘を打ちはじめた。動揺を見透かされないように煙草を咥えると、「そうなんですか」と、つぶやくように返した。

「そこに公認会計士が婿入りしてきたというわけだ」

「そうなんですか」

 淡々とした口調でいった。

「開業当時は悪い噂ばかりが横行しててね、夫婦ともに苦労したんだよ」

 主人は眉間に皺を寄せ、ぽつりというと、小さく紫煙を吐いた。そして、続けた。

「あそこの娘は、水商売上がりで男にだらしがないとか、財産目当ての女癖が悪い男を婿にしたとか、あることないこと陰口を叩かれてね」

「…………」

「だけど、どんなにぼろくそにいわれようが笑顔で挨拶するし、行き交う人にも優しく言葉をかけるといった気丈な娘でね。また、旦那も、周りにどんなにこき下ろされても決して弱音を吐かなかった。いつも、腰は低いし愛想がいいときてる。だから、巷のそんな悪評は2、3年で消し去ったよ」

 主人は、自分のことを自慢するように、胸を張った。

「旦那は都心の有名な会計事務所にいたというだけあって、仕事はできるし顧客の面倒見もいい。だから、いまは大きな会社の顧問をいくつもやっているらしい」

「意志が強く仕事に信念を持った人なんですね。普通の人なら、逃げ出しますよね」

 隆一は、当たり障りのない言葉を探していった。  

「嫁も、旦那の手助けをしながら習い事の教室を開いて、成功している。人に何といわれようが、自分たちの考えを曲げず、かといって言い訳もせずに頑張ってきた。悪評には無言で対抗、世間の目を180度変えさせたのだから、ほんとうに頭が下がるよ」

「立派ですね」

「財産があろうが学歴があろうが、人間は品格がなければだめだということを、夫婦で身を以て立証しせ見せたというわけだ。そんなわけで、近隣の商店主たちが、逆に頭を下げて頼むようになった。口コミで1軒、2軒と増えていき、いまじゃ、この商店街のほとんどががそこの客だよ」

 主人はいうと、煙草を灰皿に擦り付けた。

「嫁さんの地元に、根を下ろしたのがよかったんですね」

 高まる胸の鼓動を抑えるように、意識とは反対の言葉を向けて、隆一は煙草の火を消した。

「また、旦那は子供の教育にも熱心でね。血の繋がっていない子供なのに、じつの子以上に可愛がりながら、一方で厳しさも叩き込んだという。文武両道が身上とかで、子供をリトルリーグに入れると同時に、自分もそのコーチに就いたんだ。それは子供が抜けたいまも続けている。そっちの評判もなかなかだよ。ちなみに、その息子は、慶応の野球部のレギュラーらしい」

 主人は、ことのほか依頼先がお気に入りのようで、訊きもしないことを滔々(とうとう)と語り、褒めそやした。

「父親として教育者として、さらに事業家として申し分ない方なんですね」

 隆一は、またも当たり障りのない言葉を向けた。

「そうだろう」と、主人は満足げに首を縦に振った。

「ところでその息子だが、プロも注目する逸材だと訊いたよ。でも、彼は、野球は大学まで……。卒業したら家業を手伝いますと、はっきり親の前で宣言したそうだ。これまた立派だろう。やっぱり人間は躾(しつけ)と教育だね」

 主人は、また自分のことのように自慢した。

 隆一の胸の鼓動はさらに激しくなっていた。未婚で子を産んだ――という主人の言葉がそうさせているのだろうか。隆一は、胸のなかでそれを反芻してみた。もしかしたら……と思ったら、以前にもまして胸が張り裂けそうになり、頬が紅潮するのがわかった。

 そんなことがあるわけない……と隆一は即座に否定したものの胸の鼓動は抑え切れず、上目遣いで主人を見た。そして、おもむろに訊いた。

「前にお茶をご馳走になった、あの喫茶店の裏手にあるところですか。上が琴の教室になっている……」

「そうだけど、なんで知ってる。あんた、あそこで琴の稽古でもしてるのかね」

 怪訝な顔で主人はいった。

「そうじゃないですけど、初めてご主人のところを訪ねた日に、下町らしいいいところだなと思って、あの一帯を歩いてみたんです。そのとき、目にしたんですよ」

 しどろもどろになっているような気がして、また隆一は頬が熱くなった。

「そうか。物書き屋さんだから、やはり人とは違うところに目を向けるんだね」

 その言葉で、隆一はホッとした。胸の苦しさもいくらか治まってきた気がした。

「知らないところにいくと、よく歩き回るんです。とくに、下町の路地裏には興味があるんです」

 そうこたえたところで、隆一はそっと時計を見た。5時を回っていた。このままだと、また話が長くなるなという気がした。無駄話で時間を潰したくはなかった。いや、本音をいえば、その会計事務所の家族のことをもっと訊きたいと思ったのだが、畏れる気持ちのほうが強くなっていた。

 隆一は腰を上げると、「ところで、この前は、過分なお気遣いを戴き、ありがとうございました。そのお礼にお酒を買ってきました」と、頭を下げた。

「いやいや、当然のことをしただけだから、なにも、お返しなど要らないのに……。でも、よくきてくれた。じつは、余計なお節介をしたかなと思って、ずっと気にしていたんだよ」

 主人はいうと、紙袋をフロアに置きながら、「では、遠慮なく戴くね」と微笑んだ。

「とんでもない……。ご馳走になって、気にしていたのはわたしのほうですよ。ほんとうにありがとうございました」

 隆一は、改めて頭を下げた。

「それはお互い様で、いいってことよ。ま、楽にして……」

 そういうと主人は、上着と紙袋を持って席を外した。しばらくして、瓶ビールが乗った丸盆を持ってきた。

「今日も暑かったね。ま、とにかく1杯呑もうや……」

 向かい合って坐った主人は隆一にグラスを差し出し、瓶を傾けた。

 隆一は、それをそのままテーブルの上に置いて、「帳簿の入力を先にやりましょうか」と伺いを立てた。

 できるなら、頼まれたものを早く片づけて引き上げたかった。例によって、2日間で6時間くらいの睡眠だったことに加え、知らなくていいことを知ってしまったこともあって、落ち着かなかったからだ。

 少し歩いて汗をかいたことで脳は覚醒しつつあったが、ここでアルコール類を呑んでは一気に疲労が噴出し、睡魔に襲われそうな気がした。今日訪ねるのは見合わせようか……と思いつつ主人に電話したことが、いまになって悔やまれてきた。

「そんなに慌てることはないよ。この前いったように、今日は遊びにきてもらったとわたしは思っている。だから、気にせずに呑んでよ」

 隆一の思惑を知ったかのように、主人は躱した。

「じつをいうと、帳簿にはまだ目を通してないんだ。今週中には大丈夫だろうから頼むよ」

 主人の言葉に、隆一は頷かざるを得なかった。諦めと開き直りで、グラスのビールを一気に呑み干した。いつもと違い、やけに胃に染みた。

 主人はすかさずビールを注ぐと、

「改めて訊くのもなんだが、あんた中園さんといったね。生まれは鹿児島じゃないかね」

 と、隆一を見据えた。

「はい、そうですが……」

 そのこたえに主人は微笑み、「やっぱりね。それはちょうどよかった」と腰を上げ、サイドボードから5合瓶を取り出した。それは、テレビで紹介されたのを機に定価の倍以上のプレミアがついた、いまでは地元でも入手が難しいという焼酎だった。

