第5話 告 白(こくはく)
「また伺いましたけど、よろしいでしょうか」
ガラスの引き戸を開けると隆一はカウンターの奥に向かって声を上げ、頭を下げた。
主人は、カウンター脇のドアより笑顔を覗かせると、「うちは商売なんだから、いつでも大歓迎さ。なにも気兼ねすることはないんだよ……」と、さらに口許を綻ばせた。淡いブルーのオープンシャツが、いつになくラフな雰囲気を作っていた。
「そういって戴ければ、助かります」
「それにしても、今月は随分縁があるね。わたしのほうは嬉しいんだが、あんたは大変だろう。いや、これは、わたしの率直な気持ちだから、気を悪くしないでよ……」
主人は、さらに微笑みを返すと帳簿を手に、下りてきた。そして、
「まあ、お掛けなさい。上着も脱いで構わないよ」と隆一を促し、ソファーに腰掛けた。
隆一は、言葉にしたがった。エアコンの冷気が、汗ばんだ躰を心地よく包んだ 。
主人は、眉間に皺を寄せ、帳簿に見入っていた。
「随分、暑くなりましたね」
隆一は、さりげなく切り出した。
「そうだね。でも、スカッとした暑さだから、まだいいよ。ジメジメしてたら敵(かな)わんが……」
帳簿を手にしたまま、主人はこたえた。
「いえてます」と頷き、隆一は煙草(クール)に火を点けた。
帳簿を置いた主人は天井を仰いだあと、隆一に合わせるように、応接テーブルの上の缶よりピースを取り出した。
隆一が、ライターを点けた左手を差し出すと、
「午前中は、小うるさいお客さんが続いたせいか、あんたの顔を見るとホッとするよ」
主人はいい、煙草を咥えた口を、ライターを持つ手に寄せてきた。
「それはどうも……」
笑顔で隆一もこたえた。
「それはそうと、今月はこれで3回目だね」
再び主人は咥え煙草で帳簿を手にし、「7月12日は、入れたその日に出したんだったね。次が19日に入れて23日に出している。今日はまだ27日だろう。よっぽど、お金に忙しかったと見えるね」と、続けた。
「そうじゃないですけど……。いつも、お金ができたら、すぐ出そうと思って預けているんですよ。持ってると、すぐ遣っちゃうもので……」
思ったままをいった。
「べつに理由はどうでもいいんだよ。ただ、ひと月に何度も出し入れすると、あんたが利子ばかり払うことになるだろう。だったら、1度入れたら、期限ぎりぎりまで待てばいいと思うんだが……」
主人は、不思議そうな顔をしていうと、なにかを思い出したように席を外した。
いわれてみればそのとおりだ。名古屋にいったときだって、なにもその日に出さなくたってよかったのだ。でも、主人に話したとおり、お金ができた段階で出さないと、そのままになりそうな気がして仕方がないのだ。
パソコンがなくても、やっつけ仕事の原稿など、手書きにすればすむことではあった。
ただ、書き終えたシナリオも、定期物のやりかけのリライトも、バックアップもプリントアウトもせずにファイルに入ったままで、預けることに一抹の不安がないではなかった。
ことに、シナリオに至っては、「脱稿したらすぐに見せます」と、田上が紹介してくれたテレビ局のディレクターに約していたのだった。それらを勘案すれば、手元に置いておかねば困るもので、主人のいう「期限ぎりぎりまで……」待つことはできないのだ。
もっとも、そういう問題ではなく、麻雀を断れば、なにも預ける必要はないのだった。だが、女との約束は反故(ほご)にしても、断れないのが麻雀だった。それを断ったら、どこかに呑みにいって散財するのというのが関の山。それでは鬱憤が溜まるばかり。同じ散財なら、麻雀で負けた方がいい。
付き合いの長い仲間だけに、貸し借りは互いにやっていることではあるが、いく以上は、少なくとも4、5万円の現金は持っておかねばならなかった。
「テッポウで、きたのか……」なんて思われては男が廃る。
思惑どおり、勝ったらすぐに出し、次にいくときに資金が足りなければまた預ければいい、というのが隆一の考えだった。
もちろん、主人にいわれるまでもなく、子供以下の愚を繰り返しているという自覚はあった。だのに、それを止められないのは、なぜだろうか。
姚子がいるときは、それでも我慢できていた。いや、月にやる回数を決めて、それを遵守できていた。決して多くはない仕事だが、それもきちんとこなし、〆切も守っていた。
だが、いまは、やるべきことはあっても、1日とて部屋にいたくなかった。べつに、麻雀をしなくてもいいのだ。誰かと逢い、誰かと酒を飲み、時間が潰せればいいのだ。つまり、独りでいるのを避けたいのだ。だから、シマゴロー達に誘われると飛んでいきたくなる。それが、たまたま麻雀の誘いというだけで、逢ってみんなの顔を見て、語らうのが嬉しいのだ。
勝負はべつにして、なんのしがらみも利害もない。歳の差はあっても、対等に付き合ってくれる。
なかでも。シマゴローは、何かと話しを訊いては助言してくれる。それがあるから、声がかかるとなにより優先したくなる。
みゆきにも、いままで隆一が享受したことがない思いやりがある。「いてもいいのよ、わたしの部屋に……」との言葉には、心打たれた。なのに、なぜ、そうしないのだろうか。
いままでの隆一なら、そんな言葉にはすぐに甘えてきた。むしろ、そうなるように仕向けてきた観がある。みゆきにいわれたとおり、思っていることと逆のことをしているようだ。その理由が、隆一はわからなかった――。
「で、今日はどうするかね」
主人の言葉で隆一は我に返り、シマゴローからみゆきに変わった、瞼の奥の映像を惜しむように消去した。
「えっ……。でも、あのう、利子については納得したうえでのことですから……また、お願いします」
主人の顔色を窺うようにいった。
「そうかい。それはお客さんの都合だから、わたしはどっちでも構わないんだよ……」
主人は、少し首を傾げながらいうと、「ところで、持ってきたモノはいつものやつかな……」と、アタッシュケースに目を向けた。
