第4話  媾 合(まぐわい)

 浴衣(ゆかた)は、着ていないも同然だった。襟を掻き分けるように両の乳房が覗き、一重に帯を回した腰の部分だけに、木綿の布が絡まっていた。

 恥丘から 大腿にかけても蔽いはなく、密生した繊毛が白い肌に浮かび上がっていた。解(ほつ)れた帯は、黒い丘の部分を斜めに掠めながら左の脾肉を這い、膝頭に達していた。頤(おとがい)を少しく隠すように流れた、ウエーブを効かせた栗色の髪は、首筋の辺りでその毛先を縺(もつ)れさせ、火照(ほて)りが残る肌と綯い交ぜとなった香りを放っていた。

 指技と舌技に弾んだ乳房も、熟柿(じゅくし)のように蕩(とろ)けた “通草(あけび) ”も、いまは台風の目に入ったような静けさを取り戻し、数時間前の媾合(まぐわい)を否定するかのように、深い眠りに落ちていた。

 煽情的な唇は、赤いリップグロスも乾き気味で、白くこびりついた口淫の象徴の残滓とともに、湿りを欲しがっているように見えた。

 男は、水を含んだ口をそこに重ねていった。女は、無意識に咽喉を鳴らして嚥下(えんげ)した。

 触れただけで弾け、熟れた茱萸(ぐみ)のように色を変えた乳首も、いまは唇と同じ色の乳暈と同化し、仰臥しても崩れを見せない嫋(たお)やかな稜線の頂で、寝息に呼応していた。

 その絶巓(ぜってん)から谷間にかけても、舌と唇の翻弄(ほんろう)に喘いだ証しが、桜の花びらのような薄い色の痣(あざ)を作っていた。

 眠りを貪(むさぼ)る肢体は、男の視姦に反応したかのように、寝返りを打った。そしてすぐに仰向けになり、両手で蟀谷(こめかみ)を押さえながら、両足の膝を折って立てるという、絶頂に達したときと同じ態勢になった。さらに、小さく開けた口からなにやらつぶやきを洩らすと、右の膝を屈伸させながら、爪先でシーツを掻きはじめた。

 ベッドの上に正座した男は、片手で上体を支えながら腰を曲げ、ふたつの胸の膨らみに唇を近づけていった。そして、その裾野から頂に向かって、交互に舌でなぞり上げた。

 粘膜の舐(ねぶ)りに任せたふたつの乳首は、固さを増しながら鮮やかな果実の色を取り戻していった。小さく開いた唇からは、くぐもった声が洩れた。

 規則正しく生え揃っていた叢(くさむら)は今は千々に乱れ、淫らな行為に溺れた数時間前を思い起こさせた。

左手を股間に滑り込ませると、粘りを含んだ果汁が指に絡みついた。その、濡れた溝に沿って指を這わせていくと、蠕動(ぜんどう)する陰阜に当たった。熱くしこったそこは、陶酔の深淵を逍遥(しょうよう)しながら昇りつめていった、あのときと同じ序曲を奏でていることを窺わせた。

 夢を覚まさぬように、男は女の膝を割った。律動を加えはじめると、痙攣(けいれん)にも似た慄(ふる)えが伝わってきた。さらに、背中に両手を回して抱き起こし、その上体を上下させた。嬌声が、夢から覚めたことを告げた――。


 上野の不忍口(しのばずぐち)から広小路にかけての中央通りは、両方向ともクルマがぎっしり詰まっていた。歩道を歩いている人間は溢れているのに、客待ちのタクシーは多く、違法駐車の車輛に並列する形で道路を塞いでいた。

 ここからなら、歩いても10分そこそこの湯島天神下も、この状態ではまだ30分はかかりそうだった。

「混んでるから降りよう」

 アメ横の入り口を過ぎたところだった。右前方には、上野公園へと続く石段が見える。

 中通りを目指して歩く隆一のあとを、3人はついてきた。堀切のスナック『菖蒲(しょうぶ)』のママとみゆき、それに田上を加えた3人である。

 さすがに、台東区の中心地で浅草と双璧のこの一画は、午前2時を過ぎているというのに、人の往来に切れ間はなかった。中年層が多いというのがいかにも上野らしく、ふたり連れの男女の大半は、紳士然とした中年男性と、原色のスーツに身を包んだ夜の蛾(が)、いや蝶といった感じだった。

 考えてみれば、世間はボーナスが出たばかりで、暑い夜の憂さを晴らそうといった連中が繰り出しているのだった。

「歌舞伎町へいこう」という田上の言葉で、4人は堀切からタクシーに乗った。首都高に乗るべく小菅ランプを目指したのだが、あいにく箱崎まで渋滞の標示だった。やむなく、一般道を走ってもさして時間を要しない上野へいくことにしたのだ。

 隆一は、新宿はおろか上野でも辞退したい心境だったが、逃げるわけにいかなかった。

 中通りの両側の、明かりを眺めながら歩いていった。一目で外国人とわかる厚化粧の女が数人、カモを物色するかのように視線を泳がせていた。

 当初の予定は、湯島の三組坂下の、先輩の馴染みの割烹だったのだが、歩き疲れた隆一は、もはやどこでもいいやという気になり、24時間営業のチェーン展開の居酒屋の暖簾(のれん)をくぐった。

 店内は混んでいた。いつの時代も流行(はや)る店は流行るし、遊ぶ人は遊ぶ。不況に無縁の人種が多いというのも事実で、それは盛り場にいけば一目瞭然である。たまにはこういう場所に出向くことも必要だ、と隆一もいまは自分を納得させていた。

 生ビールのジョッキを掲げ、「かんぱーい」と上げた隆一の声に、みんなが続いた。「乾杯は、これで何回目……」と、みんなの顔を眺めると、「いいのいいの。愉しいことは多いほど……」と、田上が微笑んだ。

「そうですよね」と、みゆきとママが相槌を打った。

 そのあと焼酎のボトルと、肴の数種類をオーダーした。田上のダジャレと冗談に笑いながら、それぞれがグラスを満たし、干していった。

 隆一は、なにも食べずに呑み続けた。もはや酔っているという感覚も、眠いという感覚もなかった。いつになくトイレが近くなり、2度目の用を足して戻ると、みゆきがひとりだけ坐っていた。

「田上さんはママを送っていきました」

 みゆきはいい、3枚の紙幣を隆一に渡そうとした。

「なんだよ、これ……」

「田上さんに預かりました。適当に愉しんでと……」

「なんだよ、もう……。ふたりで、ホテルにでもしけ込んだのかね。俺に気を遣ったつもりだろうけど、お為ごかしはごめんだね。途中で抜け駆けするような奴の指図は、俺は受けないね。キミも、無理に俺を待たなくてもよかったのに……」

 隆一は、憮然としていった。

「そんな……。あなたを、おいてけぼりにはできないでしょう」

 みゆきは俯いた。

「もう、戻ってこないの、ふたりは……。なにかいってなかったか?」

「………」

「黙ってちゃ、わからないよ、みゆき……。タガもママもどういうつもりなんだよ」

 周りのテーブルの客が、一斉に視線を向けてきた。怒って大声を出したことに、隆一はそれで気が付いた。

「………」

「もう呑むのやーめた。あのふたり、気を利かせてやった、ぐらいに思ってるんじゃないのかね。だったら、勘違いも甚だしい。たかがひとりの女を口説くのに、人の手は借りないよ。キミもグルになってそうしたんだな」

 まだ、周囲の連中の視線は続いていた。隆一はバツが悪くなり、「出るよ、ほらっ」と、声を張り上げた。

 みゆきは、涙を溜めた目で見つめると、小走りでレジへいった。

「ちょっと、きてくださいよ」

 店を出ると、みゆきは唐突にいい、隆一の腕を引っ張りタクシーに乗り込んだ。

「どこへいくんだよ」

「いいから……」

 みゆきは隆一の腕を取ったまま、「堀切菖蒲園へ」と、告げた。

「俺は向丘だよ。ここから近いし、降りるよ」

「駄目よ……。あんなところで、大声で啖呵を切ったんだから、1度振り出しに戻しましょう。たかがひとりの女……なんだから、堀切へ戻って、人の手を借りずにやり直せば気がすむんでしょう。あなたって、粋がる割には女心がわからない人のようだから……」

