第3話 再 会(さいかい)
異常に、咽喉(のど)が渇いて目が覚めた。
付けっ放しの、14インチのテレビが放つ青白い光が仄かに部屋を照らし、けたたましい鉦(かね)や太鼓の音声に乗って、覚えのあるダミ声が流れていた。なにが映っているかは、視なくてもわかった。探り当てた煙草を寝たまま咥え、火を点けた。吐き出す煙が、テレビの明かりに揺れながら暗がりに消えていった。
入ったぁ~、ホ~ムラ~ン……というアナウンサーの絶叫で隆一は慌てて跳び起きた。頭は重く、肩胛骨の辺りに痛みがあった。まさか……と思った。丸一昼夜眠っていたのかと……。だとしたら、金曜日の夜ということになるが、それを打ち消すものはなにもなかった。
逸る心で、ガラステーブルの下に転がっている、目覚し時計を拾い上げた。9時になろうとしていた。リモコンを手に音を消し、チャンネルを変えてみた。エアコンの唸りが耳に入ってきた。間もなくニュースが流れたが、曜日はわからなかった。さらに変えた。すぐにコマーシャルになった。
煙草を吹かしながら、それが終わるのを待った。ややあって、視聴率がいいというドラマのタイトルが映った。そういうものは視ない主義の隆一だったが、それはTBSが誇る長寿番組で、木曜日の夜9時から放送されているということは聞き齧(かじ)っていた。ホッとして、隆一は煙草を揉み消した。
あれから『緑一荘』にいって、午前3時前からはじめた麻雀が終わったのは昼過ぎで 部屋に着いたのはまだ陽射しが強い2時頃だった。それから水風呂に入り、ビールを呑みながらテレビを聴いているうちに、ソファーの上で寝込んでしまっていた。躰の痛みはそのせいだろう。
木曜日だろうが金曜日だろうが、取り立てて用事があるわけではなかったが、一晩徹夜したぐらいで、一昼夜も眠りこける体力の衰えのほうを、危惧したのだった。そうでないことがわかり、隆一は胸を撫で下ろした。
明かりを点けると同時に、気怠さが増したような気がした。
姚子の部屋から運び込んだ荷物は、ひと月過ぎたというのにそのままで、狭い部屋をより窮屈にしていた。窓を塞いでいる、ビニールのケースに包まれているスーツの数々が、倒れかかったビルの壁のように迫って見えた。
隆一は、キッチンの電気コンロの下にビルトインされた、小さな冷蔵庫を漁った。500㍉㍑缶の、キリンの『一番搾り』が1本だけ入っていた。冷凍室に入れておいたジョッキに注いで、咽喉に流し込んだ。眠っていた脳が、俄かに動きはじめた。
『緑一荘』のメンバーが堀切菖蒲園駅に迎えにきたのは、午前の2時を過ぎていた。不意に出逢った、みゆきという名の女と呑んだ酒が思ったよりきいていて、店の外に出たときは麻雀どころではないと思ったが、ときすでに遅かった。
それでも、断れるものなら断ろうと、自販機で冷たい缶コーヒーを2本買い、平和橋通りのガードレールに尻を凭(もた)せて迎えを待った。そして、クルマから降りてきたメンバーのまっちゃんに、その1本を勧め、探りを入れてみた。
「いま、どういうメンツでやってるの」
「常連が3人にうちのママ。そのなかのひとりは、数少ない女性のお客さん」
「じゃ、俺がいかなくてもいいんじゃないの?」
「駄目ですよ。無理に繫いでもらってる人がいるんですよ。中園さんは必ずくるから、それまでお願いって、ママが頼み込んで……」
まっちゃんはいうと運転席に坐り、呑み干した缶を後部シートに投げてから、助手席のドアを開けた。
そこまでいわれると、悪い気はしない。メンツが揃わないときの苛立ちは隆一も十分わかっており、なには措いてもいかねばならない、と思った。ましてや、女性の客と訊いてはなおさらだ。
隆一は、まだ半分ほどしか呑んでいない缶コーヒーを、自販機脇のポリバケツに抛り、助手席に坐った。同時にクルマは発進した。
「ところで、その女性の常連って、どういう人」
それが、いちばん重要なことだった。
「まだ、一緒にやったことなかったですかね? いつも午前2時を過ぎてからくる人で、『るり』という店のママ。じつはさっき迎えにいってきたばかりなんですよ」
あの人に違いない、と隆一は思った。ちょうど、信号が赤になったのを見て、ときめきを抑えながら、さらに訊いた。
「綺麗な人だよね、あの人……。いつもきてるの?」
「それはもう皆勤賞ものの、開店来のお客さんらしいですよ。大半の人は、僕が『緑一荘』に入った5年前以降のお客さんですが、あの人だけはべつ……」
「お宅は開店して何年目?」
「今年が10周年だとママはいってました」
「へー、そうなの。このご時世に10年続けば、もはや一流のB級だよ……。それにしても、あんなに綺麗な人が、どうして毎日麻雀ばかり打っているのかね。旦那はいないの……。もしかして、まっちゃんの彼女?」
「違いますよ」
まっちゃんは、心外といった返事をして、青信号になると同時にタイヤを軋ませた。間もなく陸橋のある大きな道に出て、左折した。
「じゃ、常連客の誰かの彼女かね。あの美貌だから、狙ってる人は少なくないと思うけど……」
「それはないですね」
隆一は、それを訊いて急に嬉しくなって、窓の外を見た。