「これ知ってるよね……」

 主人はそれを掲げていった。

「こんな珍しいものが、あるんですか……」

「鹿児島に旅行したときに買ってきておいたんだ。ひとりでは呑みたくないし、かといって焼酎の味がわからない連中に呑ませるのはもったいないから、ずっと仕舞い込んでいたんだよ。今日は、焼酎がわかる人がきてくれたから、10数年ぶりに栓が抜けるというわけだ。これからふたりで呑(や)ろうじゃないの……」

 遠慮する隆一をよそに、主人はミネラルウォーターのペットボトルとポットを持ってきて、「どっちがいいかね」と訊いた。

「お湯割りでいいです」と、隆一はこたえた。水割りでもよかったのだが、主人はお湯割りを呑むだろうという気がしたのだ。アイスコーヒーは邪道だと、いつか主人がいったような憶えがあったからだ。

「やっぱり、あんたは鹿児島の人や。暑い時でも、焼酎はお湯割りがうまいことを知っている」

 そういいながら主人は、新たに出したふたつのグラスに焼酎を淹れ、それぞれにポットの湯を注いだ。

 立ち上った芳醇な香りに、隆一は郷愁を覚えた。

「では、新たに乾杯といこうか……」

 ふたりは、グラスを合わせた。

 透き通ったわりにコクのある口当たりのそれは、お湯割りでもかなり強く、隆一の喉を熱くした。それもそのはず、それは稀少品の35度のものだということを、呑んでから思い出したのだ。

「うまいな……。やっぱり焼酎は本場ものに限るね」

 首を小さく縦に振りながら、主人はいった。

「そうですね。そこいらで売ってる物とは、一味違いますね」

 相槌を打つと、隆一はグラスを空けた。

 急に躰が火照り、動悸が激しくなった。それは、焼酎のせいだけではないような気がした。背筋を、汗が伝うのがわかった。このまま呑み続けることを思うと、不安になってきた。頃合を見て切り上げねば、と隆一は思った。

「なにか、つまみを頼むけど、なにがいいかね?」

 隆一の不安をよそに、主人はいった。

 ためらう隆一に、

「いい若い者が遠慮するな。なにか胃に入れなきゃまずいだろうよ……。鰻でも頼もうかね……」と、主人は立ち上がった。

 こうなったら、呑むしかない――。隆一は、腹を括った。

「すぐ、届けてくれるそうだから……」と、主人は愛想を見せ、「来週末からは、大企業のほとんどは盆休みに入るんだね。少し忙しくなるだろうから、その前にあんたが取りかかれるようにしておくよ」と、続けた。

「わかりました」

 隆一は虚ろな返事をした。

 勧められるまま呑むうちに、酔いは全身に回っていた。黙っていると、ほんとうに眠ってしまいそうだった。

 主人の顔も、酔いで紅潮していた。それでもなぜか主人は機嫌がよく、呑むピッチを上げて隆一の酌を受けた。

「わたしはね、最初からあんたは鹿児島の人だと思っていたよ。だって顔つきがそうだし、『――園』という姓は鹿児島に多いからね……」

 と、笑みを見せた。さらに、

「じつは、戦時中のわたしの上官が『大園』という方で、鹿屋の出身だった。屈強で血の気が多く、酒を呑むのも半端じゃなかった。わたしら、『なんごてモタモタしとっちょか、バカタレが……』と、よくゲンコツを喰らわされたものよ」

 主人はひとりでに話しを続け、腕白坊主が先生に悪戯(いたずら)を注意されたときのように、頭を掻いた。

 そこで、チャイムが鳴った。主人の指示で、隆一は玄関に出た。台灯籠の火袋に、明かりが灯る時間になっていた。

 急に大きくなった蝉の声が響く薄明かりの向うの勝手口を、風呂敷包みを提げた、作務衣(さむえ)の男がくぐってきた。鰻屋だった。いつもそうしているのか、包みを手渡した鰻屋は、代金のことには触れずに「毎度……」というと背を向けた。

 灯籠の明かりが仄かに広がる黄昏のなかを吹く生暖かい風に、向日葵の黄色い頭花が揺れていた。闇に閉ざされるまでの僅かなひとときを惜しむように、さらに大きな声で鳴く蝉の声が、花の香りを乗せた風と共に玄関に入りこんできた。

 隆一は、風呂敷包みを三和土に置いて戸を閉めた。

 解(ほど)いた包みの中の、ふたつの漆塗りの重(じゅう)は蒲焼で、下の大きな容器は天ぷらの盛り合わせだった。

 取った蓋の裏側の、朱色に覆われたその中央に、見たことがある屋号の黒い文字があった。風味のよいタレの匂いが、エアコンの冷気に乗って漂った。

「食べながら呑もうや」

 主人がいった。

 いまさら遠慮は無用だと思い、隆一は頷くと、野菜天に箸をつけた。パリパリと音がするほど、それは香ばしく揚がっていた。これまで空腹感はなかったが、天ぷらを口にしたことで食欲が湧いてきた。隆一は、主人のグラスと自分のそれに、焼酎を注いだ。すかさず主人がお湯を足した。

 隆一は、1口呑むと蒲焼にも箸を伸ばした。濃い目のタレがお湯割りによく合い、さらに残りを呑み干した。

「じつは、この前話したように、わたしも戦争体験者でね。昭和16年5月、鹿屋の第22海軍工廠航空機部に勤務している時に赤紙がきて、熊本の『野砲兵第六聯隊』に入隊し、『野戦高射砲第45大隊7016部隊』の名で各地を転戦したよ」

 誇らしげに隆一を見遣り、主人はいった。

「あれは、忘れもしない昭和17年3月3日のことだった。ソロモン諸島のガダルカナル島争奪戦に惨敗した日本軍は、撤退を余儀なくされてね。わたしが所属していた隊も、百数十人いた兵員の多くが死亡、生き残った我々は救出部隊の手で命からがらブーゲンビル島に逃げのびた。そこで、ばったり逢ったのが、熊本で現役兵だったときの教官の大園少尉だった。軍の危機を訊きつけた少尉は、原隊から15名の補充兵を連れてきた、とのことだった。わたしを見るなり少尉は、『お前、坂口か? よく生きちょったな……。おい、喜べよ……。お前の、内地帰還の命令書を俺が持ってきたぞ、と痛いほどわたしの両肩を叩いてね。わたしは、そのおかげで祖国の土を踏めることになったわけだ」

 そこまで話すと、主人は天ぷらを口にした。

 隆一は、主人が自分の姓を「坂口」といったことに疑問を抱いたが、すぐにグラスを取って焼酎を注ぎ、言葉を向けた。

「それが運命を左右したというわけですね」

「そういっていいだろうね……。わたしらの部隊は、その前にニューギニアに上陸、ポートモレスビーの米軍基地を奪還するために戦っていたんだよ。これがいわゆるニューギニア作戦で、そこも軍の命令で撤退することになり、ガダルカナル島争奪戦に合流した。そのときの日本軍は海軍、陸軍ともに敵に翻弄されて兵員や武器、食糧の大半を消失、惨憺たる状況だった……」