 隆一は、我に返ってみゆきを盗み見た。まさに、みゆきのいうとおりだと思い、ウインドーの外に視線を移した。昭和通りを飛ばしていたタクシーは、すでに言問(こととい)通りと交わる入谷の信号の手前に差し掛かっていた。

 隆一は、反省の意味を込めて、優しさを湛えたみゆきの目にいった。

「みゆきさん、僕が悪かった。よかったら、もう1度飲み直さない」

「そうですか。たかがひとりの女……ですけど、そういうことならべつに構いませんけど……。では、どちらへいきますか」

 みゆきの、恬淡(てんたん)とした言葉に隆一は、「湯島へいこう」と返した。

「ということですから、運転手さんお願いします」

 みゆきは、身を乗り出してドライバーに告げた。

 隆一は、みゆきの彫りの深い横顔を見つめながら、そっとその手を握った。


 頼んだ刺身が出てきた。ふたりはビールのグラスを置いて、箸を伸ばした。当初、予定していた割烹料理店だった。とうにカンバンの時間なのに、開いていた。先輩の馴染みの店だが、断られるのを覚悟で入っていった。 

 嬉しいことに、見知った板長が笑顔で迎えてくれた。数組の客が残っていたのが幸いしたようだ。

「キミも意外に意地っ張りだね」

 ビールで咽喉を潤すと、隆一はいった。

「それはお互い様……」

 みゆきは、反発した。

「ところで、これはわたしの意見だけど、人の手を借りようが借りまいが、そんなことに拘る必要ないと思う。互いにその気があったら、経緯(いきさつ)なんて、どうでもいいじゃないの」

 平然と、みゆきはいってのけた。

「キミはそうやって、男を試すのか。だからへんなジジィにいい寄られるんだよ」

 みゆきは青戸のクラブ『紫苑』の客に付きまとわれて、堀切の『菖蒲』まで逃避してきたのだった。ちょうど、田上と隆一が、ほろ酔い加減のときだった。

 ママと田上と隆一が、上手く取り繕って引き離してやったのだ。

「お客様は地位も名誉もあられるお方だとお見受けする次第で、お送り戴くのはありがたいのですが、未然に周囲の誤解を回避する意味でも、今後はお店以外でのお気遣いは辞退させて戴きたく存じます。これは、手前どものマキがあの店でお世話になると決まった段階で、亭主であるわたくしにオーナーが直接命じたことで、敢えて申し上げる次第です」

 急遽、機転を利かせ、みゆきの「亭主」になって、隆一は男に諦めさせようとしたのだった。

 だが、男は歳の割に分別がなく、しつこかった。

「わたしは、マキさんにお世話になっているから、お礼がしたかっただけ。べつに、下心があったわけじゃないですよ」

「下心、ないというのが下心」といってやりたかった。相手を慮(おもんぱか)り、咀嚼(そしゃく)した物言いで説得しているのに聞き分けがない。こんな手合いには、とどめを刺すしかない……と隆一は思い、続けた。

「じつはマキもやっとこの歳で子宝に恵まれまして、10月には待望の子どもが生まれる予定でございます。それでも、あとしばらくはお店に出ざるを得ませんが、ひとつお手柔らかにお願いします」

 それを訊いたみゆきは、自分の腹部に手をやり、笑みを浮かべて男を見た。

 男は、その腹部に恨めしそうに目を遣ると、一瞬表情を曇らせた。しつこく付きまとった自分にやっと気が付いたのか、「ほう、それはおめでたい。でもマキさんはスリムだから全然わからなかったよ。大事にしてよ」と、スーツの内ポケットから財布を取り出した。そして、ふたつ折りにした数枚の紙幣をカウンターの上に置き、「これで、おいしいものでも食べてよ。また、生まれたらお祝いを上げるね」といって腰を上げたのだった。

「じつは、あの人が付きまとって離れないから、青戸のファミレスでお茶したの。それがいけなかったんですね。『では、これで失礼します』と、わたしがタクシーに乗ったら強引にあの人が乗り込んできて……。咄嗟にここを思い出したのです。ここへいけばなんとかなる、という予感がしたんです。すみませんでした……」

 涙ながらに隆一に縋ったことを、みゆきはもう忘れたのだろうか。

「ずいぶんな言い方じゃない」

「事実だろうよ」

「じゃ、わたしもはっきりいいます。そういうあなただって、思っていることと逆の行動を取って、わたしを試したじゃないの」

「なんだよ、偉そうに……。このうづきマメが……」

「そういうこというの。だったら、わたしもお返しするわよ……。この、むくれバナナ……」

「なんだよ、それ……。キミは俺のを見たのか? 見てもいないのにいい加減なことをいうな」

「ふふふっ……。なにか勘違いなさってるんじゃないですか。わたしは、あなたが一昨日歌った歌をもじっただけですけど……」

「…………」

「それとも、そういうものをお持ちなのかしら……」

「うるさい。ば~か……」

 隆一は、ビールをラッパ呑みした。口から溢れたそれが顎(あご)を伝った。

「そういう呑み方したら駄目でしょう」

 みゆきはハンカチを取り出すと、隆一の顎に宛がった。

 その手を摑んで隆一は、みゆきを見つめた。そして、おもむろに、「ごめんね。つい思っていることと逆のことをいってしまうんだ。……。それは、キミがあまりにもいい女だからかな……」と告げた。

「わたしこそごめんなさい。無礼なことをいって……。でも、りゅうさんが、わたしを大切に思ってくれているということはわかりました」

 みゆきは、涙を湛えていった。

「ところで、なぜキミは『バナナ白書』を知ってるの? これは、昔に『週刊プレイボーイ』に連載された、男の童貞喪失の告白コーナーのタイトルだったんだよ。うづきマメだから、男のスケベな雑誌も読んでいたのか?」

「そんなこと知りません。ただ『いちご――』をもじっただけですよ……」

「いちごをもじっても、バナナにはならないだろう。それは、もじったんじゃなくて、弄(いじ)ったんだろう」

「なんで、弄るのよ?」

「いちごを弄るとジュクジュクになって、バナナが欲しくなるだろうよ。女でなくては、思いつかない発想だよ」

「イヤだ―っ。思った以上にりゅうさんてエッチね。そういうことには、回転が早いんだから……」

 みゆきは、涙が乾いていない目を細くした。

「それをいうなら、機動力がある……だろうよ。ほら、見てみなよ。論より証拠……もう勃(た)ってきたよ」

 みゆきは、恥ずかしそうに俯きながらも、目は隆一の股間に遣っていた。

「さてと……遠回りしたせいか腹が減った。仲直りしたことだし、思いっきり呑んで食べようか……」

「そうね。そして、ここを出たらまたどこかいきましょう。『菖蒲』で貰ったご祝儀もあることだし……。ものはついでに、とことん付き合いますよ……」

「よし、わかった。ただし、これは誰の手も借りないふたりの意思だからね」

「わかってますよ。それでもまだ気がすまないなら、初めからやり直しても構いませんことよ」

「こいつ……」

 隆一は、みゆきの頭を叩く仕種をした。

「いたっ」といいながら、みゆきは秋波を送ってきた。


 ベッドと壁の間のフロアに横たわっていた。どうも、転げ落ちたようだ。天井が回っていた。

 夢を見たのだ。へんな夢だった。よく憶えていないが、その結末だけは鮮明に残っている。

 ――見知らぬ男に追われていた。ビルの屋上に逃げた。男は凶暴だった。鋭いナイフを振り回してきた。避けきれず額を切った。その血が目に入った。目の前が真っ暗になった。それでも、男の気配はわかった。とどめを刺そうとしているのだ。あとがない……。ならばもろともだ。突撃してきた男の腕を必至に摑むと、隆一はフェンスを飛び越えた。そこで気を失った――。

 頭の奥に、疼くような痛みがあった。手を額に当てると、冷たい汗の粒が浮いていた。一糸纏わぬ姿だった。壁に手をついて立ち上がった。

 フロアスタンドの豆電球が、微かに照らしている部屋を見回した。シンプルなパイン材のシングルベッドがあった。その上には、オレンジ色の大小のドット柄のカバーに包まれたマットレスが載っていた。

 ほかには、ベッドとセットらしい同じ木目のチェストと、スタンドミラーがあった。ライトブルーのタオルケットが、無造作にフロアに丸まっていた。

 あのホテルではないことは確かだった。そこの、20階の部屋の大きな窓の下にはドームの屋根が見えた。少し右手に視線を移すと、遊園地の観覧車が見えた。ここには窓がなく、ベッドもダブルではない。