ウイングの大型トラックが多い、水戸街道の下りの左車線を走っていた。スムースな流れで、信号の繋がりもよかった。
まっちゃんが、車線を変えトラックを追い越したところで、隆一はいった。
「ほんとかね?」
「ほんとですよ。あの人はね……」
といったところで、まっちゃんは口を噤んでしまった。
「あの人はね……ってなによ。その先を話してよ」
「僕から訊いたといわないでくださいね」
「いわないよ、そんなこと……」
「あの人はね、自分が美人だと思って、お高く留まっているんですよ。ここの客なんか、お呼びじゃないわよ……といった感じで……。だから、嫌っている人のほうが多いんじゃないかな」
まっちゃんの悪口は、さらに隆一を嬉しくさせた。
「そうかね。俺にはそうは見えないけど……」
「一緒に打ってたら、そのうち、わかりますよ。そういう人だから、旦那ともずいぶん昔に別れたという話ですよ」
「だったら、送り迎えする折にコマしてやりなよ、まっちゃん」
なぜか隆一は、冗談まで口にした。クルマは、水戸街道を右折した。
「勘弁してくださいよ。仮にその気があったとしても、お客さんですからね、相手は……。へんなことできませんよ」
まっちゃんは、笑顔を向けた。
「それもそうだね」
隆一は、笑顔でこたえた。
葛飾区役所の前だった。そこを過ぎるとクルマはさらに右折し、路地に入った。左手に梅田神社が見えてきたところで、まっちゃんがいった。
「中園さん、やっちゃえば……。あーいう人は、インテリタイプが好みだと思いますから、中園さんが誘えばきっと、ついてきますよ」
さすがに、まっちゃんも雀荘のメンバーをやっているだけあって、客への世辞は心得ているようだった。それに気をよくした隆一は、さらに突っ込みを入れた。
「『るり』とは呑み屋……。どこでやってるの……」
「店に入ったことはないけど、スナックですよ。向島(むこうじま)でやってますよ」
まっちゃんの言葉に、闘志が湧いた隆一だった。
迎えのクルマのなかではあの人の話題に夢中で眠気は感じなかったが、卓に入った途端に睡魔に襲われた。牌を握っているうちに酔いも覚める、というのがこれまでの常だったが、肝機能は日を追って劣化しているらしく、いつもとは様子が違った。
あの人の横顔を、下家に坐り眺めているうちに、気持ちのうえでは持ち直したが、麻雀への集中力は低下するばかりだった。いつもは酔い覚ましに効果的なビールも、火に油を注ぐように、酔いを加速させていった。やむなく、守備に重きを置いた闘いを決め込んだ。
唯一の喜びは、香(かぐわ)しいあの人の一挙一動を、そばで眺められたことだけで、麻雀の愉しみとは無縁だった。もちろん、それで隆一は満足だった。
目を瞠るような美しさは、ひと月の間にさらに磨きがかけられたようで、隆一の胸は酔いとは別種の早鐘を打っていた。
「無理は、躰に毒ですよ……」
グラスを呷る隆一に、あの人は頬を寄せて囁いてきた。そのまま、その胸に抱かれて眠れたらどんなに幸せだろうかと思いながら、隆一はその目を見て頷いた。
下家の客が、眉を顰(ひそ)めているのがわかった。
「明日もできるし、無理しなくていいわよ……」
あの人の一言で、早目に止めることになった。といっても、昼過ぎだったが……。
負けが込んでいた男は、物もいわず憮然として帰っていき、ママも一瞬、ふたりに冷たい視線を浴びせた。しかしながら、さすがのママも、あの人のいうことには逆らえないといった感じで、すぐに作り笑顔に変わった。
隆一は、「開店来の客……」だといった、まっちゃんの言葉を思い出していた。同時に、「お高く留まっている……」と、いったことも……。
だが、隆一が見る限り、他人に侮蔑の視線を向けるような素振りは微塵もなかった。むしろその逆で、慈悲を湛えた目を輝かせ、口許に笑みを浮かべて語りかけてくる様は、ダ・ヴィンチのモナリザのようだった。それは隆一の心に、新たな魅力として上書きされた。
まっちゃんの言葉は、美しい人に対する嫉妬に根差した詭弁に過ぎない――。隆一はそう確信した。美しいものに、棘(とげ)があるのは常識で、それは洋の東西を問わない。それゆえに、男は惹かれるはずだ、といってやりたかった。
あの人は、「お腹(なか)空いたでしょう……」とママを制してキッチンに入ると、手鍋を翳しみせた。できてきたのは、生卵を載せて熱湯をかけただけのチキンラーメンだったが、その美味しさは、これまで食したフレンチをはるかに凌いでいた。
「あなたと、長く一緒にいたい……」
そんな言葉をかける機を窺っていたのだが、それだけは果たせなかった。ママが、なにか警戒するような素振りで、ふたりのそばから離れなかったからだ。だが、逢いたくなったらいつでも逢える――。
隆一は、まるで、堅い契(ちぎ)りを結んだかのように自信が湧いてきていた――。
泡の液が、僅かに残っているジョッキを、隆一は一気に空(あ)けた。缶は、すでに底を突いていた。少し呑み足らなかったが、この時間に酒類を売っているところはコンビニしかなく、10数分も歩かねばならなかった。隆一は、買いにいくかどうか考えながら、煙草に火を点けた。