「防戦一方で?」

 隆一の言葉に頷いた主人は、焼酎をひと呑みした。

「なにせ、しゃれこうべやら千切れた手足が転がっているガダルカナル島のジャングルのなかで武器なし食糧なしという苦境に立たされ、木の実や草で飢えを凌ぎながら3ヵ月近くも戦ったわけで、生きていること自体が奇蹟だった。ブーゲンビル島に引き揚げるときも、負傷者や病人など自力歩行できない兵員はみんな置き去りさ。それでも、『一緒に連れていってくれ……』と追い縋る兵員は、酷(むご)いことに短剣で刺されたりでね……。それで絶命した者も少なくなかった。敵が迫ってきており、大を救うためには小を切り捨てなければ全滅という状況だったから、致し方なかったんだがね。また、ブーゲンビル島に引き揚げてからも、マラリアや栄養失調で亡くなった仲間が15名ぐらいいてね。戦争とはいえ、残酷極まりなかった」

 主人はそこまで話すと、目を閉じて合掌した。そして、そのまま立ち上がると、しばらく天を仰いでいた。

 言語に絶するような悪夢を思い浮かべて血涙を絞られたようで、主人の目尻には、露が光っていた。

 隆一は俯いて、かける言葉を模索した。しかし、咄嗟には浮かんでこず、「大変な思いをされたんですね」と返すのが精一杯だった。

 主人は腰を下ろすと、涙の染みがついたネクタイを緩めながら頷き、続けた。

「大園少尉は、『お前は一足先に内地に還り、この惨状を伝えてくれ。日本が勝つためになんとしても生きて還るんだぞ』と、陸亜機密の183号とかいう文書をわたしに託された。それは確か、特科技術の長に宛てたもので、日本軍が有利な戦いを進めるためにも、戦闘機の製造に全力を傾けて欲しい、という軍の要望が書いてあったように思う。そのとき、拾い集めた、48名分の戦友の遺骨もわたしに預けられてね。これを祖国で弔(とむら)ってやってくれと……。それが大園少尉との最後の別れになるとはね……」

 押さえていたものが堰を切ったようで、主人は嗚咽を洩らしはじめた。

 話しの内容も去ることながら、隆一は主人のその姿に心を打たれた。目頭が熱くなるのを堪えながら主人のグラスを満たし、手に取って渡した。

 主人は、露を宿した目を隆一に向け、作り笑いを見せた。悲しみを隠すように、無理に笑顔を浮かべた主人の顔には、情の深い人柄が滲み出ているように感じられた。

「内地へは、どういう経路で還ってこられたのすか?」

 隆一は、訊いた。

 主人は、ラバウルまでいって、2週間ほど待機し、広島に帰艦する戦艦に乗ったこと、敵機の来襲を躱すために太平洋の島々に逃げ惑い、2ヵ月余りを要して祖国の土を踏んだ――ことを説明した。

「その船に乗れたのは、我が隊では、鹿児島県大崎町の人とわたしのふたりだけだった。広島へ着いたら鉄道隊が待機していて、その夜の宿泊の手配から、熊本の大隊本部まで帰る汽車まで段取りしてくれた。車輛のなかに祭壇が作ってあってね、48名の遺骨が祀ってあった。それに乗って、ずっと拝みっぱなしだったわけだが、熊本が近づくに連れ、戦友を喪った悲しみと、自分だけが生きて帰る後ろめたさが交錯して苛(さいな)まれたよ」

 主人は、俯くと右の前腕で目を蔽った。ほどなくして顔を上げると、赤くなった目を瞬(しばたた)かせながら、さらに続けた。

「熊本まで、ずっと4名の護衛がついていたが、それはわたしを監視するためでもあったんだね。ガダルカナル島で数10人の兵員を見殺しにした件は、口外するなと厳命されていたし、わたしが途中で逃げ出して、軍の上層部に密告するようなことがないよう見張っていたんだろうと思うよ。そんなことが洩れたなら、いくら戦地でのできごととはいえ軍法会議ものだったろうからね。以来、今日までわたしはそれを封印してきたんだよ。他人に話すのは、もちろんあんたが初めてだ」

「信じられないようなことですね」

 隆一は、そう返すのがやっとだった。

 主人は頷くと、呑んで食べてよ……といってグラスを呷り、重に箸をつけた。

 隆一もそれにしたがい、残りの蒲焼を平らげて主人の顔を見た。主人は赤味が射した顔に、もっと話したげな表情を浮かべていた。

 戦争を知らない隆一は、切り出す言葉がなかったが、訊くだけでも主人の慰めになるという気がして、質問の口を切った。

「最初にいかれた戦地はどこですか?」

「熊本で、現役兵として数ヵ月訓練を受けた昭和16年8月、最初は満州の黒龍江省(こくりゅうこうしょう)の牡丹江(ぼたんこう)に赴いた。そこから吉林省(きつりんしょう)の吉林、遼寧省(りょうねいしょう)の瀋陽(しんよう)と転戦し、11月になって遼東半島(りょうとうはんとう)の大連(だいれん)まできたところで乗船命令が出た」

 そこまで話すと、主人はグラスに口を付けた。

「出航して東シナ海を南下、台湾の基隆(きーるん)経由でそれぞれ澎湖島(ほうことう)に集結して待機した。12月初旬にいよいよ作戦開始となって、スラバヤ湾からミンダナオ島のダバオに進んで、次の指令を待った。発令にしたがい、パラオからニューブリテン島のラバウルへと向い一旦上陸してまた待機、件(くだん)のニューギニア作戦に加わったわけだ。我が隊は、その名のごとく高射砲で敵陣の空からの攻撃を駆逐するのが任務だったからね。そのあとは、さっき話したガダルカナル島争奪戦に合流した、というわけだ」

 責任は全うした、といった誇りが言葉の端々に感じられた。

「いまだったら、いい旅ができたといえるでしょうけど、戦争ともなれば生きるか死ぬかですから、苦しいことばかりだったでしょう」

「確かに、苦しきことのみ多かりき──だったね」と、主人は隆一を見つめて続けた。

「でも、いちばん印象に残っているのは、綺麗な海よりも中国大陸だね。極寒の地で動き回り、へとへとになって震えるこの身を癒してくれたのは、壮大な地平線を染める夕焼けだった。あれだけは、曰(いわ)くいい難い物があり、戦争の酷さ、辛さも忘れさせてくれたよ。北海道の日没も綺麗だが、大陸のそれはスケールが違う。終戦後、その大陸の景観が忘れられず、パール・バックの『大地』をはじめ、中国に関する多くの書物を読み返したよ。また、今年になって読み直しはじめた吉川英治の『水滸伝』は3月に『三国志』は6月に読み終え、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』は、今月再読をはじめた。これを読み終えたら、次は北方謙三という最近の人気作家の『水滸伝』を読んでみようと思っている。とにかく、中国の偉人はその大地のようにスケールが桁違いでじつに面白いね。そういうわけで、観光でいくことをずっと夢見ているんだが、残念ながら今日までそれは果たせていない」

「そうですか。わたしは、中国に材を採ったものは高校時代に読んだ『アカシアの大連』という小説ぐらいで、中国のことはほとんど知りません。もっともほかの国のことも知りませんが……」

「中国は凄いよね。あの肥沃な国土と10億を越す人間のパワーで、21世紀の後半は善きにつけ、悪しきにつけ世界を席捲するよ」

「すでに、その兆しを見せていますよね」

 頷きながら、主人は隆一のグラスに焼酎を注いだ。酔いも覚めたような気がして、隆一は少しだけお湯を足して一気に呑んだ。

 さらに主人は、「10数年前に仲間と観光を兼ねて、大園少尉の墓参りにいった」ことに触れた。

「少尉の息子さんの案内で、40数年ぶりにあの霧島ヶ丘公園にいったけど、あそこからの眺めはいつ見てもいいね。西側に広がる穏やかな錦江湾(きんこうわん)の向う側に薩摩半島が横たわり、薩摩富士の異名を持つ開聞岳(かいもんだけ)が正面に望める。北のほうには高隈(たかくま)山系が連なり、その左端の彼方に桜島が噴煙を上げているのが見える。太陽の位置と風向きによって刻々と姿を変えるあの風景は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』のひとつを思わせるよね」