 みゆきと陶酔に浸ったのは、後楽園のあのホテルだった。そこに至るまでの経緯の一部が、記憶からすっぽり抜け落ちていた。

 ベッドの上に仰臥した。徐々に、思考の回路が繋がってきつつあった。じっと天井を眺めているうちに、それは完全に復旧した。

 

 割烹を出たあと、湯島天神に寄り、どこへいくかを考えた。湯島界隈にもホテル街があるのはわかっていたが、みゆきには不似合いな気がして、そこからタクシーに乗った。

 神田神保町の交差点でタクシーを降り、みゆきのロエベのバッグを左手に持つと、隆一は右手でみゆきの手を取った。さくら通り、すずらん通りと夢遊病者のように歩き回った。

 疲れた……、眠い……、帰りたい……といった、みゆきの言葉を隆一は期待していた。そろそろ、みゆきを解放し、自分もまた、そうされたかった。それを探りながら、かねてより知っていたスタンドのショットバーを目指したのだった。

 だが、幸か不幸か、みゆきはそれを裏切りついてきた。ならば、カクテルでも呑みながら善後策を考えよう……と思った。

 客がいないのが幸いだった。

「ギムレットを頂戴。強いタニノギムレットを……」

 隆一は、馬券が当たったダービー馬を思い出し、店に入るや否や、バーテンに冗談っぽくいった。

「わたしもそれで……」

 みゆきも同調した。

 白いカッターシャツに黒い蝶ネクタイのバーテンは、「はいっ」と小気味よい返事をした。そして、器用にシェーカーのトップでドライ・ジンを量り、5杯ほどをボディに流し込んだ。そのあと2杯のライム・ジュースを加えると、右肩の上で華麗にそのシェーカーを振りはじめた。

「はいっ、最強のタニノギムレットね」

 透明に近い液体が、ふたつのカクテル・グラスに注がれた。

 みゆきは、隆一より早くそれを掲げ、ウインクすると一気に呑み干した。

「ギムレットには、まだ早すぎるかな……」

 隆一は、R・チャンドラーの名作『長いお別れ』の名台詞を真似てから、それを呑んだ。強いジンの味が舌に残った。

 1973年にロバート・アルトマンが映画化したという『ロング・グッドバイ』は、それが原作だった。そのなかで、エリオット・グールド扮する私立探偵フィリップ・マーローに、罪を暴かれた犯人が吐いたのがそれだと、隆一は解説した。

 我ながら、少しも気障(きざ)と感じなかったのは、酔っていたからだろうか。

 そのビデオを観直したのは5、6年前だっただろうか。霙(みぞれ)交じりの雨が降る冬の日だった。西川達と四ツ谷で麻雀をして不労所得を得た隆一は、ともに新宿、池袋とハシゴして、最後は田上がたまに連れていく池袋駅北口にほど近いキャバクラを思い出し、ひとりでそこへ乗り込んだ。

 憶えのある髪の長いアバンギャルドなコンパニオンを指名して、アフターデートを目論見、閉店間際まで粘って口説いた。酔った勢いで口走った、歯の浮くような殺し文句が功を奏したのか首尾よく事は運び、約束の東口交番の前に彼女はやってきた。

 儀礼的に居酒屋で軽く呑んだあと、立教大学の手前にあるホテルに向かって腕を組んで歩いた。含羞(はにか)みを浮かべたような彼女の横顔を見ているうちに、この娘とならチェックアウトは午後になりそうだ……と、ひとり北叟笑み、念のため財布の中身を確かめてみたのだった。

 あに図らんや、それまで1万円札だと思い込んでいた2枚の紙幣は、なんと千円札だった。恐る恐る事情を話すと彼女は、「ええっ、ホテル代もないの……。わたしはあの店でナンバー2なのよ。それでわたしを自由にしようなんて、笑わせないで……。もう、お店にきてくれなくても結構。しけたオジンとは永遠にサヨナラね」と目を吊り上げて捨て台詞を吐き、ひとりタクシーに乗り込んだ。

 そのときは、股間ばかりに気がいって、焦っていたのだろう。頭が回らなかったのだ……ホテルでも、クレジットカードが利用できる――ということに。

 湯島や駒込界隈の、下町のとしま園と陰口を叩かれているいくつかのスナックのホステスとは、そういうケースでも断られたことはなかったが、さすがに20代半ばの、キャバクラのナンバ―2には通用しなかった。


 その翌日だった。活きがいい逃がした魚への口惜しさが込み上げてきて、そのDVDを観直したのは……。

 そこで、いくつかのレンタルビデオ店に出向いてみた。だが、期待は裏切られるばかりだった。それはすでに廃盤だった。しかし、DVDならどこかで出しているのでは……という返事が得られたのが救いだった。それを知りたいがために、あらゆる映画関係の書物漁りがはじまった。

 そのうち、それを微に入り細に渡って解説したムックに遭遇、幸運にもDVDが付録として綴じられていた。例の台詞も、それで暗記したのだった。

 それが、思わぬところで役に立ったというわけだ。

 その脇役に、A・シュワルツェネッガーとD・キャラディンに似た役者が出演している……という漠然とした思いは、そのムックを読んで確証を得たのだった。それは、まさしく、無名時代の彼らだった。

 正直のところチャンドラーは、ハヤカワ・ミステリー文庫の『湖中の女』しか隆一は読んでいなかった。

 彼が長篇では処女作ともいえる『大いなる眠り』を発表したときはすでに50歳になっていたこと、70歳で亡くなるまでの20年間に書いた小説は7篇だけの寡作の作家だったということを、奥付のその訳者のあとがきを読んで隆一は初めて知ったのだった。

 それに惹かれた隆一は、2作目の『さらば愛しき人よ』をはじめとする彼の残りの6篇も読破してやろうという気になって、いくつかの近場の書店を巡ってみた。だが、場末のそこには売れゆきのいいコミックばかりが棚を占領していて、小説の類は直木賞を初めとする各種文学賞を受けた作家のベストセラーが申し訳程度に置いてあるだけだった。

 そのうち、チャンドラ―の小説など、頭からすっかり消えていた。

 そんなことは隠して、得意げに話した隆一を、みゆきは褒めそやした。

「りゅうさんは、チャンドラー以外のアメリカの著名なハード・ボイルド作家も、ほとんどを読んでいるんでしょう。わたし、とても太刀打ちできないわ」

「それほどでもないけど、大概読んでるね」

 面映ゆい思いで隆一はこたえ、本はなんでも読んでおくに越したことはない、と苦笑した。

「素敵な彼女と、朝駆けで勝負ですか?」

 バーテンは、ふたりに冗談を向けてきた。

「そのつもりなんだけど、テン乗りでね。あまり、自信はないのよ……」

 グラスを呷りながら、隆一はこたえた。

「大丈夫……。サラブレッドは、屋根がよければ気持ちよく走りますよ」

 真顔で彼はいい、カウンターの下から競馬専門紙の『一馬』を取り出した。

 みゆきは、ふたりの会話に首を傾げていた。

 彼は、下がり気味の目尻に数本の皺を湛え、専門紙を見入っていた。どこかの中小企業の部長といった雰囲気で、蓄えた口髭も板に付いていた。こんなところで、燻(くすぶ)っているような人には見えなかった。

「先輩も、どっちも嫌いじゃなさそうですね」

 隆一は、微笑を交えていった。

「そうなんですよ。その結果がこれですよ。しかも、哀しいかな雇われの身で……」

 そういって彼は、空(から)のシェーカーを振ってみせた。

「いいじゃないですか。1度しかない自分の人生なんだから……。好きに生きたほうが勝ちですよ」

 隆一は、自分にいい聞かせるようにいった。

「じつはね、お客さん……。ギムレットは、ジンとローズのライム・ジュースを半々ずつ入れるのが正道なんですよ。どうですか、コケティッシュな彼女にそれを召し上がって戴いては……」

 バーテンは、愛嬌たっぷりにいった。

「わたし、それ呑みたい……。りゅうさんも呑むよね」

 笑顔でみゆきはこたえた。

 それを呑み干した隆一は、ふたつのスクリュードライバーを頼んだ。クリームイエローの、みゆきのスーツをぐっと濃くしたような鮮黄色の液体が、大き目のタンブラーになみなみと注がれた。