このまま、部屋にいるには夜は長過ぎる。中途半端な時間に目が覚めたこともあり、余計にそう思った。
仕事をしようと思えば、マイナーな月刊誌のレギュラーを抱えてはいた。だが、それは、読者投稿の体験手記を手直しするというものだけに、その気は起きなかった。
なぜなら、毎月うんざりするような内容に加え、赤入れ程度ですむものはほとんどなく、それを基に新たに書き起こす、という作業を強いられるからだ。この手のものは、〆切前夜に一気呵成にやっつけるほうが効率的――。隆一はそう決め付け、それをこれまで実践してきていた。〆切までだいぶ間があるいま、取りかかったところで結果は見えていた。
仕事に追われている頃は、断ろうと思ったこともあったが、取材することも文献を繙(ひもと)く労もなく、開き直れば楽な仕事だった。また、ほかに受ける人がいないらしく、この手のものにしては原稿料がいいというのも魅力だった。
さらに、その雑誌の編集長の西川が麻雀や競馬などギャンブル好きということも、付き合いを長くさせていた。贅沢をいっても仕方がないし、なにかと融通が利く――隆一はそう割り切って続けてきたのだ。
このまま部屋にいるのであれば酒の調達を迫られるが、出かける意思も多分にあった。隆一は、『緑一荘』を視野に入れながら煙草を揉み消すと、財布の中身を調べた。入っていたのは、1万円札1枚と、千円札が6枚ほどだった。
酔っ払って、昼過ぎまで続けていた麻雀はジリ貧で、ゲーム代と帰りのタクシー代を払ったら、かなりの持ち出しになったことを思い出した。
これで『緑一荘』にいくには覚束(おぼつか)ない。負けないという自信はあるが、勝負は時の運だけに絶対はない。懐(ふところ)が寂しいと、勝負どころで慎重になり過ぎるきらいがある。そうなった時点で、その勝負の結末は明らかだ。それでも、仲間内なら『借り』ですむが、あそこではそうはいかない。なにより、あの人にそんな無様な姿は見せられない。
これまでは、ひと晩やって負けたとしても、それを払うに十分な金員が財布にあった。その裏付けが勝負には不可欠で、それが高い勝率を齎(もたら)す。
麻雀は、いやそれに限らず競輪、競馬など、ギャンブルと称されるもののすべては、個々のメンタリティーに左右されるものだ。だが、勝つための秘訣として衆目の一致するところば、やはり潤沢な資金だろう。
乏しい有り金を増やそうなどと思って望むと、無残な結果になるのが落ちだ。さもしい根性に微笑んでくれる、勝負の女神などいないのだ。もちろん、性格の差異による例外もあるだろうが、隆一の場合は得てしてそうだった。
だが、崇拝する阿佐田哲也先生は、その著『麻雀放浪記』で、〔銭の有る奴と無い奴がやったら、必ず無い方が勝つ。〕と認(したた)めている。〔銭の有る方にはその分だけ遊ぶ心が混じるからである。〕と。
その伝(でん)でいけば、隆一なんぞまだまだ甘く修行が足りない――ということだろう。そして、それは、遊びから仕事までの、すべてに通じているのではないか、と思えてきた。
夕方に寝入って、この時間に目が覚めたのでは、朝まで眠れるわけがない。このままでは、無意味な夜を徹し、昼間眠るという悪いパターンに嵌まりそうだ。いずれ、永遠に目が覚めない眠りに就く(つ)というのに、昼間にひとりで寝て過ごすというのは勿体ないことこの上ない。まだ、眠い目を擦ってでも牌を摘(つま)んでいるほうが、よっぽど充実感がある。
無理に眠ろうとすれば、酒の力が不可欠だ。それも、眠りに就くまでにはかなりの量が必要で、中途半端な飲み方では余計に目が冴えてしまう。いまは、無理に眠ることはない――という思いのほうが強くなってきて、隆一は短くなった煙草を揉み消すと、また次の1本を指に挟んで火を点けた。
疲労が極に達するまで不摂生を続け、週に1回だけ泥のように眠る。これが、躰に染みついた隆一の慣習で、これを続けている限り、健康は維持できていた。
とにかく、じっとしていてはなんの解決にもならない、と思いながら煙を深く喫い込んだ。
呑みにいく手もあるが、なんとなく気が進まなかった。意外に飲食店が少ないこの界隈は、2軒の小料理屋を知るのみで、それはいつも姚子と一緒にいっていたところだった。ひとりでいくと、「姚子さんもお見えになるんでしょう」と必ず訊かれるし、こなければ、「電話して呼びましょうよ」、と畳みかけてくる。馴染みになるのも善し悪しだと思ってみたところで、その2軒ともそうなのだから致し方ない。まして姚子がいないいま、それを詮索されることは必至で、いずれも敷居が高い。
ほかに知っている店もないことはないが、近くにあるあとの1軒はチェーン展開の居酒屋だった。また、不忍(しのばず)通りまで下っていけば、千駄木(せんだぎ)から根津(ねづ)にかけて呑み屋が多いのもわかっていた。だが、一見の店でひとり隅に坐って酒を呑み、無聊(ぶりょう)なときを過ごすというのは、隆一の性には合わなかった。