 感慨深げに話す主人は、同意を求めるように隆一を見つめた。

「そうですね。曰く言い難いものがありますね」

 隆一はこたえた。

「さらに右手に視線を移した眼下には、昔働いた海軍航空工廠があった鹿屋航空隊が広がり、それに続いて鹿屋市街から笠之原台地の向こうの、志布志(しぶし)辺りまで一望できる。わたしがいったのは5月だったが、昔と比べ見違えるほど綺麗に整備されていて、バラが満開だった。久しぶりの絶景に感激し、涙が出たよ。そこの麓の浜田町に少尉の墓はあった」

 瞬(まばた)きひとつせず、往時を偲んでいる主人の目は、夢を語る子供のそれのように爛々と輝いていた。

 髪には白いものが交じってはいるものの顔の色は艶(つや)やかで、微笑むたびに刻まれる深い皺にも、温厚な人となりが窺えた。まさに、枯淡(こたん)の境地に達しているといった感じだった。

 この手の商売人は、狡猾で吝嗇(りんしょく)な人間が多い――と隆一は訊いていた。それを真に受け、その先入観でこれまで主人を眺めてきた節がある。だが、話しを訊けば訊くほど、主人の稟性(ひんせい)の優しさが伝わってきて、卑近なたとえで人を判断していた自分に、恥ずかしさを覚えた。

「わたしが生まれたのは、鹿屋の新生町(しんせいちょう)というところで、そこから鹿屋航空隊はすぐですよ。霧島ヶ丘公園には、小学校の時分に遠足で何度もいきました」

 詫びる思いで口を開いた隆一の瞼には、子供の頃にいった霧島ヶ丘公園から眺めた鹿屋航空隊の情景が浮かんでいた。

 ――爆音を発てて飛び立っていく黒い『P2V―7』。その勇姿を目の当たりにりにし、ひとり昂奮していた。将来は、自由に飛行機を操れるパイロットになりたいな……。子供心にそう思ったこともあった。それは、ロッキード社製の対潜哨戒機だということを、中学校に上がったある日曜日、ひとりで航空隊を見学にいったときに門番の人に教えてもらった――。

「新生町ならよく知ってるよ。確か、昔はあの一帯を下谷(しもだん)といったよね。すぐそばに池の上公園があり、鹿屋駅も近かった。仕事が終わると、よくあの辺りを歩いたもんだ」

「いまの若い人は知らないでしょうが、わたしは下谷といわれていたことは憶えていますよ。池の上公園は鹿屋中央公園と改称され、武道館やサッカー場ができたそうです。駅も、大隈線が昭和63年3月13日に廃止されたのに伴い、なくなっちゃいましたね。ちょうどそのとき、わたしは帰省していて、日時まではっきり憶えてるんですよ。その跡地は、いまは鹿屋市役所の庁舎が建っているそうです」

「わたしらがいったのは平成3年だった。いまはもっと変わっているだろうね……」

 主人は、懐かしそうにいうと俯いた。また、なにかに思いを馳せている感じだった。

 この人も鹿屋の生まれなのかと思い、隆一は訊いた。

「もしかして、ご主人も鹿屋の生まれですか?」

 主人は、隆一を見つめ、「いや、広島の呉(くれ)だ……」と前置きして、7歳まで呉で過ごしたあと、母の故郷の佐世保に帰り、20歳になって佐世保の海軍工廠航空機部に入ったと話してくれた。

 さらに、佐世保に帰った原因は、父親の道楽に愛想を尽かした母親が三行半(みくだりはん)を突きつけた――ということも。

「佐世保の工廠で、1年間零式戦闘機の製造に関する教育を受けて、鹿屋の分工場に転属になったのが、昭和16年の4月だった。さっき話したように、5月になって召集令状を受けて熊本の第六聯体に入隊、現役兵として教育を受けて『勝ってくるぞと勇ましく』戦地を転戦することになったんだよ」

 隆一は、それを訊いて主人の年齢を勘定した。すでに、傘寿(さんじゅ)を過ぎているにも拘わらず矍鑠(かくしゃく)としており、その齢(よわい)は微塵も感じさせなかった。

 また、塗炭(とたん)の苦しみを味わわされた戦時中のことを、赤の他人の隆一に淡々と語るあたりに、主人の懐の深さが窺えた。これは、どんな境遇をも、強い信念で生き抜いてきたという、主人の自信の表われに違いないと隆一には思えた。

 それに比べると、未だにその日暮しを続け、それに安閑としている自分が恥ずかしく、こうして酒を酌み交わしていること自体、分不相応だという思いが込み上げてきた。

「昔の人に比べれば、戦後生まれの人間は恵まれていますよね」

 自嘲を込めて、隆一はいった。

「そうだね。時代が違うといえばそれまでだが、わたしは戦争によって身も心も鍛えられた、と思っている。無論、戦争を2度と繰り返してはならないが、死ぬか生きるかの修羅場をくぐってきたから、いまの自分があるわけだからね」

 主人は、胸を張ってこたえた。

 隆一は、中座して御手洗いへいった。寝不足と酔いで、鏡に映した顔は無精髭が目立ち、まさに老醜(ろうしゅう)を窶(やつ)している、といった感じだった。今日は呑まないと心のなかでは決めていたのだが、これも男の付き合いだからしょうがないか……と、自分を納得させて席に戻った。

 主人は、焼酎の瓶をグラスに傾けていた。底を突いたらしいことが、その角度でわかった。

「5合瓶はすぐなくなっちゃうね。あんたが持ってきてくれた吟醸酒を呑もうか……」

 そういいながら、主人は『久保田』の口を切った。

 そろそろ帰りたいと思っていたことに加え、遠慮するのも礼儀だと思い、隆一はいった。

「もう結構です。そろそろ失礼します」

「そうかね。でも、まだ焼酎が1杯だけ残ってるよ。これを空けてからでも遅くないだろう」

 主人はグラスを差し出した。

「飲む時は徹底して呑もうじゃないの。仕事柄呑み慣れていそうだし、1升ぐらい呑んだって、へっちゃらだろう。まして、あんたは若いし鹿児島出身だから、ほんとは底なしじゃないのかね」

 主人は、帰るのはまだ早いといった口ぶりで、サイドボードから新たにグラスを取り出し、酒を注いだ。

 これは長くなりそうだな……と、隆一は思った。決して、主人と呑むことは厭ではなかったが、遠慮も必要だと思った。その一方で、世話になっているという負い目もあり、中座するのも失礼かなとも思った。

 このあと予定があるわけではなく、咄嗟に浮かぶのは雀荘にいくことぐらいだった。でも、これ以上呑むのであれば、麻雀がいいという思いが過ったのも事実だった。

 そんな隆一の気持ちを見透かしたように、主人は含み笑いで見つめていた。

「もう、わたしも若いとはいえない歳で、来年は50になります。いい歳して、叶わぬ夢を追っているんですから、恥ずかしい限りです。まして、ご主人には借金をしているわけで、そんな男が対等に酒を呑もうなんて、言語道断でしょう」