 半月形のスライス・オレンジが涼味を誘い、熱く灼けた咽喉を心地よく潤した。ウオッカが濃い目ではあったが、呑み干したあとに残るオレンジの甘酸っぱい味が、酔いを覚ましてくれたような気がした。

 みゆきを一瞥すると、さすがに目許には酔いが表われており、努めて平静を装っているように見えた。レディ・キラーといわれるそれが利いたわけでもあるまいが、徹夜は麻雀で鍛えた隆一と同じペースで明け方まで呑んでいるのだから、無理からぬことだった。

 隆一はいった。

「真赤な血のようなカクテルを作ってよ。ブラッディ・マリーでいいよ……。みゆきもそれでいいか?」

「それでしたら、朝陽のように真赤なシンガポール・スリングはいかがでしょうか?」

 バーテンはふたりに笑みを送り、さらに「これは当店自慢のもので、甘さを押さえていますから、紳士、淑女にはピッタリですよ……」と、上手いセールス・トークを吐いた。もちろん、断る理由はない。

 隆一はほんもののスリングは呑んだことがなく、シェークするまでのバーテンの手をじっと眺めていた。それは、多目に入れたドライ・ジンに、チェリー・ブランデーと少々のレモン・ジュースを加えてシェークし、タンブラーに移したあと氷を加え、さらにソーダ水を足してカウンターの上に静止させた。そして、バー・スプーンを浸すと、タンブラーのほうをゆっくり回転させながらステアするという、手の込んだものだった。

 満たされた真赤な液体と、その上に浮いた白い泡が見事なコントラストを見せていた。加えて、カクテル・ピンに差されたデコレーションの、スライス・ライムの皮の緑とマラスキーノ・チェリーの赤が、絶妙の彩りを添えていた。

「この赤、すごーく鮮やかな赤ね。このまま窓辺に飾っておきたいわ……」

 みゆきは、タンブラーを翳しながら、声を上擦らせた。

「これは、『月と六ペンス』を書いたイギリスの作家W・S・モームが、東洋の神秘と絶賛したシンガポールのラッフルズ・ホテルのバーで、1915年に作られたのが最初だといわれているんですよ」と、バーテンは説明した。

「そうなんですか。わたしは高校時代にモームはよく読んだわ。『月と六ペンス』もいいけど、いちばん好きなのはストーリー性豊かな『人間の絆』よ。また、『雨』や『赤毛』も好短編だし、戯曲の『フレデリック夫人』もなかなかのものですよね」

 目を輝かせて、みゆきは自慢した。

 隆一は、『月と六ペンス』だけは高校に入学して間もなく、『野菊の墓』と一緒に文庫本を買った記憶があるが、半分も読まないうちに投げ出したことを思い出した。後者だけは、恋文を認めるための参考にしようと熟読したことを鮮明に憶えている。それは、確か旺文社の薄緑の表紙のものだったように思うが定かではない。

 したがって、モームについてはその名を知っている程度で、多くを語れなかった。

「俺は、全然読んでいないから、せめてカクテルでモームを偲ぶよ……。というわけで、お代わり頂戴」

 4杯目を口にする頃には、さすがに腰を突く思いだった。

「こんなにふらつく足では、ゲートインできそうもないね、マスター」

 最後の1滴まで呑み干すと、隆一はいった。

「大丈夫ですよ。騎乗したら、すぐに下の “鬣(たてがみ)”を撫でるんですよ。そうすればすぐに回復して後方一気、ぶっちぎりって寸法ね」

 バーテンにしておくにはもったいないほど、彼は口も達者だった。

「ということだから、みゆき……よろしく頼むね」

「はい、わかりました」

 意味がわかっているのか、みゆきはいとも簡単にこたえた。

「みゆきさんて、いい名前ですね。関西に同じ名の騎手がいるでしょう。わたしは、人気薄で穴をあける彼が大好きなんですよ」

 彼は、みゆきに目を向けていった。幸英明(みゆきひであき)騎手のことだと隆一はわかった。確か、最年少で牝馬三冠を掌中にしたあの隠れた天才騎手。

「みゆきは、俺の第一本命なんですよ。いかがですか、マスター」

 わざとらしいほど大きな声で、隆一はいった。

 彼は、カウンターに上体を預けるように身を乗り出して、みゆきを上から下まで睨(ね)め回すと、「毛艶はいいし足もしなやかで、当世稀にみる名牝(めいひん)ですよ。こんな人を自由に操れる男性がわたしは羨ましい」と、大きな声を上げた。

 みゆきは「もしかして、わたしのこと?」と、にっこりして、

「それでは、ヘミングウェイを気取って、マティーニで乾杯といきましょう。マスターも一緒にお願いします」

 と、艶っぽい声を上げた。

「美味しい、タニノマティーニだね」

 そういいながら隆一は、マスターのグラスに割れんばかりに自分のそれを合わせた。

 そこを出たふたりは手を繋ぎ、蹌踉(そうろう)とした足取りで後楽園に向った。

 茜色の朝の光を受けたみゆきは、カクテルグラスのピンク・レディのなかを遊泳する人魚のようで、すこぶる妖艶だった。

 

 眺めのいい20階の部屋だった。

 窓の下には、柔らかな光を受けたドームの屋根が見え、その左向うには小石川後楽園の緑の木々が伸びていた。

 手前の右手に目を転じると、巨大な円形の鉄骨にぶら下がったいくつかの観覧車が、数種の色が交錯した遊園地を背景に、シルエットとなって浮かんでいた。

 複雑に張り巡らされた、ジェットコースターのレールは朝露に光り、あたかも、御伽噺(おとぎばなし)の絵本を見るようだった。

 その視界の延長線上には、本郷から白山上、駒込辺りまでを包含した街路樹が、ひとつの帯となって朝靄(あさもや)を突いていた。丸の内線の赤い電車が、高架を走っているのも見えた。

 遊園地を直角に挟んで貫く、白山通りと春日通りの上り車線には、すでに多くのクルマが連なり、その先頭はふたつの道路が交差する四つ角まで伸びていた。

 朝の4時を回った、酔っぱらいのカップルのチェックインは拒否されると踏んでいたが、それは杞憂に終わった。フロントマンは謙(へりくだ)って、部屋へ案内した。

 あとで考えたら、深夜になってのキャンセルを食らったか、それともあと一部屋売ればノルマを達成できるという状況だったのかもしれない。

 とにかく望みは叶ったのだ。

 部屋の冷房は、酔い覚めで疲労困憊の躰には、寒く感じられた。みゆきも、疲労と寒さに耐えられなかったらしく、服を着たままベッドに横たわっていた。

 クリームイエローの、ジャケットにつけた白いレースの上襟の、左側に滲んだルージュの染みが目を引いた。

 みゆきの足下に回ると隆一は、アイボリーのパンプスを取った。さらに、ベッドに上がると両膝を付き、みゆきを抱き起こすようにして、ジャケットとスカートを脱がせにかかった。

 絹のような肌触りの白いカットソーの下にブラジャーが透けて見え、ベージュのパンストの下にショーツが覗いた。

 隆一は、ゆっくりとパンストを下ろしていった。

 右足を上に組んだ大腿が、熟成を窺わせる淫靡なフォルムを描き、微かに汗の匂いを含んだ芳香が匂い立ってきた。

 みゆきは、急に起き上がるとカットソーを脱ぎ、口を固く結んで隆一を見下ろした。

 白いハーフカップブラとショーツはセットらしく、同じレース柄がほどこされていた。

 隆一がショーツに手をかけると、みゆきはそれを振り払い、上から順に自らの手で大胆に外していった。積もりはじめた処女雪のような白い肌と対照的な股間の漆黒が、隆一の目の前に曝された。

 そこに、そっと手を振れると、みゆきは腰をくねらせて坐り込んだ。そして、脱いだものを手際よく揃えて、クローゼットに仕舞うとすぐにまたベッドに戻り、白い裸体を横たえた。

 頬や耳朶には、挑発するかのような、朱の色が射していた。

「あなたも脱いでください……」

 そういうとみゆきは、白いカバーのケットを被った。

「ちょっと待ってて……」

 隆一は、そうこたえて冷蔵庫からビールを取り出すとベッドに腰掛け、調子に乗って呑んだカクテルのせいで灼けつく喉に、立て続けに流し込んだ。2本のキリンラガーの中瓶は、すぐさま底を突いた。