さらに、少し足を伸ばせば、駒込(こまごめ)や湯島(ゆしま)など馴染みのクラブは数軒あった。だが、それは財布の中身が許さなかった。もちろん、ツケは利く。それは、万一の場合は姚子が責任持つという暗黙の了解があるからで、この状況が伝わっていたならその限りではない。
姚子さんと別れたらわたしが面倒見てあげる――と、いくたびにいい寄るママもいたが、そんな煽(おだ)てを鵜呑みにするほど耄碌(もうろく)はしていない。まして、いまの落魄(らくはく)の身を曝(さら)したくはない。そんな不安を押してまで、呑みにいかなくてもいい。そこまで蠎蛇(うわばみ)ではない。
燃え尽きた煙草の灰が膝に落ちた。取るに足らないことに思いを廻らし、煩悶している自分に失笑しながら、ティッシュで膝を拭い、燃え尽きたそれを灰皿に擦りつけた。
久しく連絡していない、友人の田上(たがみ)のことが頭に浮かんできた。苦しい時の「田上頼み」で気が引けるのだが、恰好つけてもしょうがない。彼は、隆一の大口のクライアントである編集プロダクションの主宰者で、いまでは無二の親友なのだ。
田上は3年前に、都内練馬区から神奈川県の藤野町(現在は相模原市に併合)に住まいを移していた。そこは、中央線の高尾から相模湖駅に次ぐ2つ目で、新宿からは1時間余り。その次の上野原駅は山梨県というロケーションである。
山あり谷ありの自然が満喫できるところで、アウトドア派の彼らしい選択だといえた。
最近は、東京の新たなベッドタウンとして、とみに注目されているという。とりわけ彼は渓流釣りが好きで、それが決め手になったようだ。
もっとも、長年、義父母と同居するという婿養子にいったような生活を続けてきていただけに、それが解消できるとあらば、彼はどこでもよかったのかもしれない。そのときの彼の喜びようは、尋常ではなかった。
彼はそこへ越して間もなく、平日は代々木の事務所で過ごし、週末には自宅に帰るという取り決めを家族と交していた。「家に帰ると、都心に出たくなくなる」というのがその理由だった。
風にそよぐ木の葉の音と鳥の囀(さえず)り、小川のせせらぎを聞けば、誰でもそういう心境になるに違いない。
隆一は、姚子の部屋を出るときに田上にクルマを借りて以来、ひと月あまり連絡はしていなかった。様子を探るには、ちょうどいい頃合だと思い、コードレスの受話器を取った。
2度目の、自宅への電話で彼は摑まえられた。平日に、事務所でないというのは初めてだった。
「よかったよぉ、連絡ついて……」
田上は驚喜の声を上げ、続けた。
「どこへ隠れていたのよ。何度電話したと思う。だけど、仕事場は出ないし姚子ちゃんとこは留守電だし、りゅうちゃんの携帯は『お客様の都合』で繋がらないし困り果てていたんだよ。ちゃんと電話料金ぐらい払っといてよ、緊急の用事もあるんだから……」
彼は、冗談のあと、大きな笑い声を受話器に送ってきた。
隆一は、「例によって例のごとくさ……」と、取り立てて話すほどもないことを伝えた。もちろん、姚子の件は伏せておいた。
「とにかく、連絡ついてよかった。助かったぁ……」
安堵の声を上げた彼は、ゆっくりと本題を話しはじめた。
「名古屋駅まで、遅らせましょうか」という祖父江(そぶえ)部長の好意を、隆一は丁重に辞退した。千種区に住む同級生の長峯(ながみね)の家を、訪ねることにしていたからだった。
年月を経るごとに音信が途絶えていく同級生のなかで、長峯だけはべつだった。ともにサラリーマンではないという、共通点を持つからかもしれない。
1級建築士の資格を持つ彼は、10年ほど前に長年勤めていたゼネコンを辞め、独立していた。そのとき、親戚や同僚たちが開いてくれたという名古屋のホテルでの祝賀会に招かれて以来、隆一は彼に逢っていない。図らずも名古屋出張の機会を得たことで、不義理を詫びる絶好の機会が訪れたと、眠りながらきた新幹線のなかで決めていたのだった。
田上の主要クライアントの『東海ファニッシング』の本社は、中区大須の裏門前町大通りにあった。そこから、長峯の家にほど近い地下鉄東山線の池下駅までタクシーを飛ばした。隆一は、その辺りの喫茶店で時間を潰した夕刻に、彼の家を訪ねるつもりでいたのだ。
ところが、喫茶店を出て電話したところ、事務所兼用の自宅はあいにく留守電だった。それで、隆一の気持ちは変わった。逢えば、深更まで焼酎を酌み交わし、それから盛り場に繰り出し泊まることになるのは目に見えていた。
親しい仲とはいえ、立派に一家を成している相手に、歳を重ねるごとに零落(れいらく)していく自分を曝すことを思うと、逢うことに気恥ずかしさを覚えてきたのだ。そこで、逢わずに帰ろうと、考え直した。
時計の針は、5時に近かった。祖父江部長の言葉にしたがっていれば、いま頃は新幹線の車中で静岡辺りを走っているのに……と後悔しながら、地下鉄に乗った。車内は意外に混んでおり、濁った空気で噎(む)せるようだった。躰に汗が滲むのがわかった。
隆一は上着を脱いでネクタイを外し、『東海ファニッシング』の新作発表会で進呈された記念品が入った紙袋に押し込んだ。1時間近い無駄を悔いながら、片手で吊革に摑まり、主人のところへいく段取りを考えた。それがなにより優先事項ではないかと、名古屋駅に着く頃に気付いたのだった。