「ええ、まあ、そうですけど……」
おずおずと、隆一はこたえた。
「これは、いろんなシリーズ商品が出ている人気機種らしいね」
主人は、目を細めていった。
「そうなんですよ。買った3年前は、数ある人気機種のなかでこれがいちばん高かったんです。『頑張っていい原稿を紡ぎ出してね』と、彼女がプレゼントしてくれたんですよ」
しまった……と、いってから隆一は思った。調子に乗って、口を滑らしたことを悔いた。頬が熱くなった。
「ほう、そりゃまた、気風(きっぷ)のいい女性がいたもんだ。いくら惚れていても、愛情をモノや金銭で表わすなんてことは普通の女性はしないものだよ……。あんたのモノは、よっぽどいいんだね」
何度も預けたのに、この期に及んでモノがいいなんていう主人を隆一は不思議に思ったが、「はい」と大きな声でこたえ、アタッシュケースからパソコンを取り出した。そして、改めて内蔵しているソフトの数々を説明、「立ち上げてみましょうか」と、主人の顔を見上げた。
なぜだか、主人は口許を綻ばせ、隆一の股間に目を遣りながら、「立ち上げなくてもわかってるよ」と、急に笑い出した。
咄嗟には理解できなかったが、主人は隆一を揶揄(やゆ)しているらしかった。
「なにをおっしゃるんですか……。そんなんじゃ、ないですよ」
その意味を悟った隆一は、赤面しながら否定した。
「じつに羨ましい……」と、笑みを浮かべた主人は、
「でも、向きになるところをみると、当たってるようだな。男として名誉なことじゃないか。ハッハッハッハッ」
と続け、大きな笑い声を上げた。
照れている隆一を見ながら主人は、「さて、冗談はこれくらいにして……」と真顔に戻ると、続けた。
「わたしも、カタログの定価を見たときは驚いたよ。今は20万を切ったいいモノがいっぱいあるのに、これはその2倍以上するじゃないか。だけど、あんたには悪いが、いまはこれがいちばん値がつけられない代物でね。なにせ半年、いや2、3ヵ月で次々と新製品が出て、相場が極端に下がる。だから最近は、わたしの仲間内でもこれは扱わないというところが増えてきているし、困っているんだよ」
ここ数日の間に、いろいろ調べたようだ。さすが商売人──と、隆一は舌を巻いた。
じつは、隆一もそれは知っていた。今月、2度目にここを訪ねた前日の7月18日、隆一は念のため2、3の同業者に電話したのだった。そのなかの2店は、「せいぜい2、3万じゃないの」と似たような回答だったし、あとの一店は、「うちはそんなものは扱っていない」と、けんもほろろだった。
隆一は、その時金額を減らされるだろうことを覚悟し、ま、3万円ぐらいになればいいや――と自分にいい聞かせていた。それを、なにもいわずに最初の時と同じく5万円出してくれた主人を、むしろ隆一は不思議に思ったものだ。
「パソコンは、次々にいいのが出ますからね。他所でもそういってました」
主人に釣られ、ついうっかりとんでもないことを口走ってしまっていた。商売人相手になにをいう。足下(あしもと)を見られるだけだ。まずい……と思った時はもう遅かった。
主人は、「そうだろう。販売価格の割にこんなに価値が下がるのは、わたしも長年この商売をやってるけど初めてだ」と、間髪入れずに頷いてみせた。
15日の夜から16日の夕方、19日の夜から20日の朝、24日の昼から深夜までと、隆一は飛鳥山の仲間との麻雀に興じていた。『緑一荘』にもいきたいなと思いつつ、いずれも帰り際に次にやる日を約束させられたし、月末締切りの月刊誌の仕事も片づけねばならず、その機を逸していた。
また、週に幾度かの、四ツ谷にある制作会社の徹夜の台本校正のアルバイトもあった。15日にみゆきと交わした約束も、次の日の夜に弁解の電話を入れたままとなっていた。大したことはしていないのに、なぜか多忙な10数日だったように思えた。
麻雀は大勝ちはしなかったが、堅実に打ち回したことが奏功し、いずれも2万円余りの浮きはあった。主人からの借り入れの分は手つかずですんだから、23日には引き出せたわけだ。
今日訪ねたのは麻雀のためではなかったが、シマゴローに新潟へのドライブを誘われていた。もちろん、新潟競馬場へいくのが目的で、無理に付き合わなくてもよかったのだが、彼もひとりでいくには資金的に心細かったようだ。
3度の麻雀がいずれも不調で、10万円余りを吐き出しては当然だった。
隆一は一緒にいかないまでも、5万円ぐらい融通してやるつもりでここへきたのだった。
持ってきたものを、そのまま持ち帰ることになっては、シマゴローに合わせる顔がないと思い、「ご主人も戦争にいかれましたか?」と、その場を糊(こと)する言葉を向けた。
「どうしてそんなことを訊く?」
主人は、訝しげに隆一を見た。
「失礼ながら、わたしの父と年恰好が似てらしたもので、そう思ったんです」
「へぇ、そうかね……」
隆一をまじまじと見つめながら主人はそういい、さらに、「いったよ、わたしも……」 と、胸を張った。そして、相好を崩しながら立ち上がると、「ちょっと待っててよ」と、奥へ消えていった。本宅とは、奥で繋がっているのだ。
平日の昼下がりで、ほかに客がくる気配はなかった。もっとも、客足が途絶えるこの時間帯を、隆一は選んできているのだった。それは、これまで数回訪ねたことで知り得ていたのたが、ひとり取り残されると、気も漫(そぞ)ろになった。
煙草を吹かしていると、主人はマドラスチェックのジャケットを着て、店の玄関から入ってきた。ブルーのシャツと対照的なそれは幾分派手に見えたが、それがまた主人にはよく似合っていた。
「お茶も出さずじまいだったから、ちょっと喫茶店にでもいかないか」
主人は唐突にいい、隆一を急かすと、引き戸を閉めて鍵をかけた。