 忸怩(じくじ)たる思いで隆一はいい、グラスに残していたものを呑み干した。

「そんなことは関係なか。わたしは商売だからいうんじゃないが、人間誰でもいいとき悪いときがある。ばってん、諦めたらいかん。堕ちるところまで堕ちたなら、必死で這い上がる努力をすればいいことだ……。敢えてわたしがいわなくても、そんなこと、あんたはわかっているだろう。その気持ちを忘れず今後も頑張りんしゃい……」

 呂律の回らない口調で、あちこちの方言を交えながら主人はいった。

「そうですかね。でも、結果が出なければ頑張ったことにはならないし、それは無駄な努力というものでしょう」

 これが隆一の、精一杯のこたえだった。

「そんなことはないよ。どんな分野だって、下積みの長い人はいずれ必ず陽の目を見る日がくる。ポッと出てきてすぐ忘れ去られるよりは苦労した人のほうが、いざ世に出たら強いよ。それは、役者の世界を見ればすぐわかる。あれがいちばんいい例だ。そう思わないかね?」

 主人は、諭すようにいって、吟醸酒のグラスに口をつけた。

「確かにそうですね……」

「なかでも、『うまい』と唸らされるのは、昔の大部屋の役者が多いだろう。とくに、時代劇ではそれがわかる。彼らは、自分の役所(やくどころ)を辨えて、牛の涎のように地道に芸を磨いている。天網恢々疎にして漏らさず――で、そういう人は、必ず脚光を浴びる日がくる。自分を信じて一芸に賭ける――。そういう人が、わたしは好きだね」

 誰だか贔屓(ひいき)の役者を例に引いた、隆一への激励の言葉のように隆一には聞こえた。

 それを頭のなかで誰何してみたが、隆一が確信を得られるほどの役者は思い浮かばなかった。それもそのはず隆一は、最近は酒か麻雀か女かで、映画はおろかテレビやラジオにも無縁の生活を送っていた。

 加えて、本は読まないし新聞が何通も郵便ポストに入りっぱなし、ということも少なくなかった。これではシナリオはおろか、マイナーな雑誌の「埋め草」だって書けるわけがない。

「最近はつまらない映画やドラマが多いけど、それを観るのも勉強だからね。なぜつまらないか――その理由がわかるからだ。もちろん、いいものは必ず観なけりゃ駄目だよ……」

 四ツ谷のバイト先の社長の箴言(しんげん)が甦った。

「それすらしないで、いいモノを書こうなんて、虫がい好いんじゃない」

 仲間達の、苦言も聞こえてきそうだった。

 救いようがないな……と、他人事のように隆一は胸のなかでつぶやいて、コップの酒を呷った。お湯割りのあとには、その生ぬるさがなんともいえなかった。

「その意気込みだけは持っているんですが、やはりわたしには才能がないようで……。陽の目を見るなんて夢のまた夢です」

 思ったままを、隆一は口にした。

「なんだよ、その言い種は……。あんた、死に物狂いでやったのかよ? やりもしないで、女の腐ったようなことをいう奴は、わたしは大嫌いだ。少しは、郷土の偉い人を見習ったらどうだね、おいっ……。西郷隆盛、大久保利通……立派な方がいっぱいおろうが……。そんな考えは、九州男児の名折れだ」

 主人は、いきなり語気を強めていった。突然の飛躍した話しに圧倒されて、隆一は二の句が次げなかった。不用意な発言が主人の癇に障ったようだが、これは、隆一の正直な気持ちで仕方のないことだった。

 隆一は立ち上がり、「どうもすみませんでした。失礼します」と頭を下げてジャケットを手にした。

「なんだ、帰るのか……。たかがこの程度いわれたくらいで逃げるのかね。九州男児なら、堂々と反論したらどうだね。ハッハッハッ」

 主人はいうと、隆一を見上げて笑った。

 いわれてみればそのとおりで、隆一はおずおずと腰を下ろした。

 主人は、さあ、なんでもいってくれ、といった表情で隆一を凝視していた。

 沈黙は立場を悪くすると思い、隆一は開き直りにも似た心境で口を開いた。

「大の男が、数万円の金の工面に主人を訪ねたわけですから、推して知るべし――でしょう。これがすべてで、どんな理想を語ったところで、所詮絵に描いた餅ですよ」

 隆一は、腹蔵のない言葉を向けた。急に、胸の痞(つか)えが取れたような気がした。もう、なにも臆することはない、と思えてきた。

「そんなことは気にしなさんな……。わたしは自慢じゃないが、これでも『目利きの龍介』といわれた男だよ。預かる品物だけじゃなく、人を見る目も誰より確かだ。それぐらいで男の値打ちを決めはしないから、そう卑屈にならんでもよろしい……」

 主人は、語尾を上げると、また隆一を見つめて続けた。

「あんたを見ていると、戦時中にガダルカナル島に置き去りにされた戦友を思い出してね。あんたと同じで物書きを目指していて、戦争が終わったら戦記をまとめて出版社に売り込むんだ、といつもいってたよ。あんたの目は正直だ。その戦友も、そんな澄んだ目をしていたよ。喪った戦友を供養するつもりで、今後もあんたが本気で物書きに取り組むというなら、わたしが支援してやろうじゃないの」

 その目は潤んでいた。

「す、すみません、こんなわたしのために……。ありがとうございます。でも、わたしも男です。自分でなんとかします……」

 俯いてこたえた隆一の頬を、雫が伝った。それはとめどなく続き、主人に顔を見せられなかった。

「どうしたい、ヨカニセ……。男が涙を見せちゃいけないよ。顔を上げて呑まんかね」

 主人は、テーブル越しに隆一の両肩を叩いた。その目からも、雫が滴った。それを手の甲で拭った主人は1升瓶を摑むと、隆一のグラスにまた酒を注ぎはじめた。

 ハンカチをテーブルの上に置いて、隆一はそのグラスに口を付けた。

「ところで、元気かね。あのパソコンをプレゼントしてくれた人は……」

 主人は、右手の小指を立てていった。

「えっ、あのー……。じつは……」 

 隆一は、しんみりと実情を打ち明けた。

「そうか……。でも、よくできた人のようだね。おそらく彼女は、あんたの夢を実現させるために、敢えて自ら身を引いたんだよ。失礼だが、あんたはどこか甘えん坊なところがあるから、一緒にいてはあんたを駄目にすると感じたんだよ。わかるか、この気持ちが……」

「…………」

「あんたの、これまでの言動を鑑(かんか)みると、人間の心の機微や葛藤、それに優しさ、狡(ずる)さ、醜(みにく)さというものを、感情に流されずに冷静に捉えるという部分が、欠けているようだね。それは、あんたの温厚なな人柄ゆえだと思うが、もっと多角的にシビアに人間を見ていく必要があるんじゃないかね」

 主人は腕組みをしていった。

「と、おっしゃいますと……」

「これは、わたしの推測だが、そういう面であんたの書くものは、いまひとつインパクトが弱いんじゃないかなという気がする。文章を作るなんてことは長い経験でお手の物だろうけど、文章が上手いだけでは自己満足の域を出ないのじゃないか。そういう人は、この世にはゴマンといるだろう。少なくとも、それを生業(なりわい)として多くの人に読んでもらうプロを標榜するなら、面白くないと意味がない。それには、綺麗事だけでなく人間の心の襞(ひだ)を鋭く抉(えぐ)り、おどろおどろしい部分も冷静に分析して書き切らなければ駄目だろうよ。これは素人のわたしの意見だが、大切なことだよ。なぜなら、わたしは読む側の人間だからだ」