この名古屋出張は、昨夜の田上との電話で急遽決まったのだった。『東海ファニッシング』の、秋のブライダルシーズンに向けた新製品発表会に顔出しするというものだった。
同社は、有名百貨店や全国各地の地域一番店を顧客に持つ、全国でも5指に入る家具メーカーで、田上が独立して3年目で総合カタログを受注した大口のクライアントで、以後毎年続いており来年度版が7冊目となる。
その7冊目の契約を交したとのことで、同社の個展会場に顔を出し、製品のデザインや色の傾向などを見てくるのが主旨だという。
根本の狙いは、カタログ制作のために実物を見て勉強するという姿勢を、企画宣伝部の担当者に印象づけることで、田上自身は、どうしても外せない取材があり、他のスタッフでは荷が重いから……といった。
すでに、盤石の信用を築いているクライアントであり、そこまでする必要があるのか……と思えることを敢えてするのが彼の戦術だった。
田上が、同社との契約に漕ぎ着けたのは、岐阜出身である田上が、同じ岐阜出身のそこの重役に、あらゆる伝手(つて)を使って政治的に働きかけたからだいう。独立したばかりの彼は、柱となる仕事が欲しかったというわけだ。それでも、正式に契約を結ぶまで、2年余りを要したそうだ。。
田上は、あまり詳しくは語ろうとしないが、実家は下呂温泉で観光旅館をやっている――と、知り合った頃の酒の席で洩らしたことがあった。両親のいずれかが他界して廃業したことはあとで知ったが、地元ではかなりの名士だということが、その言葉の端々に窺えた。
その義兄も、岐阜は長良川河畔の有名な観光ホテルの要職に就いているらしく、かつて田上の事務所に立ち寄った折に、田上とともに隆一も呑みに連れていってもらった。そのときも田上に対して、なにかあったらいつでも援助する――旨の話しをしていた。
地元に帰れば、隆一など足下にも及ばない実力者一族なのかもしれないとそのときは思った。もっとも、そういう驕(おご)りがないところが彼の魅力で、今日まで付き合いが続いてきた理由でもある。
隆一は、昔は事あるごとに、「岐阜に帰れば、悠々自適でしょう」と、冗談をいったものだ。彼のこたえは、「そういうことは好きじゃないんだ。本創りが好きなんだ」だった。それが、編集プロダクションを興し、ときとして損益分岐点すれすれの仕事でも敢えて受ける、彼の心の糧なのかもしれない。
そのカタログはA4判で、およそ500~600ページのものである。最初に受注した6年前の1冊目から、隆一も編集・制作に加わってきている。
田上に初めてその台割を見せられたときは、総ページ数もさることながら、使用写真の多さに驚いたものだ。1ページに3、4点平均で約1,800点ほどあった。それに品名を振って整理するだけで3、4人のアルバイトを要した。
すべてがデジタル化された現代と違い、アナログ全盛だった当時の、編集作業には随分手間取った。しかも、初めてのページ物の一括受注とあって、手探り状態の日々だった。それでも、専属スタッフ・外部ブレーンを合わせた10名の3カ月間の半徹まがいの頑張りの結果、どうにか最終入稿日は守ることができた。
だが、色校正には泣かされた。木を素材にしている製品の性格上、色が最大の売りであるとのことで、再校、3校は序の口で、なかでも材質が黒檀(こくたん)、紫檀(したん)といった唐木家具や、輸入材のマホガニーやローズウッドの製品は4校、5校まで求められたことも……。
これらは、田上と隆一が奔走することでクリアできたが、校了日に突然見舞われたアクシデントには、さすがの田上も泣きが入った。
好事魔多し――。
それは、トビラのカットに、清純なイメージで売る新進女優を起用したところ、下版当日の午後に彼女のスキャンダルが発覚したというもの。
よくある、熱愛の相手とのお泊りデートをすっぱ抜かれたとか、妻子ある監督との不倫疑惑といった程度のゴシップならご愛嬌だが、大麻の不法所持という致命的な行為で、当局の取調べを受けたのである。
「一か八かの勝負だ。万一のとき、俺は無一文になってもみんなの生活は守る。だから、りゅうちゃん協力して……」
そのとき、田上は顔を真っ青にして「よーし、代役探しだ」というと、ブレーンのライターに片っ端から電話をかけまくった。そのなかから、運よく、芸能プロに顔が利くという、コメンテーターとしてテレビにも時々出演している人物を紹介してもらえることになった。
田上は、小切手帳をバッグに入れると隆一に運転を命じ、その人物の居場所に急行した。そして、日が暮れてから、赤坂のテレビ局の近くのレストランに芸能プロの社長を招き、三者会談となった。
田上と紹介者、そして紹介者と芸能プロ社長がどんな取引をしたのか、隆一は席を外していて知る由もないが、話しはとんとん拍子に進んだ。社長は、その場で代役候補のマネージャーとやらに電話し、「田上さんに協力してくれ」とだけ伝えた。
そのマネージャーに電話が繋がったのは、午前1時に近かった。テレビドラマの収録が遅れたらしい。
田上と隆一は、彼が呑みはじめたばかりだという代官山のダイニングバーに向った。