あの、アーケード街の喫茶店だった。店内は暇潰しの主婦や、近隣の商店街の旦那といった常連風の客で混んでおり、そのなかの数人が主人に会釈をした。
ひとつだけ空いていたカウンター前のボックス席に坐ると主人は、「なにか食べなさいよ」といって、自分はホットコーヒーをオーダーした。
小腹が空いていたし、遠慮するのは逆効果だと思い、隆一はピラフを頼んだ。
「ゆっくりできずに悪かったね」
自分の店に戻ると主人はいった。混んでるところが苦手なのだろうか。いや、店を留守にしてきたことが気になっていたのだろう。
隆一がピラフを食べ終わると同時に、「戻ろうか」と、急かすように主人はいったのだった。
「べつに構いませんよ」と、隆一は煙草(クール)に火を点けた。
主人は、折り畳み椅子を出すと、隆一に向かい合って坐り、
「あんたは、この器械はどういうことに使ってるの? なにかの計算かね……」
と、訊ねてきた。
隆一は、主人の真意を量り兼ねたが、その眼差しには真剣なものがあった。ならば、素直に応じるのが礼儀というものだ。月刊誌の原稿や習作のシナリオの入力、そのための資料収集の手段としてネットサーフィンなどに利用していることなどを説明した。
「あんた、物書き屋さんなんだ」
主人は、感心したような表情でいった。
「一応、出版社やドラマ、コマーシャルの制作会社の周りで仕事をしてはいますけど、わたしが書いてるものはつまらないもので、文字の直しや雑用がメインです。シナリオはライフワークで、未だ修行中といったところです」
隆一は、正直に話した。
「面白そうな仕事だね」
主人は興味津々といった顔でいうと、雑誌編集や制作におけるパソコンの利便性、2時間ドラマのシナリオの原稿枚数などについて、質問してきた。
隆一の説明に、納得したという表情を浮かべた主人は、「じつは、いまだからいうけど……」と、さらに笑顔で続けた。
「わたしはこれまでいろんな人間を見てきているが、あんただけはなにをやってる人か、さっぱり見当つかなかったよ。勤め人には見えないし、かといってそこらの遊び人とも雰囲気が違う。持ってくる品物もいいものだし、身なりだってきちんとしてるから、見様によっては、いいところのボンボンに見えなくもない……」
そこまでいうと主人は笑顔で隆一を見つめ、さらに続けた。
「でも、失礼ながら、そんな人がうちみたいなところにお金の工面にくるわけがないなと、首を捻りながらいろいろ想いを廻らしていたんだよ」
「そうでしたか……。いいところのボンボンでなくて、すみませんね」
笑顔で隆一も返し、煙草を揉み消した。
「とんでもない。でも、へんな意味じゃないから気を悪くしないでよ……」
「いいところのボンボンは、それぐらいでは怒らないですよ」
ふたりは、互いに顔を見合わせ、大声で笑った。
「どこか違う人だと思ってたけど、物書き屋さんだったか……。ほんとは、最初見たときから、知的労働をしている人だな、という気はしてたんだよ……」
真顔に戻り、主人はいった。
「いえいえ、物書きだなんて、わたしなんか、いうもおこがましいですよ」
面映ゆい思いで、隆一は否定した。シナリオだって、書き上げた自信作ほど、「趣味の域を出ていない」と酷評されたことも少なくない。
「こういったテーマで、こんなシチュエーションで書いてみろよ……」
的確なアドバイスは幾度も貰った。だが、どういうわけか、それにすんなりと入っていけなかった。どれも、佳境に入る前に疑問を感じ、まったくべつのものに気がいく。中途半端なものが、何篇パソコンのファイルを占領していることか――。
「わたしはよくわからないが、物を書くなんて仕事は、一角(ひとかど)の才能がなければできないんだろう」
「そうでしょうね……」
「そうでしょうねって、あんたはそうだからやってるんだろうよ」
「いいえ……。さっきもお話しましたが、わたしは知り合いの編集プロダクションや、台本の制作会社とフリー契約しているだけの、便利屋みたいなものですよ。ともに、名のあるシナリオ作家や、テレビ局にもコネがあるところで、いいものを書いたら紹介してやる、といわれているから、それを期待してやっているだけなのです。でも、なかなか……」
「たいへんかね……」
主人は即座にいい、自分の言葉に頷くように縦に首を振った。そして、なにを思ったのか、
「ところで、あんた時間があるんだったら、ゆっくりしていかんかね。店じゃなんだから、うちの玄関に回って上がってよ……。さ、さあ、遠慮しないで……」と、にこやかな表情でいうと左手を横に出し、その方向に顎をしゃくった。
その言葉に隆一は戸惑い、煙草を漁るふりをした。
「さあ、遠慮しないで早くしてや。それとも、持ってきたモノを、そのまま持って帰るか……。わたしはそれでも構わんがのう……」
そういうと主人は隆一を見つめ、「ウワッハッ八ッハッ」と、磊落(らいらく)に笑った。
隆一は、「は、はい、すぐいきます」とこたえ、傾いた陽が射している表通りへ出た。そして、石垣沿いに進み、冠木門をくぐった。
通された部屋は、和洋折衷の書斎だった。10数畳ほどはあるかと思われる横長の、右手の下段の間(ま)はフローリングで、その中央に重厚なマホガニの両袖机があった。その上には、デスクトップのパソコンとその段ボール箱が載っていた。どこからか運び込まれたままのようで、無造作に絡まったケーブルや数冊のマニュアル、CDソフトなどが散らばっていた。
机の前のフロアに置かれた、秋葉原の専門店のラッピングが施された大きなパッケージには、レーザープリンターとわかる製品名と、CANNONのロゴが記されていた。
主人は、テーブルの上を整理しはじめた。その机の後部の壁際には、それと同系色の5尺ほどの書棚が鎮座していた。観音開きのガラスを嵌め込んだ扉が4枚続いた右端は、象嵌(ぞうがん)が施された1枚の木の扉といったデザインで、最下段には3つの抽斗が横に並んでいた。