 最後の1杯となったグラスを持ってみゆきに勧めると、「少しください」と、ケットを捲り上げた。

 だが、起き上がるでも手を出すでもなかった。

 隆一は、それを口に含むとベッドに腹這いになり、みゆきの口に重ねていった。

 みゆきは口で移したそれを、喉を鳴らして呑み干した。唾液だかビールのものだかわからない泡が、左右の口角についていた。

「もっと……ください」

 みゆきは薄目を開けてつぶやいた。

「わかった」とこたえると、隆一はまたビールの残りを口に含んだ。そして、両の乳房を揉み上げて乳首の屹立を確かめると、口の中のものを数滴ずつそこに垂らしていった。

 俄かに色を変えた乳首の頂から裾野まで、雫が流れていった。さらに、乳頭を交互に人差指で撫でると、みゆきの口から白い歯が覗いた。開いたままのその口に、隆一は含んだままの残りを移し込んだ。そして、泡が残っているその唇に、猛りの先端を宛てがった。

 みゆきは首を振って拒む素振りを見せたものの、やがて両の掌でそれを挟むと口に運んでいった。

 水を得た魚のように、唇を微妙に動かせ舌を絡め続けるみゆきの愛撫に、朦朧(もうろう)としていた隆一の頭は徐々に覚醒していった。

 みゆきは、果てた隆一に伸しかかり、次を求めてきた。それは、快感を享受しながら眠りに浸るという、女の貪欲さ……だろうか。

 隆一は、頭が異様に冴えてきて寝就かれなかった。みゆきの寝息が聞こえるベッドの上で、冷蔵庫にあった日本酒の2合瓶を空け、さらにハーフボトルのワインを呑み干した。それでも、もはや飽和状態の躰には、なんの効果もなかった。

 横になっても、少し微睡むとすぐに目が覚めた。それは、3日3晩麻雀を続けたときのような昂奮にも似て、股間は漲りを増してくるばかりだった。

 午前のときが終わりを告げる頃、火照った肉の主軸を三たびみゆきのなかに沈めていった。みゆきは嬌声を上げて眠りから覚めた。


 記憶は、完全に戻っていた。43階の『アーチスト・カフェ』で軽い食事をしてそこを出たのは、午後1時を少し過ぎた頃だった。

 タクシーに乗り込むと、隆一は「白山上へ……」と告げた……と思った。だが、すぐにみゆきの膝を枕に寝込んでしまったらしい。

 みゆきに起こされてタクシーから降りたところは、見覚えのない住宅街だった。エレベーターで上がった、こぢんまりとしたマンションの5階は、みゆきの部屋だった。

「なにか召し上がりますか」

 部屋に入るや否や、みゆきはいった。そして、サイドボードから、ヘネシーのボトルを出すとグラスに満たし、隆一に差し出した。

「なにも要らない、みゆきがが欲しい……」

 隆一はこたえると、それを一気に呑んだ。

 みゆきは、酔いは覚めていたのか、頬を染めて黙ってしたがい、隆一の手を引いて寝室へ向かった。

 隆一は、後ろからみゆきを組み敷いた。


 その後、寝入ったのは午後3時頃ではなかっただろうか。いまは、7時半になろうとしていた。4時間余り眠ったわけだが、その実感はなかった。

 隆一は、寝室を出てドアの前に立ち、改めて部屋のレイアウトを確かめた。

 エントランスから続く廊下の左側はトイレ、バスルーム、キッチンと続き、その右手が6畳の寝室だった。リビングルームはその突き当りで、10畳ほどはありそうな広さのフローリングだった。

 正面に見える一間(いっけん)の窓の二重のカーテンレールには、外側の白いリバーレースのカーテンが引かれているだけで、暮れなずむ空の色に染まっていた。

 仄暗いその部屋の左側の一角には、2畳ほどの花茣蓙(はなござ)が敷かれていた。その上には、壁を背に豹柄のカウチソファーがあり、白い正方形のリビングテーブルが続いていた。その上の白い陶器の花瓶には、3本のヤマユリが挿してあった。

 隆一は、ソファーの手前の壁の片隅にある照明のスイッチを押した。部屋に広がった蛍光灯の明かりに乗って、野の花特有の香りが部屋中に広がったような気がした。

 それに相対する、エルム・ユーカラ織りのような生地のタペストリーが掛かった壁の右手には、デスクトップのパソコンが載ったチークのラックがあり、上の棚に置かれたエプソンのプリンターに並んで、コンパクトな真っ赤なCDカセットがあった。

 さらにその上の壁面には、ポッティチェリーの『ビーナスの誕生』をデフォルメしたような、全紙大のアルミフレームのモザイク画が飾ってあった。

 黒い台に載った30インチぐらいの薄型テレビは、窓と直角に繋がるコーナーより、ソフアーに斜に液晶面を向けていた。

 右手の寝室側の壁には、中段に電子レンジが載った食器棚と小さ目のサイドボード、下段に抽斗があるガラス戸つきの書棚、鏡付きのドレッサーといった順に手前より並んでいた。

 いずれも3尺余りの幅の、明るいパイン材のもので、寝室にあった家具と同じ木目だった。その両端の家具の上には、黒い小さなボーズのスピーカーが載っていた。

 なかでも隆一の目を引いたのは、背表紙に横文字が記された書棚に並ぶ書籍類だった。隆一はその前に立ち、ざっと視線を走らせた。

 下段より数10巻の平凡社の百科事典が占領した3段目の途中から、『A DIVINA COMMEDIA』『UNTAERM RAD』『UNE VIE』と並んでいた。

 さらに、『DIE LEIDEN DES JUNGEN WERTHERS』といった、イタリア語なのかフランス語なのか、はたまたドイツ語なのかわからないものが、ファッション雑誌に挟まれる形で続いていた。

 原文の詩や小説らしいことが、ひとつだけ読めたH・HESSEのスペルから類推できた。

 どこの国の言語か理解しがたいそれらは、第2外国語としてみゆきが専攻した語学の資料かもしれないと隆一は想像した。

 最上段の、目の高さにある棚に目を移すと、隆一にはその名も初めての岩野泡鳴、三木露風、日夏耿之介といった、古本屋から買ってきたばかりのような背が色褪せた本が左側より並んでおり、それに続いて、『LITTLE WOMEN』 『THE CATCHER IN THE RYE』『WUTHERING HEIGHTS』『A FAREWELL TO ARMS』『FOR WHOM THE BEEL TOLLS』という標題の、分厚い四六判のハードカバーの5冊があった。

 いかにも、英語の得意なみゆきらしい蔵書だと隆一は思った。

 隆一が解読できたのは、薄緑のブックエンドに仕切られた、数10枚のCDソフトの右隣にある『GONE  WITH THE WIND』だけだった。これは、高校1年の夏休みに、分限者の同級生の家に遊びにいったとき、東京の女子大生だという彼の2つ上の姉の本棚に並んでいた。

 彼に似ず、わりかし可愛い女学生だったので、「これ読んでみる……」といわれたとき、「読む、読む」と、ふたつ返事で借りて帰った。もちろん、そんなものを読む気などさらさらなかった。いわずもがな、また彼の家にいくための口実にしたいからだった。

 それからは、彼がいないのをわかっていながら、幾度かその家を訪ねた。彼女と話を合わせるために、その翻訳ものを読みはじめていたことはいうまでもない。

 いつか誘い出そうと機を窺っているうちに盆が過ぎ、意を決して本を返しにいったときは、すでに彼女は上京したあとだった。以来、彼との付き合いも疎遠になった。

 そんなことを思い出しながら、隆一は書棚からそれを抜き取った。左開きの表紙を捲ってみると果たしてそのとおりで、見返しの次はM・ミッチェルのサインが刷り込まれた、モノクロのポートレートの口絵だった。

 隆一は、パラパラとページを捲っていった。半分ほど繰った左ページのなかほどに、赤いボールペンで傍線が引かれた箇所があり、そのノドの部分の余白に、みゆきの筆跡だと思われる訳文らしい鉛筆の走り書きがあった。また、右側のページの小口の下方には、油を零したような染みがあった。

 鼻頭を近づけてみると、古い書籍特有の紙の匂いに交じって、昨夜隆一を心地よくさせた香水の匂いが、微かに残っていた。

 みゆきは、読んでいくうちに感動し、スカーレット・オハラになったつもりで胸に香水でも吹きかけてみたくなったのではないだろうか。それとも、みゆきは、本を読むたびに乳房を香水で潤し、感情を昂ぶらせていたのではないだろうか。