前以って、連絡つけていたにもかかわらずそのマネージャーは、挨拶するこちらには目もくれず、不貞腐れ気味でビップ席でふんぞり返っていた。自分が人気者であるかのように勘違いして威張るといった輩が多いのがこの世界の裏方。が、この際、それはどうでもいい。目的を達することが肝心というわけで、田上と隆一は耐えた。
「今度の仕事に協力いただけるなら、アイドル誌『〇〇』のグラビアで、彼女の特集を組むことを約束しますが……」と、代役の顔も見ないうちに、いきなり田上は切り出した。
怪訝な顔をしていたマネージャーは「失礼だけど、お宅は『〇〇』の社の人間かね」と、幾分表情を和らげ、呑みかけのグラスをテーブルに置くと、田上を見上げた。
田上は無言で、ショルダ―バッグから取り出した茶封筒を、マネージャーに手渡した。
彼は、それを一瞥するとポケットに仕舞い込み、「わかりました」と相好を崩して頭を下げた。
封筒の中身はおよそ察しがついたが、いけ好かないマネージャーが急に態度を変えたのは、それ以外のなにかがあったはずだ。もしかしたら、マネージャーが断れないようなゴシップネタでも田上は掴んでいて、隙を見てやんわり匂わせたのか……。
それから田上は、1時間ぐらい彼に酒を勧めながら持ち上げっぱなし。頃合いを見て、クレジットカードで勘定をすませると、彼の案内に従ってクルマを走らせた。
寝つきを急襲された代役候補の女優はモロ不機嫌顔だったが、髪の長い細面(ほそおもて)の目が大きい美人で、当時の若い娘にしては珍しく、すっぴんであるにも拘わらず日本的な雰囲気を漂わせていた。
これなら、家具カタログのトビラを飾るにぴったりだ、クライアントも喜ぶに違いないと隆一が思っていると、田上が「やあ、〇△クン、キミに逢えてよかった。来月は雑誌『〇〇』でキミの特集を組むからよろしくね。詳しい話しはクルマのなかでね」と、まくしたてた。そして、隆一に目配せすると、2人を自分のクルマの後部シートに促した。
田上が、そのまま名古屋のクライアントを目指して、東名を突っ走ったということを、隆一は次の日の夕方に知らされたのだった。
急遽差し替えとなった窮地を乗り切るため、隆一も田上に匹敵する苦行をやってのけた。東京・名古屋を1日2往復したのだ。
名古屋の『東海ファニッシング』のショールームで、田上のクルマで名古屋に着いた日の夕方から、夜を徹して撮り直した代役女優の生フィルムを、その朝1番の新幹線で受け取りにいく、というのが隆一の任務だった。
それをとんぼ返りで持ち返り、神田のラボへ入れた。現像が上がると市ヶ谷の印刷工場にいき、その場でレイアウト、改版を依頼して校正刷りの上がりを待った。それを再度名古屋のクライアントへ持っていき、先方の色校正に委ねる、というもの。
着の身着のままの代役とマネージャーをクルマに乗せて名古屋に向かい、化粧品からアクセサリー、コスチュームまで現地で調達、メイキャップを除いて田上がすべてコーデネイトを主導する形で撮影したというトビラのカットは、いたくクライアントの担当者も気に入ったようで、色校の直しはピンホールぐらいですみ、一発責了だった。
それを持って再び東京へ戻り、印刷所へ届けたときは深夜だった。
写真はもとより、印刷工程がデジタル化された現在では考えられないことではある。しかしながら、アナログ時代のこととはいえ、他の手立ても考えられないわけではなかった。だが、敢えて田上は手間暇かかるこの方法を採択した。
師走に入った慌しい頃だった。『東海ファニッシング』は、有力取引先を招聘する三谷(みや)温泉での忘年会を数日後に控え、そこでそれを配布するという計画で、それに間に合うか否かの瀬戸際だった。
たかがトビラの写真ぐらいで……と、技術に自信を持っている製造部の部長は口にしたらしいが、そういうものではない。それが刑事事件の被疑者とあってはイメージダウンは必至で、それによる損失は計り知れない。当然ながら、同社の営業部と広報部は首を賭けて差し替えを主張。
もちろん田上も同意見で、印刷工場との直談判に臨んだ。そこの現場責任者と営業責任者の、「間に合わない」「間に合わせろ」といった怒号飛び交うなかで、田上は土下座しながら互いを宥(なだ)め、説得を続けた。結果的には、彼の熱意が実を結んだ。
それを期に、代表者の田上の名と社名は、クライアントのトップの知るところとなった。テレビのCFやイベントは名の知れた広告代理店に依存している同社が、カタログだけは未だに田上に頼っているのは、そんな経緯があったからに他ならない。
「俺かりゅうちゃんでなくては、いく意味がないんだよ。大事なところだから頼むよ」と田上はいった。受話器の向こうで、頭を下げている田上の様子が窺えた。
「いくのはいいけど、あいにく持ち合わせがないのよ……」
隆一の言葉に対する田上の返事は、明日の朝8時に、東京駅で落ち合おうというものだった。彼も8時台の東北新幹線に乗らねばならない仕事があるという。
隆一は、朝8時というのが自信なかった。