ガラスの扉越しに見える棚には、建築や美術に関する分厚い書籍や世界の歴史といった全集の類が、ぎっしりと詰まっていた。その上の欄間には、誰か有名な書家の物らしい扁額が飾ってあった。
隆一は、勧められるままに、左の1段上の間の上がり框(かまち)に腰を下ろした。目を遣った奥の正面には床の間があり、山水画の掛軸が飾られていた。
飴色の欅の床柱が放つ渋い光沢が、その右隣に設えられた違い棚の上にある白磁の壷を引き立てていた。
敷き詰められた、藺草(いぐさ)の香り豊かな青みが残った畳の上には紫檀の座卓が置かれ、磨きこまれた天板に、陽を受けた左側の付け書院の白い障子が映り込んでいた。また、出府机の上に並んだいくつかの小さな帳箱も、和室の雰囲気を盛り上げていた。
右側の壁際には、讃岐塗りを思わせる黒い飾り棚が置かれ、金色の山鳥の蒔絵が浮かび上がっていた。その上に飾られた絵皿は、古九谷の赤絵を見るような、力強い絵付けの紅梅だった。
なにげなく見上げた天井には網代(あじろ)が用いられており、この部屋が贅を尽くした造りだということは、素人目にも一目瞭然だった。
「じつは、ちょっと頼みたいことがあるんだが……」と、主人は隆一の前に立っていった。
それは、パソコンの初期設定と、プリンターとの接続――だった。
「助かったよ。これは、仲間内の取引で持ってきたやつでね。業者を呼ぶつもりでいたのだが、つい放ったらかしにしていた」
と、主人は頭を下げた。さらに、
「娘も近くにいるし、義理の弟も市川で同じ商売をやっているから、伝手で頼めばいいんだがね。娘は、わたしを煙たがって最近あまり寄りつかないし、義弟にはいいそびれてね」
と、次いだ。
「そうだったんですか。でも、これで記帳や顧客管理が楽になりますね。それに、このプリンターは、最新の高性能のものですからスピーディで仕上がりも綺麗ですよ」
隆一は、レーザープリンターから、テスト用のプリントが出力されるのを見てから、そういった。
じつは、安請負いしたものの、本来インストールされているはずのウインドウズのソフトウェアが消えていて、起動しなかった。ハードディスクを交換したままだということに気づくまで、30分もかかってしまったのだ。
セットアップ起動ディスクで再インストールする、ということは理屈ではわかっていたが、これまで隆一は、自分のノートパソコンでしかやった経験がなかった。それだけにマニュアルと首っ引きで、2時間近くを要してそれを終えた時は、躰は汗だくになっていた。
「急な頼み事で、大変だったね。とにかく1杯呑んでよ……」
応接間に通した主人は、ビールを勧めた。
「わたしが慣れてないもので、時間を食ったんですよ」
「接続するというのも、結構難しいんだね」
主人は、ビールを注ぎながらいった。
「難しくはないんですけど……」
パソコンのマニュアルの、再インストールに関するページを隆一は開いて見せ、その概略を説明した。
「なるほどね。習うより慣れろ――ということだね」
そういって、主人は頷いた。
ほどなく、鮨と舟盛りが届けられた。隆一が、パソコンの設定をしている間に、主人が頼んだものらしかった。
「適当につまんでよ。店屋物(てんやもの)で悪いけど……」
主人はそういいながら、舟盛りを隆一のほうへ押した。
ふたりはグラスを掲げ、一気にビールを呑み干した。そして、互いに酌をして、またグラスを満たした。
隆一は、今日の自分の目的は、このままうやむやになるのでは、と気を揉みながらグラスを持ち、刺身に箸を伸ばした。だが、新鮮な鯛の食感を味わううちに、麻雀の約束があるわけでもないからいいか、などと他人事みたいな考えを廻らせていた。
とりあえず、主人の意にしたがい腹を満たすことが先決だ、と思いながらゆっくりとビールを流し込み、「美味しい刺身ですね」と、取って付けたような言葉を向けた。
「ビールよりあれがいいか……」
底を突いたビール瓶を見て主人はいうと、部屋を出ていった。持ってきたのは1升瓶で、それは越後の『八海山』だった。
「あんた、なんでもいけるんだろう。遠慮せずに呑(や)ってよ」
ふたつのぐい飲みにその酒を注ぎながら、主人はいった。
遠慮は逆効果だと再び思い、隆一は受け取ったぐい飲みに口を付けた。生ぬるいまろやかな味が舌を刺激し、喉を熱く潤した。
ブランデーでも日本酒でも、呑めばいい口の隆一は、味そのものはよくわからなかったが、いい酒か否かは判別できた。それを確かめるように、残りを一気に呑み干した。
「いい呑みっぷりだね。見ていて気持ちがいいよ」
主人は、空いたぐい飲みにまた一升瓶を傾けた。
隆一は、それが満たされると、主人のぐい呑みに向けて同じ動作を取った。
「なかなか美味しい酒ですよね。こんな高い酒は、わたしにはもったいないような気がします」
「なにをそんな……。たまたまあったものを出しただけだ。酒は高い安いに関係なく、誰と呑むかで美味しくも不味くもなる。今日は、相手がいいから特別美味しく感じるよ」
主人はいうと、ガリを啄(ついば)んだ。そして、一呼吸おくと、ぐい飲みを空けた。
「それは、どうも……。わたしは、酒の味は甘いか辛いかぐらいしかわかりませんが、これはどちらでもなく呑みやすいですね」
隆一は、感じたままを述べた。
「寒いところの酒が美味しいのは確かだね。やはり、水がいいんだろうね。水がいいから、いい米ができる。したがって酒も美味い――これは自然の摂理だろうよ……」
「そうなんですね」
「そんなことより、鮨をつまみなさいよ」
そういって、主人は赤身の一かんを頬ばった。
それを見て隆一も、立て続けにトロとウニを口にした。
利き過ぎた山葵(わさび)で噎(む)せてしまい、慌てて酒で流し込んだ。かっと顔が熱くなった。主人を見上げると、笑みを浮かべて見つめていた。