 主人は、きっぱりといった。

「そのとおりです」と、隆一は返した。

「つまり、あんたは、いいところのボンボンのように、常識的過ぎて綺麗過ぎて、線が細い……ということだ。これは人間としては悪いことじゃないんだが、物を書くうえではその殻を破らないと……。なんだったら、金融業のことを逐一教えてやるから、わたしのところで修行してみないかね。人間のエゴ、妬(ねた)み、欲望などが渦巻いていて面白いぞ。失礼だが、そうすれば、あんた自身が一皮剥けるだろうし、もっといい原稿が書けるようになるんじゃないか。ここらでひとつ、気を入れて取り組んでみなよ。あんたを愛してくれた人たちも、それを願っていると思うよ」

「それは痛感していますし、できればご教示願います」

 隆一は、素直に応じた。 

 主人は、この一連の話しから、隆一がコートを預けた理由も、それとなく察したようだった。

「あんたから利子をもらわなくてもうちは潰れないから、ずっと保管しといてやるよ。その代わり、わたしがさっきいったことを真剣に考えて頂戴よ。それとは別に、頼んだ仕事もあるんだからね……」

「わかりました。でも、利子ぐらいは払わないと罰(ばち)が当たりますから……」


 窓の外は闇が澎湃(ほうはい)していた。物音ひとつ聞こえない静けさが、夜が更けてきたことを告げていた。そっと見た腕時計の針は、9時半を指していた。1升瓶の残量はすでに半分を割っており、酔った頭は、酔っているという感覚さえも麻痺させているように感じられた。いまさら、帰りを急いだところで、長い夜を持て余すのが関の山だと思えてきて、隆一は1升瓶を手に取った。

 主人は、干したグラスを隆一の手元に置きながら、隆一の生い立ちについて水を向けてきた。

「あんたも、見かけによらず苦労人なんだね」

 小学校の時分に母が亡くなり、叔母のところに里子に出されたこと、28になって結婚する予定で同棲した相手とは2年で死別したこと、養老院に入っていた父は9年前に他界したことなど、掻い摘(つま)んで話した隆一に、主人はそういった。

「そういう苦労も人間の財産だよ。世のなかには、自分ひとりが苦労を背負っているといった顔をしている人がいるけど、それは違うね。そういうものは面(おもて)に出してはいけないんだ。その点、あんたは立派だよ。そういうことを微塵も感じさせないから……」

 主人はいって、ゆっくりとグラスの酒を空けた。ほどなく、「じつは、わたしの最初の妻は鹿屋の人でね……」と、打ち明け話をはじめた。

 それは、戦地から帰還したあと、玉音放送を聴くまで海軍工廠に勤め結婚したことを端緒に、昭和24年まで鹿屋で暮し、倒れた母親の看病のため単身で佐世保に帰ったこと、母親の死に伴い三浦半島の造船所に勤めた――ことに及んだ。

「皮肉なことに、戦争が終わったら仕事がないわけだ。土地があるわけじゃないから米も芋もなく、食うや食わずの生活を強いられているうちに母が亡くなり、妻子を呼ぶどころではなくなった。そこで一念発起、親戚の伝手で神奈川県に働きにいったのさ。3年経ってどうにか生活の目処が立ち、鹿屋まで妻子を迎えにいったのだが、拒否されてね。田舎から出たことがない病弱の妻は、終戦後の混乱の都会で暮すことが不安極まりなかったのだと思う。わたしも生きるためには働かなければならず、造船所に戻るしかなかった。断腸の思いで妻の言葉にしたがったよ」

 そこまで話すと主人は、席を外した。小さな啜り泣きがその背中越しに聞こえてきた。

「今日はとことん呑みましょうか」

 戻ってきた主人に、隆一はいった。

 充血した目を向けて、主人は頷いた。そして、宙を仰いで隆一が新たに注いだグラスの酒を呑み干すと腰を下ろし、続きを語った。

「子供はふたりで、上が男でそのふたつ下が女の子なんだが、その1年後、妻が病に倒れたとの連絡で、その子供たちを引き取りにいったんだよ。そしたら、小学校の1年になっていた上の子は、『母ちゃんがひとりじゃぐらしい(かわいそう)から、僕は父ちゃんとはいかんよ……』といってね。はっきり自分の意見をいうのを見て、これなら妻も大丈夫だと思い、5歳の娘だけを連れて戻った。風の便りによると、その息子はいまは商売をはじめ成功しているらしい。一方の妻は、霧島の老人ホームにいる」

 いった主人の頬を、涙が伝った。

 隆一は、視線を逸らし、グラスに口を付けた。

 非業の別離を初めてその当事者から訊かされて、隆一は涙を押さえ切れなかった。

 無念にも戦地で散った人、原爆を投下された地の人はもちろん、主人のように家族を引き裂かれた人もまた、戦争の犠牲者に変わりはない。戦争で、目には見えない心の疵を負わされた人も、この世には決して少なくはないだろう、と隆一は思った。

 戦後生まれの隆一は、戦争については歴史の教科書で触れた程度だし、戦争に材を取った多々ある小説も映画も、読むのも観るのも好まなかった。また、すでにこの世にはいない主人より少し年上の、戦争体験者の父がいたのに、事あるごとに暴力で捻じ伏せる父との対話は皆無で、訊く機会もなかった。しかるに、戦争についてはほとんど無知といってもよく、主人の話しを訊いて、初めてその惨(むご)さの一端に触れられたようなものだった。

 これまでは、戦争というと元軍人を笠にきた父の姿が浮かび、その言葉を耳にしただけで忌避してきていた隆一だったが、主人の話しで少し素直に受け止められると同時に、父への思いも新たにした。

 さらに、この愚行を繰り返さないためにも、後世に語り継ぐ必要がある、と痛感しはじめていた。

 主人は、そのあと縁あって子連れで婿に入り、そこの衣鉢(いはつ)を継いだという。それが今の商売で、今日まで守り抜いてきた、というわけだ。主人の姓が昔と違うことを、そこで納得した隆一だった。

「人間は勝手なもので、なにごともやらねば後悔、やっても後悔だよ。でも、同じ後悔なら、やったほうがいいに決まっている。あんたはまだ若いんだから、やるだけやってみるんだね。そうすれば、なにも思い遺すことなくあの世にいかれるよ」

 隆一は、その言葉を肝に銘じた。

 主人は、安堵したような表情を浮かべ、鹿屋の旅の思い出を話しはじめた。

「大園少尉の息子さんに、本町の小料理屋に連れていかれてね。名物のつけあげときびなごの刺身を肴に、しこたま呑まされたよ。その息子さんがまた親父さん譲りの酒豪で、そこには『小鹿』『さつま大海』『白玉の露』の3本の1升瓶がキープしてあってね。『これは大隈半島特産のよか焼酎ですから、全部空けてから帰ってください』といってね。それぞれ5,6合入っていた1升瓶にわたしらは3人で挑戦したけど、3本とも2合ぐらい残してしまった。そしたら、『全部空けないと店に失礼でごわす……』と、彼はひとりでそれをみんな呑んじゃったよ。そのあとも朝日町(あさひまち)辺りの呑み屋をハシゴして、次の日の朝、吾平山陵(あいらさんりょう)に連れていかれたときはみんな宿酔(ふつかよ)いでゲェーゲェーさ。あんな厳(おごそ)かな御陵で失礼なことをしちゃったよ」