通常ならなんでもないことだが、中途半端な時間に目が覚めたことで、寝付く時間が朝方になるのは目に見えていた。その約束を守るには、ずっと起きている以外にない。ただ起きているのも苦痛だな……なんて思っているうちに、ふと閃いた。それなら、『緑一荘』で夜を明かせばいいじゃないか、と……。勝てば、新幹線代にはなる。うまくいけば、往復分勝つかもしれない――そういう計算をした。やはり、最初考えたように、今日は『緑一荘』にいく運命だったのだ、と思った。あの人が、呼んでいるのだ、と。
名古屋駅で上りの『のぞみ』に乗ったのは、5時半過ぎだった。ベルマートで買った、ウイスキーのポケット瓶に口を付けているうちに眠ってしまっていた。目を覚ましたのは熱海を過ぎた辺りで、田上からの電話で、だった。入金を確認したかと訊いてきたのだ。
「おかげさまで帰りの新幹線に乗ってますよ」といいたいのを隆一は堪え、礼だけ述べると電話を切った。
じつのところ、朝、6時に止めるはずだった麻雀は、8時を過ぎてしまったのだった。
「この時間じゃ中途半端だし、あと1荘どうですか」とのママの言葉に、あの人も他の2人も頷いたのだ。浮き頭の隆一だけ、異を唱えるわけにはいかない。こうなったら、やるしかない。勝ち負けより、少しでも長くあの人のそばに居られるのだから、嬉しいじゃないか、と自分に言い聞かせた。
そこで、田上に電話で相談したのだった。
皮肉なもので、その1荘は3着、ラスという散々な結果で、浮きは大枚1枚と数千円になっていた。これで名古屋にいくには覚束ない。やはり、主人を訪ね、持ってきたものを預けるしかない。
正直なところ、隆一は雀荘で夜を明かすことを決めたとき、最悪の場合を想定して、アタッシュケースを携えて出かけたのだ。6時で止めていれば、それは雀荘に置いといてもらえたものを、利子を取られる主人の所へ預けざるを得なくなってしまったのである――。
田上との通話を終えた隆一はデッキに向かい、主人に伺う旨の電話を入れた。主人は、何時でもいいという。
東京駅から京葉線で錦糸町へ。そこからタクシーに乗った。
「おかげさまで、予定どおりの仕事ができました」
隆一は礼を述べ、名古屋駅で買った『ういろう』と『きしめん』が入った紙袋と一緒に、借りた額に利子を加えた5万3,500円を差し出した。
「気にすることはないよ。うちはそれが商売なんだから……。だけど今日の分の利子は、みやげも貰ったことだし要らないよ」
主人は、微笑みながらいった。
「とんでもない。規則どおりでないと、次に頼めませんから……」
「今日の今日だし、もらいづらいな……」
「それは困ります。商売は商売ですよ」
「そうか、あんたがそこまでいうなら、誠意として受け取っておくかな」
長峯の家に寄っていたなら、見栄を張って栄や錦辺りの、綺麗どころがいる店をハシゴしてこれが消えるどころか、長峯に負担をかけていたに違いない、と思いながら主人からアタッシュケースを受け取ると立石駅へ向かい、田上へ電話をかけた。
みゆきに逢いにいくことを考えていたのだが、田上が部屋にくるとあっては、諦めざるを得なくなった。この時間なら、タクシーより、京成と地下鉄・千代田線を乗り継いだほうが仕事場の向丘には早く着く、と思って駅を目指したのだが……。
『東海ファニッシング』の個展で進呈された記念品のマガジンラックの紙袋と、ノートパソコンとそのマニュアル一式が入っているアタッシュケースはやけに重く感じられてきて、立石駅に着いた時は額から汗が滴っていた。
乗り換えの青砥で下車して、上野行きの各駅停車を待った。高架のホームには、サラリーマンが三々五々たむろしており、酒の匂いを含んだ、生暖かい風が流れていた。
遮音壁の切れ間から、色とりどりの明かりに照らし出された街並が見えた。そのいくつか先のひとつのビルの2階に、みゆきがいるクラブがあるはずだった。田上と約束したことを隆一は恨めしく思いながら、ホームに滑り込んできた電車に乗った。
千代田線への乗換駅の町屋で降りて、コンビニに寄って缶ビールを買ったら、異常な気怠さに襲われた。徹夜麻雀による睡眠不足によるもので、それがいま現れたのだろう。名古屋往復の新幹線の車中で、少しだけ眠っただけだから当然である。これから地下鉄に乗るのがやけに億劫に思われた。缶ビールに口を付けながらタクシーに乗り込んだ。
部屋の空気を入れ替え、テーブルの上のダンボールを窓際に移した。噎せるような熱気は、エアコンを入れてもなかなか冷たくならず、スーツを脱いで、綿のスタンドカラーのシャツとチノパンに着替えた。そしてソファーに腰を下ろし煙草を咥えた。
また、咽喉が渇いてきた。田上用にと先ほど買ったスーパードライの500㍉㍑缶のプルトップを開けた。
そこで、呼び鈴がなった。田上だった。500㍉㍑の『スーパードライ』の6本セットが入ったコンビニのビニール袋を提げていた。
「意外に早かったね」と、隆一がソファーに促すと、彼は初めて部屋に招かれた女性のように、怪訝な面持ちで周りを見回しながら腰を下ろした。
この部屋の状況を見れば、誰でも異常を感じるのは当然だろう。とりわけ勘のいい田上はすでにすべてを察知したような表情を浮かべていた。