「失礼しました」と隆一はいい、次の言葉を考えていた。これといったことは思い浮かばず、ふと気になっていたことを訊ねることにした。
「ご主人は、ここにひとりでお住まいですか」
「そうだよ。4年前に女房を亡くしてからずっとひとりだ。この歳になって後妻を娶(めと)るわけにもいかないんでね。それに、いまじゃこの暮しが気に入ってるし、死ぬまでこれを続けたいよ」
主人は、ぐい飲みをテーブルに置くと、淡々といった。
「余計なことを訊いてすみませんでした。お部屋は手入れが行き届いているし、おひとりには思えなかったものですから、つい……」
隆一は、頭を下げた。
「いいってことよ……。さっき話したように、近くに娘も義弟もいるから、万一のときは呼べばいいし、とくに困らない……」
初めて訪ねたとき、奥から聞こえてきた女性の声は、その娘さんだったのかと隆一は合点した。
「そういうわけだから、気にせずいつでも遊びにくればいい。もっとも、あんたは奥さんがいるだろうから、そうはいかないか……」
「…………」
「それはどうでも、まだ酒は残っているよ。全部呑もうじゃないの……」
急に黙り込んだ隆一に、主人は気遣いを見せた。
窓の外には、闇が広がっていた。ガラス戸越しに聞こえていた蝉の声もいつしか静まり、夜が更けたことを物語っていた。
隆一は、そっと腕時計を見た。9時になろうとしていた。ぐい飲みに残った酒を呑んで、主人の顔を見た。頬から首筋にかけて赤味が射し、酔っていることは一目瞭然だった。
「それでは、そろそろおいとまします」
隆一は辞去の意を伝えた。
「まだいいだろう」と主人は笑みを見せ、「お節介と思うかもしれないが、ちょっとあんたに話しがあるんだよ……」と、さらに続けた。
「あんた、この大事なパソコンを預けてどうするんだね。これがなきゃ仕事も困るだろうし、あんたが目指しているシナリオとやらにも取り組めないだろうよ……」
まさにそのとおりで、隆一は俯かざるを得なかった。
それに気遣うように、さらに主人は言葉を次いだ。
「ところで、ものは相談だが、あんたうちの仕事を手伝ってみる気はないかね? 週1回でも2回でもいい。あんたの都合のいいときに、帳簿整理を手伝ってもらいたいんだ。つまり、その、帳簿に記帳してある顧客リストなどを、古いものから順にあのパソコンに入れていく、というわけだ。どうだね、あんたならできるだろう。もちろん、お金が必要ならいつでも融通するから……」
考え込んでいる隆一の返事の前に、
「いや、融通じゃなく、仕事に見合った対価を払うといったほうが正しいな。そういうわけで、あんたの都合のいいときに、電話頂戴よ。明日からわたしが、古いものから順に目を通して整理しておくから……」
いうと主人は席を外した。
決して悪い話ではない、と隆一は思った。暇があり過ぎて遊び呆けているのだから、素直に受けるべきだと……。
「今日は、いろいろ世話になったから、品物は預からなくていいからこれを持って行きなさい」
戻った主人は、そういって茶封筒を差し出した。
大したことはしていないし、酒まで呼ばれたうえに鮨まで馳走になった。とてもそれを受け取るわけにはいかない、と隆一は思った。仕事についても、主人の好意は嬉しかったが、むしろそれが隆一の気を重くさせ、正直なところ迷っていた。それを受け取るのは、辞退すべきだと思った。
「なーに、遠慮は要らんよ。業者に払うつもりだった手間賃と、僅かばかりのあんたとの契約金だよ。ハッハッハッ……」
固辞する隆一の胸のポケットに、主人はそれを捻じ込んだ。
「とりあえず返事は保留でいいから、来週遊びがてらもう1度きてよ。あんたの都合のいい時間に合わせるから」
主人は、三和土(たたき)に立って、隆一を送り出した。来週連絡することを約した隆一は、淡い明かりに照らされた路地を、立石駅に向った。
ゆっくり歩いていく隆一の火照った頬を、湿った夜風が撫でた。
シャワーのあとの、エアコンの効いた部屋は、トランクス1枚の躰には、寒いぐらいだった。隆一は、スタンドカラーに袖を通すと窓辺に歩を進め、内側のライトグリーンのカーテンを半ば引いた。そして、その外側に吊るされたリバーレースの布越しに、さらに左側のガラス戸を少し開けた。
眼下の、暗がりのなかに散らばる明かりを撫でてきた風は網戸を抜け、リバーレースの裾を捲り上げながら隆一の躰を煽った。心地よい外気を受け止めながら、隆一はカウチソファーに歩み寄り腰を下ろした。
閉め切っていたときは、鮮やかな赤が重苦しく感じられたガラステーブルの上の花瓶のガ―ベラも、外気が吹き込んだ部屋にはほどよく調和して見えた。
その花瓶の横には、ラベルの赤が目立つ『スミノフ』と、緑のボトルの『バーネット・ジン』に加え、缶のオレンジジュースとトマトジュースの数本が並んでいた。それらの缶の表面には、冷えていることを示すように、いずれも無数の小さな水滴が浮いていた。
さらにその手前には、白いナプキンを敷いた、舟の形をした大き目のラタンのバスケットが置いてあり、シェーカー、メジャー・カップ、スクイザー、バー・スプーン、トングといったカクテルを作るための道具が入っていた。
みゆきのシャワーは、少し長いように感じられた。隆一は待ち切れずに、カクテルの準備に取りかかることにした。
まず、氷を入れたふたつのタンブラーに、目分量でウォッカを流し込んだ。そして、それぞれに1本のトマトジュースを加えて、ゆっくりとステアした。あとは、みゆきがキッチンでスライスしていたレモンに切り込みを入れ、タンブラーの縁に挿すだけだ。カクテルと呼ぶには、あまりにも簡単なブラッディ・マリーのでき上がりだ。
作り終えたところで、パステルピンクのサテンのパジャマ姿のみゆきが現れた。
「ちょうどよかった。さあ、特性のカクテルで乾杯といこう」
花茣蓙に直に坐ったみゆきに、隆一はタンブラーを渡し、自分のそれを合わせた。