「へぇ、吾平山陵にもいかれましたか。わたしらが子供の頃は、初詣といえばそこで、懐かしいですよ。ところで余談ですが、『小鹿』はその吾平町で造られているんですよ。いまは鹿屋市に併合されていますけど、それまでは肝属郡(きもつきぐん)吾平町でした」

 隆一は、昔に帰省した折に従弟に『小鹿』を振る舞われたことを思い出しながら、そういった。そして、その近くに造成されたという、県下随一の大隈広域公園のことを話しているうちに、疎遠にしている親戚のことが頭に浮かんできて、急に帰ってみたいという思いに囚われた。

「それにしても、ご主人は焼酎の銘柄をよく憶えていますね」

 久しく呑んでいない田舎の焼酎を思い出しながら隆一はいった。

「あんな思いをしたんだもん、忘れるわけないよ。それに、いまは東京でも売ってるもの。この近辺だと足立区綾瀬の『全国銘酒センター』というところにいけば買えるよ」

「そうですか。今度、覗いてみますよ」

 隆一は、知ったかぶりしなくてよかったと思いながらいった。

「生きてるうちに、もう1度鹿屋にいってみたいな……」

 主人は、懐かしそうな目をした。

「近いうちに一緒にいきませんか。わたしも、帰ってみたくなりました」

 反射的に、隆一はいった。まずい、身のほど知らずが……と思ったときは、後の祭だった。

「じゃ、今度の盆休みにいこうか……。では、話しは決まったし、これからその前祝いで呑みにいこうじゃないの。あんたが知っている青戸の店でいいよ」


 他所の家に闖入(ちんにゅう)したかのような、鼓動の激しさだった。真っ暗な部屋に籠った、真昼の暑さを残した空気に包まれた躰は汗を噴き出し、綿の布は肌にへばりついていた。隆一は、堪らずジャケットを脱いで、下駄箱の上に載せた。

 異様な咽喉の渇きに耐え切れずに、明かりのスイッチを探すより先に、冷蔵庫を求めて奥へと歩を進め、ライターを点けた。豆粒のような炎が、磨き込まれた冷蔵庫に映った。

 隆一は、その扉を開けると、ドアポケットにあったバドワイザーを取り出しプルタブを開けた。そして、宙を仰いで開けた口に、一気にそれを流し込んだ。

 溢れた液体が首筋を伝った。それを手の甲で拭きながら、隆一はその扉を蹴った。また、闇に包まれた。

 再び点けたライターの明かりで、吊り戸棚の下に垂れた蛍光灯の紐を探り当てた。ステンレスのシンクを眩しく照らした白色光は、リビングルームに陰影を作った。

 昨夜と変わった花瓶の梔子(くちなし)が、白いテーブルの上に落としたその細い陰とともに目に入った。隆一は、缶に口を付けながらソファーを目指した。バドワイザーの缶は、すぐに底を突いた。治まらぬ渇きを我慢して、ソファーに寝転んだ。

 いつもなら、口を付けたくなるような梔子の芳香もいまは息苦しく、吐き気に襲われた。

 目を閉じて堪えているうちに、主人といった『紫苑』の光景が甦ってきた。

 そこは、思ったより混んでいた。それでもみゆきは、ふたりの席に付きっきりだった。

 利発なみゆきは、隆一が連れていった相手の素性を、二言三言の会話で察したようで、細かい気配りを見せた。

 主人は、それをいたく気に入ったらしく、脇目も振らずに話し込んでいた。

 隆一は、機を見ては同席した女性を歌やダンスに誘い、席を外すように努めた。

「わたしの部屋で待っていて……」

 帰り際にみゆきは耳打ちした。

 12時半にそこを出た主人と隆一は、タクシーに乗った。隆一は、立石で主人を降ろしてみゆきの部屋に向うつもりだったが、酔っている主人を見兼ねて、一緒に立石駅で降りた。そして、主人の家まで同行した。

「泊まっていくかね……」との主人の言葉を隆一は丁重に断った。

 主人は寂しそうな顔をしたが、「それではタクシー代」と、紙幣をくれた。

 隆一は、それを受け取ると奥戸街道まで歩いていった。


 頭の芯が疼き、胃もちくちくと痛み出した。空腹で呑み過ぎたときに、たまに覚える症状だった。強いアルコールで紛らせばいいことだが、冷蔵庫のビール以外にそれらしきものは目に付かなかった。探せば、どこかにジンやブランデーがあることはわかっていたが、なぜか気が咎めた。

 汗で湿ったシャツの袖を捲って腕時計を見た。すでに、2時に近かった。携帯電話を取り出しスクロール、みゆきの短縮を探った。

 不意の出逢いからひと月も経っていないのに、みゆきにのめり込んでいることを隆一は感じていた。

 みゆきに限らず女とは、一定のスタンスを保ちながら接しようと、あの夜肝に銘じたはずなのに……。

 本気になったところで、底が浅い隆一の性格など、いずれ見抜かれることは必至で、これまでの誰もがそうしたように、みゆきも同じ結論を出すことは想像に難くない。

 にも拘わらず、みゆきの言葉を真に受けてこの部屋で待つということは、それに反する最たる行為だ。まるで、食い扶持のために市井に出ては春を鬻(ひさ)ぐ、献身的な情婦を待ち侘びる不甲斐ない間男そのものだ。

 それでも待っていれば、みゆきは男に気遣い身を任すだろう。それは、猫を被った隆一の本性がわからないからに他ならない。それを見抜いたなら、大事なパソコンのファイルを、こっそりゴミ箱に移すように無言の別れを告げた姚子よろしく、みゆきも姿を晦ますに違いない。そんな思いは、2度と味わいたくない。

 そう思うと、急に侘(わび)しくなり、ここにいるのが耐えられなくなってきた。

 隆一は、みゆきの短縮を押しかけた携帯電話をポケット押し込むと、明かりを消した。


 虫が集(たか)った街灯に照らされた曳舟川通りを、とぼとぼ歩いていった。メーターに『空車』の赤い文字を出したタクシーが、明治通りの両方向を走っていた。隆一は、それに沿った内回りの歩道を水戸街道方向に進んだ。

 東向島の交差点まできて、いく当てもないことに気が付き、隆一は立ち止まった。

 真っ直ぐいけば、いつかの入院中に開拓して以来、たまに顔出ししているスナックがあるのはわかっていたが、そこにいく気はしなかった。呑みにいくなら、知らないところにしようと思った。水戸街道を左折した。

 少しいくと左に小幅の道があった。見上げると、『地蔵坂通り商店街』と書かれた、ペンキの剥げかけたアーチ状の板が、通りの上部を跨いでいた。

 隆一は、水戸街道をクルマで走ったのも数え切れないほどだし、向島界隈だって他人より精通していると自分では思っていた。しかし、この商店街だけは名前すら知らなかった。

 アーケードはないものの、下駄履き住宅が続いているところは立石の商店街に似ていなくもないなと思いながら、隆一は通りのなかへ足を踏み入れた。

 八百屋、肉屋、雑貨屋、和菓子屋などの屋号が書かれたシャッターが、断続的に続いていた。その間に、商売とは無縁と思われる佇まいの家もあった。隆一はさらに歩を進め、緩やかなカーブのところで足を止めた。