田上がそれに触れる前に、隆一は向き合って坐り、「とりあえず、いっぱい呑(や)ろう」とグラスを勧め、それにビールを満たした。
田上は、黙ってしたがい一気に呑み乾すと、「あー、うまい」と声を上げた。
隆一はひとまずホッとして、さらに田上のグラスをビールで満たした。
またも一気に飲み干した田上は、「今日は急な頼みで悪かったね。ところで、先方の反応はどうだった」と、矢継ぎ早に訊いてきた。
隆一は、展示会の様子や祖父江部長の話を細かく伝えた。
「よーし、これで少々のことがあっても大丈夫だ。では、あらためて乾杯だ」
田上はいうと、自分が買ってきた缶ビールを隆一に手渡した。
「カンパーイ」という、ふたりの声が部屋に響いた。
「ざっと、来年度のカタログの制作日程を説明するから、また頼むね」
田上は切り出し、総ページ数、9月初旬の原稿締切日や最終入稿日、納本の期日など概略を話してくれた。
「もう、俺は目が上がってきたから、細かい仕事は戦力外だね。とくに文字校正なんて、他所でもやっているから、できれば辞退したい……」
隆一は、正直にいった。
「大丈夫……。ベテランにそういうことはさせないよ。昨年まではあの会社は新製品ラッシュで写真点数が多く、なんでもかんでも頼んだけど、今年は楽だよ。どういうわけか今年は戦略転換したとのことで、新製品はかなり少なくなってね。3分の1は在版流用ですむ。一部文字直しはあるようだけど、それも赤入れ程度ですむということだから……」
小さく首を縦に振りながら、田上はいった。
「もっとも、ラフ原稿と製品スペックは、ページごとにデータ送信すればいいわけか」
「そうだね。元原(もとげん)を入念にチェックして送れば、あとは楽だよね。それに、マッキントッシュの購入も決めたし、その得意な女性も確保したから、制作はかなり省力化できると思うよ……」
田上は笑顔で頷くと、
「デジタル化のおかげで、写真製版も楽になったよね。最近は、写稙も要らないし、ストリップで文字を直すなんてこともしなくていい」
と、笑みを見せた。そして、
「このカタログに関しては、いままで何冊もやってきたから、いまは印刷屋も馴れてだいぶ利益が出せるらしく、担当営業は、なんでも、はい、だよ。1冊目のとき、互いに泣いた苦労が相互にメリットを齎せたというわけさ」
隆一を覗き込むように見ながら、田上はいった。
「なるほどね。変われば変わるもんだ」
隆一は、相槌を打った。
「じつは、一昨日、打ち合わせしてきたばかりなの」
田上は、余裕のある表情を浮かべていった。
「そうなんだ」
「そうよ。だからりゅうちゃんは、表紙、トビラのデザインと新規分のフォーマットを考えてくれればいいよ。ただ、進行管理の合間に、色校だけはやって欲しい。それだけは、そこらのデザイナー面(づら)した奴等には無理だし、パソコンでというわけにいかないから……。モノがモノだけに、色にはうるさいからね、あそこは……」
田上は、満面に笑みを浮かべていった。
「それなら、大丈夫だと思うけど……。それから、編集室はどうするの。去年は、別に借りたじゃない」
「もちろん、今年もそうするよ。これは、製品情報が洩れないようにというクライアントの要望だし、もう手は打ってある。くれぐれも部外者は入れないようにと念を押してきたから、彼女を連れ込まないように……」
田上は目尻に皺を寄せながらも、口許を綻ばせながらいった。
「誰かそんな悪い奴がいるの?」
隆一は、恍けてみせた。
「去年はそれをいわなかったもんだから、連れ込んだ奴がいたような気がするね。誰とはいわないけれど……ハハハッ」
田上は、声を出して笑った。
東京ドームで姚子とナイターを観戦したあと、水道橋の居酒屋で呑んだら気怠くなって、その編集室でふたりで朝まで休憩したのだった。
「冗談はともかく、よろしくお願いします」
隆一は、話題を変えたくてそういい、深く頭を下げた。
「いいえ、こっちこそよろしくお願いします」と、田上も真顔でこたえた。そして、一呼吸置くと、「さて、打ち合わせも終わったことだし、呑みにいこうよ」
いつもの田上らしい誘いをかけてきた。
「出張費の清算はいいの? 携帯電話の料金も立て替えてもらっているし……」
「そんなのあとでいいよ。この辺、どこかいいところなかったっけ……」
「ないことないけど、事情があっていかれないのよ」
「なによ、その事情って……。俺にいわないなんて水臭いんじゃない。ま、それはあとで訊くとして、いいからいこうよ」
「…………」
「大丈夫だよ、呑み代(しろ)ぐらいは持ってるから……。まさか銀座、赤坂、六本木なんていわないよね。だったら、心配要らないよ」
いくところといえば、みゆきのいる店しか思い浮かばなかった。
「少し、遠いけどいい。タクシーならすぐだから……」
麻のジャケットを手に、隆一はいった。
「いいよ、そこで……。すぐいこうよ……。善は急げだよ」
甲高い田上の声が響いた。
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