 たわいのない推測ではあるが、いずれにしても、みゆきがこのページに特別な感情を示したことは想像に難くない。

 隆一は、その見開きページの最初の行(ぎょう)から最後の行までに目を這わせてみた。だが、知らない単語が羅列された英英辞典を見るようで、その走り書きがどの部分を指しているのかさえ、皆目見当がつかなかった。

 隆一は天を仰ぎ、目を閉じた。すると瞼の奥に、冷たい表情のなかにも美しさが際立つ、その映画の主役に扮したビビアン・リーの顔が鮮やかに浮かんできた。

 やがてそれは、早送りしているかのように次々と変わっていき、ヴィヴィアン・リーと、クラーク・ゲイブルが抱き合うクライマックス・シーンで静止した。

 隆一は、それにみゆきと自分を重ねながら目を開けると、惜しむようにそのページを閉じた。

 そのDVDはいまも、解いていない荷物の書籍の間に挟まっているはずだった。アメリカツアーの観光パンフレットの仕事を請け負った数年前に、ジョージア州アトランタに関するボディコピーを書くための資料のひとつとして買ったものである。今度、みゆきとふたりでゆっくりと観直そうと思った途端に、肌寒さを覚えた。

 隆一は自分が素っ裸だったことに気が付いた。長時間付けていたエアコンの冷気は、隅々までいき渡っていたのだ。

 隆一は、部屋を見回した。だが、どこにも隆一の服は見当たらなかった。それは寝室に戻っても同じだった。隆一は不安になってきた。

 ここは、ほんとうにみゆきの部屋なのだろうか。そのうち、強面(こわもて)の男が入ってくるのではないだろうか。そう思うと気が気ではなく、すぐにも退散したくなった。だが、服がなくてはどうにもならなかった。部屋のなかをうろついているうちに、隆一はいつしかバスルームに入っていた。脱衣所の、フックに掛かっていたジバンシーのバスタオルを腰に巻くことで、幾分不安は和らいだ。

 明かりを消した隆一は、二重レールの内側に吊るされた遮光カーテンを引いた。そして、再びスイッチのところへ戻り、明かりを点けた。

 ライトグリーンの、ワッフルクロスのカーテンに反射した光で部屋は、照明を消す前より明るくなったような気がした。

 隆一は、再び窓辺に近付くと、引いたカーテンの端を捲って、窓の外に目を遣った。

 夜の帳(とばり)のなかに、点となった無数の明かりが広がっていた。眼下には、光の線で繋がった国道があった。左手のビルの向こうには、黄昏(たそがれ)を裂くように電車が進入してきたホームも見えた。ほどなく、それとは逆に走る電車が入ってきた。朧げに見える車輛の色で、東武鉄道の電車だというのがわかった。

 ここの位置が、ほぼ正確に摑めてきた。玄関のドアの前から振り返ったときに間近に見えたあの赤い車輛は、京成・押上(おしあげ)線に乗り入れている都営地下鉄に違いない。つまり、ここは東武線と京成線に挟まれた一画である。隆一にとっては消し去ることのできない、曰(いわ)くあるところなのである。

 ここに、みゆきは住んでいる。これは何かを暗示していると、隆一は思えてならなかった。

 カーテンをきちんと引き直すと、隆一はソファーに腰を下ろした。そして、頭のなかを侵食しはじめたそれを断ち切るように、煙草を咥え火を点けた。

 ふと、テーブルに目を遣ると、薄緑の付箋が花瓶に押さえられているのに気が付いた。いままで気付かなかったことが不思議だった。それは、隆一に宛てたみゆきのメッセージだった。

〔よく眠れましたか? 自由にブランデーでも呑んで、待っていてね。帰りは7時半頃になります。From MIYUKI〕

 これを見て、隆一の不安は一掃された。


 みゆきが帰ってきたのは8時過ぎだった。紺地に白抜きの横文字が入った『松屋』の紙袋と、クリーニング店の名が入った白い大きなビニール袋を提げて……。

 イエロー系のスモックブラウスに、縦のラインが強調されたデニムの色落ちのインディゴといった軽装だった。それは、スレンダーなみゆきの、新たな魅力を醸していた。

「お腹空いたでしょう」

 開口一番、みゆきはいった。

「それより、これはどうするの?」

 隆一は、腰のバスタオルを指していった。その拍子にそれは解け、フロアに落ちた。

 みゆきは、露になった隆一の股間を眺めながら、

「あら、ごめんなさい。でも、シャワーを浴びるのにちょうどよかったりして……」と、笑った。

 それは嬉しかったが、なぜか隆一は遠慮の言葉を発した。

「あまり、甘えるのもなんだから、帰るよ」

「どうして? なにかお料理作ろうと、デパ地下に寄ってきたの。それに、服もクリーニングしてきたし、新しい下着も買ってきたわ。揃えておくから、シャワーしてきて……」

 隆一の腰に手を回して、みゆきは促した。

「………」

 隆一は、子供のようにもじもじしながら俯いた。

「どうしても帰りたいのなら、どうぞ。但し、そのままで出ていってね……」

 みゆきは、淡々といった。

「そのままでったって……。恥ずかしいし、チン列罪で捕まるだろう」

「そのくらいでは、よっぽど暇でない限り、警察も捕まえないわよ……」

「でも、捕まったら、どうする……。 責任取ってくれる?」

「さあね……。追剥(おいはぎ)に遭った……とでもいえばいいんじゃないの」

 厭がる女を引き止めるために、男が服を取り上げているのならわかるが、いまはその逆で滑稽に思えた。

 これまでの隆一なら、女には有無を言わさず図々しく振舞ってきたはずなのに、なぜかそれができなかった。ここは素直にしたがうのが得策だと隆一は考えを改めた。

「みゆき様の強迫には負けたよ……」

 隆一の言葉に、みゆきは笑みでこたえ、バスルームへ先導した。

 みゆきは、隆一が出るのを見計らって、バスタオルを手に脱衣所に立っていた。

 濡れた隆一の躰をみゆきは手早くそのバスタオルで拭くと、足下に屈(かが)んで、「はい、どうぞ」と両手でトランクスを広げた。

 隆一は、顔が上気し足が竦んだ。だが、じっと屈んでいるみゆきの姿を見るとしたがわざるを得ず、その肩に両手をかけてそれに左足から通していった。

 戻ったリビングのテーブルには、ビール瓶とグラスが並び、涼しげなブルーのガラス容器も添えられていた。それには、あおやぎやとり貝、イクラなどの海の幸とともに、キュウリとネギをまぶした豆腐のサイコロ切りが盛られていた。

 ドレッシングと、ごま油の香りが仄かに漂い、見ただけで腹が鳴った。隆一は、みゆきから渡されたTシャツを着て、ソファーに坐った。

「よく冷えてるわよ。はい、どうぞ」

 みゆきは、テーブルの横のフロアに膝を付き、ビールの瓶を翳した。

 注がれたグラスを置いて、「キミも一緒に呑もう」と、隆一はみゆきにグラスを渡した。

「じゃ、少しだけ戴くわね。わたし、まだお惣菜作りがあるから……」

 みゆきはいって、グラスを掲げると、隆一に合わせて呑み干した。

「わざわざクリーニング屋にいったのかい?」

 隆一は、訊いた。

「いやだぁ、ちゃんと伝えたでしょうよ。塾にいくついでにクリーニング屋さんに寄るって……。そしたら、りゅうさんは『うるさいな……。わかったから早くいけよ』って、いったのよ」

 みゆきは、不満げに話した。

 その記憶は、隆一にはなかった。そういえば、寝入り端に話しかけられると暴言を吐く癖があることを、姚子に指摘されたことがあった。

「そう。それは悪かった。あまりにもゆうべのキミがよかったから、その余韻を夢のなかまで引き摺っていたんだね……。それを覚まされたくなくて、怒ったのかもしれない」

「お口が上手なりゅうさんに、わたし弱いの……」と、みゆきは頬を染めた。

「ありのままをいっただけだよ……。キミと一緒にいると、男は誰でもロマンチックになれるよ、ハイネのように……」

 みゆきは、潤んだ目で隆一を見つめると、続きを話しはじめた。

「そのあと、コートがどうたらこうたらといってたんだけど、それってなんなの? しつこく訊くとまた怒られると思って訊かなかったんだけど……」

 珍しく、甘えるような声だった。

 そんなことまで口走ったのかと、隆一は小っ恥ずかしくなった。それは、預けた姚子のモノ以外に考えられないが、その記憶も隆一にはなかった。

「それは夢のなかの話……。ホワイトクリスマスに入ったホテルのスイートで、ちょうど、毛皮のコートを脱がすシーンだったのさ。その相手はもちろんキミで、すごーく素敵だった……」