「鮮やかなスカーレット。これがりゅうさんの好きなブラッディ・マリーね」
高い声でみゆきはいった。笑みを湛えた化粧っ気のない目が愛らしかった。
「綺麗だよね。いっそ、スカーレット・オハラとでも命名したいぐらい。でも、特性というには疑問は残るけどね。ほとんどトマトジュースだから……。少しウォッカが入ってるだけのね……」
「スカーレット・オハラでもなんでも、りゅうさんの手にかかれば、みんな特性だわよ」
「じゃ、みゆきも特性ということになる」
「それは、どういう意味?」
「こういう意味だよ」
隆一は、みゆきの胸を擦りながら、唇を重ねた。そして、「では乾杯だ」と囁き、タンブラーを掲げた。グラスが触れ合う音を確かめ合うと、真赤な液体をふたりは同時に喉に流し込んだ。
みゆきは、頬を朱に染めながら最後の1滴まで呑み干すと、合羽橋道具街へいってきたことに触れ、カクテルの道具を探すために、いくつかの店を巡ったことを明かした。
「一緒にいきたかったのよ。そうすれば、もっといろいろ揃えられたのに……。これでは、まだ不足でしょう」
「道具はこれでいいけど、ワインやリキュール類が足りないよね」
隆一は、一端(いっぱし)のことをいった。
それに頷くとみゆきは、明後日の日曜日は一緒にデパートに買い物にいきましょう、と誘いをかけてきた。
「それまでは、ここにいてね。この前だってそういったのに勝手に出ていっちゃって、10日余りも音沙汰ないんだから……。朝ご飯を一緒に食べてくれる、いい女性を見つけたの?」
茶目っ気たっぷりに、みゆきはいった。
「そんなことないよ、ここがいちばん居心地いいさ。だから、必要以上に俺を甘やかすとパラサイトになり、住みついちゃうよ。それではキミが困るだろう」
冗談と本音が入り交じった台詞を吐露した隆一に、みゆきは、「いいわよ、それでも……」とつぶやいた。そして、潤んだ目で隆一を見据えたまま、「ねぇ、ちょっと……わたしのこと、話してもいい……訊いてくれる」と、いった。
隆一は、黙って頷いた。
「じつはね……わたしは結婚していたの。子どももいるのよ。その夫とは死別したんだけど……」
隆一は、なんてこたえたらいいか、わからなかった。
みゆきは、続けた。
「夫は、東京に本社を置く中堅の商社のサラリーマンだったんだけど、結婚当初から2、3ヵ月の出張は当たり前というぐらい忙しい会社でね」
みゆきは、隆一に語りかけるように話を進めていく。
「国内、海外と、のべつ幕なしに飛び回っていたの。長女が生まれて間もなく課長を拝命され、運よく故郷の仙台支店に移るという希望が叶えられ、郊外の実家の近くに新居を構えたの。これで少しはのんびりとした生活ができるかなと、ホッとしたのも束の間。すぐにまた、本社にいるときより出張は多くなるし、それがないときでも、帰宅はいつも深夜に及ぶという日が続いてね。亡くなったのは、娘が小学校に入学した年の暮れの深夜だった……」
話したあと、天井を見上げたみゆきの目には、涙が溜まっていた。
隆一は、そのみゆきの肩に手を遣った。
「夫は帰宅した玄関先で倒れていたの。わたしが、それに早く気付いていたら助かったと思うんだけど、わたしはその日に限って風邪気味で早く寝(やす)んでいた。夢に魘(うな)されて起きて、慌てて救急車を呼んだのだけど、到着したときはすでに虫の息……。過労によるものだった」
最後は、劇団の研修生が、初めて手にした台本を棒読みするような抑揚のない語り口になっていた。
どんな言葉をかければいいのか隆一はわからず、みゆきの目を見た。溢れた涙が頬を伝っていた。
自分の目頭も熱くなっていることを、隆一は感じていた。
涙を湛えた目で、みゆきは隆一を見つめると、また、ゆっくりと話しはじめた。
「そんな夫に、わたしは何もして上げられなかった。心では、平凡なサラリーマンを望んで、毎日会話ができるありふれた家庭を築きたいと思っていたはずなのに、それは結婚してわずかで失われてしまった。休む暇もなく働く夫を、いつしか男の鑑(かがみ)だと思うようになり、やがてそれを他人に自慢するような女になっていたの。そして、それを、物心ついた娘にもわからせようとしていた節がある。気が付いたら、朝はいってらっしゃいと造り笑顔で送り出し、夜はお帰りなさいと、儀礼的に出迎えるだけの妻。そんな多忙な夫を周りが案じているのに、わたしは、休養を勧めたこともなく、語学の勉強に没頭していた。夫を犒(ねぎら)うこともせず、自分の意思だけ貫く非情な女になってしまっていたの」
そこまでいうと、みゆきは嗚咽を洩らした。唇が引き攣(つ)っているように、隆一には見えた。
隆一は、そっとみゆきの髪を撫でた。
「亡くなったあと、わたしはひとりで考えてみたの。いくら考えても、結論はひとつしか得られなかった。それは、いままで誰にもいえなかったことだけど、わたしは夫ではなく、夫の仕事を愛していたのではないかということ。死んだ夫には悪いけど、いまでもわたしはそんな気がしてならないの。ひどい女でしょう、わたしって……」
「…………」
「がっかりしたでしょうけど、わたしはこんな卑劣な女なの……。それだけに、わたしはこれを誰かに話さないことには、死ぬまで贖罪(しょくざい)できないと思い続けてきたんだけど、いままでそういう人には出逢えなかった。りゅうさんならいいかなと、勝手に思ったの。迷惑だったでしょうか」
みゆきはいうと、隆一の膝に泣き伏した。
「迷惑なもんか。むしろ、嬉しく思う。よかったら、もっと、なんでも話してよ」
みゆきの髪をさらに両手で撫でながら、隆一はいった。
「りゅうさん……」
みゆきは顔を上げると隆一を見つめ、右手の甲で涙を拭うと、すぐにまた「りゅうさん……」と涙声でいい、隆一に凭れてきた。
「大丈夫だよ、みゆき。俺は、いつでもキミのそばにいて守ってあげるよ」
隆一はいいながら、滴(しずく)が伝うみゆきの頬に口を付けた。