 1軒ぐらいは開いている店があるはずだと隆一は思い、さらに舗道を目で追った。少し先に、通りを横切っている東武線の高架が見えた。そこまでがこの商店街なのだろうか。その向うには、それらしき明かりはなかった。

 向きを変えようとしたとき、小さな明かりを見つけた。

 数10㍍先の通りの左にある家屋の2階に灯るそれは、屋号を示すものだった。業種まではわからなかったが、この時間に看板を点けているのはスナックぐらいだろうと思い、それを目指した。

 寝静まった商店街に、靴音が響いた。街灯が作った自分の小さな影だけが、着いてくる。

 数歩いくと、また隆一は足を止めた。奥まったビルの、2階の踊り場付近を照らしているスポットライトが目に入ったのだ。

 隆一の視線はすぐに、そこに置かれている無灯火の電飾看板に釘付けになった。朧気に見えるその字面(じづら)に気を引かれた隆一は、黄と緑の縞のアーチ状のテントに蔽われた階段を駆け上がった。

 果たして、それは思ったとおりで、黒いアクリル板に白く抜かれていたのは『瑠璃』の文字だった。

 もしかして、ここは、あの人の店では……と思った途端に隆一の胸は高鳴り、汗が噴き出してきた。

 あの人が、向島で『るり』というスナックをやっている――ことは、『緑一荘』のまっちゃんに訊いていた。向島も決して狭くはないが、どこにでもある平凡な店名とは違う。それが、漢字か仮名かは訊かなかったが、同じ名の店がほかにあるとは思えなかった。あの人の店に間違いない――隆一は確信した。

 偶然ではあるが、場所を探り当てたことで、隆一はあの人に1歩近づけたような気がした。

 それにしても、『瑠璃』とは、なんて素晴らしい響きだろうか。字面にも読みにも品格がある。

 これは、あの人の名前に由来するものに違いない、と隆一は直感した。そう思ったら急に元気が出てきて、喉の渇きにも気が付いた。隆一は、急いで通りへ下りて、明かりの点いた看板を目指した。


「遅くなってすみませんでした」

 みゆきは、隆一の前に跪(ひざまず)き、深く頭を下げた。

「仕事だから、しょうがないよ。顔を上げなよ……」

「ほんとうにそう思ってる……。だったら、ここにいればよかったでしょう」

 立ち上がると、みゆきはいった。

「他人の部屋にひとりでいるのは、空き巣に入ったようで、気が滅入るんだよ。それだったら、寂しくてもまだ自分の部屋がいい」

 これは、隆一の本心だった。主のいない部屋にひとりでいるのは、耐えられない。

『地蔵坂商店街』の店で呑んでいる隆一に、みゆきが電話してきたのは午前2時を30分も過ぎていた。

「りゅうさん、わたし……みゆきです……いま帰ってきたところなの。どこにいるんですか?」

「どこだか知らないところ」

「ねえ。すぐ、帰ってきて……」

「駄目。すぐは帰れない。もう少し呑む……」

「だったら、わたしがいく。そこはどこ? 」

 そんな遣り取りのあと、みゆきはやってきた。

 店で見たのと同じ、スカートの丈は短か目のライトブルーのスーツに、白いシフォンのフリルシャツだった。着替える間も惜しみ、急いで帰ってきたのだろうか。クロワッサンのような形の、明るい茶色のバッグを手にしていた。

 みゆきは、自分で頼んだ生ビールの中ジョッキを空けると、まだ呑みたいという隆一の袖を引いた。

「いいから、先に帰れよ……」

 隆一は拒んだ。

「それでは、もう1杯ずつビールを呑んだら帰ろうか」と、みゆきは耳打ちすると、「よかったら、ママさんもどうぞ」と、3つの中ジョッキを追加した。

「営業の邪魔をするようでごめんなさいね。彼は呑み過ぎているもので、今日のところはこれで……。また、一緒にきますから、よろしくお願いします」

 みゆきは、またも隆一より早くジョッキを空けるとママにいった。

「どういたしまして……。でも、それだけはゆっくり呑んでいってくださいね」

 年配の上品なママは丁重にいうと、ジョッキを口に運んだ。

 もっと、みゆきを困らせたいと思っていた隆一だったが、ママの手前自重した。

 ジョッキにビールを半ばほど残したまま、隆一はみゆきのあとにしたがったのだった。


「りゅうさんて、見かけによらず寂しがり屋なのね」

 みゆきは、隆一の手を取りながらいった。

「べつに……」と、隆一は首を振った。

「ううん。変な意味じゃなく、誰かいないとあなたは駄目な人だとわかった」

「そんなことないよ」

 隆一はそういって、ブランデーを呑んだ。

「ないことないでしょう。数時間の孤独にも耐えられないとみえ、すぐどこかにいっちゃうじゃない。そばに、人の気配がないと寂しくなるんでしょう。麻雀に夢中になる理由も、なんとなくわかったわ」

「みゆきが帰ってこないからだよ」

「今日は、お店が忙しく2時前まで延長になっちゃったの。それでも、急いで帰ってきたのよ。わたし、どこへもいかないわよ」

「べつに、どこへいこうがキミの勝手だよ。俺なんかより大切なお客様から、お誘いもあるだろうから……」

「りゅうさんにしては珍しいね、そんなにいい方……。もしかして、妬(や)いてる?」

 みゆきは隆一を見上げていうと、ブランデー・グラスに口を付けた。

「馬鹿いっちゃいけないよ。女房でもないキミのことを、なんで俺が妬く。仮に、そうだとしても、――妬くほど女房もてもせず……というだろうが……」

「ふふふっ。それをいうなら、女房妬くほど、亭主もてもせず、でしょう」

「逆もまた真なり――だよ」

「違います。逆は必ずしも真ならず――です」

 なにをいっても、いまは分が悪そうだった。隆一は、ソファーより腰を上げ、フロアのみゆきの脇に並んで坐った。そして、みゆきの肩に、右腕を回した。

 みゆきはグラスを引き寄せ、ブランデーを注ぎ足した。

 隆一はそれを無視して、みゆきに上体を凭せ掛けながら唇を重ね、そのまま押し倒した。みゆきは、薄目を開けて、隆一を見つめていた。

 隆一は、離した唇を耳許に運び、耳珠と対珠の間に舌を挿し入れた。みゆきは、喘ぎを洩らしながら、両膝を立てた。

 隆一はそこへ左手を伸ばしスカートをたくし上げると、大腿から両肢の交わりに手を滑らせていった。中指を使ってその部分をこそぐと、パンストを透けた熱い湿りが指先に伝ってきた。熟した果実に、香水が加わったような甘い香りが立ち上った。

「ちょっと、待って……」

 みゆきは立ち上がると、上下のスーツを脱いだ。

 隆一は、みゆきがフリルシャツのボタンを外す間に、パンストごとショーツを一緒に引き下ろした。

 隆一が、翳りの部分に顔を寄せると、みゆきは強引に壁際に走り、照明を消した。その間に隆一も裸になり、立ったままでみゆきを抱き寄せた。勃起が、みゆきの丹田(たんでん)の辺りに触れた。みゆきは、それに手を添えた。

 ふたつの裸体は、燃えるような熱を帯びていた。

「少し、明かるくして」というと、みゆきはリモコンでテレビを点けた。

 青白い、ブラウン管の光りに照らされながら、ふたりは互いの昂ぶりを確かめ合った。

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