「そうだったの。それで、その先はどうなったの?」

「いいところで目が覚めて途切れちゃった。でも、俺の頭にはその続きがすでに描かれているから、夢じゃない現実のキミで、これからたっぷりと演じてみせるよ。ね、いいだろう」

 みゆきは、目を潤ませて頷いた。そして、隆一を見上げながら、自分の仕事について話しはじめた。それは、土、日の午後の4時から7時まで、塾の英会話教室の臨時講師をしていること、週3、4回は青戸のクラブ『紫苑』にいっていることなどだった。さらに、月、火、木の午前9時から12時の間はアウトソーシングの会社に出向いている――ことも付け加えた。

 みゆきは、そこではコールセンターに所属し、派遣されてきたオペレーター志望者に現場研修をするインストラクターだと説明した。コアタイムは午前11時から3時間だけで、それをクリアすれば、比較的自由が利くのだという。  

「働き者なんだね、みゆきは……」

「そうではなくて、部屋に閉じこもっているのが好きじゃないの……」

 みゆきは、つぶやくようにいって、また隆一を見つめた。

 隆一は、咄嗟には返す言葉が見つからず、話題を逸らす言葉を向けた。

「ところで、そのクリーニング屋って、流行りの当日仕上げというところ?」

「そうなの。5時間仕上げなの。今日は、少し出すのが遅かったから、上がるのを待っていたけど……。普通なら、翌日仕上がりの時間だったのよ」

 そこまで話すと、みゆきはキッチンに立った。

 隆一は、グラスを空けると、「なにか手伝おうか」と声をかけた。

「もう、おビールはいいの? 呑んでていいのよ」

 みゆきは微笑んだ。

「呑みながら、手伝うからブランデーをロックで頂戴よ……」

 みゆきが淹れたロックグラスを手に、隆一は左隣に立った。

「それでは天ぷらを揚げるから、なにか野菜を切ってくれるかしら」

 みゆきの言葉で、野菜が入ったバスケットを見ると、手に負えそうな物はピーマンぐらいしかなかった。ピーマンの肉詰めが得意な姚子がそれを作るとき、儀礼的に手伝ったことがあり、それを切るぐらいは造作(ぞうさ)のないことだった。

 庖丁を持った隆一を見ると、みゆきは、「あら、サウスポーなのね」と、驚いたような声を上げた。

「知らなかった。ゆうべ箸を持ったのを見ただろう」

 みゆきは、隆一が1度も箸を持たなかったことを、得々と説いた。

「ベッドでも、わたしの左側から攻めてくるから、おかしいなと思っていたの。それも、サウスポーが影響してるの……」

 その言葉で隆一は、勃起の兆しを股間に覚えた。

「右からだと、キルヒホッフじゃなかった、フレミングの左手の法則が使えないからね。つまり、こういうことが、できなくなっちゃうんだよ」

 隆一はそういうと、みゆきの胸の左の膨らみを親指、人差指、中指の3本で抓んだ。

「いやーん、ちょっと待って……」

 みゆきは顔を左右に振り、艶(なまめ)かしい声を上げると、てんぷら鍋がかかったガスレンジの火を消した。

 さらに隆一は、右の乳房に手を移しながら、みゆきの唇に自分のそれを重ねていった。

 みゆきは、「あ、ああっ」と、くぐもった声を上げながら、隆一の怒張に触れてきた。

「もう、なにも作らなくていいから、さっき話した夢の続きをしようよ」

 唇を離すと、隆一はいった。

 目を瞬(しばたた)かせながら、みゆきはこたえた。、

「それは、少し食べたあとで、ね……。今夜はわたしを寝かさないで……」


 閉め切った部屋は熱気が籠っていた。無造作に積み上げたままの段ボールと、ビニール紐で結わえたままの書籍類がフロアを占領し、部屋を一層暑苦しくしていた。窓のカーテンレールに吊るしたスーツの数々も、煩わしく思えた。小綺麗な、みゆきの部屋に丸1日いたことも、その思いを強くさせていた。

「今日もいていいのよ。わたしの部屋に……」

 みゆきはそういって、隆一に鍵を渡した。塾に出かけるみゆきを送っていった、京成・曳舟(ひきふね)駅でのことだった。塾は、本所吾妻橋(ほんじょあづまばし)駅の近くだという。

 その言葉にしたがい、隆一はみゆきの部屋に戻ったが、テレビの競馬中継が終わった4時になると、そこを出た。馬券を買っていない競馬中継は観ても虚しいだけだし、帰りが7時半を過ぎるみゆきを待つのも、待ち遠しく思えてきた。

 本を読んで時間を潰すということも考えたが、書棚に並んでいるのは読めない横文字か興味の湧かない物ばかりだった。とにかく部屋を出て歩けば、気晴らしにはなるという思いに至った。

 馬券を買い損なったときに限って、予想した万馬券が的中するレースを隆一は恨めしく振り返りながら、曳舟川通りから明治通りへと歩いていった。

 通りは、両方向ともサンデードライバーらしいクルマが繋がっていた。

 一帯に澱んだ排気ガスの匂いと閉めっぽい生暖かい風が、汗が噴き出した隆一の躰に纏わり付いた。陽はかなり傾いていたが、陽光は少しも衰えを見せていなかった。

 昨夜は、みゆきが腕に縒りを掛けた『野菜と魚介類のてんぷら』『鯛のピーナツ揚げ』『モロヘイヤと納豆の春巻き』などを食べながら、ふたりでヘネシーを呑んだ。

 手料理は、ひと月前に姚子が作ったものを食べたきりで、とりわけ美味しく感じられた。

 実際、みゆきは、味付けにも盛り付けにも細やかで、隆一の食は進んだ。

「揚げ物ばかりですけど、昨日からりゅうさんはまともに食事してないし、いいかなと思ったの。それに、暑い時の揚げ物って躰にいいし、意外に美味しく感じるんですよ」

 みゆきは、額に汗を浮かべて、てんぷら鍋と向き合っていた。

「俺は、揚げ物は大好きだから嬉しいけど、キミは暑い思いをして大変だね」

 言葉で労(いたわ)ることが、唯一隆一にできることだった。

「これだけご馳走を戴けば、もうビンビンだよ。『今夜はわたしを寝かさないで……』といったキミの期待には十分こたえられるよ」

 料理はもとより、実際みゆきは一昨日よりもそそるものがあった。

 午前零時になる前に、そのボトルは空になっていた。みゆきと交した言葉にこたえてその肢体を貪った。

 寝入ったのは午前4時頃だったろうか。

 早目に起きていれば、ウィンズ浅草へみゆきを連れていこうと考えていたが、さすがにそれは無理だった。

 明治通りを右に曲がった歩道を、隆一は片影に沿って歩いていった。水戸街道に合流する東向島の交差点は、朝のラッシュのように混んでいた。隆一は、点滅しはじめた明治通りの歩行者用の信号を見ながら駆け足で横断歩道を渡り、さらに水戸街道を横断する歩道の、信号の色が変わるのを待った。

 立ち止まっていると、夥(おびただ)しい汗が噴き出してくる。まだ、歩いているときのほうが、暑さは感じなかった。

 ジャケットを脱いで肩に掛け、水戸街道を渡った。向島百花園を左に見ながら、白髭橋(しらひげばし)東の交差点まで歩を進めた。

 言問通りから伸びてきている墨堤(ぼくてい)通りも、千住(せんじゅ)方向への車線はクルマが連なっていた。それを目で追った隆一の視界に、墨堤通りと隅田川の間に建つ、数棟の都営の高層住宅が飛び込んできた。

 さらに信号を渡り、明治通りを直進した。咽喉の渇きに耐え切れなくなって前方に目を遣ると、運よく橋の手前の左手の高層ビルの2階に、ファミレスがあった。

 窓際の席に坐り、グラスビールを頼んだ。右手に見える白髭橋東の交差点の辺りは、僅かの間に大渋滞をきたしていた。その余波は明治通りに及び、内回りも外回りも白髭橋の向うまでクルマが停止状態で繋がっていた。