顔を上げたみゆきは小さく頷くと、小学5年になる毬江(まりえ)という娘を、仙台近郊で小さな旅館を営んでいる実家に預けていること、その娘が中学に上がるまでに実家に帰る約束をしている――ということを明かした。
「毬江が2年になったとき、わたしはひとりで東京に出てきたの。仙台にいると、わたし自身が切なくて気が狂いそうで、何にも手に付かないし、このままでは駄目になると思ったから……。周りに泣いて頼んで、どうにか我儘を認めてもらったの。もちろん、毬江が許してくれたから、できたんだけどね」
涙の粒が、少なくなった目でみゆきは隆一を見つめると、続けた。
「そのかわり、最低でも年に2回は逢うことにして、それを実行してきたの。娘が上京してくるか、わたしが帰るかの方法で……」
小学5年の女の子と訊いて、幼少の頃のみゆきの生き写しに逢ってみたいという思いに隆一は囚われた。
「今度、その毬江ちゃんが出てきたら、逢わせてよ。できたら一緒にディズニーシーにでもいこうか。もっとも、まだ、いってなければの話しだけど……」
「いったことないから喜ぶわ、きっと……。ありがとう」
みゆきは、嬉しそうな声でこたえた。だが、隆一を凝視したかと思うとすぐ俯いて、また静かに口を開いた。
「りゅうさんて、なんにも訊いてくれないし、また自分のことも話してくれないじゃない。わたしが夜の仕事にいってることや、2度目に逢った夜に躰を許したこと、軽蔑してるんでしょう」
と、泣き崩れた。
「そんなことはないよ。はっきりいって、俺は人の過去は訊かないというのを身上としているし、それに興味もない。また、惰性的に生きてきたつまらない自分の身の上を、敢えて話す必要もないと思っている。でも、みゆきが訊きたいというなら、匿(かく)す理由もない」
そういうと隆一は、訊かれもしない芙紗子(ふさこ)のことを話しはじめていた。32歳で生涯を閉じた彼女との数年の生活を――。
それを話したら、自分の生活の実態や、姚子の件も淡々と話すことができた。
みゆきはなにもいわず、黙って訊いていた。
隆一は続けた。
「いま話したように、過去を振り返っても哀しいばかりだし、かといって先のことも俺はわからない。ただ、みゆきといま一緒にいるということは紛れもない事実だし、俺の唯一の喜びだよ。世間は、将来がどうのこうの……なんていうけど、いまがいいというだけではいけないの。自分でもわからない先のことは、いえないじゃない」
「…………」
「もちろん、みゆきとのこの関係が、長く続けばいいなと思っているよ」と、そのあとさらに付け加えた。
隆一が伝えられることは、それぐらいだった。いや、男の本懐を伝える意味の言葉なら知らなくはないし、実際浮かんでもいた。だが、荒んだ自分の身を思えば、口にすることはできなかった。
逢っていれば、いつかこういう話が出ることは予測できていた。だが、現段階ではそれ以上深く入り込むことができなかった。それは、相手には卑怯だと映るかもしれないが、そう採られてもやむなしという思いが強かった。それでふたりの関係が断たれるなら、縁がなかったと諦めるしかない。これが、姚子が去ったあと胸に刻んだ隆一の偽らざる気持ちだった。
「まだ、赤いのを呑む? そういえば、なぜか今日は赤ばっかりだね。ガ―ベラの花も、いま呑んだブラッディ・マリーも、そして今日が数日目の “お祭り ”のみゆきも……。俺も、早くみゆきの色に染まりたいよ」
湿っぽい雰囲気を変えようと、隆一は敢えて冗談を口にした。そんな、場違いな言葉で誤魔化す以外に術(すべ)を知らない自分に、隆一は嫌悪を覚えていた。
「いやだ、もう……。わかってて、赤いの作ったんでしょう。でも、りゅうさんてエッチだけど、いい回しが上手だから、ちっとも厭らしく感じない」
みゆきは、濡れた目を細めていった。
「いくらか、いつもの綺麗なみゆきの色に戻ってきたね。さっきまで、まるで病人で、どうしたらいいのか、わからなかったよ。ところで、シャワーなんかして、大丈夫だった?」
「うん、3日目だったから、そんなに強くなかった。だから、しても大丈夫よ」
熱い眼差しを送りながら、みゆきはいった。
「もちろんしたいけど、べつにそれを求めていったんじゃないよ」
「そうですか?。でも、わたしが、してあげるといわなかったら、今日ここにはこなかったんじゃないの」
「いいえ……。みゆき様のいうことなら、なんでもしたがいますよ」
冗談を返しながら、隆一はここへくるまでの、ふたりの遣り取りを振り返った。
「体調悪いみたいだね。だったら、あまり綺麗じゃないけど、俺のところに泊まっていく?」
「綺麗でないのは構わないけど、今日は帰りたい」
みゆきはいうと、眉根を寄せた。
「なんだよ。結局汚いところは厭だってことじゃない」
ジン・トニックのタンブラーを手に、隆一はいった。団子坂を上がったところのカフェ・バーだった。
「そうじゃないの。わかって……」
「わっからないね。もしかしたら、今日の俺が厭だということ……」
みゆきの目を見ていうと、隆一はジン・トニックを呑み干した。
「わたしの顔見てわからない。読みが深いりゅうさんだもの、わかるでしょう」
みゆきは、そういうと俯いた。マスカラでも付けたように、長く整った睫が澄んだ瞳を隠した。レイヤーを入れたストレートの髪が、白い両の頬を包むように流れた。
その、髪が架かった黒いニットの首筋より、シルバーのネックレスが覗いていた。引かれたルージュはひときわ赤く、前に逢ったときよりみゆきを官能的に見せていた。
「みゆきの躰の素晴らしさはわかったけど、内面まではよくわからない。説明してくれなくちゃ……」
みゆきのいわんとすることがいまひとつ解せず、隆一はまた茶化すようにいった。
「その、躰のことなの。今日は、あれは駄目な日なの……。こういえば、わかりますか」