 提灯を満艦飾にした1艘の屋形船が、隅田川を下っていくのが見えた。

 隆一は、ちびりちびりとグラスに口を付けながら、白髭橋東の交差点の向うの家並に聳える白い建物を眺めていた。それは、病院だった。思い出したくないことが、脳裏に甦ってきた――。


 その病院は、昨年の1月、隆一が交通事故に遭って、入院したところだった。その現場もすぐそこの、白髭橋西の明治通りの外回りのところで、信号待ちしているときに追突されたのだった。

 リアバンパーが少し凹んだだけの、どうってことはない事故だったが、それでも慌てた加害者は救急車を呼んだ。交通事故といえば入院させるのが救急病院の常らしく、1週間もベッドに臥せる羽目になった。

 それより、そのあとが大変だった。そのクルマは、年末にディラーから納車されたばかりのフルタイム4WD・V8の最高グレードのマジェスタで、その購入費用の大半を、姚子が出していたのだ。

 普段は、隆一のすることに目くじら立てるなんて、ほとんどしない姚子ではあったが、助手席に乗っていたのが、姚子も知っている湯島のクラブでヘルプをしている女子大生とあっては、話はべつだった。

 しかも、麻雀だといって前日から山中湖にドライブに出かけ、途中でウインズ石和(いさわ)へ迂回し、中山金杯の馬券を買っていたのだ。

 それは、暮れの有馬記念で『アメリカンボス』に騎乗、大波乱の片棒を担いだ江田照男の『タフグレイス』から1番人気の『ビッグゴールド』を厚目に2番人気、3番人気へと流し、さらに遊びで、前年のそのレースの覇者『カリスマサンオペラ』まで押さえていた。

 隆一の予想どおり『ビッグゴールド』と最軽量の『タフグレイス』でレースは決着、連複は170倍余りの配当となった。それを、1万円買っていた。

 好事魔多し――。都心に入ってカーラジオでその結果を知り、浅草ウインズで換金したのがよくなかった。喜び勇んで、さらに房総へのドライブとシャレ込んで、首都高の向島ランプを目指している途中で憂き目に遭った。

 同乗者と別々の病院というわけにもいかず、ふたつ隔てた病室に入院している彼女のことを、病院へやってきた姚子に隠し通せるものではなかった。

 退院した日の夜、隆一が差し出したJRAの帯封付きの札束を、姚子は泣きながら打(ぶ)ちまけ、食ってかかった。そんな姚子を見たのは、隆一はそのときが初めてだった。

 この向島界隈がそうなら、堀切菖蒲園駅の近辺も姚子にゆかりのあるところだった。姚子と知り合って間もない年の瀬に、隆一は中山競馬場にいった。1年の掉尾を飾る有馬記念の開催日で、姚子も隆一の予想に乗り大枚を張った。

 ツキに恵まれたら恐ろしいもので、それぞれ1万円ずつ買ったメジロパーマーの単複、さらにそれから、共に3,000円ずつ流した5点の枠連のひとつのレガシーワールドを紐にした馬券が見事に的中した。ふたり合わせて5万円の投資が、300万円を越す大金に化けた。

 携帯で吉報を知らせたとき、姚子はたまたま上野にいて、中山競馬場から京成電車で帰る隆一を迎えにいく、といった。ほぼ中間地点に当たる堀切菖蒲園駅で落ち合うことにした。

 そこに隆一より早く着いた姚子は、通りがかりに見つけた『侘助(わびすけ)』という小料理屋で、寒さを凌いでいると連絡してきた。

「わたしと付き合うと、いいことばかりでしょう」と、いつもは控えめの姚子が、そのときばかりは鼻高々に自慢した。

「キミはほんとにアゲマンだね」と、隆一は褒めそやした。

 以来、縁起を担いだ姚子は、一緒に暮すようになってからも、中山競馬場にいった隆一を待つときは、いつもそこを指定した。

 みゆきは向島に住み、10年来の友達が経営する馴染みの店を堀切菖蒲園に持っていた。

 隆一にとって、いまでは苦い思い出の場所となったこのふたつの地に、蕩けるような夜を共にしたみゆきが深く関わっていることが、隆一は不思議に思えた。これは、なにかしら暗示しているのでは……という気がしてきて、隆一の心は複雑になるばかりだった。

 姚子の残像を消すために預けたミンクのコートが、逆の結果を齎していることは、もはや疑いようがなかった。 


 ファミレスを出た隆一は、少し歩いて日本堤から三ノ輪まで都バスに乗った。さらにそこから都電、千代田線と乗り継ぎ、千駄木で降りた。そして、団子坂(だんござか)をとぼとぼ上り、やっと帰り着いた。

 部屋に入ったら、肉体労働をしたあとのような疲れがどっと出て、思わずへたり込んでしまった。

 直線距離にすれば、みゆきのところからさして遠くないと思われるが、途中で道草を食ったことや、バスとふたつの電車を乗り継いだこともあり、部屋のドアを開けたのは午後6時を回っていた。

 いまは、7時半になろうとしていた。陽は落ちて暑さは幾分和らぎ、エアコンが効きはじめてきていたが、すべてが闇に包まれるには、まだ少しの間があった。

 最後の力を振り絞ったような弱々しい蝉の声が、近くの寺の辺りから流れてきていた。

 黙って抜け出してきた、みゆきの部屋のことが気になってきた。隆一は、コードレスフォンで、みゆきの部屋の電話番号を押した。5回のコール音でみゆきは応答した。

 みゆきは、いま帰り着いたところです……というや否や、どこにいるんですか、と続けた。

 自分の部屋にいる、とこたえた隆一にみゆきは、すぐに帰ってきてください、と命令口調でいった。

 女房気取りとも思えたが、隆一は悪い気はしなかった。

「わかった。小1時間で帰るから待っててよ……」

 その途端に隆一の携帯電話が鳴った。隆一は、みゆきへの電話を切らずにそれに出た。それは、隆一の麻雀仲間の、飛鳥山(あすかやま)の “先生グループ ”の、シマゴローこと島谷さんからだった。

「なにやってるの、りゅうちゃん?……。あっ、ちょっと待ってね、聴牌したぞ。はいリーチ」と、シマゴローは電話の向うでいった。

 すぐに、「ほら、イッパツどう。パイパン(白)だ」という老獪(ろうかい)な先輩の額田王(ぬかだのおおきみ)の声が聞こえてきた。額田さんは男だが、仕種が女っぽいので、そう呼ばれていた。

「おっとっとっ、一発で出てきたよ。今日はツイてるな、晴天の霹靂(へきれき)だよ、りゅうちゃん」

 シマゴローの大声が響いた。

「なんだよ、地獄待ちかよ……。チリコのタンゴ(七対子)か?」 

 と、額田王の声。

「ノー、ノー、武双山(国士無双)だよーん。額田王が大サービスしてくれたよ、りゅうちゃん。捨て身の国士のリーチが、一発だって……。起死回生の大逆転だ。ハハハッ……。りゅうちゃんも早くおいで……」

 シマゴローの高笑いが響いた。

「すぐいきますよ」

 隆一は、自分が役満を和了ったときのように昂奮して、そうこたえた。

「おーい、りゅう……。早くきてシマゴローをやっつけてくれ……」

 額田王の嘆きも聞こえてきた。

「はい、ドボンが1,000、一発が1,000。それに役満ご祝儀5,000、ウマが5,000で、合計1万8,000ね」

 リャンピンのレートで、箱下なしのルールだから、そうなる。

「あーあ、このパイパン1枚のために大出費だよ。俺もいい手だったんだよ……。ちくしょう、借りだっ……」

 ふたりの遣り取りに重なって、ほかのメンツの笑い声が聞こえてきた。赤マムシこと赤井さんとカンチョーこと校長の中田さんだった。この両名は、まだ現役の教師。

「ごめん、みゆき。麻雀のお誘いがかかったから、すぐには帰れない。悪いね……」

 携帯を置くと、隆一は受話器の向こうのみゆきにいった。

「どこへいくの……。でも、遅くなってもいいから、必ず帰ってきてね。必ずよ……」

 いったが最後、このバトルは、早いとか遅いとかいう次元じゃないよ……と隆一はいいたかったが、「うん、わかった」とこたえて電話を切った。




 

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