白い目許を染めながら、消え入りそうな声でみゆきはいった。
その語尾に、曲目が変わった有線のBGMのイントロが重なった。1977年にヒットした、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』だった。
みゆきは、羞恥を隠すように両手をテーブルの上に載せ、長いイントロに合わせるように、細い指で鍵盤を叩く仕種をしていた。
♪ On a dark desert highway~………
甘いヴォーカルが流れはじめて、やっと隆一はみゆきの言葉の意味を理解した。いわれてみれば、確かにみゆきは逢ったときから、どこか物憂げだった。タクシーのなかでもあまり喋らず、隆一に凭れていた。隆一は、酔っているものだとばかり思っていたが、そうではなかったのだ。
それがはじまると、憂鬱になるといった女性は過去にもいたが、外見的にはあまり変化はなかったように思う。病人のように変貌する女性を見るのは、隆一はみゆきが初めてだった。
「駄目な日だから、しなければいいんだね」
「そういう意味でいったのじゃないの。もし、りゅうさんの寝具を汚すようなことになったら厭でしょう。自分のところなら構わないけど……」
上目遣いに、みゆきはいった。
隆一は、主人のところを辞したあと、『紫苑』のみゆきに電話したのだった。もちろん、呑みにいくつもりで……。だが、みゆきは、給料日後で店は混んでいるから無理しないで……と釘を刺した。
「できたら12時過ぎに、店の前に迎えにきてください」
それまでの2時間余りをどうするか、隆一は考えた。『菖蒲』にいくか『緑一荘』にするか──。
迷いつつ、飛鳥山の雀荘にも電話を入れてみた。だが、珍しく例の仲間はやっていなかった。もし、やっていたなら、シマゴローとのドライブの件もあったし、隆一はみゆきとの約束を反故にして、そこへいったに違いない。
いずれにしても中途半端な時間だった。結局近くの『緑一荘』を選んだ。雀荘にいくことは、主人の好意を裏切るような気がして、今日だけは麻雀は自重しようと決めていたのだったが、時間潰しのためにはやむを得なかった。隆一はみゆきに電話したことを、その時は悔やんだ。
運よく、『緑一荘』では、すぐに卓に入れた。それで、「半荘2回のみで止める」ことを伝えた。12時前に終わったら、次の客がきて救われた。あと2時間待てば、あの人に逢えるという思いを断ち切れたのは、我ながら不思議だった。
みゆきの部屋を出ていった、あの夜に交わした約束を反故にしたことが、後ろめたさとして残っていたからだろうか。
それとも、2週間近く逢わなかったことで、鬱積した欲望をみゆきで充たしたいという思いがあったからだろうか。それは、自分でもよくわからなかったが、立石でタクシーを拾い、いわれたとおりの場所にみゆきを迎えにいったのだ。
パールグレイのスカートスーツに黒のニットで決めたみゆきは、店より少し離れた歩道に立っていた。
「今日は、俺の部屋にいこうか」
そういって、待たせていたタクシーにみゆきを乗せ、向丘へ向った。アタッシュケースが邪魔で、部屋に置くことを優先したかったのだ。
カフェ・バーに寄ったのは、みゆきをそこに待たせておいて、荷物を置いてくるつもりだった。そのあと、みゆきをどこかに連れていく段取りをしていたのだ。
「今日、臨時収入があったから、六本木にでもいこうよ」
ジャケットのポケットから、隆一は茶封筒を取り出しながらいった。その中身は『緑一荘』でざっと見たときは、万札が4、5枚だと思っていたが、数えてみると10枚もあった。
「こんなにたくさんくれたのか……」
つぶやいた隆一に、みゆきは怪訝な表情の顔を向けた。
隆一の手元には、麻雀で浮いた分と合わせ、紛れもない不労所得の12枚の万札があった。
主人の顔を思い浮かべながら、頼まれた仕事を受ければすむことだ、と隆一は気が大きくなっていた。
「これだけあるから、みゆきいこうよ。この前のお返しと、すっぽかした埋め合わせをするからさ。思いっきり羽を伸ばして、ホテルのスイートで夜を明かそう」
「今度、お店も塾も休みのときにね」
「じゃ、俺の部屋に泊まりなよ」
「ううん……。今日は、わたしの部屋にいきましょう。カクテルの道具と何種類かのお酒も揃えておいたから……」
「…………」
「りゅうさんさえよければ、わたし許すつもりなのよ。厭なら、ここでしてあげる……」
みゆきは、白い頬を染めて唇に人差指を当てた。
「わかった。じゃ、そうするか……」
隆一は立ち上がり、みゆきの腕を取った。そこを出たふたりは、隆一の部屋まで歩いた。
みゆきは、部屋に入ると周りを見回し、「少し片づければすっきりするね。今度ゆっくりきて、お掃除するね」といって、さらに「洗濯物は?」と訊いた。
隆一がバスルームを指差すと、みゆきはそこへ入って脱衣籠に溜まった汚れ物を紙袋に詰めてきた。そして、「ごみも片づけていこうね」と、ごみ箱のビールの缶や紙屑の、ごちゃ混ぜのゴミを分別、袋に分けて入れた。
「これは、わたしのところで処理するわ……。だから持っていく」
みゆきは、そういうと、エントランスに立った。
隆一は、預かったみゆきのトッズのトートバッグに月末締切りのリライト原稿を押し込み、「悪いね、みゆき……」といった。
みゆきは振り向かずに、「いいわよ」といい、隆一の汚れ物を詰めた紙袋と、ゴミでいっぱいになったふたつの袋を提げて外に出た。
隆一は、あとを追い、ドアに施錠した。
拾ったタクシーのドライバーは、行き先を告げたら微笑んで頷き、ゴミ袋をトランクに入れてくれた。みゆきのマンションの前に着いたところで、ドライバーに釣り銭のほかに千円のチップを弾んだら、「あれは、わたしが捨てておきますから」と、走り去った。
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